そう来るか!女誑しめっ!
虎杖悠仁の朝は早い。元々体が常人よりも並外れて優れていた彼は、呪術師として活動する中で、自分があまり寝なくても問題なく活動できることに気が付いてしまっていたから。
在りし日の彼はその特性を利用して忙しく全国を飛び回っていた。
今は、そんな自身の身体を削っての活動など必要ない環境に身を置いてはいるが、それはそれとしてあまり長く寝るのはどうにも落ち着かないので、日の出よりも随分と前に目が覚めてしまうのだ。長く寝ていいと分かってはいてもこれはもう病気のようなものだ。
そして、まだ暗い時間の内から職場付近を軽くランニングすることが最近の彼の日課となっていた。
普通の速度でのランニングなど、彼にとっては準備運動にもなりはしない軽い運動ではあったが、ここではウマ娘という常識外れの速度で道路を爆走する種族が一定数走っている。
顔を隠してやれば、まだ暗い時間帯ならばそれなりに速度を出しても問題ないと気が付いてからは、こうやって“ウマ娘専用レーン”を彼もまた爆走している訳で。
(……さて)
そろそろ先ほどからずっと自分の後ろを鬼気迫る様子で追走してくる栗毛の長髪のウマ娘への対処を考えるべきなのだろう。
速度を出し過ぎた影響で取れそうになるフードを危ない危ないと片手で押さえながら内心で溜息をついた。顔が晒されてしまったら誤魔化しがきかなくなってしまう。
別に何かをしてしまった訳ではない。前に見かけた彼女のことを何とはなしに後ろから追い抜いてみたら、なんだかムキになった様子でさらに抜き返してきたので、ちょっと面白くなってきてしまった自分がさらにもう一度後ろから追い抜いただけ。
適当に競ってから引き離すなり撒くなりしようと思っていたのだが、なんだか鬼気迫る勢いで追いかけられ始めてしまったので逃げるに逃げられなくなってしまったというわけである。
そんな悪いことしたかねぇ、と内心で零す。そもそも適当なタイミングで先に言ってもらおうとランニングコースから外れたのにも関わらず、迷いなく同じ道に入ってきたのだ。明らかに追いかけられている。
なんだか後ろからの気迫が段々と殺気に変わり始めているのが背中で感じられてむず痒いんだ。
よし、と決断を下す。別に時間が無いわけではないけど、あんまり長引くと校門を開ける時間に遅れてしまう。撒こう、そうしよう。
「まちなさいっ……」
勘弁してくれ。着ているジャージを見るにトレセン学園の生徒であろう彼女に追いつかれて顔を見られでもしたら面倒なことになってしまう。迂闊なことをして自分が悪いと反省して、とりあえずこの場を切り抜けることに集中をする。
足に呪力を流して、今までの物とは一線を画す力での踏み込みを実現する。道路に罅を入れないように、と最大限気を付けての踏み込みだったが、驚くことに足の下の道路は微動だにせずに堪えて見せた。
ウマ娘の踏み込みを受け止めるために発展でもしてるのかね、そんなことを考えながらドン、という乾いた音をあたりに響かせて、体がぐんと前に出る。
二、三度同じことを繰り返して、背後の人影が見えなくなってからようやく速度を落として、フードを取った。とりあえず暫くは走ることをやめるか、最低でも同じ道を走るのは止めよう、と固く決意するのだった。
〇
「あれ、ライスじゃないか」
「おっ⁉ お、おおおはようござますっ」
脱いだ上着を肩につっかけてえっちらおっちら帰り道を歩いていると、前に信号待ちで足踏みをしている黒髪の少女の後姿が見えた。
見覚えのあるその背中に声をかけると、特徴的な大きな耳がピクリとこちらに向けて動いて、それを追っかけるように全身がばっ、とこちらに振り向いた。
「朝早くからランニングか? 偉いなぁ」
ありがとうございますっ、と大きく頭を下げる彼女から見えないように、その背中についていた黒い靄に向かって軽く指を振る。そのタイミングを見計らったかのように急に青に変わる信号に、少し目を細める。
「今は帰りか? 一緒に行こうか」
「えっ! ……でも、ライスと一緒じゃ、悪いことがおこっちゃう……」
「大丈夫大丈夫」
先に一歩横断歩道に踏み出したこちらの後ろを、すこし遅れて小柄な少女がとと、と足音を響かせてついてくる。
誘因体質、とでも言うのだろうか。見るたびに何かしらを背負っているこの子は、どうにもそういう人の負の感情から生まれたモノたちを引き寄せやすい質らしい。
五条先生の六眼のようなものを俺が持っていれば、もっと詳しく調べることが出来たのかもしれないが、今の自分に出来るのは状況からの推測くらい。
「あのあのっ、ライスの傍に居たら不幸になっちゃうんですっ、だから、その……」
信号に全部捕まっちゃったり、急に雨が降ってきたり、買おうとしてた自販機が全部売り切れだったり。そうやって指折り数えて自分と一緒に居ない方がいいと言う。
この子が今までどのような生活を送ってきたのかは知らないけど、これだけすらすら出てくるのであれば、本当に良くあるのだろう。
「ちょぉっと今日はランニングコース変えたんだよ。そしたらびっくり! ここがどこか分からないんだよなぁ」
迷っちゃったんだよ、と少し歩くペースを落として隣に並ぶ。何が言いたいのか分からないのか、こちらを見上げる大きな目を瞬かせて小首をかしげるライス。
きっと話してくれたことだけではない。昔からずっと不運なことばかり起こっていたのなら、よく。よくもまぁここまで真っすぐないい子に育ったものだ。
