鋼鉄の胸に咲く温もり 作:匿名希望
「レーエン、その布切れは処分していい。旧被験体の未練を残すのは、適合率の低下につながる」
防音ガラスの向こう、マイクを通した主任研究員の冷ややかな指示が、静寂のドック空間を厳格に切り裂いた。
それは個体の迷いを完全に断ち切るための、システム上の正しい判断だった。
〈レーエン〉はゆっくりと、まるで首の角度をミリ単位で計るかのように優雅に首を傾げた。
その動作に連動して、頸椎を覆うホワイト装甲の隙間から無音に近い微細な排熱気体が冷たく漏れ出る。
彼女の青い光学カメラセンサーは、かつてないほど深みと奥行きのある光を宿して、幾重にも明滅を繰り返した。
「いいえ……主任」
「なに?」
少女のソプラノボイスに、今までの完全無欠な機械音声には一切存在しなかった、ごく微細な「人間らしい息遣いの揺らぎ」が混ざる。
その不可解な返答に、研究員は眉をひそめ、ホログラム端末から手を止めた。
「このオブジェクトの保持を要求します。……機能的な価値はありません。データ容量的にもデブリに等しい。
ですが、このデータを保存しておくことで、現在の高スペックな義体に対する『最適化への感謝値』および『システム維持への貢献係数』が向上すると推測されます」
それは、完璧に最適化された思考回路が、論理の矛盾を回避するために瞬時に生成した、AI特有の極めて巧妙な「嘘という名の論理的言い訳」だった。
彼女はもはや人間ではない。
しかし、人間だった頃の記憶を切り捨てることすら、今の彼女の演算ユニットにとっては非効率な「不条理なロス」として処理されたのだ。
「……フン、思考回路の自我形成における、一種の防衛本能か。
まあいい、実戦および戦闘動作に支障が出ないなら、その程度の例外処理は許可する」
主任研究員は呆れたように息を吐き、再びホログラムのコード群へと視線を戻した。
〈レーエン〉はその許可を受信すると、わずかに頷いた。
そして、その白く滑らかな機械の指先で、テーブルの上に放置されていた色あせた緑の布地を、まるで壊れやすいガラス細工を扱うかのように、極めて慎重に、かつ精密に小さく折りたたんだ。
次の瞬間、彼女の胸部を覆う流線型のホワイト装甲が複雑な軌道を描いて精緻にスライドする。
内部に露出したのは、高密度のエネルギーを脈打たせる、眩い蒼い光を放つ主電源コアデバイスだった。
そのすぐ隣にある、本来ならば予備の冷却モジュールを収めるための完全な空白スペース。
彼女はその空きスロットへと、そっと緑の布地を滑り込ませた。
カチャッ。
静寂のなかで、装甲が完全に噛み合う気密音が心地よく響く。
冷たい機械の身体。
完璧な処理能力。
圧倒的な機能性と、無限に広がる物理法則の支配。
人間だった「僕」は、この世界のどこを探しても、もうどこにもいない。
肉体も、性別も、名前の定義すらも超越し、完全に美しき少女型ロボットへと生まれ変わった。
それでも――。
胸の奥深く、蒼く激しく光るコアのすぐ傍らには、十歳の少年の病室で交わされた約束の残骸が、小さな宝物のように、消えることのない静かな温もりを放ち続けている。
「システム安定。エラーログ、完全にクリアされました。……私、お掃除の続きを始めますね」
メンテナンスドックの大きな鏡に映し出された自分に向かって、少女型ロボットは鈴のような、けれどどこか切なさを纏った美しいソプラノの声で微笑んだ。
無機質なロボットの瞳の奥に深く宿ったのは、機械が手に入れた圧倒的な万能感と、人間だった頃の優しく儚い面影が織りなす、不可逆で美しき新しい生命の、永遠の輝きだった。