小僧、お前はやはり大切にする対象から自らを除きすぎる。学習しないなぁ?
暫く誰も何も話さなかった。普段なら誰相手にでも礼節を欠くことのないシンボリルドルフでさえも。
肩で息をしながら、信じられないといった表情でこちらを見つめている。ターフの上を通り過ぎていく風が、額に浮かんだ汗を冷やしてほんの少し体温を奪っていった。
「あなたは……。いや、私は。驕っていた、のだろうか」
「いや、君は正しい」
彼女が強いことは間違いない。彼女の持つそれは、正しい驕りだ。自分を客観的に評価し、過不足なくその実力を把握したうえでの正しい驕り。それは強者にとっては必要なもの。
ただ、それによって他者との間に線を引くのはまだ早すぎるというだけだ。
「座ろうか、皇帝」
「……はい」
芝生の上に胡坐をかいて座る。未だ感情の整理がついていないのか、一拍遅れて返事をしたシンボリルドルフが少し離れて俺の対面に座った。常に自信と強い意志に満ち溢れていたその瞳が今は迷うように少し揺れている。
迷いもするだろう。こんなぽっと出のよくわからん男に全く届かない、なんて経験をしたら。その迷いも、間違っていない。
「昔、君と同じようなことを言っていた人の話を知ってるよ」
「私と、ですか?」
やり方は全く違うものの、掲げる理想は不思議と少し似ている。“全てのウマ娘の幸福”を謳う彼女と、“すべての術師の幸福”を謳っていた彼の話。彼は道を踏み外してしまったけれど。
強く生まれた者はその力を正しく扱う義務がある、というその考えさえ、なぜか彼女と似ている。
聡明な彼女が彼の様に道を踏み外すとは思っていない。思っていないが。本人にその自覚は無くても、周りを切り捨てて理解を拒み、一人になるというその意味は知っていて欲しかった。
「理想のため、と嘯いて親友を切り捨てた。理想に必要な者以外を猿と蔑んで下に見た」
「私はッ」
「分かってるよ。君はそうじゃない。……でも、周りを置いて一人になろうとしてるのは同じだ」
強すぎる理想は人の目を焼いてしまう。五条先生の親友がそうだったように。彼の場合は、それ以外の要因も多々あっただろうけど。そのために他の者を切り捨てすぎる。自分のことだったり、不要と断じた他人であったり、周囲の友人であったり。
俺とは違うのに。置いていかれて一人にならざるを得なかった俺とは違う。彼女も、きっと彼も。どこかで後戻りできる箇所があった。振り返ってみれば背中を叩いてくれる人がいたはずなのに。
袂を分かち、完全に縁が切れてしまった彼のことを五条先生は親友だった、と言わずに「僕の親友だよ」と言っていた。家入先生は、自分のことを最期まで一人だと思い続けて逝った五条先生に、「私もいたろ」と唇を噛んで呟いていた。
「分からないんだ。置いていく側に置いていかれる者の気持ちは。……なぁ、シンボリルドルフ」
「……はい」
「君の言う“全て”に、君の友人達は入っていないのかい?」
何事か言おうとした口から言葉が出てくることはなく、ただ少し動いた唇が宙を掻く。君にもいるだろう、君の隣で歩こうとしてくれている友人が。いくら負かそうとも君の背を捉えようと追ってきてくれる友人が。
一人になってしまうのと、一人になろうとするのは違うよ。君はまず、視座が高くて、広すぎるからこそ見落としてしまう君のすぐ近くを見直すべきだ。
「それから、本当に一人になる前にようやく、自分のやるべきことを見付けられた男の話も」
まだ東堂や釘崎がいてくれて良かった。きっと俺一人だけじゃ決断できなかっただろうから。
俺には彼女のような崇高な意思なんてなかったけど。それでも、俺のやったことも、どこか彼女の思想に似ている。
世界から呪力がなくなって、誰もが幸せになるなんて言えない。きっとそれが原因で起きた不都合も多々あっただろう。
それでも、きっと意味はあった。あの時の最善だったと胸を張って言うことが出来る。俺はあれによって、一人になる前、最後のほんの少しの時間をちゃんと大切にして過ごすことが出来たから。
