小僧、時にはちゃんと怒ることも必要だと学んだほうが良いぞ
窓際に吊るしたプリズムが七色の光を薄暗い部屋の中に届けている。普段なら扉側のソファが置かれたスペースでコーヒーの香りを燻らせている黒髪の友人は、今はいない。そのスペースにはぽっかりと穴が開いていた。
まだ真昼間だ。休日である上に天気のいい今日は、外からトレーニングに励む生徒たちの賑やかな声が、少し開いた窓から室内に届いている。こんな肌寒い季節に、わざわざ窓を開けておく必要もない。それなのに、何故かそれを閉められずにいた。
「非合理だねぇ……、実に」
窓際の机に腰掛ける。外から吹いたひんやりとした風が白衣の余った袖を揺らす。別に太陽を直視しているわけでもないのに、この部屋から見る外の空はやけに眩しかった。
片手に持ったカップに注がれた紅茶を一口含む。熱い液体が喉を伝っていく感触を明瞭に味わいながら、何とはなしにまだ足りない、と角砂糖をもう一つ加える。もう一度カップを傾けて、また首を傾げた。
砂糖を加えて、また加えて。紅茶の量よりも角砂糖の量の方が多いのではと思われるほどになったところで、がらりと教室のドアが開く。長い黒髪に、頭頂から伸びる一房の白いアホ毛。マンハッタンカフェがこちらの手の中にあるものを見て、呆れたような顔をしてそこに立っていた。
「タキオンさん。……なんですかそれは」
「紅茶さ、いつも飲んでいるだろう」
「……それは、紅茶とは言いません……。砂糖に紅茶を混ぜたナニカです……」
そうかもね、と言って窓の外に視線を移す。ちょうど窓のすぐ外を、ランニング中であろう一団が通り過ぎていった。
「……彼は、怒っていたかい?」
「そう思うなら……、ご自身で謝りに行っては?」
変な薬を飲ませて光らされた上に、無理難題を言って、さらに対話を拒否されたら誰でも怒るでしょう、と溜息をつかれる。ソファに腰掛けた彼女の元に、ふよふよと傍の机に置いてあった筆箱が飛んでいく。彼女のおともだちがそこにいるのだろう。
「君が彼と面識があるのは意外だったよ。あまり人と関わりを持つタイプではないだろう、君は」
「……それは、あなたもでしょう……。彼は、“見えて”いますから……」
「そう、なのかい?」
ウマ娘と互角以上の身体能力に、彼女のおともだちが見えるという特異性。なんだそれは。あんなに力任せな走り方をしても壊れない体の頑強さと、皇帝相手に余裕を見せる能力の持ち主ときた。それは、それではまるで。
「ヒトか? 本当に……」
ガンッ、と自分の座っていた机が衝撃で跳ねる。見れば、机の一部がまるで蹄鉄の形のように綺麗に窪んでいた。ソファに座ったままこちらを真っすぐに射抜くカフェの瞳が、薄暗い部屋の中で金色に輝いて見える。
「……訂正、してください……」
「何をさ」
「彼は……、人間です……。きっと、だれよりも……」
いつもの呆れたような視線とは違う。表情が抜け落ちたような顔の中で、目だけが爛々と輝いている。怒らせてしまったということは理解できる。それでも、何がそこまで彼女の琴線に触れたのかが全く分からなかった。
人間離れした、とはよく言ったもの。身体能力にせよ、脳にせよ。人よりも随分と優れた能力を持った者は、そのような言葉を投げかけられることがある。ウマ娘の中にもそのようなものはいる。セクレタリアト、キンチェム、日本であればセントライトやシンザンがそうか。
でも、それでも。その中に種族の枠組みを超えた者はいなかった。人間とウマ娘は容姿こそ似通っているが、違う種族なのだ。その間にある身体能力差というものは覆りようもない。種族差というものだ。
ならば、それを容易く踏み越える彼を、私はなんと呼べばいいのか。
「果てとは、“それ”なのか?」
種族の壁すら飛び越えた先。それこそが果てなのだとしたら。ウマ娘である以上、決してたどり着けないのではないだろうか。この肉体の出せる限界速度の先。それは。
サイレンススズカは、スピードの向こう側にきっと足を踏み入れていた。しかし、彼女の足は限界を迎え、それ以降彼女にその扉は開かれていない。その後の彼女のレース映像を何度見ても、それは変わらなかった。
果てに片足を踏み入れたところで、その足が壊れてしまったからだ。彼女はその先のことをスピードの向こう側と言っていた。ウマ娘という種族が到達し得る限界速度。その先に行くには。
