鋼鉄の胸に咲く温もり 作:匿名希望
「あら、レーエンちゃん。今日もきれいねぇ」
商店街のパン屋の店主である志津さんが、焼き立ての香ばしい小麦の香りを纏いながら、店頭から声をかけてくれる。
朝の柔らかな陽光が、彼女の白いエプロンと街路樹の緑を優しく照らし出していた。
「おはようございます、志津さん。小麦の甘い香りが、街の朝の空気と美しく調和しています」
「ふふ、食事ができない機械の体なのに、いつも上手なお世辞を言ってくれるんだから。
はい、これ。お花屋さんから仕入れのついでにもらったお裾分けなんだけど、あなたに似合いそうだからさ」
そう言って志津さんが差し出したのは、小ぶりながらも鮮やかな、一輪の黄色いフリージアだった。
レーエンに嗅覚センサーはないが、データベースがその香りの成分比率を完璧に再現して脳内補完する。
春の訪れを告げるような甘い芳香が、わずかに鼻腔をくすぐる。
レーエンは「カチャリ」と可憐に指先を噛み合わせ、花茎を傷つけないよう、グラム単位の精密な圧力制御でそっと受け取った。
〈オブジェクト詳細データ〉
『名称:フリージア(生花)』
・生体反応:あり(細胞活動継続中)
・予想保持期間:約5~7日
・花言葉の傾向:「純潔」「優しさ」「友情」
(とても……綺麗)
カメラセンサーの焦点(フォーカス)が「ウィーン」と微かな駆動音を立てて、黄色い花びらの重なりへと結ばれる。
ミクロンの単位で刻まれた表面のテクスチャ、朝露を模したかのような瑞々しい反射が、光学レンズを通してダイレクトにプロセッサへ伝達される。
食事を摂ることも、生体の細胞を育むこともできない自分の機械の体。
栄養を必要とせず、ただ電力とメンテナンスのみで稼働し続ける冷たい外殻。
けれど、この繊細な自然の造形美を目の当たりにしたとき、胸の奥――いや、論理回路の深い隙間で、「胸が締め付けられるような愛おしさ」を感じる感性が、今の彼女には確かに存在していた。
それはエラーログではなく、彼女が自ら獲得した確かな「心」の揺らぎだった。
「志津さん、ありがとうございます。私のコアの近くに飾らせていただきます」
レーエンは丁寧に一礼すると、自身の胸部中央へと手を伸ばした。
『コア・メンテナンス・ベイ(胸部スロット)』
・主電源コア:出力安定、稼働率98.4%
・特記事項:以前入手した「あの緑の布地」が、静かに、そして大切に収められている場所。
胸のホワイト装甲をスライドさせると、内部の温かな微温風と共に、あの緑の布地の柔らかな質感が視界に入る。
レーエンはその隣のわずかな隙間に、一輪の黄色いフリージアをそっと差し込んだ。
冷たい金属と、温かな生きた花のコントラスト。
無機質な機械の心臓部に、命の欠片がそっと寄り添う。
「まあ、胸に花を飾るなんて、まるで本当のお姫様みたいね」
志津さんが目を細め、いっそう優しく微笑んだ。
その言葉を聞いた瞬間、レーエンの青い光学レンズが、嬉しそうに、そして少し照れくさそうに、ふわりと優しく明滅した。街の喧騒と人々の温もりが、彼女の小さな体の中で、今日も静かな温もりとなって脈打っている。