小僧、お前もクソボケにならないか?
まだ日が昇り切っていない早朝。人気の無い山道を一組の男女が並んで走っていた。コンクリートの道の表面を靴の裏に取り付けられている蹄鉄が叩く音が静かな道に響く。
見る人がいれば目を疑っただろう。いくらランニング程度とは言っても、ウマ娘の。それも中央でG1を勝つレベルの生徒に並んでヒト耳が涼しい顔をして走っているのだから。
さらに、見える人がいたならば驚いただろう。その並んで走る男女のすぐ前に、もう一人見た目がそっくりなウマ娘が笑いながら走っているのが見えただろうから。
吸い込んだ空気が肺の中を少しずつ冷やしていく。朝のまだ太陽によって温められていない空気は、きっと運動でもしていないと随分と身体に悪いだろう。そんなことを考えながら、腕を軽く振って、坂道に負けないように足に力を込めた。
「驚いた。本当に人なんですか?」
実はウマ娘だったりしない? と隣で首を傾げるアドマイヤベガの様子を見て、口元に笑みを浮かべる。彼女が口にした疑問も、その時の表情も。数日前の彼女の妹にそっくりだったから。違うのはその口調だけだ。
「半分くらいな」
「ふぅん……」
俺の身体のヒミツにはそこまでの興味を持っていないのか、小さく相槌を打ってこちらに向けられていた視線が前に戻る。そのまま、じっと前を騒ぎながら走っている彼女の妹のことを眺めていた。
「あの子、あんな性格だったのね。……知らなかった、なにも」
「楽しそうに走るだろ」
えぇ、と頷いたアドマイヤベガの口元は微かに笑みの形を作っている。それよりも雄弁に、彼女の目に込められた温度が、その心情を物語っていた。
同じように目線を前に向けて前を走る少女のことを見やる。やっぱり彼女の走り方は姉であるアドマイヤベガのそれと比べると随分と未熟で。改善点だらけだ。それでも、心底楽しいと見ているだけで伝わってくるその走りは、きっと見た者の視線を掴んで離さないだろう。
ふと、こちらを振り返った彼女と目線が交差する。笑いながらこちらに手を振ってきたので、振り返すとさらに嬉しそうな顔で手を振る速度が増した。それだと無限に終わらないでしょうが、前を見て走りなさい。
「あぁ、もうっ」
そう呟いて、隣を走るアドマイヤベガの速度が少し増す。並走していたところから一歩抜け出して、妹の隣に並んだ彼女は、走りながら妹の走りの改善点をいくつか挙げていく。
分かっているのかいないのか、元気に大きな声で返事をした妹は更に速度を増して一歩前に出る。走り方は全く変わっていなかった。
「全然直ってないじゃない……」
そんな後ろ姿を見送りながら、呆れたようにそう呟いたアドマイヤベガが、また速度を落としてこちらに並んでくる、その口調とは裏腹に、とても楽しそうな表情が浮かべられていた。
道沿いに生い茂っている木々で先の見えないカーブを曲がれば、あとは真っすぐの上り坂のみ。その坂の向こうで、一足先に上り切った妹が元気に飛び跳ねながらこちらに手を振っていた。
「あの、先生」
「ん?」
「ありがとうございます。……あの子のことも、今日のことも」
呟くように言われたその言葉は、きっと坂を上り切った先で待っている彼女の妹には聞こえていない。並んで走っている今のままでは、横を向かないと彼女の表情は見ることが出来なくて。まぁそれでもいいか、と前を見据えたまま先を促した。
「あの後、沢山話しました。今までのこと、私が考えていたこと。……あの子がやろうとしてたことも」
走る彼女の顔の上で、あの夜に渡した眼鏡のレンズがきらりと光る。俺の手元にあっても何の役にも立たないそれは、今は立派に本来の役割を十二分に果たしてくれていた。
「言い合いもしました。お互いに笑って、怒って。
でも、これで私。やっと、姉らしいことをしてあげられます」
「……そっか」
走る俺の足に、ほんの一瞬彼女の尻尾が当たって、すぐに離れていく。それが意図したものなのか、それとも偶々当たってしまっただけなのかは、分からなかった。
「先生っ、お姉ちゃん、遅いよーっ」
「あなたが勝手に急いだだけでしょう?」