種族を超えるしか、ないというのか。
「はは、それは……。無理だねぇ……」
「……そうですか」
伏せた視界の外で、カフェがソファから立ち上がり、ドアを開けて出ていく音が聞こえる。私の横に積んであった書類が一束、まき散らされたかのように空を舞った。
彼の走りをもう一度見せてもらえれば何か変わるのかもしれない。あるいは、彼の身体を調べさせてもらえれば、そこへの道のりが見えるのかもしれない。
しかし、種族の壁を超えるというのならば。それは進化と同義。何世代もかけて、何百年もかけてゆっくりと行われるそれを、一足飛びに起こす手段などありはしない。
無理、不可能。そんな単語が頭の中に浮かんでは消えていく。今まで細いながらも見えていた道筋が、完全に断たれたような。そんな気分だった。
〇
虎杖さんの姿を見たのは、新任の教師として彼が壇上で紹介されていた時が最初でした。その日はおともだちがやけに学園に登校するのを渋るので、何かがある、とは思っていましたが。
それでも、さまざまな情念の渦巻くこの学園で、その手の類のことが起こることはそこまで珍しいことでもありません。それらの対処法は小さい頃からの経験で身についている私は、実際に対面するまではそこまでの危機感を抱いてはいませんでした。
ほとんどの相手は、認識していると相手に気取られなければ何か害があるわけでもなく。そうでなくても、おともだちであれば問題はなかったから。他人の見えないものが見える、私だけの世界。人からは決して理解されない、私の視界。
理解されようなんて考え、とっくのとうに持つのはやめています。ただ、私は。確かにそこにいるおともだちのことを、否定されたくなかっただけ。そんな私の周りは、ずっと静かでした。
その、瞬間までは。
足が震える。早く逃げなければ、と脳が警鐘を大音量で鳴らしているのにも関わらず、その場に縫い付けられたかのように動かない足は、少しでも気を抜けば力が抜けて崩れ落ちてしまいそうでした。
「カフェちゃん、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「だい、じょうぶ、です」
隣に立つダンツさんが、小声で心配の声をかけてくれる。それに、取り繕うこともせずに言葉を返すことで精一杯でした。視線をずらすことはできず、瞬きすらできないまま、講堂の壇上に立つその影へじっと視線を固定し続ける。そんな様子を見て絶対に大丈夫ではないと思ったのか、ダンツさんが私の手を取りました。
「保健室行こ? ね?」
眉尻を下げて私の方を見る彼女には、壇上に立つあの人影はどう見えているのでしょうか。きっと周りのざわめきからこぼれてくる情報のような、精悍な男性が見えているのかもしれません。
でも、私には。きっと私の視界にだけは。この世の全ての負の感情を凝縮して煮詰めたような、蠢く悍ましい呪いが人の形をとっているようにしか見えなかったから。
動いたら、死ぬなんて、考えたのは生きてきて初めてでした。他の注意がこちらに向いていないことをあれほど感謝したのも。私の顔色は傍から見ると相当悪かったのか、ダンツさんが私の腕を引く力が少し強まります。
それでもそこを離れるわけにはいきませんでした。気づいているのは私だけ。なら、対処できるのも私だけということになるから。大人しくその場に立っているだけの人型を注視しながら、今すぐにでも逃げたいと言っている本能に逆らって、私の横で縮こまってしまっているおともだちの頭を撫でた。
ごめんね、逃げたいでしょうに。つき合わせてしまって。
あれが、教員? 理事長は何を考えているのでしょうか。本当に、私以外にはただの人にしか見えていないのでしょう。刻々と過ぎていく時間、一秒が何千倍にも感じるその時間が終わりに近づき、もう少しでこの空間に集まった多くの生徒が学園中に散らばる。そんな時。
人型の注意が私に向きました。目など見えていないにも関わらず、見られている、という事実だけは明確に理解できていました。体中の毛が逆立つような感覚に襲われた私の視界が、ちか、と一度明滅します。それでも、どうにか人の流れに従って講堂の外に出た私の意識は、そこで落ちました。
「……あれ」
目を覚ましたのは、保健室のベッドの上でした。横の机には、ダンツさんが書き置きしてくれたであろうメモが置いてありました。全校集会が終わってすぐに倒れてしまったので、慌てて保健室に連れてきた。ゆっくり休んでほしい、と。
