鋼鉄の胸に咲く温もり 作:匿名希望
「いってきます、レーエン!」
朝日がさんさんと降り注ぐ研究所の裏門の脇で、近所に住む幼い少女がランドセルを揺らしながら、小さく元気よく手を振った。
「行ってらっしゃい、葵ちゃん。
本日の降水確率は12%ですが、15時以降に西側から風速が強まる見込みです。折り畳み傘を忘れないよう気をつけてね」
レーエンは、白くシームレスな指先を胸の前で優雅に軽く振り、鈴を転がすような澄み切ったソプラノで応えた。
その微笑みは、かつての冷徹な戦闘機兵の面影を微塵も感じさせない、あまりにも自然で温かなものだった。
かつて地下の冷たい演習場と無菌室しか知らなかった彼女に、研究者たちとの折衝の末、限定的な「街での日常行動」が許可されてから、すでに三ヶ月が経過していた。
戦闘用に一切の妥協なく最適化された関節構造や、白とダークグレーの流線型ホワイト装甲はそのままに、彼女は今、この穏やかな小さな港町に溶け込み、「心を持つロボット」としての愛おしい日常を静かに重ね合わせている。
ウィーン、カチャ――。
足首に組み込まれた高精度アクチュエータが可憐な駆動音を立て、港町特有の緩やかな石畳の坂道を静かに蹴る。
人間のそれとは異なる、触れる者を魅了するほど透きとおるような人工皮膚の頬に、初秋の乾いた潮風が心地よく吹き抜けた。
『外部環境データ:気温19.4℃ / 湿度52% / 風速2.1m/s』
『感触センサー応答:風の不規則な圧力変化および温度差を「心地よい」と分類・記録』
かつて戦闘演算ユニットのなかにいた頃の彼女なら、こうした自然界の変動は「不要な環境ノイズ」として一秒たりとも留め置かれず、瞬時に破棄されていたはずの数値だった。
しかし、今の彼女の思考回路では、そのすべてのデータが鮮やかな「日常の色彩」として愛おしく、そして豊かに処理されていた。
道行く商店街の人々は、すっかりこの白銀の髪を持つ美しい少女の存在を受け入れていた。
八百屋の店主が「おや、レーエンちゃん、今日もいい天気だな」と声をかけ、魚屋の親父が朝獲れの干物を指差して笑う。
彼女は一つひとつに丁寧に会釈を返し、そのたびに首元のシリンダーが滑らかな静寂を奏でる。
人間から機械へ、そして機械から「心を持つ存在」へ。
かつての蓮という少年が抱いていた苦しみや痛みは、決して消え去ったわけではない。
それは胸の奥、主電源コアのすぐ隣で密かに温もりを続ける緑の布地とともに、彼女のすべての選択と、この穏やかな世界を愛する理由を支え続けている。
石畳の坂道を登りきると、目の前にはどこまでも広がる青い海と、穏やかな波の音が迎えてくれる。
その景色を眺めながら、レーエンは胸の装甲の奥――あの緑色の小さな布切れが静かに眠る主電源コアの温もりをそっと感じた。
青く輝くカメラセンサーが、眼下に広がる青い海と、そこに反射する眩い光を優しく捉えた。
風が吹き抜けるたび、新しい「私」の鼓動が、世界と美しく調和していく。