小僧、強者のいない時代に並ぶものが無いほどの高みに立ったお前は、何を思った?
花を咲かせることも愛でることもできる
でも、花に「自分を分かってほしい」なんて思わないだろ?
◯
「ほぉ……」
ガラス窓の下、京都競馬場の最終直線で起こった領域の衝突に、腕を組んでレースの行く末を見守っていた“皇帝”は小さく声を漏らした。
領域とは、時代を創る一握りのウマ娘にのみ許されたもの。そんなにポンポンと扱う者が出てくるようなものではない。
にもかかわらず、眼下には、発現したばかりにもかかわらず十全に使いこなしている者が一人。そして、それに呼応するようにまた自分の才能を開花させた者が一人。
そして、扉の前に立ち、その扉に手をかけた者も一人。そんなハイレベルな競い合いが、最終戦とはいえクラシックロードの最中で行われている事実。今までになかったことに、彼女は肌が粟立つような感覚を覚えていた。
それまでも、クラシック期、いやジュニア期ですら、そのあふれ出る才覚をもって領域の扉をこじ開けた者は幾人もいた。フジキセキ、ディクタストライカ、マルゼンスキー、そして彼女自身。
しかし彼女たちの中の大半は、その大きすぎる才能に自らの身体が耐えきれなくなるか、存分に競うことのできるライバルを持つことができずに、領域はただの宝の持ち腐れとなってしまっていた。
それが今起きているものはどうだ。クラシック期とは思えぬほどに洗練されたアドマイヤベガの領域との押し合いに応じず、ただその領域内から抜け出ることに主軸を置いた虹の道が、役目を終えて崩れて消えていく。
ゴール板までのわずかな距離を、横に並んだ二つの影が駆けていく。彼女たちにかけられる大歓声が、彼女の眼前の窓ガラスをかすかに振動させていた。
「実力伯仲、といったところか」
ゴール板を二人が通り過ぎた後、掲示板に表示される着順を見ることもなく踵を返す。そんなものを見るまでもなく、彼女には分かっていたから。それよりも、彼女には声をかけなければいけない相手がいたから。
その人物も、レースが終わるとともに踵を返していた。今ならば捕まえることもできるだろう。そう考えて足早に部屋を出る。その後ろでは、いまだ興奮冷めやらぬ観客たちの声が響き続けていた。
〇
「虎杖先生」
「ん?」
生徒たちを一時的に他の引率の教師にお願いして、後ろに詰まっていた観客をかき分けかき分け、どうにか建物の中に入ることができたと息をついたとき。聞き覚えのある声が後ろからかけられた。
振り返ると、あの日の生徒会室と同じように腕を組んだシンボリルドルフがそこにいた。ゆらりと垂らされた彼女の尻尾が揺れ、少し時間を空けてからその口が開かれる。
「アドマイヤベガに領域の扱いを教えたのは、あなたですね?」
一瞬考える。まぁ俺が生徒会室に呼ばれて領域について聞かれた直後にアヤベが領域を習得して、しかもそれが習得したてとは思えないくらいに洗練されていると来たら、それは疑うだろうな、と納得はしていた。
きっとそもそもが実戦向けすぎる彼女たちの領域は、まずレース内でないと条件の模索も難しいだろうし、そもそもが練習と称しての領域の押し合いも、目の前の彼女のように色々条件を変更して気軽に使えるようにでもならなければ難しいのだろう。
その点、掌印一つで使えてしまう自分のそれは練習台にはもってこいだったというわけだ。少しずるかったかもしれない。認めてもいい。ただ、アヤベに止められていることもある手前、あまり大っぴらにするつもりもなかった。
「あなたがアドマイヤベガの練習を夜に見ていたことは知っています。そのあたりから彼女の状態が劇的に改善したのも。
……多くは聞きません」
ざり、とシンボリルドルフの右足が床を掻く。いつかの人と同じように、彼女の身体から闘志が揺らめいて立ち上るのが見えるようだった。
“皇帝”シンボリルドルフ、史上初の無敗のクラシック三冠の絶対王者。トゥインクルシリーズの最前線を走ってなお、衰えを知らぬ怪物がそこにいた。
「私と、一度走ってもらいたい」
「……何故?」
正直に言えば、彼女と走ることは別に構わなかった。しかし、何故と問い返したのは、彼女の表情に違和感を覚えたから。前に生徒会室で相対したときは、ただ俺のことを強いと思ったから戦ってみたいというような単純な理由だったと思う。
