小僧、お前は“部品”になろうとしてる他者を前にしたら、どうする?
「──アドマイヤベガは、私のお姉ちゃんです」
「……あぁ、成程。君、そっちか」
あまりにも姿形が普通の人間過ぎたこと、そしてマンハッタンカフェの“おともだち”ほどの力を感じなかったことで、今に至るまで気が付かなかった。今、目の前にいる彼女が、この世にいないということに。
靴を履いていない、裸足のまま一歩踏み出す。芝生を踏み込んだ柔らかい音は、全くしなかった。
「あのっ、いたどり? 先生。お願いがあるんですけど……」
「ん? なんだ?」
普通“この世ならざるもの”というのは、あまり歩くという動作にこだわりがないので、ふよふよ浮いている奴ばかりなのだが、この子は違うらしい。ぺたぺたと音が出そうな足取りでこちらに近づいてくると、おもむろに片手を差し出した。
「触っても、いいですか!」
「うん。……うん?」
聞き返す間もなく、こちらが伸ばした手を勢いよく両手で握られた。彼女のそれにしっかりとした温度はなく、それでも確かにそこにあった。
「すごい、触れる。すごい、なんで?」
「あー……。俺も半分くらいそっち側みたいなもんだからなぁ」
呪物をしこたま取り込んだ己の身体は、寿命が人の枠から外れて老化もしなくなったことも踏まえて、とっくに人とは言えないものとなっている。まぁ、生まれた時から似たようなものだったかもしれないが。
「触れるってことは……。肩車とかも、出来ますよねっ」
「まぁ、出来るが」
「お願いしますっ!」
そう言って両手を広げる彼女のことをひょいと持ち上げて、肩車の体勢に移行する。急に高くなった視点に驚いたのか、戸惑ったような声を漏らしてから、すぐに持ち直して歓声を上げた。
「わぁあっ! すごいっ、高いっ!」
なんだか仕草も反応も見た目に反して幼い子だな、と感じる。今、自分の肩の上で諸手を上げて歓声を上げている彼女は、見た目は少し大人びた少女にしか見えないが、表情はコロコロ変わるしリアクションも大きい。声だけ聞いていると、見た目よりもずっと年下の少女を相手にしているようだった。
「髪の毛って、こんな感触なんですね。……お姉ちゃんのは、どんな感じなんだろ」
さわ、と髪の毛が触られる感覚に視線を上に上げると、覗き込むようにこちらを見ていた彼女と目が合った。
俯きがちな姿勢に引っ張られて長い髪の毛が垂れてきて、こちらの視線を遮る。表情の見えないまま、小さく彼女は「夢だったんです」と呟いた。
「お姉ちゃんがお父さんにやってもらってるのがすっごく楽しそうで、羨ましくて。いつか私もって」
夢が叶いました。その言葉のすぐ後、視界を塞いでいた髪がどけられる。開けた視界の中に映る彼女は、笑っていた。
「こんなに、高くて、あったかくて。……こんなに、心が、踊るんですね」
お姉ちゃんが好きだったのも納得だなぁ。そう言って微笑んで。ぴょん、と軽やかに肩の上から飛び降りる。
「ねぇ、先生」
スカートをふわりと浮き上がらせながらこちらに振り向いて。両手を後ろで組んだ彼女は、笑いながらこう言った。
「お姉ちゃんを、助けてあげてくれませんか?」
〇
「お姉ちゃんったら酷いんです」
私はお姉ちゃんに楽しく走ってほしいだけなのに。隣を走る彼女はそう言って唇を尖らせた。朝の空気は澄んでいて、かすかな冷気を感じさせる。
それでも、少し体を動かせばじんわりと身体に汗が浮かぶ。一時期のそれに比べると随分ましになってきた朝の空気を肺に取り込んだ。
もうすぐ、秋だ。
「私はなぁんにも言ってないのに、勝手に“私のためだ”って言って無理ばっかりして」
彼女の走り方は、トレセン学園に通う生徒たちと比べるべくもなく、あまり綺麗なものではなくて。それでも、走るのが楽しくて仕方がない、というように笑っていた。
「勝たなきゃ、勝たなきゃって。張り詰めて。本当はお姉ちゃんだって走るのが大好きなのに」
「それが、嫌なのか?」
「そうですっ!」
挙句の果てに、楽しんで走ったことがダメなことみたいに自分を責め始めるし。走る速度を緩めて、顔を出し始めた太陽を見つめて目を細める。風に長い髪の毛を靡かせながらこちらを振り返った。
「走るのって、こんなに楽しいのに。……それにしても先生、速いですね。ほんとに人ですか?」
