——私立漸欣高等学校。
神奈川県に位置するその高校は、古豪の野球部があることで知られている。
かつて一度だけ甲子園に出場した経験はあるが、それ以降は甲子園どころか決勝進出すらも遠ざかっていた。
そんな古豪に、一人の怪物が入学するところから物語は始まる。
「な、な……なんでアンタが居るのよ!」
「そりゃ愚問だな、入学したからに決まってるだろ」
「ちっがう! 何でここに入学したのかって意味よ!」
「おいおい、何があったんだ?」
二人の新入生と思わしき生徒が揉めている──片方が突っかかっているだけにも見えるが──と、一般人と比較すると遥かに体格の良い女性が近付いて来る。
「なんかこの人がお前はここに来るんじゃねぇって言うんですよ」
「言ってないわよ! 進学理由を聞いただけよ!」
「はぁ……ん、もしかして、仁科柚葵か?」
仁科柚葵。その名を口にされると、揉めていた少女の片方──透き通った白髪に水色のメッシュを入れている方が目線を向ける。
「そうですけど」
「おお、本物か! 噂では聞いていたが、まさか本当に来てくれるとは」
仁科への歓迎ムードに、もう片方の少女は面白くなさそうな顔をする。
「フン、何よ。仁科仁科って……私だって凄いんだから!」
「で、お前誰」
「はぁー!? アンタと! 中学時代! 戦った! 寺地李音よ!!」
寺地のクソデカ自己紹介を聞き、目を閉じて顎に手をやりながら考え込む仁科。
「知らんな」
「ガッデム!!」
やがて瞼を持ち上げた彼女の口から出たのは、無慈悲な四文字であった。これには寺地も思わず、汚めの言葉が出てしまう。
「いいわ、思い出させてあげる。キャプテン! こいつとバッテリーを組んで私と一打席勝負してください!」
「えっ、いきなり?」
捕手を務めるキャプテン──上甲朱音は、突然指名を受けたことに驚く。
初対面の後輩と組んで、これまた初対面の後輩と対戦しろと言われたのだから仕方のないことだろう。
「そうでもしないと私の怒りが収まりそうにないので……お願いします!」
「まあ私はいいが……仁科はいいのか?」
「別に。この後練習だし、肩慣らしに丁度いいし」
「誰との勝負が肩慣らしですって!?」
「お前」
「キーッ! ムカつく!」
売り言葉に買い言葉。一向に言い争いを終わらせる気配が無い二人に上甲は頭を抱えたくなる。
キャプテンの威厳で何とかこの場を鎮め、言い争いなく部室で着替えさせることに成功する。
「持ち球は何だ?」
「スライダー、カーブ、チェンジアップ。んで、決め球はチェンジアップ」
「ああ、分かった」
球種構成を聞き、サインを決め、バッテリーは距離を取る。
18.44m先に向かう途中、上甲は疑問を抱いていた。前情報では、多くの三振を奪う投手だと聞いていた。
チェンジアップというのは、速球との緩急差で空振りや打ち損じを狙う球種。だが読まれれば、簡単に打たれてしまう。
そして何より——スプリットやフォークなどの正統で空振りも奪いやすい高速系の落ち球ではなく、チェンジアップを選んだのか。
上甲にはその理由が分からなかった。だがこの勝負でその理由を体感することとなる。
「その生意気な鼻っ柱へし折ってあげるわ」
「やれるもんならやってみな」
平然としているその態度にムカつきながらも、寺地は深く息を吸って瞳を閉じる。
暫く経ち、息をゆっくりと吐きながら瞼を持ち上げる。
(オーラと立ち振る舞いが良い。中堅ガールズで四番を張っていただけのことはあるな)
何を知らない仁科と違い、上甲は新入生の情報をちゃんと集めていた。
曰く、強豪寄りの中堅ガールズに在籍していた捕手。
バットコントロールと長打力があり、ここぞの場面で決め切るスター性を持つ、理想の中軸。
故に、仁科はともかく、上甲は全くもって油断していなかった。
(決め球と言っていたが……噂のチェンジアップが見てみたい、いけるか?)
