小僧、器用な事をするではないか
アグネスタキオンの抱える問題は、彼女自身の持つ巨大な才能に反して、その出力に耐えきれない、脆い脚。なるほど、それは生来頑丈な俺が何を言っても逆効果だろう。「君には分からないよ」と言われてしまったことも頷ける。
彼女からしてみれば、絶対に壊れようもない体に胡坐をかいている相手が、気を使って気を使って壊れないようにしている自分に対して「なんでそんなことをしているのか」と無神経に聞いてきたようなものだったのだろう。腹も立つ。
俺はあの時「間違えたかな」などと口にしたが、まさに大間違いだったわけだ。申し訳なさで笑いも出ない。
「……きちんと話す機会を設けなかったタキオンさんにも、責任はあります……」
「……そうかもな。でも、知らなかったで許されるのは嫌だよ」
それは理解を放棄しているのと同義だから。俺は。いまいち掴みきれない彼女が何を考えているのか知りたい。彼女が本当は何を望んでいるかを知りたい。“果て”に至ったその景色を見たいと言うならば、そこに至るのは彼女自身でなくてはならない。その考えはやはり変わらなかった。
そのために、俺に出来ることがあるのかは分からない。それでも尚アグネスタキオンと言葉を交わしたいと思ってしまうのは、やはり。俺の我儘なんだろう。
「どうする……、おつもりですか……?」
「……わからん」
そもそも彼女が会話に応じてくれるかも定かではない。籠られてしまったらどうしようもないなぁなどと考えていると、いつの間にか旧理科準備室の前についていた。
「……なんだいカフェ、言っておくが私は──」
がらりと扉を開けると、薄暗い教室の中で明るく光るモニターをじっと眺めているアグネスタキオンが、こちらに顔を上げることなく口を開いて。言葉の途中でこちらを目だけを動かして見て、そこでぽかんと口を開けて言葉が途切れる。
彼女にとっては予想外だったのかもしれない。椅子の上に体育座りのような体勢で座っているアグネスタキオンの目元には、前に見た時よりも更に濃い隈が浮かんでおり、その顔は生気が薄い。どう見ても何日も寝ていない者の顔だった。
「……あぁ、君か。何の用だい? 走ってくれるつもりがないなら私としては君に用は無いんだが」
「俺にはあるのさ」
すぐ傍にあった小さな椅子を引いて、アグネスタキオンの前に座る。
「君の、走る理由はなんだい?」
そもそも彼女の言う“果て”とはなんなのか。辿り着き得る限界速度のその先、今まで誰も至ったことのない領域であると彼女は言った。そこに至って見えるものが何なのかを知りたいと。そんなもの、至らずとも分かるはずなのに。
「決まっている、この身で至れる速さの限界の、その先に至るためだ」
タキオン、超高速で移動する仮想の粒子。そんなものの名前を冠する彼女がそういう願いを抱くのは、ある意味必然だったのかもしれない。しかし、仮想はあくまで仮想。実際に存在しないかもしれない領域を目指すからこそ、その道のりは苦しいものだ。
「それは、君自身が至りたいと言うものだろう?」
「……当たり前だよ。まぁ、それでなくても次善策で私以外でも至るものが出ればいい」
「本当に?」
言葉に詰まる。走りたいというウマ娘の本能、誰よりも先に居たいという本能由来であろうその願いは、結局は彼女自身の足で成就させないと意味のないものだ。彼女自身が、まだ走りたいと思っているのだから。
「君には──「もし」」
口を開いた彼女に被せるようにこちらも言葉を放つ。きっとこの話は、どこまで行っても平行線。自分以外の者が至ってもいいと主張する彼女と、自分自身の足でそこに至らなければ意味がないと言う俺。いつまでも交わることは無いのだろう。
「もし、君がその“果て”に至ったとして。その後は?」
「はぁ?」
「その後は、君はどうしたい?」
「……そんなの、もう走る理由も無い。引退でもするんじゃないか?」
「そうか」
