前回の話で随分と本当に小僧の幸せを願っているのか疑われてしまったようで。
失礼な!誰より願っているというのに…。
「ウマ娘は沢山の夢を背負って走る。知ってるか? 有名なレース前の煽り文句。『あなたの夢、私の夢が走ります』って。お洒落に言うよなぁ」
そう笑って、手に持ったジョッキを飲み干して。通りがかった店員に流れるようにお代わりを要求した。人の金だからと好き勝手に飲んでくれるな、とこちらの口元が少し笑いの形に変わった。
そんなこちらの感情を知ってか知らずか、上機嫌に顔を赤くして、もう既に出来上がり始めている沖野は、運ばれてきたビールを一口飲んで、大声で一つ笑った。
「俺らはそのウマ娘が先頭でゴールするところを見たい。それだけで彼女たちに夢を見るのさ。彼女たちが走る理由はそりゃあ色々だけど、俺らの方は結構単純だよなぁ」
「そんなもんか?」
「お前は違うのか? アドマイヤベガを応援してただろ」
「そうか……、そうなのかもな……」
アヤベの菊花賞の時、俺が考えていたことは、理不尽な運命に彼女が潰されないように、と。ただそれだけだと思っていた。でも、彼女が楽しそうに走っているところを、ほんの僅かな差ではあれど、ゴール板の前を彼女が先頭で通過したところを見た時、俺は何も思わなかったのだろうか。
「何を悩んでるのか知らんが、お前も失敗するみたいで安心したよ」
具材が煮えた湯気を立ち上らせる鍋から、自分の食べる分だけを器に掬いながら沖野がそう言って笑う。どういうことかと手を止めて彼を見る俺から目を逸らすように下を向いて、箸で摘まみ上げたモツを口に入れる。
「大体のことを何でもないみたいな顔でこなしてるように見えたからなぁ。ウマ娘が好きなのはなんとなく伝わってきてたけど、正直言うとよく分かってなかったんだ、お前のこと」
「そんなこと思ってたのか、ひどい野郎だなぁ」
ここの奢りはなしかな? というと、途端に顔色を悪くして自分の財布をひっくり返し始める。相も変わらず、その財布からは逆さまにして振っても一円玉が二枚ほど転がり落ちてくるのみ。これが全財産か? と目線で聞くと、そうだから奢ってくれないと俺は死ぬぞ、と開き直った顔がこちらを見てくる。
まぁ、そもそもこちらが誘ったものだから、奢らないなんてことは今さら言い出したりはしないが。そう言うと、改めて安心したような顔をして、また一口酒をあおっていた。現金なやつだ。
「それがなぁ、ウマ娘のレースを見て嬉しそうな顔して、今度はどこの誰かは知らんが走るのをやめそうな奴のことを心配して悩んでんだ。もう立派にこっち側さぁ」
「嬉しそうな顔? 俺が?」
「なんだ、気が付いてなかったのか」
何も持っていない箸をこちらに向ける。そして、「ウイニングライブの時、アドマイヤベガを見て随分と嬉しそうな顔してただろ」と言った。
そういえば関係者席には、現地に来ていたこいつもいたんだったな、と思い出す。あの時、俺は。ウイニングライブは確かに彼女たちを応援しているファンが見たら嬉しいだろうな、だなんて思ったことは覚えている。ただ、俺は、俺自身は本当にそう思っていたのだろうか。
「ようこそ底なし沼に! もう抜け出せないなぁ!」
そんなことを言いながら対面から隣に移ってきた沖野が俺の肩をバンバンと叩く。随分と楽しそうだな、と言うと、そりゃそうだろ兄弟、と肩を組んできた。調子のいいやつだ、と呆れたように息を一つ。
「沖野、お前の夢はなんだ?」
「俺の? そりゃあ担当たちが走ってる姿よ! あいつらが楽しそうに走って、そんで勝ってくれてるだけで俺はいくらでも生きられるね!」
「だからって自分の生活費まで注ぎ込むのは悪い癖だぞ」
「耳が痛いなぁ、だから今日みたいなときにたらふく食べておくのさ」
奢ってもらえるなら自分の懐は痛まないからな! と上機嫌な様子で手に持ったビールをもう一口。この調子ではまた、帰るころには担当ウマ娘たちには到底見せられないような状態になるのだろう。
