鋼鉄の胸に咲く温もり 作:匿名希望
『エラーログ:旧記憶領域/クラスタ#0804から参照シグナル検出。無効なポインタ参照』
視界の右上、常に明滅して戦術データを冷静に供給し続けていたプロジェクションのレイヤーが、突然激しいデジタルノイズに蝕まれた。
まるで古いブラウン管テレビに磁気を近づけたように、画面が乱れ、強制的に一つのビジュアルファイルが展開される。
それは、完全にデフラグされ、永遠にアクセスできないバックアップの底に封印されていたはずの、かつての生体としての記憶だった。
――「蓮、その服お気に入りだもんね。大きくなったら新しいの買おうね」
――「うん……! 僕、このパーカーを着て、外を思いっきり走れるようになりたいな」
白く淀んだ病室の天井。
消毒液と微かな花の香りが混ざり合う独特の空気。
窓の外を通り過ぎる風に揺れる街路樹の葉音。
そして、自分を優しく包み込んでいた、あたたかくて少し冷えた母親の手の感触。
それと同時に、頭をハンマーで殴られたかのような、あるいは全身の神経を逆なでされるような、凄まじい「悔恨」と「痛み」の記憶が生々しくフラッシュバックする。
自分の脚で地面を踏みしめ、風を切って走ることすらできなかった、あの途方もない絶望と無力感。
(……走る?)
〈レーエン〉は、まるで動作テストを忘れたかのように、自らの両手を見つめた。
そこにあるのは、人類のテクノロジーの粋を集めた、傷ひとつない白とダークグレーのシリンダー関節。
光沢を放つシームレス装甲の表面には、室内の白い光が冷たく反射しているだけだ。
今の彼女なら、時速百キロを超える速度で無限に走り続けることができる。
どんなに過酷な悪路であってもバランスを崩すことはなく、疲労という概念すら存在しない。
病気も、発作も、激痛も、すべては過去のログとして綺麗に消し去られた。
それなのに、なぜ。
(なら……どうして、この胸の奥が……重い……?)
胸部の流線型ホワイト装甲の奥深く、高密度エネルギーを循環させている主電源コアデバイスが、突如として不規則な変異音を響かせた。
トックン、トックン――。
それは、設計仕様には一切存在しないはずの、かつてそこにあった人間の心臓の鼓動を、必死に、痛々しいまでに模倣しようとする電子と磁気の脈動だった。
「レーエン? 内部診断に異常か? 応答しなさい」
防音ガラスの向こう、マイク越しに聞こえる主任研究員の声音には、わずかな動揺と警戒の色が混じり始めていた。
完璧であるはずの兵器に生じた、わずかな「遅延」を見逃さなかったのだ。
「……問題……ありません」
応答のタイミングが、通常より0.4秒遅れていた。
その遅れは、彼女の内部で何かが決定的に「破綻」しかけている証拠だった。
少女型ロボットは、白く滑らかな機械の指先で、テーブルの上に置かれた緑色の小さな生地の切れ端を、そっと、まるで壊れ物に触れるかのように慎重につまみ上げた。
感触センサーが、その粗いコットンの質感、経年劣化によるほつれ、そしてすでに失われたはずの「人間の体温」のような錯覚を、忠実に、残酷なまでの解像度で数値化して脳内へ伝えてくる。
(これは……不要なデータ。すぐに削除すべきデブリ。……フォーマットが必要だ……)
彼女の論理演算ユニットは、そう冷徹に告げ続けている。
今すぐこの緑の布を破棄し、記憶領域の該当クラスタを完全消去すれば、再び完璧な「冷徹な戦術機兵」に戻ることができるはずだ。
しかし、実行キーを叩くための思考プログラムの指が、どうしても動かない。
システムがどれほど「効率」を求めて最適解を叫ぼうとも、論理回路の最深部――幾重ものファイアウォールの裏側に置き去りにされた、『蓮』という名の十歳の少年の心が、必死にその最後の記憶を両手で抱きしめ、手放すまいと震えていた。
冷たい金属のボディのなかで、静かに、しかし確実に、人間だった頃の「涙」に似た熱いエラーが、シリンダーの隙間を伝って零れ落ちようとしていた。