続いた。小僧、お前は幸せになれ
星の見えない、暗ぁい夜のことだった。トレセン学園の校舎前にある大きな切り株。多くの生徒が抱えきれない思いをそのウロに向かって大声で吐き出してきた、そんな場所。
今日も一人、その場所に向かおうと歩を進める生徒が一人。夜間トレーニング用の明かりも消えた暗がりの中、いつも通りの道を歩く。
何だか今日は霧が深いな、とか。いつもより道が長いんじゃないか、なんて違和感を覚える余裕すらないまま。
陽の光の下では深みのある青を見せるであろう彼女の長髪は、今は周りの闇を吸い込んだように嫌に黒く見えた。
「くそっ……」
噛み締めた歯から音が鳴る。妹たちが居たならば決して見せられない姿だなんて思いながらも、今は周りに彼女以外の姿は見えず。
静かな空間に、彼女が感情を露わにすることを妨げる者など誰も居なかった。
「ジェンティル、ドンナッ……!」
勝てない。何度目の敗北だろう。耳に残っている、彼女が後から迫ってくる時の爆発的な足音がヴィルシーナの耳奥でドン、と響く。
(私は、勝たなきゃ。もっと、もっと強くっ。あの子達の前を──ー)
「あ゛あぁぁぁっぁあッ!」
抑えきれなかった思いを、言葉に出来ない激情を真っ暗なウロの中に向けて思い切り吐き出す。今まで幾人もの思いをただ黙って受け止めてきたそれは、彼女の思いをその中に吸い込んで。
「おぉ──い」
そう、確かに声を返してきた。
ウロの淵をつかんで覗き込んだままの姿勢で、彼女の体が固まる。暗い穴はどこまでも黒くて底が見えず。それでも、その中に誰かがいるなんて到底思えない。明らかにおかしい、そう思っているのに目が、離せないままでいた。
「おぉ──い」
再び地の底から響いてくるような声が暗闇の中から届く。その声はウロの中で反射して幾重にも重なり、まるで何人もが同時に話している様。
おかしい、このウロはそんなに深くない。彼女は知っている筈だった。普段の彼女ならすぐに淵から手を離してその場から立ち去り、速やかに忘れるという正しい行動を選べたはず。
しかし、今の彼女の心には確かに隙間があった。普段ならば、妹たちの模範にならんと気高く振る舞う彼女には絶対にないであろう隙間が。そして、この世ならざるものとは、大抵がその隙間に付け込むのが大変得意なものである。
「だ、誰かいるの……?」
暗闇の中に誰かいるのかもしれない。真っ暗だったけど、その中に光る二つの目を見たかもしれない。不意にそんな思いに駆られた彼女は一歩、下がりながらも小さな声でそう言った。
そう、答えてしまった。
返事はなく。彼女に差し出されたのは、ウマ娘ですら反応できない速度でウロの底から伸ばされた複数の真っ黒な手で。悲鳴も上げる間もなく視界が真っ黒に染まって──
「はい、そこまで」
場違いなほど落ち着いた声とともに、黒に染まっただけで終わった。逆再生のように戻っていく視界で、彼女が見たものは。
うねうねと伸びてきていた黒い腕をまとめてつかんでウロの中に叩き返している一人の男性の姿だった。
「いやー、災難だったなぁ。ダメだぞ? あぁいうのに返事しちゃ。基本的に良いことなんて無いんだから」
「え、あの……、ありがとうござい、ます?」
先ほどまで起こっていたこととのあまりの温度差に目を白黒させる。目の前の男をよくよく見てみると、最近新しい非常勤講師として紹介されていた男性だった。珍しいタイミングに来た先生だな、と不思議に思っていたので頭の片隅に引っかかっていたのでしょう。
よ、という軽い声とともに男性が指を振ると、急に霧が晴れて、いつも通りの星空が戻ってくる。星明かりが出来た分、中庭が僅かに明るくなった。顔を上げてみると、どうして先ほどまで見えなかったのかと思うほどの数の星が瞬いていた。
「とりあえず、ちゃんと食べてちゃんと寝な」