「半分くらいな~」
誰かと一緒に走ってみたい。そう言った彼女の望みを叶えるために、人目につかない道を選んで朝早くから走っているところだった。足を止めた彼女に合わせてこちらも立ち止まって、隣に並ぶ。
彼女の双子の姉、アドマイヤベガは今年の日本ダービーを勝ったG1ウマ娘だ。このままいけば次は秋のクラシック戦線の終着点である菊花賞。このままいけば、そこで、彼女は。
「……運命っていうんですかね、あるんですよ。絶対にこうなるなってわかることが」
「それを、止めてほしいと?」
「嫌だなぁ、そこまで頼ったりしませんよ」
それは、私に考えがあるんです。そう言って彼女は、笑いながら胸を叩いた。
「どーんとっ、お任せですっ」
曖昧な概念だ、運命なんて。決められた未来なんて無いんだと、そう思っている。
ただ、彼女たちは別世界の名前と魂を受け継いだ存在だと聞いている。そして、自分は。自分は“知っている”。自分の世界にいた競走馬たちの存在を。
まるでこちらの世界のウマ娘のレースに瓜二つなそのレースを。この時ほど競馬を触ってこなかったことを後悔したこともない。
もし、自分に知識があればこの先アドマイヤベガに待ち受ける運命とやらの正体を見破ることだってできたかもしれないのに。
「先生は、その後のお姉ちゃんのことをお願いしたいんです」
怪我、治せるんですよね? と彼女が首を傾げる。ウララに施した反転術式をどこからか見られていたらしい。
否やはない。話に聞く一途に姉に幸せになってほしいと願う彼女の頼みに、首を縦に振らない理由などどこにもなくて。
でも、ほんの少し。ほんの少しの違和感が頷こうとした頭を留めていた。
「君は、それでいいのか?」
「もちろんですっ! お姉ちゃんの幸せが私の幸せですから」
くるりと体の向きを変えて走り出す彼女の背中を追い抜いてしまわないように気を付けながら、その後を追う。変わらず弾んだ声で話を続ける彼女が、こちらにその顔を見せまいとしているような気が、なんとなくしていたから。
「それまで、先生には私に付き合ってもらいたいんです。……誰かと一緒にやりたいことが、沢山、たくさんあります」
指折り数える。もう一度肩車をしてもらいたい。一緒に走りたい、ボードゲームをやってみたい。授業を受けてみたい。一緒に、星を見てみたい。そのどれも、子供なら当たり前に望んでいいことばかりで。
だからこそ、彼女が今までできなかったことばかりだった。
「……君、名前は?」
「──ありませんっ。生まれてないのでっ」
道理で幼いわけだ。ようやくこちらに振り返って笑みを浮かべた彼女の顔を見ながら、そう納得した。
〇
星のよく見える夜だった。学園のターフの上に座って、隣にわずかに浮かんだ彼女が空に浮かぶ光の数々を指さしながら燥いでいる。そんな俺達の後ろから、ざく、と芝を踏み込む音が不意に響いてきた。
「……誰か、いるの?」
聞いたことはないのに、なんだか聞き覚えのある声だった。きっと隣にいる彼女の声を少し低くして、落ち着いた感じにしたらそうなるだろう。そんな声だ。
「お姉ちゃん? なんで?」
隣にいる彼女が振り向いて、驚いたような声を上げる。そう、後ろにいるのは彼女の姉であるアドマイヤベガその人だった。驚きはない。彼女が今日ここに来ることを、自分は知っていたから。
「門限過ぎてるぞ、校則違反じゃないか?」
「……届け出は、出してます」
懐疑的な色を含んだ声だった。心なしか一歩下がって距離を取られた気もする。
まぁ無理もないか、こんな時間にコース中に胡坐をかいて一人で座っている大人なんて不審者以外の何物でもない。自らのことながら一体何をやっているんだか、と一つ息をついた。
「あの、あなたは?」
「俺? 俺は教師だよ」
「先生……?」
本当か、という視線を向けてくる彼女に、いつも首からかけている教員証を見せると、ようやく納得したように表情をほんの少し緩めてくれた。下がっていた足も、元の位置に戻る。
「一応毎朝校門に立ってるんだがなぁ」
「そう、なんですか?」
「ねぇ、先生っ、どういうことなのっ?」
耳元で彼女がやかましく騒ぐ。申し訳ないが反応してやることはできない。アドマイヤベガから見れば、突然虚空に向けて話しかける変人になってしまうし、何より。