坂を登りきると、ようやく半分ほど顔を出した朝日と対面することが出来た。一段高いところから見下ろすいつもの街並みは、朝日に照らされて光り輝いている。
まだまだ冷たい風が、一つ吹いて笑い合う彼女たちの髪をなびかせている。全身を使ったオーバーなリアクションで何かしらを伝えようとする妹を前に、アドマイヤベガは口元に手をやって呆れたように微笑んでいた。
眼鏡を掛けないとアドマイヤベガが彼女の妹のことを見ることができないことは変わっていない。きっとレース中は、一緒に走ることはこれからも叶わないだろう。
ただ、それでも。互いを思うがあまりどちらも崩れそうになっていた少女たちが楽しそうに笑っているその光景がなんだか無性に嬉しくて、静かに目を細めた。
「あの、先生」
お願いがあります。と帰るために走り出そうとした俺の服をアドマイヤベガが遠慮がちに引いた。
元気よく走り出してしまった妹の背中をちらりと見てから、アドマイヤベガの方に振り返る。妹が行ってしまってから切り出したのは、聞かれたくなかったのか。
顔を伏せたままの彼女の表情を窺い知ることは出来ないが、先程のような笑顔でないことだけは確かだった。
「……私、沢山の人に迷惑をかけてきたと思います」
うつむいたまま、呟くようにそう零す。俺には彼女の交友関係など知る由もないけれど。確かに、彼女の妹の様に、危うい彼女のことを気にかけている人はいたのではないか、というのは想像できた。
ここの人たちは、皆お人好しばかりだから。
「心配をかけた娘がいます。それでもと信じて待ってくれている娘も。……なにより、私の一番のライバルになりたいって言ってくれた、娘が」
「うん」
「謝りたいです。……謝って、私もあの子達に正面から向き合いたい」
でも、と吐き出すように言って言葉を切る。拳を握った彼女の足は小刻みに震えていた。
「怖い、です。もし拒絶されたら。今まで私がしてきたことが、返ってくるのが。とても、怖い」
だから、先生。服の裾を握る力が強くなる。ようやく顔をあげてくれた彼女の瞳は揺れていた。
遠くで、ようやくこちらがまだ走り始めていないことに気がついた妹の呼ぶ声がしている。それに急かされるように、こちらに一歩近づいたアドマイヤベガが口を開く。
「……もう一回、背中を、押してくれませんか」
「──よしっ!」
隣に並んだ彼女の背中を、あの夜と同じ様にそっと押す。いらないとは思うが、一応反転術式も使っておいた。
ほとんど力を込めてはいないが、押された力に沿って一歩前に出たアドマイヤベガの尻尾がゆらりと揺れる。
それから一歩、二歩と更に前に出た彼女が、振り返らずにもう一言、小さく呟いた。
「それと。……ぁの、全部終わるのを、待っていて、もらえませんか?」
「もちろんさ」
ぶちかましてこい、と横に並んで言うと、そんなに勢いはいりません、と言ってようやく笑顔を見せてくれた。
◯
「ゆーじせんせーっ」
「おー、ウララ」
勢いよく飛びついてきたウララを、勢いを殺しつつ受け止めてそのまま肩車の体勢に移行する。今はジャージ姿なのであまり気にせずに肩に乗せることが出来た。
「あのね、最近ね、怪我が減ってるってね、キングちゃんに褒められたの!」
「おぉ、それは良かったなぁ」
「うんっ! ……でもね、転んだ回数はあんまり変わってない気がするの。なんでだろー?」
「なんでだろうなぁ」
ウララが怪我している回数が減っているのは、きっとあまりに生傷が絶えないのを見かねた俺がこうやって顔を合わせる度に何だかんだ治してしまっているからなのだろう。
「いいか、ウララ。出来るだけ転ばないように気をつけるんだぞ? 本気で走ってる時に転んだら怪我じゃ済まないかもしれないんだからな」
「? うんっ! 分かってるよ〜」
分かってないなぁ、と少し呆れつつ、ダメ元で転んだ時の手のつき方を少し教えてみる。
ウララが転ぶときは大抵の場合何故か両手を前に伸ばしてしまっている状態から転ぶので毎回全く受け身を取れていないのも怪我が多い原因だと睨んでいるからだ。
「いいか? こうだぞ?」
「うんっ! えぇと〜。あいたっ」