ほれ、と差し出されたのは少し大きめのチョコレートが一粒。それを恐る恐る口に含むと、柔らかく溶けて体に熱が行き渡っていく。そこで初めて、自分の体が震えていたことに気が付いた。寒さなのか、それとも他の何かなのかは考えないようにして。
「……なんなんですか、あれ」
良いことないぞ、と先ほどと同じように繰り返す。子供扱いされてるのかな、となんとなく察しながら、それでも、と背筋を伸ばした。
今のままじゃ気になって眠れやしない。そう言うと、後頭部を掻きながらそうか、と呟いてから芝生をぽん、と叩いた。
「説明すっから、座りな」
男性が羽織っていた上着が敷かれたそこに少しためらいながら腰を下ろす。見た目はすごく若そうなのに、ちゃんと気を使ってくれてるんだな、と少し目を見開いた。
「随分、慣れてらっしゃるんですね? 先生」
「煩い奴が同級生にいたんだよ」
ほれ、ともう一粒渡されたチョコレートをもう一度口に含んで。その心地いい甘さに目尻を下げた。じんわりと体の奥が温まっていくような感覚がある。どこに売ってるんでしょうか、これは。
「あぁいうのはな、それなりにいるけど基本的には大人しいから安心していいぞ」
「そうなんですか?」
「落ち込んでたり、変に疲れてたりしてる時が危ないんだ。だからちゃんと寝て、元気になってからまた頑張りな」
一口、指で摘まんだチョコを齧る。見透かされている、と思った。見られていたのかは分からないけれど、きっと私が今必死に取り繕ってることも、未だに収まることなく荒れ狂っている内心のこともこの先生にはお見通しで。その上で、”また頑張れ”と言っている。
「……ひどい先生」
「ん?」
小さく呟いた言葉をわざとらしく聞き返すその様子が少しおかしくて、笑ってしまった。聞こえてるくせに。説明すると言って全然教えてくれないのも、分かってるくせに聞いてこないのも、酷い。ひどいのに、それがなんだか今は心地よくて。
「勝たなきゃ、いけないんです」
いつの間にか、口を開いてしまっていた
「妹達の目標でありたい、模範になってあげたい。完璧で、強いお姉ちゃんでいなきゃいけないのに」
勝てないんです、どうやっても。そう零した声は、自分の物とは思えないほどに弱々しく、震えていて。それが情けなくて、膝を抱える腕に力が入る。
「かっこ悪いんです、今の私」
いつだってあの子たちの前を歩いていたい。憧れてくれた強い姉でいたいのに。今の私は、いつまでも負けてしまってばかり。
悔しくて悔しくて、心が張り裂けそうなほどに痛くて。そう感じている時点で、次こそ勝てるように努力を重ねるしかないのに。何を、言ってるんでしょうか、私は。
「俺にも兄がいるんだよ」
「そう、なんですか?」
ほんの少し顔を上げる。横の先生は、ひどく懐かしそうな表情を浮かべながら、どこか遠くを見つめていた。
「“俺には手本がない、何度も何度も間違える。それでも弟の前を歩き続けなければならん。だから俺は強いんだ”って言ってた。自信満々にさ」
笑っちゃうよな、と振り向く。
「教えるのは下手だし、変なことばっかり言うし、空気も読めない奴だったけどさ
俺にとっては、最高にかっこいい兄貴だったよ」
ぽん、と背中を優しく叩かれる。先生の話すそのお兄さんは、私が目指す理想像とは全然違っていて。でも、顔も見たことのない彼の言葉は泣きそうになってしまうほどに、心の奥底にまで入ってきていて。
「君もそうだろ。かっこいいよ、お姉ちゃん」
「そう。そう、でしょうか」
違う。それなら、私が今やるべきことはここで膝を抱えていることじゃないでしょう。
衝動のままに立ち上がって、再び大樹のウロの淵に両手をかける。大きく息を吸い込んで、こう叫んだ
「もう、負けないっ! 挫けたりなんかしないっ!
