鋼鉄の胸に咲く温もり 作:匿名希望
「緊急事態です、主任」
研究所のコンソール室に、レーエンの鈴を転がすようなソプラノが響いた。
モニターを見ていた主任研究員は、コーヒーを吹きかけそうになる。
画面に映るレーエンの胸部センサーのログに、『未知のプロトコルによる演算遅延』を示す黄色いアラートが点滅していたからだ。
「どうした、レーエン! 敵襲か? 精神汚染か!?」
「いえ……近所の幼稚園児、タケシくん(5歳)から、これを受領しました」
レーエンが白く滑らかな機械の手のひらを差し出す。
そこにあったのは、少々不格好に折られた、ピンク色の折り紙のハート。
そして、手書きで「れーえんちゃん、だいちゅきです。おおきくなったら、けっこんしてください」と歪に書かれた紙切れだった。
コンソール室に、凍りついたような沈黙が流れる。
「……これは、何らかの暗号化された敵性データか?」
「タケシくんの心拍数は135、顔面部の血流量が通常の1.4倍に達していました。彼はこれを私に押し付けると、時速およそ18キロで逃走しました。
これは……どのようなミッションにあたるのでしょうか」
「蓮」だった頃は、10歳までずっと無菌室と病室を行き来し、恋愛どころか「友達と校庭を走る」ことすら未知だった。
そして、その蓮を観察し続けてきた研究員たちも、人生の9割を国家予算の獲得と義体工学の論文執筆に捧げてきた「恋愛経験値ゼロ」の頭脳集団である。
「お、おい……これはいわゆる……『告白』というやつではないのか?」
「コハク……? 鉱物データですか?」
「違う、恋愛感情の開示プロセスだ!
……だが待て、レーエンは現在、戸籍上は『稼働中の特約義体』であり、年齢換算では10歳(旧被験体)だが、外見は少女型、そして相手は5歳……。
この場合の社会的・倫理的プロトコルはどうなっている!?」
「だ、誰もそんな論文書いてません!
倫理委員会のデータベースにも『5歳児からの求婚に対するロボットの適正応答』なんて項目はありません!」
研究所の最高頭脳たちが、一斉にパニックに陥った。
「とにかく、適当にあしらってはレーエンの『地域適合率(好感度)』が下がる。誠実かつ論理的に断るんだ」
主任が頭を抱えながら、通信越しに指示を送る。
「了解しました。タケシくんの精神的ダメージを最小限に抑えつつ、現状のシステム仕様を説明します」
翌日の夕方。いつもの公園で、顔を真っ赤にしたタケシくんが、モジモジしながらレーエンの前に立っていた。
研究所のコンソール室では、5人の研究員がモニターに齧りつき、レーエンの視界にリアルタイムで「返答のカンペ」を送信していた。
「あの、れーえんちゃん……昨日の、おてがみ……」
「はい、タケシくん。お手紙、確かに受領し、内部ストレージに永久保存いたしました」
(よし、まずは丁寧な受領確認だ。次、本題に入れ!)と主任がインカムで指示を飛ばす。
「タケシくんの温かい感情データ(好意)には、深く感謝いたします。しかし、私とタケシくんの『結婚(共同生活契約)』には、以下の3つのシステム的障壁が存在します」
「……しすてむ?」
タケシくんが首を傾げる。
「第一に、私は食事を必要とせず、24時間ごとに120wの電力供給でのみ駆動します。
タケシくんのご家庭の電気代に、予期せぬ負荷をかける可能性があります。
第二に、私の外装は高分子セラミックと超硬質合金で構成されており、平均重量は142キログラムです。
タケシくんが私を『おんぶ』しようとした場合、大腿骨および腰椎に深刻な破断が生じる恐れがあります」
「お、おんぶ……?」
(おいレーエン! 具体的な物理シミュレーションで脅かすな! 5歳児が泣くぞ!)と若手研究員が慌ててカンペを書き換える。
「……そして、第三に」
レーエンはふと、カンペの文字を目で追うのをやめた。
青い光学レンズがカチリと優しいフォーカスを結び、目の前の小さな男の子をじっと見つめる。
(タケシくんは、どうしてあんなに一生懸命、私に紙をくれたんだろう?)
胸の奥のスロット。
あの「緑の布地」と「黄色いフリージア」の隣で、コアがトクンと暖かく脈打つ。
「蓮」だった頃の記憶の片隅。
誰かを「いいな」と思ったり、「ずっと一緒にいたい」と願ったりする、あのあたたかくて、少しだけ切ない人間の気持ち。
レーエンはゆっくりと屈み込み、タケシくんの目線に高さを合わせた。
関節の駆動音が、夕暮れの公園に優しく響く。
「タケシくん。私は、人間ではありません。
いつかタケシくんが大人になっても、私はこの『少女のロボット』のままです。タケシくんと一緒に、年をとることはできません」
「おとなに、なれないの……?」
「はい。私は、この街の皆さんと、タケシくんの『今』を守るために動く機械です。だから……」
レーエンは、タケシくんの小さな、少し泥のついた手を、白く滑らかな機械の指先でそっと包み込んだ。
触覚センサーが、5歳児の驚くほど高い体温と、一生懸命な鼓動をリアルタイムで検知する。
「結婚はできませんが、私はタケシくんのことが、とても大切です。
タケシくんが大きくなって、もっと素敵な誰かに出会うその日まで……私はずっと、この公園で、あなたのことを見守っています。
だから、これからも、お友達でいてくれますか?」
人形のように美しい人工の顔に、フワリと、人間以上に優しい「微笑み」が浮かんだ。
タケシくんは少しだけ寂しそうに、でも、目の前のロボットの「お姉さん」の綺麗すぎる青い瞳に見惚れたまま、コクンと頷いた。
「……うん。じゃあ、ぼくがおおきくなったら、れーえんちゃんを守るひとになる!」
「はい。そのデータの更新を、楽しみに待機しています」
「ふぅ……」
研究所に、全員の大きな安堵の溜息が響き渡った。
「見事な対応だったぞ、レーエン。AIの自然言語処理と情動シミュレーションの極致だ」
主任が少し誇らしげに言う。
「ありがとうございます、主任。タケシくんのバイタルも安定し、ミッションは平和的に完了しました」
「……で、レーエン。君の内部の『恋心』に関する解析データはどうなんだ? 何か新しい発見はあったか?」
研究員が興味津々で尋ねる。
レーエンは胸の装甲を少しだけ開き、中の折り紙のハートを見つめた。
「『恋』というプログラムは、非常に非論理的で、メモリを無駄に消費するノイズのようです」
「やはりそうか」
「ですが……」
少女型ロボットは、夕日に照らされる自分の手のひらを見つめ、鈴のように笑った。
「この無駄なノイズがあるからこそ、私の世界は、こんなにもあたたかいデータで満たされているのだと思います。
この『エラー』は、削除せずに、私の大切な思い出フォルダに格納しておきますね」
恋愛経験値ゼロの研究所に、新しく、とても小さくて優しい「心」のデータが、またひとつ新調されたのだった。