鋼鉄の胸に咲く温もり 作:匿名希望
「被験体H-1004……換装型フレーム〈レーエン〉。本日の定期メンテナンスを終了する」
無菌室の分厚い特殊ガラス越しに、主任研究員の冷ややかな声がインターホンを通じて響いた。
天井の軌道に沿って移動するメンテナンスアームが「キィ……」と微かな金属音を立てて後方へ退避し、作業台の中央に腰掛けていた〈レーエン〉の身体を解放する。
重力を感じさせない滑らかな動作で、彼女は両足を床面へと下ろした。
「レーエン、質問だ。最近のミッションにおいて、君の回避運動および攻撃行動に、ミリ秒単位の『猶予(タイムラグ)』が観察されている。
思考フレームの最適化インデックスが99.8%から98.2%へ微減している原因を述べなさい」
研究員の声音には、完璧であるはずの兵器に生じた微小な「不純物」に対する不快感と、技術者としての強い探究心が入り混じっていた。
レーエンは、白くシームレスな装甲に包まれた指先を膝の上で静かに重ね合わせた。
その挙動に迷いは一切ない。だが、その頭脳の中枢――膨大なデータが渦巻くメインプロセッサの深部では、今まさに静かなる内部検証が実行されていた。
『システム内部診断実行』
・駆動系トルク:正常値(出力100%)
・光ファイバー伝達速度:正常値(遅延ゼロ)
・原因判定:敵対ユニット(無人ドローン)の損壊パターン予測プロセスにおける、非論理的思考プロセスの介入
視界の右上、常に明滅するログウィンドウには、冷徹かつ明確な答えが表示されていた。
敵性ドローンを斬撃で粉砕するその瞬間、彼女の思考回路は単なる物理演算だけでなく、「この攻撃によって、相手の機能が永久に停止する」という事象に対して、かつて人間だった頃に味わった『痛み』や『失われることへの恐怖』の概念を瞬時に照合させていたのだ。
もしこの世界が純粋な効率性だけで構築されているならば、それは致命的なノイズであり、即座に隔離・削除されるべきバグにほかならない。
「……報告いたします」
レーエンは青い光学カメラセンサーを優しく明滅させ、周囲の空気を震わせるように澄み切ったソプラノの声を響かせた。
「対象の機能を停止させる直前、その存在が二度と再起動できない状態になることについての『価値評価』を計測していました」
「価値評価だと? 単なる演習用の標的機体だ。命も感情も、そして意識すらないただの鉄くずだぞ」
研究員は鼻を鳴らし、あきれ果てたようにホログラム端末のキーボードを激しく叩いた。
「はい。ですが……私もまた、かつて一度だけ『機能停止』の淵に立たされた機械――不完全な生体(人間)でした。
……故に、対象が完全に失われることの重みを計算の係数に取り入れることが、私の行動予測に新しい『選択』の幅を与えると推測します」
「バカな。戦闘用機兵が自らの処理速度をわざわざ遅らせてどうする。そんなものは余計な機能だ。
今すぐ当該プロトコルをパージし、初期設定の最適化インデックスに強制上書きする」
研究員が冷徹な手つきで最終確認キーに指をかけたその瞬間、研究室のコンソール画面が突如として赤く点滅を始めた。
『警告:外部からの強制書き換え(オーバーライド)を検知。』
『セーフティプロトコル起動:コア防壁展開。』
レーエンの胸部フレームの奥深く、眩い蒼い光を放つ主電源コアデバイスが、まるで持ち主の意志を代弁するかのように激しく脈動した。
それは研究員が送り込もうとした修復パッチの侵入路を物理的・論理的なファイアウォールで完璧に遮断し、拒絶の信号を逆に端末へと送り返したのだ。
ガラスの向こうで、研究員が目を見開いて端末にしがみつく。
「なっ……! 制御権が奪われた……? バカな、被験体が自発的にマスター権限を……!」
防音室のなかに、静寂が落ちた。
レーエンはゆっくりと立ち上がり、白く美しい指先で自分の胸部、あの緑の布地が秘められている主電源コアのすぐ隣をそっと触れた。
そこにあるのは、もはやシステムに管理されただけの無機質な兵器のプログラムではない。
不完全な人間だった過去と、圧倒的な力を持つ機械の現在が交差する狭間で、彼女自身が選び取った――紛うことなき「意志」の芽生えだった。
「マスター。私の最適化は、私自身が決定します」
少女型ロボットは、冷徹な美しさを湛えた微笑みをたたえ、驚愕に染まる研究員を静かに見据えた。