気が変わった、と呟く。きっとこれ以上の言葉でのやり取りは意味がない。先ほど感じた平行線だという比喩は正しかったのだろう。だからこそ、他の手段をとる必要があった。
「見せてやるよ、“果て”の景色」
「……本当かい?」
それなら、と背後に山と積まれた器具の中から必要なものを選ぼうとこちらに背を向けた彼女の後ろ姿を見て目を細める。彼女の言う夢の景色が今から見られるかもしれないというのに、どうにも乗り気ではないように見える。そして、そのことに彼女自身が違和感を感じていないということも。
ただ、色々準備しようとしているところに申し訳ないのだが、別に外で走るわけではない。ここから動く必要もない。隣で心配そうにこちらを見上げるカフェに「ごめんな」と謝る。彼女にとってはまた怖いものを見せてしまうかもしれないから。出来ることなら目を閉じていて欲しい、と言うと、無言で首を振った。無理はしてほしくないんだが。
少しの躊躇の後、両手を合わせて掌印を形作る。あちらにいたころは思ってもみなかった。こんな短期間に何度も、戦闘や鍛錬以外の用途でこれを使う機会があるなんて。
「領域展開」
薄暗い旧理科準備室の中に、三人を引き込んで小さな領域が広がった。
かつて、新宿における両面宿儺との戦いの折。初めて領域を開いた俺は、その領域の中で幼いころに過ごした仙台の土地を再現した。記憶の中にあった。いや、それ以上の殆ど現実と言っても過言ではないものを。
あの領域の中では、駅のホームにいくら待っても電車は来ずとも、池に糸をたらして見ればザリガニがかかる。街並みの細かいところ、俺自身が確かに覚えていなかった箇所まで、何もかも再現されていた。
あれは宿儺と、その器としてつくられた俺という呪いの因果で結ばれた二人だったからこそ起きたものだったのかもしれない。その証拠に、以降何度領域を開こうともあの時のようなものは出来なかった。普通の術式を付与した、それが展開されるのみ。
しかし、あの時出来たのだから。不可能ではない。あの時の領域は、宿儺に俺の起源を、俺たちのことをせめて知ってもらいたかった俺の願いから生まれたものだ。だから今回も、俺は。俺の知る“果て”を彼女に知ってもらいたいという願いをもって領域を開こうとした。
『もうあの人一人でいいんじゃないですか?』
随分と歳の離れた後輩が口にした言葉。自分の適性の等級から外れていた呪霊にあわやその命を奪われる直前だった彼は、自分の全く叶わなかったその相手を、何でもないように踏みつぶす理解の及ばない強さを前にして心が折れていた。
言っていることは間違っていない。きっと俺一人だけで呪霊の討伐を回せるようになるのならば、それが一番いい。『あなたのようになるのは無理だ』と、なんでもないことのように笑う優秀な教え子がいた。それが当たり前だと、疑問にすら思っていないような、なんでもないような笑みだった。
五条先生が亡くなって、乙骨先輩と真希先輩が一線を引いて。俺はいつの間にか最強になっていた。並ぶものがないと称えられ、周りを見渡せば俺と戦闘らしきものが成立する相手すらいなくなっていた。
『虎杖悠仁は最強である』
揺らぐことのない事実となっていた。疑う余地すらない不変の真理となっていた。衰えの無い俺は、成長し続ける。周りは俺のことを追いかけようとすらしてくれないのに。
誰もそのことを疑わない。当然のことだと口々に言う。その位置に立って初めて、五条先生の気持ちが分かった気がした。
皆のことが嫌いなわけじゃない。教え子は可愛かった。慕ってくれる後輩もいた。でも、誰もかれも、俺の隣を歩いてくれようとはしなかった。彼らにとっては、俺が彼らの前にいることが当たり前だから。隣を歩こうという考えが頭に浮かぶことすらなかったから。
いつからだろうか。周りがみな脆く儚い生き物に見え始めたのは。いつからだろうか。段々と視界が色あせ始めたのは。
いつからだろうか。周りを見回しても、誰もいないという孤独を感じ始めたのは。