(まあ、投げてもいいっすよ)
──どうせ、捕れないだろうけど。
仁科は、セットポジションから左脚を上げる。流れるような美しい動作から、右腕を強く振り抜いた。
「…………はっ?」
ガシャン、と音を立てながらボールが着弾したのは、上甲の後方にあるフェンス。
仮にもキャプテンで正捕手である上甲が、全く反応出来なかったのだ。
「……相変わらず、気持ち悪い軌道ね」
上甲は、漸欣高校の中ではトップクラスの実力を持つと自負していた。
故に悔しがっているかと言われると、そうではない。
ピクリとも反応できなかったこと、こんな手元で急激にブレーキするチェンジアップが存在することに驚きを隠せないでいた。
「…………凄いな」
上甲が、ポツリと零す。
ここまで圧倒されたのは、彼女の野球人生において初めてのことだった。
腕の振りは、ストレートと全く同じ。
ストレートよりもかなり遅く、手元でブレーキが効き始め、変化する。その特異な変化球に手が追いつかなかった。
「……どうしましょう。決め球を捕れる捕手が居ないんじゃ、勝負にならないじゃない」
「別にチェンジアップ無くても抑えられるけど」
「私はアンタのチェンジアップを打ち崩したいのよ!」
口調に反して荒々しい動きでバットの先端を仁科に向ける寺地。
「ふーん」
それを興味無さそうに聞き流し、マウンドを右脚でならす。
その態度にもう一つ文句を言ってやろうかと思った時、仁科が口を開く。
「一球」
「えっ?」
「一打席じゃなくて、一球だけチェンジアップを投げる。お前はそれを打てばいい。簡単だろ」
「舐めてんの!?」
そんなのまるで、たった一球でケリを付けられると言っているようなものではないか。
しかし寺地は気付く。あの、憎たらしい笑みを浮かべちな仁科が全く笑っていないことに。
「……分かったわ」
コイツには、何か考えがある。すぐに思い浮かんだのは、捕手の上甲だ。
仁科のチェンジアップを捕れないからこその、一球だけの勝負。前に飛ばすか、空振るか。そのシンプルな二択なら捕球の必要は無い。
それはそれで、先輩を下に見ているのが伝わってきてムカつくのだが。
さておき、両者は再び臨戦態勢を取る。仁科は足場をならし、寺地は静かに構え直す。
(チェンジアップ……今度こそ打ってやるわ!)
セットポジションで始まり、上から投げ下ろす特有のフォームから、一球が投じられた。
(来た! ここから落ちて──)
次に寺地の耳に聴こえてきたのは、ミットの縁にボールが弾かれる音だった。
「空振り、だな」
「っ……!」
また、打てなかった。
中学最後の大会で見た、怪物の決め球。
これにチームがコテンパンにされてから、これを打つことだけを考えて練習を重ねてきた。
何度も映像を見て、イメージトレーニングもしてきた。
しかし、本物のキレは中学時代のそれを上回っており──呆気なく三振。
「て、寺地……そんな落ち込む──」
「ふ、ふふ……」
「……寺地?」
肩を震わせて小さな声を発する寺地を心配して、上甲が駆け寄る。
もしかしたら三振のショックで泣いているのかもしれない、そう思い顔を覗き込もうとすると、顔を上げる。
「それでこそ仁科柚葵よ! やっぱり、壁は高く分厚い方が燃えるわね!」
「…………」
まさかの楽しそうな笑顔に、上甲のみならず仁科まで意外そうな顔になる。
特に仁科は、連続で打ち取られたことで立ち直れなくなると予想していたので、この反応は想定外だった。
「……まあ、悪くなかったんじゃねーの。反応は出来てたし」
「ふん、慰めなんて要らないわよ! 待ってなさい、いつか貴女を完膚なきまでに叩き潰してみせるわ!」
凡そ味方に向けての発言ではないのだが、仁科はその言葉を聞いて口角を上げる。
「上等。一生打たせないから、泣きわめく準備をしとけよ」
「アンタこそ打たれた時用のリアクションを用意しときなさい!」
互いを挑発する言葉の応酬。本当にこの二人が味方でやっていけるのかと上甲は不安を抱きかけたが、何だかんだ二人の笑顔——仁科は若干悪役のような笑顔だが——を見て、頼もしい一年生が入ってきたと喜ぶのであった。