毒の効かない身であるため、酔っぱらうこともできないこちらとしては、これだけ気持ちよく酔うことができるこの男は少し羨ましくも感じる。昔から酔うという感覚を味わったことがないため、酒は付き合いくらいでしか飲むことがない。やっぱりあまり好きではないな、と一口飲んでそんなことを思った。
「虎杖、あんたはさ。その走るのをやめそうな奴に、走ってほしいんだろ?」
「そうだな、彼女が当たってる壁は、多分俺のせいだから」
「何したらそうなるんだ……。あぁ、いや、わざとじゃないのは分かってるさ。そんなことする奴じゃないだろ?」
わざとではない。そもそもの話、自分の何が彼女の気に障ったかすら定かではない。今、自分が何を言っても逆効果にしかならない気がしていて、苦しんでいる子供相手に何もできずにいる。
そんな状況が歯がゆくてたまらなかった。
「何も考えずに、ただもう一度走ってほしいっていうのも一つの手だぞ? 俺なんて最後の最後まで諦めきれなくてなぁ。阿呆みたいにそうやって叫んだことがあるくらいだ」
「……それで、どうなったんだ?」
「笑い話になってるんだから、分かるだろ?」
酔っぱらいの戯言だから聞き流してもいいぞー、などと言いながら卓上に置いてあったつまみのキャベツを口に放り込む。機嫌よさげにしゃくしゃくと軽快にそれを噛み砕いている男は、自分よりもずっと長い時間をウマ娘たちと向き合ってきた先達だ。
すべて鵜呑みにするわけではないが、無下にできるわけもなかった。
「なぁ~、虎杖よぉ。もっと練習見に来てくれよ。お前が来てるとアドマイヤベガのやる気が違うんだよ」
「そうなのか?」
アヤベをかなり唐突に預けてしまった手前、それなりの頻度で放課後にスピカの練習の様子を見に行っている。ただ、それでも菊花賞前のように毎日とはいかない。朝に一緒に走っていた時間も、彼女がチームの他の生徒とロードワークをする時間になることもあり、そちらも毎日とはいかなくなっていた。
それでも、基本的には三日と時間を空けずに見には行っているつもりではあるし、そもそもアヤベは元々一人で実力をつけた子だから、自分がいなくても問題ないのではないか、といったような内容を返すと、沖野は酔っぱらいの癖に「コイツ、マジか」といったような顔でこちらをじっと見つめてきた。
「お前なぁ……。ま、いいけどさ。一回、五日くらい時間が空いた時があっただろ?」
「……先月くらいだったか?」
「そう、珍しく仕事に追われてた時な。その時の様子、知ってるか?」
「朝、登校してくるときは特に変わりなかったと思うが……」
「ばっっかお前……」
額に手をやって大きなため息をつく沖野。練習を見に行けなかった時でも、朝の登校時間には自分は校門のところに立っているので、会話はなくとも顔を合わせる機会はある。その時のことを思い出しても、アヤベに特段変わった様子はなかったという記憶しか出てこない。
「日に日に元気なくなってただろうが。三日目くらいから練習中も校舎の方ちらちら見てよぉ。こっちの心の方が痛かったんだぞ?」
「……本当か?」
「嘘ついてどうすんだ……。ま、お前が来たらすぐにいつも通りに戻ってたけど」
だからもっと間隔を開けずに来い。そう言ってまた肩を組みに来た沖野の手をはたいて、少し考える。彼女の妹はアヤベが授業を受けているときなどに時たまふよふよと自分のところにやってくるので、それなりに時間を取って話す機会もあるが、アヤベはそうではない。
確かに、これからはもう少し気をつけようと、そう思わされる話だった。
「わかった、ありがとな」
「なに、これも俺の担当のためさ」
「ブレないねぇ……」