しかし、今目の前にいる彼女が浮かべる表情は、また違う。笑みではなく、何かを決意したような真剣なものだった。しかし、正面から見据えるその瞳の奥底には、隠しきれない期待の色が踊っている。
「私の道を支える、杖を見つけるため」
杖というのが何を意味しているかは分からないが、彼女の望むことはなんとなく分かった。どこかで見たことのあるような眼をしている彼女に、一つ問いかける。
「君の道の果てに、何がある?」
「全てのウマ娘の幸福が」
後頭部をガリガリと掻く。これもまたどこかで聞いたような話だった。
普通ならそんなことを言っても一笑に付されるだけ。ただ。彼女は。他を圧倒する個としての能力を持つ彼女が口にするからこそ、その言葉は説得力を持ってしまうのだろう。
「……分かった、走るよ」
「ありがとうございます。……詳細はいずれ」
差し出された手を握る。あの日握られたときよりは随分と力の抑えられたそれを1秒と経たずに離して。踵を返した彼女の背を見送った。
「あー、アヤベの控室に……。間に合わないな」
携帯の画面で今の時刻をちらりと見る。そんなに時間をかけていたつもりはなかったのだが、控室に行って待つには既に時間が経ちすぎている。外から室内に戻ってきている人の姿もちらほら見られ始めている。
別に約束をしていたわけではなかったが、おめでとうの一言も言わない上に顔も見せないというのは薄情が過ぎるだろう。怒っているかな、と大挙して室内に戻ってき始めた人の波をよけるように壁際に寄って、溜息をついた。
〇
ウイニングライブとは何故必要なのか。レースを走って身体的にも精神的にも疲労がたまっているであろう体を、その後すぐにダンスと歌でさらにすり減らす必要があるのか、と疑問を示した俺に対して、アヤベが返した答えはこうだった。
「ウイニングライブは、応援してくれたファンに感謝を返す場所なの。……私はあまり考えたことはなかったけれど、センターに立って一番近いところでファンの顔を見たいという人もいるみたい」
その時は、あまり納得はいっていなかったものの、何を言ったところでライブがなくなるわけでもなし、アヤベの何を言っているんだろうというような表情も合わせて、口を噤んだ。
しかし、レース後に初めて参加するウイニングライブ。暗い会場内で徐々に高まっていく観客の熱気につられ、自分の中の期待度も上がっていっているのを感じていた。
この京都競馬場に集まった観客のレースへの熱も含めて、自分はやはりこの世界のウマ娘のレースの人気ぶりを侮っていたらしい。
そもそも府中が自分の知る渋谷などに引けを取らないほどに発展している時点で、おかしいとは思っていたのだが。
コースはいつの間にかライブ会場に変わっている。後ろからでも見られればいいかなと思っていたのだが、アヤベが気を利かせてくれていたのか、関係者として比較的ステージに近い座席がもともと用意されていた。
視力が人並外れているので、遠くからでも楽しめる。そう思い最後方の立見席に向かおうとしていたところを、たづなさんに心底不思議そうな顔で引き留められて関係者席に連行されたのだ。
「なんでそんなに後ろに行こうとするんですか?」と聞かれたときは、こちらも席が用意されているとは思っていなかったし、たづなさんもそれを俺が知らないとは思っていなかったようで、二人して首を傾げてしまった。
センターに同着となったナリタトップロードと並んで立つアヤベの視線が客席を流れる。
最後にステージから見て右側にある関係者席で、たづなさんから「なんで持っていないんですか」というお叱りの言葉とともに渡されたペンライトを青に光らせている俺と目が合って。その目が細められて、かすかに微笑む。
(あぁ、なるほど)
すぐに離れていったその視線を一瞬でも追いかけている自分に気が付いて、同時に納得した。ファンは自分の応援していた子が真ん中で誇らしげにしていたら嬉しい。
ウマ娘は、レースを制した後にこの大観衆の前でステージの真ん中でその視線を独り占めにできる。なるほど、確かに無駄ではない。
ナリタトップロードと並んで誇らしげに笑うアヤベを見て、次も彼女がそこにいるところを見たいと、ほんの少し思う。ただ、自分はトレーナーではないから、ずっと今までのように彼女ばかりについてはいられない。この菊花賞に向けてのあれも、何の専門知識もない素人がやることではない。本来ならあまり褒められたことではなかったはずだ。