おともだちも、私が起きたのに気が付いたのかベッドの傍でゆらゆら揺れています。何事もなかったかのようなその姿に、ほ、と息をついて。身振り手振りで何かを伝えようとしてくる彼女の様子を見て首を傾げました。
何を言いたいのかはわかりませんが、なにやらとにかく安心するように、という意思を伝えたいのでしょうか。先ほどまでとは打って変わっての穏やかなこの状況に、安心していると伝えると、そうではない、というように首を振られてしまいます。何が言いたいのか分からない私が首を傾げたところで。
がら、という音と共に保健室のドアが開きました。
「お、起きたか。君は──」
入ってきた黒い人型の姿を認めた瞬間、まだ上手く動かない体が勝手に反応して、横になっていたベッドの端に縮こまります。勝手に小刻みに震え始めた身体を抑えるように、ぎゅ、と二の腕を握った私の手に力が入りました。そんな私の様子に驚いたように人型は歩を止めて、ドアのところでじっと佇んでいました。
「ごめんな、怖がらせるつもりは──」
「寄らないでください……。
化け物ッ……」
また一歩こちらに近づこうとしていた人型の足が止まり、その頭が下に向けられて。数秒たってから、静かに「そっか」と呟きました。瞬間、その体が白く光って真っ黒だったその影が払われて、中から一人の男性の姿が出てきました。
唖然としている私に向かって、「こうすればよかったのか」と呟いて眉尻を下げたその男性は、もう一度「ごめんな」と言って頭を下げます。
「何もするつもりはない。君の視界にも、できるだけ入らないように気をつけるから。……ごめんな、怖いよな」
「ぁ、の」
もう一度謝って、すぐにその言葉の通り保健室から出て行ってしまいました。その背中に何も言うことができず、言葉もなく混乱している私の頭を、突然おともだちがべしんと叩きました。そちらに視線をやると、早く追いかけろとでも言いたげに、出ていった先のドアをしきりに指さしています。
なぜ、未だ混乱から立ち直れない私に業を煮やしたのか、おともだちが私の腕をその手でがっしりとつかんで。その途端、文字にならない映像のような、まとまった情報が私の頭の中に彼女の手を伝って流れ込んできました。
私が意識を失っている間に、おともだちが彼と話した内容のこと。そこでも、申し訳ないと頭を下げていたこと。最初は怖がっていたおともだちが、彼が全くこちらを害する意思がないとわかると、段々と彼に対する態度が軟化していたこと。
そして、彼が自分のことを「呪いを取り込んで取り込んで、結果的に呪いに寄ってしまった馬鹿」と、自分のことを笑っていたこと。それの意味することはつまり、彼は。
彼が、人だということで。
血の気が引く思いだった。私は、私が一番、人に理解されない痛みを知っていたはずなのに。人に見えないものが見えるというだけで、「おかしい」「化け物」だなんて言われて、嗤われる苦しみを分かっているはずなのに。
「わたし、は」
なんと言った? 心配してわざわざ謝りに来てくれた相手に対して。俯いて、ただ一言「そっか」と言った時の彼はどんな顔をしていたんでしょうか。そんなの、鏡に映った過去の私が、嫌というほど教えてくれていて。
「ま、まって……」
未だうまく動かない体を引きずって、倒れこむように廊下に出る。遠ざかっていく背中はすぐに見つかった。もどかしいほどに言うことを聞かない足に鞭打って、どうにか追いついたその背中を、掴んだ。
「ごめん、なさい……」
「無理しなくていい、怖いだろ」
「ごめんなさい……」
彼の服を握った手に力がこもる。怒りを覚えたとしても誰も責めないようなことを言われたのに、その目にあるのはこちらへの気遣いの光だけで。それが、またどれだけ自分が間違っていたのかをありありと教えてくれていました。
ごめんなさい、ともう一つ呟く。あの時のことを虎杖さんは怒ってないと言うけれど。その後に彼の人柄に触れるたび。当たり前のようにおともだちのことを受け入れて、私と同じ世界を目線を合わせて見てくれることへの嬉しさが募るたび。
まだ、私は。私のことを許せていない。
カフェと会う時小僧はうすーく反転術式を体に纏っているので触れたら擦り傷くらいなら治ります。
小僧、少しは周りから見た自分のことも意識しような。