それからも沖野は奢りだからと欠片も遠慮せずにたらふく飲み食いした後、見事につぶれて、どこからか現れたゴールドシップに回収されていった。一応門限の時間を過ぎていたのだが、それもゴールドシップだから、という理由で多少の納得ができてしまう彼女は一体何なんだろうか。
「トレーナーが世話になったなぁ!」と言って、沖野を肩に担ぎながら夜の街に消えていったゴールドシップを見送りながら、酔っぱらいの腹に刺激が来そうな持ち方はやめてあげてほしいな、と少し笑った。
〇
星が綺麗に見える、夜のことだった。昼間は活気にあふれているトレセン学園の校舎も、夜ともなればもう人影は遅くまで缶詰しているトレーナーたちのものくらいしかない。やるべきことを片付けて、もう帰ろうか、と思って窓の外を何とはなしに眺めて。
これだけ綺麗ならば、もしかしたらと思い、彼女と初めて言葉を交わした場所に行ってみることにした。もう既に門限の時間は過ぎていて、居残りでコースで練習している生徒の影もない。
当たり前だ。外出届を出していなければ、もう今の時間に寮に戻っても扉は閉まっていて、次の日まで締め出されてしまうのだから。
季節は秋を越えて、もう冬に入っている。少し前までは肌寒い程度のものだった夜も、今は息を吐けば白く染まるほどだ。それでも、肌の温度をどんどんと奪っていく冷たい空気は、不思議なほどに澄んでいた。
芝のコースの中、周りに何もない、踏み荒らされてもいない芝生の上に折り畳みの椅子を置いて座っている、長いその髪の毛を一つにまとめて後ろに流している彼女の姿があった。
「アヤベ」
名前を呼ぶと、顔の向きは変わらないままに、その大きな耳がピクリと動いてこちらを向く。静かに下に垂らされていた尻尾が、ゆらりと左右に動いた。
「……待ってた」
彼女の横に置いてあった誰も座っていない椅子を片手で押し出されたので、ありがたく座って。すると、まるで本当に待っていたかのように、マグカップに入れられたココアが手渡された。
「こんな夜なら、あなたが来ると思ってた」
手袋などつけていない手を温めるようにカップを両手で持ったアヤベは、こちらに顔を向けると淡く微笑む。こちらも、アヤベならいるかもしれないと思っていたと言うと、きょとんとした顔をしてから、空を見上げてまた一つ笑った。
「……私、毎日楽しいの。トップロードさんとサッカーをやってみたり、オペラオーのオペラに振り回されたり、スピカの人たちに放課後いろんな所に連れて行ってもらったり。
……今まで、やってこなかったことばかり」
ねぇ、と服の袖が引かれる。視線を向けると、彼女の薄紫色の瞳が、星空の光を映しながらこちらをじっと見ていた。
「あなたが何の心配もいらないって、言ってくれたから。子供でいいって、言ってくれたから。
……あなたは」
あなたは、楽しい? そう言ってアヤベは俺の手を両手で握る。楽しい、もちろん楽しい。ずっと呪術師とばかり交流があった自分にとって、言葉の裏も明確な悪意もほとんどない彼女たちとの交流は、嘘みたいに暖かい日々だ。
何より、アヤベのような子の青春を守ることができたこと、君が楽しいと言ってくれていることが、たまらなく嬉しい。そんなことを言ったと思う。じっと私のことを見ている彼女の瞳は、全く動くことなくそのまま私のことを見つめ続けている。俺の手を握る彼女の手に、少し力が入った。
「そうやって、他の人のことばかり。……あなたは、どうなの?」
「俺?」
今言ったことは紛れもない本心だ。隠しても、誤魔化してもいない。そんな俺を見て、アヤベは眉尻を下げた。
「……私が勝った時。ライブの時。嬉しそうだった。
また勝ったら、喜んでくれる?」
「あぁ、それは……。嬉しいだろうなぁ」
「そう、なら。
──次は、あなたの夢を背負って走ってあげるから」
ちゃんと見ててね。そう言って微笑む。遠くの空で、瞬く無数の星がその笑顔を柔らかく照らしていた。
まぁ…、自由に書くと…。ね?
小僧、ちゃんと脳焼いた責任取るんだぞ(目逸らし)