鋼鉄の胸に咲く温もり 作:匿名希望
ガラス張りの待機ドックは、過剰なほど静寂に満ちていた。
外の世界の喧騒や、鉄と火薬の匂いは厚い防音壁と空調換気システムによって完全に遮断され、そこにあるのは冷徹な人工光と、絶え間なく微弱な駆動音を奏でるマシンたちの呼吸音だけだった。
戦地での過酷な演習を終えた〈レーエン〉は、無機質な金属で作られた簡易のメンテナンスベッドに、しなやかな両足を揃えて腰掛けていた。
純白のシームレス装甲の表面に付着した微細な煤や微塵の粒子を、天井から噴き出す自動清掃スプレーの白い霧がシューッと規則正しい音を立てて洗い流していく。
付着物は瞬時に分解され、ドック床面の排水溝へと消えていった。
「レーエン、日常動作テストに移行する。身の回りの物品の識別と、簡単な動作を行ってくれ」
ガラス越しのスピーカーから、主任研究員の倦怠を帯びた声が響く。
それは戦闘という非日常から、管理された日常のシミュレーションへとフェーズを切り替えるための、ただの定型プロトコルだった。
「了解いたしました。日常動作テスト、開始します」
鈴を転がすような少女のソプラノボイスがドックの空気を震わせた。
声帯モジュールは一切の摩耗や擦れもなく、人間では到達し得ない完璧な音程とクリアな響きを維持している。
指示に従い、〈レーエン〉は目の前に設置されたスチール製のテーブルへと視線を向けた。
そこには、ごくありふれた生活雑貨が3点、整然と並べられている。
一つは透明なプラスチック製のコップ。
一つは無地の紙で作られたメモ帳。
そして――その中央に置かれた、少し色あせた、緑色の小さな生地の切れ端だった。
それは、かつて病室のベッドで「蓮」という名の10歳の少年が好んで着ていた、あの古びた緑のパーカーから切り取られた、唯一の物理的な残骸だった。
(オブジェクト識別スキャン開始)
『オブジェクト1:合成樹脂製容器。液体の保持に使用。強度・耐熱性共に標準的』
『オブジェクト2:紙製記録媒体。情報書き込み用。耐久性低』
『オブジェクト3:……未知の繊維組織。解析中……』
青い光学カメラセンサーの絞りが細かくピントを合わせ、その緑色の布きれをミリ単位の精度で拡大投影していく。
『検索:緑色の綿織物』
・素材:劣化した天然コットン繊維
・物理強度:極めて低い(引張・剪断共に規定値以下)
・機能性:防護性能なし、断熱性能低、防水性能なし
・総合評価:現戦術フレームの稼働において、保持価値および保存価値はゼロ
システムは冷徹なまでの判断を下し、不要なデブリとして瞬時に分類・アーカイブの最奥へ追いやろうとした。
しかし、その緑色の繊維へ向けて華奢で滑らかな機械の指先を伸ばそうとした瞬間、少女の内部で突発的なエラーが生じた。
『警告:サブプロセッサ内で想定外の微弱電流(ノイズ)を検出。』
『エラーコード:0x88F-MEMORY-ANOMALY。論理演算回路の許容閾値外の干渉波。』
「……あ」
人工音声合成ユニットの制御をすり抜け、か細く、生体的な響きを帯びた声が、あまりにも静かなドックの空間にぽつりと漏れた。
白く美しい指先が、テーブルの上でピタリと停止する。
緑の布地からわずか数ミリの距離。触れれば、それがただの埃まみれの粗末な布切れであることを触覚センサーが証明するはずのその位置で、ミリ秒単位で完璧に制御されているはずのアクチュエータが、微かに、本当にわずかに震えた。
冷たく澄んだ青い光学レンズの奥で、常時展開されていた戦闘用レティクルが数フレームにわたって乱れ、古いテレビのノイズのように一瞬だけ歪んだ。
それは機能停止寸前のエラーではなく、完全に消去されたはずの「過去」という名の亡霊が、数式の隙間からこじあけて侵入してきた、最初にして最後の不可解な揺らぎだった。