強者故の孤独は。そこに立った者にしか分からんぞ、小僧
「速さの果てを見たい」と彼女は言った。人の身で出すことのできる限界速度に達してみたい、その果てに何があるのか知りたいと。それを聞いた俺の内心は、「どうしたものか」といったものだった。
人よりも頑丈に生まれたこの身を、呪力による強化と赤血操術による強化を重ね掛けすれば、常人には到底到達しえない速度に至ることができる。俺はその域に達することで見える景色を知っている。
でも、そうではない気がしていた。対面する、目の下に大きな隈を作った少女が求めているのは、そんなちんけな感想ではないと。
「その“果て”に至って何がしたいんだ?」
「何って……、そこでの景色が見たいだけじゃダメなのかい?」
「駄目じゃないが……」
さぁさぁ走ってみてくれたまえ、と計測機器らしきものを構えながら催促してくるアグネスタキオンを片手で制する。果て、向こう側、はたまた頂点なのか、どん詰まりなのか。分からないが、誰も至ったことのない場所に自分が最初に到達してみたい。誰よりも優れた存在でありたい、そんなところだろうか。
自分の見た一つの果ては、きっと強さだった。時が経てば経つほどに、五条先生の言葉が段々と理解できるようになっていく日々だ。自分の周りと自分との間に、生物としての溝ができていくような。自分一人が違う世界に生きているような。
自分にとって、果て、とは孤独だ。
「それの何が悪いんだい?」
きょとん、とした顔でアグネスタキオンが首を傾げる。俺は納得した顔をしていなかったのだろう。人差し指を天に向けて立てた彼女が、また口を開く。
「Eclipse first the rest no where. 唯一抜きんでて並ぶものなし。うちの学校の校訓さ。
大勢の中で輝くただ一つになれと言っているんだ。果てに至るとはそういうことだろう?」
間違いではない。埋もれるよりは、より優れた一になれということだろう。分かってはいる。ただ一つ違和感なのは、彼女は果てに至った時、速度のその先の景色が見たい、と言っている割に自分で走るのではなく、俺が走るところを見ようとしている点だ。
その場所の景色が見たい、というのならば、自分の脚で到達したいということではないのか。
「君も一緒に走るなら観測しててもいいが」
「……なぜ私も? 必要ないだろう」
「どうせなら特等席で見たいだろ?」
帰ってきたのは沈黙だった。固い廊下に靴底が何度も打ち付けられる、かつかつという音が何度も何度も響く。腕組みをして、どこか遠くを見ているような焦点の合わない瞳をしているアグネスタキオンは、自分が忙しなく足を動かしているということに気が付いていないように、黙ったままだ。
「いや、私は。……私は、必要ないだろう。果てにたどり着くのは、一人だと相場が決まっているのさ」
「なら、そうだな。君がそれになればいい。変に俺に拘る意味もないだろう」
かん、と一際大きな音が旧校舎の薄暗い廊下に響く。腕組みをしていた彼女が羽織る長袖の白衣に、握られたことで皺が寄った。一瞬の静寂の後、顔を上げたアグネスタキオンの赤い瞳が外からの光を受けて淡く光る。
開け放たれたドアから見える、旧理科準備室の窓際に吊り下げられたプリズムが日光を方々に散らして、様々な色を見せている。ゆっくりと回るその光の中、ゆっくりと彼女は口を開いた。
「私に、できるとでも?」
一歩、互いの距離が詰められる。俺のことを真っすぐ見つめる彼女の口元は笑っていた。彼女の口元だけは、笑っていた。
「君には分からないさ。壊れない体を持った君みたいな人には」
背中越しに扉が閉められる。薄いドア一枚で廊下と室内の空間を区切っただけ。ただそれだけで、何もかもを拒絶しているようなその板を超えて彼女に声をかけることは、今はできなかった。
彼女が何を考えているのかが、分からなかったから。何故自分が彼女の前で走ることに気が乗らなかったのか、そのことさえも。ただ漠然とした、今頷いてはいけないという予感があっただけ。
しかし、先ほどの態度を見ると、それが正しかったのかも分からない。久々に感じる八方ふさがり、といったような息が詰まるような感触を覚えながら、ごまかすように後頭部をがり、と一つ掻く。
「間違えたかな……」
その問いに答える者は誰もおらず、そのまま暗い廊下の空気に溶けて消えていく。踵を返した俺の足音だけが、辺りに響いていた。
〇
「タキオンさんは、何かご迷惑をおかけしませんでしたか……?」
「あぁ、俺の方が変なことを言ったと思うが、アグネスタキオンは何か言っていなかったか?」
「いえ、何も……。ただ」
カップを傾けて、コーヒーを一口飲んだマンハッタンカフェが一度言葉を切って、考えるそぶりを見せる。彼女が今持っているカップは、いつも愛用しているそれではなく、カフェテリアで出される白い無地の物だ。
旧理科準備室は今現在アグネスタキオンが籠っているので、気を利かせてくれたマンハッタンカフェが場所を変えてくれた。そのため、今日はカフェテリアの空いていた席に座っている。
一番人が集まる昼時ではなく放課後なので、そこまで人が多いわけではないが、ちらほら小腹を満たすためだったり、集まって雑談しているだけの生徒たちのグループのざわめきが耳に届いてくる。
「いつもよりもずっと、気が立っているようで……。ずぅっとパソコンに張り付いたまま、ご飯も食べようとしません……」
「それは……」
「それだけなら、そう、珍しいことではないのですが……」
「あ、そうなの」