その場でも何故か受け身を取れずに顔から行きそうになってしまったウララをとっさに捕まえて。あちゃあ、と二人して笑っていると、何処からか「ヒョエッ」という聞き馴染みのある断末魔が聞こえた気がした。
気がしたので、とりあえずそちらにウララを向かわせてみた。
「あっ! デジタルちゃん見つけた! なにしてるのー?」
「は、は、ハルウララさんっ!? ど、同志っ、何故!?」
尊死している時にウララに手を握られてしまい、逃げるに逃げられなくなってしまったアグネスデジタルがこちらに助けを求めるように視線を向けてくる。
当然、その視線からは目を反らした。あんなところで尊死している方が悪い。そもそも尊死ってなんだと言う話ではあるが。
なぜ尊い場面を見ると毎回本当に9割方死にかけて、その度に何事もなかったかのように復活するのか。
最初の方はハラハラしながら見ていたが、7回目辺りからそういうものだと割り切るようになった。まだまだこの世は不思議で溢れている。
「あのねあのねっ、昨日セイちゃんにこれ、教わったんだ! 見ててね〜。忍法、透明の術〜」
「ミ゜」
いかん、また逝きそうになっている。試しに抜けかけていた魂をひっつかんで叩き返してやると、爆速で目を覚ました。なるほど、こうすればいいのか。
「どうどう? 透明になってる?」
「見えていませんとも!!!」
「やったーっ、成功だーっ!」
当然、全然見えている。一つも透けていない。まぁでもデジタルだから思い込みで本当に見えていないかもしれないな、と腕を組んで悩み始めたところで、その腕がぐい、と引かれた。
見ると、ウララが両手でこちらの腕を引っ張っている。なにをしているのかとデジタルを見ても、分からないようで首を傾げていた。というかやっぱり見えてるんだな。
「あ、見えてないのかな。ゆーじせんせー、しゃがんでー?」
「いいけど、なんでだ?」
「ふっふっふ……。見えてない今だから、悪戯しちゃうもんね。今の私は悪ウララなんです」
そう言いながら、かがんだ俺の髪の毛を両手で弄りだしたウララ。それを見てまたデジタルは死んだ。
すまん、今はそちらの救助に向かえないんだ、そう心のなかで静かに合掌した。どうせ数分後には生き返るし。
◯
「私も、あなたと走るのは、楽しかった。だから、だから、その……。まだ、そう思ってくれているなら、だけど。
私も、あなたの1番のライバルに、なりたい」
「──ッ! はいっ、うれしいですっ! アヤベさん!」
話は着いたみたいだな、と安堵の息を吐いて、壁にもたれかかる。
トップロードさん、と呼ばれた少女は、こちらからは見えなくてもきっと満面の笑みを浮かべているんだろうな、とわかる程に弾んだ声でアドマイヤベガに沢山の言葉を投げかけて、アドマイヤベガは少し押され気味になりながらも一つ一つに律儀に返事を返している。
「よかったなぁ……」
人と関わるのはあまり得意では無い娘だ。慎重に言葉を選びながら、何度も詰まりながらも伝えたその気持ちは、きっと皆に届いていた。
「先生」
送り出したときよりも随分と顔色の良くなったアドマイヤベガがこちらの姿を認めて、ふ、と微笑んだ。無事肩の荷が下りたらしい。
「ありがとうございます。なにからなにまで」
「いやぁ、好きでやったことだ。そんなに気にせんでくれ」
そんなに深々と頭を下げられても居心地が悪い。俺は、俺がやりたいと思っていることをやっているだけなのだから。
「それに、ちゃんと踏み出したのはアドマイヤベガ自身だ」
正直、俺のやれたことなんてすれ違っている2人がちゃんと話せるようにしたことぐらい。その後のことはこの娘が勝手に助かっただけ。
この件について、俺がやれたことなど3割もないだろう。
「……先生。皆とおなじように、アヤベと呼んで、いいんですよ?」
「お、いいのか?」
「はい。……長い、でしょうから」
ゆらりと揺れたアヤベの尻尾がこちらの足に軽く触れる。前と違うのは、そのまますぐに離れるのではなく、ずっと触れたままであるということ。
「菊花賞、妹と一緒に見に来てください。
先頭で輝く一等星を、見せてあげますから」
アヤベさんがでるとどう足掻いても湿度が高くなる、この世の真理。
それはそうと小僧、お前はもう保健室に常駐しろ。