私は、わたしはっ
お姉ちゃんなんだからぁっ!!! 」
声を振り絞って。これ以上ないくらいに息を吐き切って、息も整えないままに振り返る。きっと今の私は、髪も乱れているし、息は切れているし、よく見たら涙の跡だってあるかもしれない。
でも、それでも。胸を張って誇るように右手を胸に当てる。きっと、今の私が、一番。
「私、かっこいいですか?」
「──最高だ!」
たった一言、親指を掲げて告げられたその言葉が、今は何より嬉しくて。浮かべたのは満面の笑み。心の内は、もうとっくに静かになっていた。
〇
「それは、“さかさまのウロ”ですね……」
「あれ昔からいるのか……」
コーヒーカップを傾けて、静かに頷く少女。先日のウロの中にいた奴は、名前がついて語り継がれているくらいには昔からあそこにいたらしい。そのほかにも、あんまり害のないものならそれなりにいるようだ。
「……危なくない? この学園」
「否定は……、出来ません……」
ゆっくりとした落ち着いた声で話すこの少女は、マンハッタンカフェという。普通なら見えないものが見えてしまう特異体質らしく、初めて顔を合わせたときは、いつも一緒にいる“おともだち”ともども大層警戒されてしまったが、今では。
「こら、あんまり虎杖さんにご迷惑をかけては、いけませんよ」
他の人には見えないそのお友達は、今では元気に俺の肩をバシバシ叩いている。どうにも相手に触れるのが珍しく、それだけで楽しいという気持ちが触られたところから伝わってくる。
それはいいのだが、普通の人間にやったら打撲するくらいの力で叩くのは止めて欲しいな。
「今までどうしてたんだ?」
「私の知る限りでは……、被害は、ありません……。帰ってきているからこそ、語り継がれている訳、ですし……」
「そっか、良かった」
本当に何の知識もないままにここに来たので、“そちら”について詳しいこの子の存在は非常にありがたかった。
この子が使っている空き教室が半ば異界と化していたことには本当に驚いたし、初対面なのに絶望したような表情を向けられた時はかなり慌てたが、今では普通に接してくれている。
「虎杖さんのような方がいてくれるのは、本当にありがたいです……。私では手が届かないことも、多いですから……」
「煽てたってチョコしか出ないぞぉ」
コーヒーに合うだろ、と思って取り出したそれを一口食べた彼女は、大きな金色の目を見開いてから、いそいそとコーヒーを一口飲んで、息を一つついた。
「美味しいです。……手作り、ですか?」
「時間だけは腐るほどあったからなぁ。美味いだろ」
に、と笑うと静かに微笑んで頷いてくれた。周りに誰も同じものが見える人がいない中でずっと過ごすには、きっと色々な壁があっただろう。彼女のように、傍に“おともだち”がいるのなら特に。強い子だ、敬意を示さなければ。
「とりあえず、これからはあんまりそっちのことは気にしないでいい。おともだちはたまに手伝ってくれると嬉しいな」
「はい……。ありがとう、ございます……」
またいらしてください、と頭を下げるカフェにコーヒーのお礼を言って、空き教室を出る。旧校舎の廊下は、いつも活気のある新校舎のそれと違って少し薄暗く、遠くからは楽し気な少女たちの笑い声が聞けてくる。
ーしかし、ソファの向こうに見えた怪しげに光る試験管たちはなんだったんだろうか。別に嫌な感じはしなかったから話には上げなかったし、カフェもいつものことの様に視界にも入れなかったから結局なにも分からなかったんだけども。
「あ! 虎杖先生!」
ぱたぱたという足音とともに、青光りする黒髪をなびかせた少女がこちらに手を振っている。右目の下の泣きぼくろと、左耳につけたボブハットが特徴的な、見覚えのある彼女は、こちらが気が付いたと分かるとずい、と距離を詰めてきた。
「あれ、君は──」
「ヴィルシーナと言います。先日はありがとうございました」
名前を聞いていなかったな、と今知った名前を脳内で繰り返す。あの時は暗かったからてっきり黒髪なものだと思っていたが、明るいところで見ると青みがかって見える。不思議なもんだ、と思いながらしげしげと眺めていると、その視線に気が付いたのか半歩下がった彼女がおもむろに口を開いた。
「あの、先生のお兄さんって、もしかして、もう」
「え? あー、いや、そうか」
予想外の質問に少し驚いたものの、あの日の自分の言い方を思い返してみると、確かにそうとれる言い方をしている。まずったなぁと苦笑いすると、それだけで察してしまったようで顔を伏せて。すぐに何かを決意したように胸の前で両手を握った。
「あのっ、先生」
「ん?」
「お姉ちゃんって呼んで、良いですよ!」
「なんて???」
おかしい。信じられない台詞が聞こえた気がする、と聞き返すも、瞳を輝かせたヴィルシーナはどうにも止まらない。ほら、と手を広げて期待に満ちた目でこちらを見上げてくる。
「遠慮しないでいいですから……っ」
「いやちょっと……。力強っ!?」
【悲報】ヴィルシーナさんおかしくなる。
虎杖の交友関係
→ブラザー(自称)
お兄ちゃん(自称)
お姉ちゃん(自称)New!
“逆さまのウロ”に関しては公式からお出しされているものという事実。皆が使うあの切り株に危ないのいるの怖すぎでしょ。
気になる人は「カフェの三夜物語」で調べてみよう!
感想で幻覚を沢山言ってくれているお陰でアイデアが色々浮かんでくる、感謝しかない。