体が資本のアスリートである彼女たちがご飯を食べないということは一大事だと思ったのだが、どうやらアグネスタキオンとしてはそこまで珍しいことではないようだ。ただ、いつもはどこかのタイミングで睡眠不足によっておかしいテンションになるのだが、今回はずっと静かなままだと。
それが違和感でしかないと、マンハッタンカフェはそう言った。
「静かなのは……、良いのですが。ただ、ずっと同じ姿勢で椅子に座ったままとなると少し……、心配で……」
何があったんですか、と恐る恐るというようにこちらに問いかける。彼女は、アグネスタキオンと違って俺とシンボリルドルフが走ったところを見ていないのだろう。見ていたのならば、多少俺への態度が変わって然るべきだろう。
そもそも、俺に対する態度がほとんど変わっていないシンボリルドルフとアヤベの方がおかしいのだ。こちらの常識ならば、ウマ娘以上の速度で走る人間など、存在しないのだから。
俺はこの学園の生徒たちの役に立てるのならば、自分の身体能力を使うことに否やはない。ただ、それで彼女たちの間に前と同じような線引きができてしまうことは、嫌だということにやっと気が付いた。
アヤベが何度も何度も、ばれない方がいい、と口を酸っぱくして言ってくれていたことに感謝しなければならないだろう。本来なら俺は、この世界での居場所などないはずなのだから。
マンハッタンカフェは、俺がこの学園に来て一番最初に会話をした生徒だ。数日、数か月の差ではあれど、最も付き合いの長い生徒と言えるだろう。怪異、幽霊、この世ならざるものを視認することができ、それらに対する対抗手段と知識を有する彼女と最初に知り合うことができたのは非常に幸運だった。だからこそ、最初にひどく怯えさせてしまったことへの罪悪感が未だに消えないのだが。
彼女から俺がどう見えていたのかは具体的に聞いていないが、きっとこの世の呪詛を凝縮して人の形に押し込めた怪物のように見えていたのではないだろうか。そんな相手と落ち着いてコーヒーを飲む時間を設けてくれているだけでも、ありがたいと思わなければ。
「あー、俺が走ってるところを見られてたみたいで、な……」
「走ってるところ、ですか?」
「あぁ、シンボリルドルフと」
「……会長と?」
理解が追いついていないのか、目がまんまるになっているマンハッタンカフェが首を傾げる。まぁその反応も頷けるものだ。普通の人間がウマ娘と走るなど、大人と子供の勝負のような虐殺劇が繰り広げられるだけ。ましてや相手が皇帝など、自殺もいいところだ。ただ違うのは、今回一緒に走った俺はほとんど人ではなかったというだけで。
そのことについて言葉を選びながら説明すると、まんまるだったマンハッタンカフェの目が段々と細くなっていき、最後はジト目でこちらをじ、と見つめながら、両手で持ったカップからコーヒーを一口飲む。それから一言、小さく「……聞いてないです」と呟いた。
「……そんなことができるなんて、聞いてません」
「す、すまん」
まさかそんな反応が返ってくるとは微塵も思っていなかったので、驚いて目を瞬かせる俺の足を、テーブルの下で何かがぺしんと叩く。両手は今カップを持っていてふさがっているので、きっと尻尾だろう。明らかに機嫌が悪いです、と言いたげな顔をしたマンハッタンカフェが、カップで口元を隠しながらなおも言葉を続ける。
「……どうして、言ってくださらなかったん、ですか……?」
「どうしてと言われてもな……」
正直、理由という理由はない。そもそもアヤベとルドルフにばれているのも不可抗力みたいなものだ。タキオンに関しては完全にこちらの落ち度だが。最初はそもそも誰かに言うつもりもなかったのだから。
「会長以外に、知っている方は、いるのですか……?」
「ルドルフ以外だと、アヤベくらいか」
「そう、ですか……」
む、と唇を尖らせて顔を横にそむける。テーブルに静かに置かれたカップの中には、もうコーヒーは残っていなかった。
「次からは、生徒会室で紅茶でも飲まれたら、いかがですか……?」
顔を背けて、視線だけでこちらをちらりと見るマンハッタンカフェの姿に苦笑する。普段は落ち着いていてあまり表情の変わらない彼女のそんな姿は珍しい。アグネスタキオンに対してはかなり表情豊かだが、そのレパートリーはかなりげんなりしたような表情に偏っているから、露骨に拗ねたようなこんな仕草は初めて見た。
「勘弁してくれ、君の淹れてくれたコーヒーが一番美味いんだ」
「また……、そういうことを……」
彼女の真っ黒な尻尾がゆらりと揺れる。片手でもう中身のないカップを持って口に持って行って、傾けたところで空であることを思い出したのか、頬を少し赤く染めた。別にお世辞ではない。あまり飲むものに拘りのなかった俺が、明確にまた飲みたいと思うほどに彼女が淹れるコーヒーは美味いのだ。自分でやってもあぁはならないので、彼女に頼むしかない。
それに、あの人の来ない教室でゆっくり話す時間は俺にとっても心地良いものだから。
「では……、今度一度登山に行きましょう……。山頂で飲むコーヒーは、格別、ですから……」
「そりゃあ、楽しみだな」
そう言って、自分の手元にあったコーヒーの残りを一気にあおる。それなりの量だったので、少しきつい苦みが喉を通っていった。いつまでもあの旧理科準備室が使えないというのも、彼女に悪い。それに、アグネスタキオンが何を考えているのかも、余計なことを言った者として、そして大人としてちゃんと分からなければならないだろう。
百の呪いを祓うよりも、彼女一人の心を理解する方がよっぽど難しい。ぐるぐると考えの回る頭の中で、彼女が最後に見せた赤い瞳の残像だけが今も残り続けていた。
映画タキオンはマジでこじらせてるからねぇ…。一筋縄でいくのは解釈違いというか…。
小僧、それはそうと夜道には気をつけろよ