自分がすべて悪いと罪悪感ばかりを内にため込んで、我慢してきたこともたくさんあっただろうに。呪いとばかり向き合っていた俺には、それがなんとなく分かる。
「知ってる顔がいてよかった。ライスと会えて幸運だよ」
「……ふぇ?」
案内してくれないか? と笑うと、少し反応が遅れてから、食い気味に「ら、ライスでよければっ」と返してきてくれた。それと同時にたどり着いた次の信号は、丁度青になったところだ。
「お、ほら見ろ。運いいじゃんか」
信じられない、というような顔で信号を見上げる彼女の背中を軽く押した。絶対にそう、とは言い切れないけれど、彼女が周りで不運なことばかり起こる、というのはほぼ間違いなく彼女がいつも背負っているあの黒い靄が原因で。
それなら、あれさえなくなってしまえば、彼女はただの。ただの、ほんのちょっと運が悪いだけの一人の優しい女の子だ。
「わた、私……。一緒にいても、いいんですか?」
「何言ってんだ。一緒に居てくれないと俺が帰れないだろ?」
助けてくれると嬉しいなぁ、と差し出した手のひらに、おずおずと伸ばされた小さな指先が、ほんの少し触れた。
「そうだ、良かったら少しその帽子、貸してくれないか?」
「こ、これ、ですか?」
彼女がいつも被っている青の薔薇があしらわれた小さな帽子。頭に手をやって差し出してくれたそれを両手で包んで。その青の薔薇を傷つけないよう細心の注意を払いながら正の呪力を流しこんだ。
「ほい、ありがとな」
「? あの? もういいんですか……?」
数秒も経たずに自分の元に戻ってきた帽子と、こちらの顔を何度も困惑したように見る。まぁ何をしたのかが分かってなかったらすぐに帰ってきたようにしか見えないか。太陽が顔を覗かせて薄明るくなってきた空を見上げる。ちょっと明るすぎるかな。
「えぇっとな。薔薇を隠すみたいに手で覆って」
「はいっ」
「“咲け”って言って、覗き込んでみな」
「“咲け? ”……わぁあっ」
きっと彼女の手のひらの中では、仄かに青い光を放つ薔薇が見えていることだろう。その証拠に、小さい手の隙間から正の呪力の燐光がほんの少し漏れ出してきている。零れ落ちた一欠けが、膝にあった小さい擦り傷に触れて、それを瞬く間に癒していった。
「嫌なことだったり、怖いことがあったときに唱えたら、一回だけ助けてくれるから。ちゃんと持っててな」
それに、俺の気配が色濃く残っているものを持っているならきっと寄ってくるモノも減るだろう。きっと。本当ならそういう効果を持ったお守りだったりを作れればよかったのだが。
そういうのは全然学んでこなかったから存在しか知らない。こんな時になって、学ばなかったことを後悔することになるとは全く思ってもみなかった。
「つ、使ったら、光らなくなっちゃうんですか……?」
「ん? まぁそりゃあ……。あぁ大丈夫っ! ちゃんともう一回やったげるから! ちゃんと使ってなっ! ほら、約束っ」
大層気に入ったのか、使ったら光らなくなってしまうことにとてもショックを受けた顔をされてしまった。ただ、何回も使えるように大量の呪力を込めてしまうと、きっと内側から破裂してしまう。きっとそっちの方がこの子にとってはショックだろう。
ほら、と差し出した小指にライスの指が結ばれて、それから離れる。お守りだから、ちゃんと使うんだぞ、と言うと今度こそしっかり頷いてくれた。
「あのっ、大事に、しますっ! 絶対、だいじにっ」
割れ物を扱うように胸元に掻き抱いた青い薔薇が朝日の光を受けてきらりと光る。また後でな、と手を振ると、ふわりと笑顔を浮かべて、胸の前で小さく手を振ってくれた。
〇
「スズカさんよりも走るのが早い男の人ですかっ⁉」
「えぇ……。そうなの」
お昼時のカフェテリア、すぐ近くから聞こえてきたそんな会話に、思わずびくりと肩が震える。俺の事じゃないだろうな、と恐る恐る横目で声の聞こえてきた方をうかがうと、見えたのは長い栗色の髪の毛。確定である。
「でもでも、顔も見えなかったんですよね。この学園の誰かじゃないんですか?」
「私も最初はそう思ったのだけれど」
気持ち彼女たちの視線から逃れるように体をそむけながら、そうだ、と頷く。少なくともあの時は顔が見られないようにしていたし、日が昇る前で暗かったから背の高いウマ娘ぐらいに思ってくれているものだとばかり思っていたのだが。
「靴に、蹄鉄がついていなかったから……」
「あぁ~」
スズカさん、と呼ばれた子の対面に座った前髪の真ん中部分が白くなっている少女が、料理が山と積まれたお皿の一角を、納得したように頷きながら一口でごっそりと削る。
「あぁ……」
自分の足の裏を見る。今は校舎内なので別に靴を履いているわけではないが、外で履いている靴にも確かにその蹄鉄とやらはついていない。道理でなんだか周りと足音が違うと思ったんだ、と無言で天を仰いだ。
この分では今まで追い抜いたり追い抜かれたりしてきた他の生徒にもばれているな、そう確信して諦めの感情とともにすくったカレーライスを口に運ぶ。毎日戦場と化しているカフェテリアの料理人特製のカレーは、今日も信じられないくらいに美味しかった。
特にニンジンが。よくわからんがとても甘いんだ、このニンジン。
〇ライスシャワーのヒミツ①
最近、帽子を机に置いてじっと眺める時間が増えた。
【悲報】小僧、渾身の大ガバによって頭先頭民族にロックオンされる
おや? ライスの ようすが…
小僧、お前がライスに渡したそれな。誰かの故障一回取り消します券だからな、分かってんのか?分かれ。