今からが、正念場だからだ。
座るといい、と叩いた隣の芝に、戸惑いながらも、おずおずとアドマイヤベガが腰を下ろす。
未だ警戒は解けていないのか、距離は十分開けたまま。こちらに目線を向けることなく、空を見上げている。
「なぁ、アドマイヤベガ。
──自分の家族に、走る理由を全部背負わせて。楽しいか?」
「……は?」
☆
風がターフの芝を揺らす音だけが耳に届く。今言われた言葉をもう一度頭の中で咀嚼して。か、と加熱したその熱を表に出さないようにどうにか堪えて、一言だけ絞り出す。
「なんのことか、分かりません」
「君の妹に、無理を繰り返す理由も、友人を蔑ろにする理由も、全部被せて楽しいのかって、聞いてるんだ」
「……ッ。失礼します」
音を立てて勢いよく立ち上がる。その拍子にえぐり飛ばされた芝が宙を舞った。これ以上この場に居たら、相手が人であることを承知で足が出てしまいそうだったから。なんでそんなことを知っているのかも、相手が誰なのかも今はどうでもいい。
今はただ、この場から離れたかった。
「君の妹さんから全部聞いた!」
踵を返した。一歩踏み出した。それなのに、続く一言でその場に縫い付けられたかのように進むことが出来なくなった。ふざけるな、と叫びたかった。頭の中が沸騰したように熱い。あの子はいないんだ。全部全部、私が奪ったんだ。
「妹は、死にました」
「あぁ、でもここにいる」
「ッふざけないでッ!」
至極真剣な顔をして自らの横の虚空を指さすその姿に、ついに堰を切ったように激情が溢れ出す。何がここにいる、だ。なにも見えてないくせに。何も知らないくせにっ! 私の、わたしのことなんて。
「あの子はもういないのっ! 私が全部奪ったのッ!」
そうだ、走るたびにあの子のことを感じていた。走るのが好きだって、楽しいというあの子の感情はいつだって走る私の隣にあった。私が、私のせいだ。私が生まれてしまったから、あの子が助からなかった。
私だ、あの子じゃなくて私がいなければよかった。そうしたら走るのが大好きなあの子から、全部奪うことなんて無かったのに。
「だからッ、私はッ!」
あの子の未来を奪ってしまった分、勝たなくちゃ。栄光も称賛も全部、あの子の為に捧げなきゃ。だから、“私”が私の為に走ることなんて、許されない。
「あの子の為にッ!」
急に普段出さない大声を出したためか喉に痛みが走り、反射的に咳き込む。そんな私のことを、自らを教師といった男性は静かに眺めていた。
「そうして欲しいと、言われたのか?」
言われた。二人のライバルと鎬を削ったあのダービーの最中。競うのが楽しい、ただ勝ちたいと思って走ってしまった。一瞬でもあの子のことを忘れてしまった私に対して、「楽しそうだったね」と。「よかったね」と責めるように。
ごめんなさい、自分なんかの為に、あなたのことを忘れてしまった。悪いのは、私なのに。
「関係、ないですよね」
何を言ってるんだろう、私は。こんなことをしている時間なんてないはずなのに。少しでも走らなければ。次、きっと最後になるレースで勝つために。そのためなら、どんな無理だって。
「関係ならある」
「……ないです」
「君の妹に頼まれた」
「いい加減にしてッ」
抑えきれなかった衝動が体を突き動かす。気づけば、両手で相手の胸倉をつかみ上げていた。頭の片隅、冷静になった一部分がやめなさい、と叫ぶ。それでも、沸騰した感情に突き動かされた体は止まらなくて。
「なにも知らないくせに……ッ、知ったようなことを言わないでッ」
「……そうだな、なら」
あとは本人から聞くと良い。その言葉とともに、私の視界がいつの間にかかけられていた眼鏡のレンズを通したものになる。そして、そんな視界の中に。
私のすぐ傍に。“私”が、いた。
「……ぁ」
手を離して、一歩、二歩後ずさる。そんなはずない、何かの間違い。冷静な私は頭の中でそう言っていて。でも、それでも。私の魂が目の前にいるのが、“あの子”だと、そう叫んでいる。
『お姉ちゃん?』
音として聞こえていない筈なのに、何を言ってるのかが分かる。不思議な感覚だった。あの子の口が開けば、鈴の鳴るような明るい声が私の中に響いた。そう、あなた。こんな声だったの。ずっとそこに、いたの?