「それしかないか……」
あまり気乗りはしないが、とそう呟く。一曲だけなのに、どうにも長く感じたその時間が終わる。暗転したステージに向かって、気の早い観客たちが一斉にアンコールの声を投げかけ始めていた。
〇
「あら。……いたの?」
ウイニングライブが終わった後の控室。入れてもらい、中で待っていると、勝負服に身を包んだアヤベが戻ってきた。少し不満そうな顔の彼女の様子に首を傾げると、一つ溜息をつかれてしまった。
「最後、席からいなくなったでしょ。探しても、いなかった」
「あー、こっちに移動するためにな……」
「……そう」
隣の席を引いて座ったアヤベが小さく呟く。その顔は伏せられていて、表情をうかがうことはできないが、ゆっくりと左右に揺れている尻尾を見るに機嫌は悪くないらしい。胸元の星の刺繍が入ったネクタイが彼女の動きに従って少し揺れた。
「ウイニングライブが必要ないなんてことなかったな。よく分かったよ」
「そう? それは、良かった」
私も、少し分かった。そう言って微笑む。彼女も、ウイニングライブは必要だとは言っていたけど、センターに立つことに、妹にその景色を見せること以上の意味を見いだしていないと言っていたから。
でも、先ほどまでのアヤベは、表情は大きく動かないながらも随分と楽しそうにしていたから。色々と背負い過ぎていたこの少女が、少しでも年相応に楽しめるものが増えているのが喜ばしいと素直に思う。
「前で見られてよかったよ。最初は一番後ろから見ようと思ってたから」
「……え?」
なぜ、と服の袖が引かれる。見ると、随分と不服そうな顔をしたアヤベがこちらを見ている。
「俺は遠くからでもよく見えるからな」
「……それじゃ、私が見えないじゃない」
嬉しいことを言ってくれるじゃないか、と笑うと、照れたようにその紫がかった瞳が伏せられる。ライブ中は眼鏡をするわけにもいかないから、探す相手が友人を除けば自分くらいしかいないのかもしれない。本当ならトレーナーがいるべき場所だよな、と内心息を吐いた。
「なぁ、アヤベ。トレーナーを新しくつけるつもりはないか?」
「トレーナーを?」
もともとは一人で勝つことに拘っていた彼女は、トレーナーを特段必要なものだとは思っていなかったからか、名義貸しのみでここまでやってきていた。ただ、専門的な知識できちんとしたサポートをしてくれる人物がずっといないままでは、あまりよろしくないだろう、ということで一応当たりをつけていたの、だが。
「こいつ、なんだが……」
部屋の外に出て、隣の部屋にいた件の人物を連れてくる。棒付きキャンディを口にくわえたそいつは、アヤベのことを見ると目を輝かせて手を差し伸べる。
「おぉ! アドマイヤベガか! 見てたぞぉ、すごいよなぁ、特にあの最終直線での捲り! 相当脚の速筋が鍛えられている証拠だぁ。それだけじゃあの末脚は説明しきれんからなぁ、どれ、少し触っても……」
「死にたいのか?」
「……うっす」
初対面だというのに自分のいつも通りを微塵も崩そうとしない沖野に、少し引いて俺の背中に避難したアヤベが、この人は大丈夫なのか、という視線をこちらに向けてくる。大丈夫、な、筈ではあるんだが。
「沖野トレーナーだ、こんなんだがトレーナーとしての腕はいいし、担当からの信頼も厚い、筈なんだが……」
「いやぁ、照れるなぁ」
「……本当に?」
疑わしくなってきたな、と自分で自分を信用できなくなってきてしまった。ただ、東条トレーナーもなんだかんだ信頼している様子から、大丈夫だと判断して頼み込んだのは自分だ。今更撤回するわけにもいかない。
「ちゃんとサポートしてもらった方がアヤベの為にもなると思ったんだが……」
どうだ? と首を傾げると、じっとこちらを見つめる瞳と目が合った。未だ最初に脚を触られそうになったことが尾を引いているのか、そちらを見ようとしないアヤベの尻尾が、遠慮がちにこちらの足に少し巻き付く。
「……あなたは?」
「ん?」
「あなたは、もう見てくれないの?」
そんなことないさ、と笑うと、ようやく遠慮がちにではあるが、こくりと頷いてくれた。
正直扱おうとしてるテーマ的にプリティが何処かに消え去りそうだからアヤベさんの存在助かる助かる。
小僧、今のお前にとっての正しい死とはなんだ?