結局、その後誰かが俺達呪術師の足跡を継いでくれたのかどうかなんて分からないけれど。
間違えて間違えて、間違え続けた俺の、ほんの少しだけ誇ることが出来る話だ。
「シンボリルドルフ。一人になるのも、一人にされるのも、寂しいよ」
君の理想と比べると随分ちっぽけな教訓かもしれない。それでも、まず大切にしてほしかった。呪い、呪われてばかりの廻る呪いと同じ方向に行ってほしくなかったから。
手をのばして、下がり気味だった白い流星の走る頭に拳をこつん、と軽く当てる。
「まずは君自身と、君の周りのことを大切にしてやりな」
ここから先は、彼女自身が考えることだ。そう思い立ち上がってズボンについた芝を手で払う。未だ座ったままのシンボリルドルフに背を向けたところで。俺の背中に静かな声がかけられた。
「申し訳ない。偉大な先達に、大変な無礼を」
杖ではなかった。そう呟いた彼女が立ち上がる。再び上げられた目には力が宿り、今まで以上の闘志の炎がこちらを焼き焦がさんと燃えている。そこには、先ほどまでの様子は微塵も残っていない。
「杖ではなく、灯台となってくれる。そうでしょうか」
「ん? まぁ、あんまり見習ってほしくはないけどな」
杖とは道を行く足を支えてくれる者。手に持って、共に行くものだ。対して灯台は、先を照らす光だ。行先も分からない暗闇の中で、進むべき道を教えてくれる。きっと俺は反面教師にしかならないだろう。彼女の言う偉大な先達などではない。
それでも、
「いえ、感謝しかありません。……本当に」
大切なものが見えていなかったようです。そう言って首を振る。
「一人になるのも、一人にされるのも、寂しい。まさかそんな感情論で諭されるとは思ってもいませんでした」
「ながぁい人生で得た教訓さ。軽くはないだろ?」
「ふふっ。そうかも、しれません」
冗談かと思われたかもしれない。今の俺の外見はどう贔屓目に見たとしてもまだ20代前半だから。それでも、随分長く生きた方だという自信はある。俺の知る中では2番目だ。あの脳みそメロンパンをあまり勘定に入れたくはないが。
「私の前を走っていただけるので?」
「君が子供の間はな」
「そうですか。では私は、それまでの間にあなたを追い抜いて見せましょう」
「俺を?」
「えぇ」
皇帝が不敵に笑う。夜空に明るく輝く月を背負って、こちらに人差し指を向けた。
「一人は、寂しいでしょう?」
「……出来がいい生徒だね、本当に」
シンボリルドルフが去ったターフの上、口を噤んでじっと見ていたアヤベが静かに口を開く。俺の右手に、静かにその左腕を添えて。制服姿のままずっと待っていた彼女の手は、随分と冷えてしまっていた。
「……さっきの話、あなたの事?」
ぎゅ、と添えられた手が握られる。彼女の水晶のような瞳に、輝く月が映って揺れる。言い方が悪かったかな、と表情には出さずに一人内心で反省した。
事実ではあっても、あまり人の自虐など聞いていて楽しい話ではないのだから。
「聞いてて気持ちいい話じゃなかったか、ごめんな」
「……謝らないで」
失敗ばかり、許されない罪だって犯した。きっと俺を恨んでいる人だっているだろう。そんなつまらない話。目の前の彼女はいつか聞かせて欲しい、だなんて言ってくれているけど。
本当は、人に聞かせるような話ではないんだ。
「あなた、寂しいの?」
目を逸らさないまま、ただ一言そう問いかけられる。すぐに答えを返すことは出来なかった。一人になるのも、置いていかれるのも寂しい。そんな簡単な答え。俺の人生で得た教訓だなんて嘯いたのなら、きっと俺は寂しいのだろう。だから、俺はそう答えるべきで。
でも、なぜか少し口ごもる。俺のことを誰一人知らないこの世界で、俺は最初から一人だから。そんな当たり前のこと、口にするまでも無いから、なのかもしれない。
「……そうかもな」
なんで、とは聞かれなかった。お互いの間にそれ以上の言葉もなかった。ただ、ターフから出て校門を通り抜けるまでの間、彼女がその手を離すことも、終ぞなかった。
〇