「ごめん、ごめんね」
伸ばした手が空を切る。触れたと思った手は、あなたには届かなかった。
「走るの好きだったのに、私のせいで」
私なんかより、あなたが走るべきだったのに。せめてあなたの為に全部全部勝ちたかったのに。それすら叶わなくて。何も出来ないお姉ちゃんで、ごめん。
「ごめんね……っ」
『お姉ちゃんさ
──バカなの?』
「……え?」
『勝利とか栄光とか、いらないのっ。お姉ちゃんが走ってくれればそれでいいのっ』
「だ、だって。私はあなたから全部奪って──」
『ちーがーうーのーっ』
目の前のあの子が、信じられないくらいの勢いでぶんぶん腕を振る。もっと責められるものだと思っていた。恨まれているものだと思ってた。でも、いまかけられている言葉は全くの逆で。
『お姉ちゃんが楽しそうに走ってくれるのが嬉しいのっ、なんでわかんないの?』
「……じゃあ、あの『楽しそうだったね』って言ってたのは」
『そのまんまの意味! なんで正反対の意味にとるのっ。ひねくれてるの⁉』
「そ、そう、なの」
足から力が抜けて、ぺたんと座り込んでしまった。なら、私が今までやってきたことは、ただの空回りということで。
『そもそもお姉ちゃん。お姉ちゃんが私の立場だったら、恨んだり怒ったりする?』
「そんなことないっ! あなたが走ってくれれば、それで」
『わかってるじゃん、それだよ』
すとん、と心のうちに落ちてきた。あの子の顔をもっと近くで見たくて、立ち上がろうとしたけど。やっぱり私の足に力は入らなくて。不格好に後ろにしりもちをつく。それと同時に、頬を熱いものが流れていくのをどこか他人事の様に感じていた。
「……あなた、ずっと私の傍にいたの?」
『うん、いたよ?』
「私と、わたしと一緒に走るの、楽しかった?」
『うん! でも私は、ダービーのときみたいに勝つお姉ちゃんを、もっと見たいな!』
「そ、う」
ダービーの時。トップロードさんとオペラオー、二人のライバルと鎬を削ったあのレース。私が。私が一番楽しかった、あのレース。つまり、この子は。
私に楽しんで走っていいと、言ってるんだ。
「……なら、お姉ちゃん、頑張らなくちゃね」
『うんっ!』
満面の笑みだ。嬉しくて嬉しくて仕方がないといった、そんな表情。きっと私では絶対浮かべられないようなそんな笑みを浮かべるあの子の前にいる私の顔も。
きっと、笑顔だった。
「分かってくれたか?」
「……ぁ、先生」
すみません、と頭を下げる。随分と失礼な言葉も、失礼な振る舞いもしてしまった。どれだけ頭を下げても足りない気すら今はしている。本当に、と付け加えて、さらに深く頭を下げた。
「やめてくれ、あれは俺の言い方が悪いんだ」
『ほんとだよっ、ヒヤヒヤしたよ、もう』
激情に駆られたウマ娘に掴みかかられたのにも関わらず、私に対する怯えなんて微塵も見せず。軽い調子でその先生はこう言った。
「せっかく会えたんだから、2人で走ってみたらどうだ」
「え……、で、でも」
張り詰めていた意識が緩んだからこそ分かる。病院でも匙を投げられた左足の痛みが、より鋭く私の意識に刺さる。立っただけで震えるこんな足では、走るなんて、とても。
「大丈夫」
安心して行ってこい、その言葉と共に背中をぽん、と叩かれて。次の瞬間、嘘みたいに足の痛みは消えていて。
特別だぞ、と悪戯っぽく笑うその人の笑顔を見ていると何だか安心できて。気づけば、私の足はコースへと向いていた。
「ほら、君も」
『え、で、でも』
「行ってきな」
不思議な時間だった。隣を走る妹の走り方は、全然なってなくて。フォームから何から、全部ぐちゃぐちゃで。
でも、楽しそうだった。足がもつれて、転びそうになってもずっと笑っていて。隣で走る私と目が合うと、さらに嬉しそうにして。
たった1周。そんな短い時間が永遠かのように思えて、走りきったことにしばらく気づいていなかった。
息を切らしたあの子が、勢いよくひっくり返ってターフの上に寝転がるまでは。
◯
「たーのしかったっ」
「良かったなぁ」
息を切らしながら大の字で芝の上に寝転がる彼女の元に歩み寄る。そして、満天の星空を見上げるその瞳を、上から見下ろした。
「楽しかったっ、すっごくッ! これで──」
「これで、なんだ?」
言葉に詰まる。笑いの形になっていた口がわなないて、ついでに強く唇が噛み締められた。
その様子を見て、今までの自分の考えが確信に変わる。彼女を引き止めることに成功したことも。
「ずるいよ、こんなの。……もっともっとお姉ちゃんと走りたいって、思っちゃうよぉ……」
運命の改変なんて並大抵のことではない。ましてや、彼女のような強い力を持たない存在にとっては。
なにか代償があると思っていた。例えば、彼女自身とか。
「全部なんとかしてやる。先生にまかせなさい」
呪術的には双子は同一人物。なればこそ、彼女も俺の生徒だ。
今までずっとやれることが少なくて、我儘を言うのが下手くそで。自分よりも姉のことばかりを優先しがちな、一人の女の子。
よく似てるよ、君たちは
「なんも気にせず、青春しな、若人」
その言葉への彼女の返事は、最高に綺麗な泣き笑いだった。
最終回みたいな終わり方になっちゃった。完結するのかな?
まあ終わらないんだけどね。小僧にはタマとララと3人でツッコミトリオを形成してもらわなくちゃ困る。