だから、俺にとっては都会の人混みも、反対に人外魔境と化した新宿もあまり変わらなかった。おかげで新宿に籠って呪霊を減らすことも苦ではなかったから、よかったのかもしれないが。
“果て”。これも一つの果てだろう。有史以来、とか、宇宙全てを見回しても、とか思いあがったことを言う気はない。それでも、あの時、あの場所で俺は確かに強さの“果て”にいた。
だから、ずっと。
だから、ずっと俺は、一人だった。
「なぁ、アグネスタキオン」
「……なんだい? 最強」
あぁ、見れたのか、と少し笑う。魂のつながりもない、呪いを見ることも出来ない彼女では、見ることが出来た情報は少ないだろうが、それでも俺の言わんとするところは分かったはずだ。俺にとって、どこまで行っても“果て”とは孤独だよ。
「それでも君はそこに行きたいか?」
「もちろんさ、誰もいない。上等じゃないか。速度の果てに誰かいてもらっては困る」
「……やっぱり、自分で行きたいんじゃないか」
本人も気づいていないのかもしれないが、全く隠せていない。ぎらぎらと輝くその赤い目の光は全く衰えず、むしろ増しているようにも見えた。
「なら、道を示すよ」
先達としてな。そう呟いておもむろに伸ばした自分の左腕に右拳を振り下ろす。呪力強化も何も施していない左手は、呪力強化を施した右手に容易に負けて、室内に鈍い音が響いて、あらぬ方向に左手が捻じ曲がる。
「なっ……」
「何をやっているんですか……、あなたはッ!」
アグネスタキオンが息を呑み、カフェが血相を変えて叫ぶ。しまった、と後悔しても遅かった。誰も俺のことを心配などしなかった当時のことを思い出して、そちらに意識が寄ってしまっていたらしい。あちらならば、珍しいな、みたいな目で見られるだけだったのに。
目を大きく見開き、掴みかからんばかりの勢いのカフェを右手で制して、反転術式を強く回す。すると、変な方向に曲がっていた左手が瞬く間に逆回しのように元の方向に戻って、正常な動きを取り戻す。
「は……?」
「こういうわけだ……。アグネスタキオン、俺は。骨折程度なら瞬く間に治せる」
「そ、それは……」
「もちろん、他人のものもだ」
この世界について、ウマ娘のレースについて詳しく知れば知るほどに、この力がこの世界に及ぼす影響がどれほど大きいかを思い知ることになった。だからこそ、使うことはあっても明言したり公にするつもりはなかったのだが、仕方ない。
こうすることが最善なのだから、俺個人の感情などそれほど大事な要素ではないんだ。
「これで、言い訳はもうないだろう?」
「……言い訳?」
「自分の身体が弱いから無理だったなんて、もう二度と言わせないと言ってるんだ」
目の下にあった隈のせいか、ずっと開ききっていなかったアグネスタキオンの目が大きく見開かれる。次いで口が何かを言いかけるように少し開いて、閉じて。次の瞬間、大きな声で笑いだした。
「は……、はっはっはっはっ! そうかそうか、それは、恐ろしいねぇッ!」
彼女が辿り着けるかどうか、それはトレーナーのようにウマ娘の才能を見抜くことが出来ない俺には分からないことだ。それでも、きっと。
「期待に沿って見せるさ! 私の、私自身のこの足でっ!」
「……よろしかったんですか?」
「ん?」
旧校舎を抜けて、ずっと口を噤んでいたカフェがようやく口を開く。未だ顔は伏せたまま、彼女のおともだちも彼女と俺を気遣うように何度も二人を交互に見ている。
「……私や、タキオンさんが吹聴すれば、あなたは……」
「そうしたら、その時さ」
一度死んだ命だ。形が違ったとしても、若人の青春を守るために使えるのならば、そこまで惜しいものでもない。そんなことを思いながら言った瞬間、右手をぐい、と強く引っ張られる。見ると、足を止めたカフェが顔を伏せたまま俺の右手を両手でつかんでいた。
「あなたはっ、どうして……っ!」
それに続く言葉は紡がれない。ようやっと顔を上げた彼女の瞳が、俺の姿を捉えて。それから、首を振ってまた視線を下げた。
「どうして……」
小僧、そこら辺の価値観はすぐに治したほうが良いぞ。ホントすぐに