「ゆーじせんせー?」
その日は、何も考えずに少し遠くに行ってみようと思った。だから、日が昇る数時間前に目が覚めてしまったのをいいことに、とりあえず気の向く方向に走って、走って。気が付けば見知らぬ川辺で、草の生い茂った様子と、昼近くになりそれなりに高く昇った太陽に照らされて光りながら流れる川面を何とはなしに眺めていた。
そんな俺の顔の前に、後ろから覗き込んできた桜色の瞳が入り込んできたのは突然のことだ。
「なにしてるのー? なにかいるの?」
「いや、ウララこそなんでこんなところに?」
「えっとね、えっとね。すっごく綺麗な鳥さんがいてね、追いかけてたらいつの間にかここにいたんだぁ」
こんなの、と身振りを交えてその鳥のことを説明しようとしてくれている。正直住宅街にいる鳥の形は一部を除いてほとんどあまり変わらないので、身振り手振りで説明されてもほとんど分からないのだが。それでも、にこにこしながら楽しそうに話してくれる姿を見て、少し口元が緩んだ。
ぽん、と隣を叩くと、更に表情を輝かせて隣に座る。座っても、両手を大きく使ったその手ぶりの騒がしさは全く変わらなかった。
「ウララは、その鳥を追いかけてどうしようとしてたんだ?」
「うんっ、青い鳥さんだったからね。皆を幸せにしてくれるように頼もうと思ったのっ!」
青い鳥は幸せなんでしょ、と笑う。トレセン学園に通う子たちは、皆大なり小なり純粋な部分があるが、この子は群を抜いているな。どう育ったらここまでいい子が育つのか。長年純粋どころかどこかしらイカれている奴しかいない呪術師達の中で過ごしてきた身としては、眩しすぎて目が焼かれてしまいそうだった。
そんな気持ちが少し表面化したのか、無意識のうちにウララとの距離をほんの少し先ほどよりも開けてしまっていた。それに目ざとく気が付いたウララが、言葉を止めて不思議そうな顔をしてこちらを見て。それから、両手をこちらの顔に伸ばしてきた。
「どーしたの? どこか痛いの?」
「そんなことない、ぞ?」
「んー?」
伸ばした両手でこちらの頬をつまんで。伸ばして、それから少しこねたりして。それで見れた顔が面白かったのか、じっと俺のことを見ていたウララが、ぱっと笑顔を浮かべる。それから何を思いついたのか、腰を浮かせてから胡坐をかいている俺の足の間に座り込んできた。
「はいどーぞっ!」
「えーっと……?」
「キングちゃんがね、あんまり元気がない時ね。いっつもこーやって私の事抱えて髪の毛梳かしてくれるの! そーしたらすぐに元気になるの!」
だからゆーじせんせーもどーぞっ! そう元気に言って、後ろでまとめていた髪の毛を解く。存外長い桜色のそれが、重力に従って広がりながら下に落ちる。ウララはご機嫌な様子で体を揺らしながらじっと目の前の流れる川の様子を見ていた。
「俺、櫛も何も持ってないぞ?」
「あれ? そっか! どーしよー?」
「ははっ」
仕方ない、と言って手櫛で広がってしまった髪を整えながら元通りに結ぶこととした。何かを見付けるたびにこちらに振り向いて報告しようとするウララに苦戦して何回もやり直しながら、ようやく元通りの髪型に直せたとき。ウララの目がいっぱいに広がって空の一点を指さした。
「あっ! あれっ! あの鳥さん!」
見上げると、かなり遠くに確かに青い小鳥が飛んでいる。種類までは分からないが、空の青に溶けてしまいそうなほどに綺麗な青色だった。一度上空を回ってから、どこかに飛び去って行くその姿をじっと見てから、ウララが興奮気味にこちらに振り向いた。
「よかったね、ゆーじせんせー!」
「ん?」
「これで幸せだねぇ!」
ぴょん、と飛び跳ねて足の間から立ち上がったウララが鳥が飛び去った方向に元気よく手を振っている。対して俺は、一瞬呆けたように口を開けてしまってから、その後すぐに声を上げて笑った。
「あ、元気になったっ!」
青く光る水面に映える季節違いの桜も、目の前で元気に笑っていた。
ウララセラピー、やはりウララセラピー…。
小僧、「ウララちゃんは別だ」は至言だな