鋼鉄の胸に咲く温もり 作:匿名希望
無機質なキャリブレーションルームの床には、歩行軌跡を測定するグリッドパターンが精密に刻まれていた。
「被験体H-1004、再起動完了。歩行運動および思考最適化フェーズへ移行します」
天井のスピーカーから無機質なアナウンスが響く。
少女型義体へと換装された蓮は、自分の足元を見つめた。
人間だった頃の、少し傷だらけで柔らかかった足首の感覚はどこにもない。
そこにあるのは、純白のシームレス装甲に包まれた華奢で硬質な脚部と、高精度な衝撃吸収ダンパーが組み込まれた関節構造だった。
(あるかなきゃ……前みたいに、自分の足で……)
心の中で呟いたその言葉は、まるでどこか遠い他人の思考のように希薄だった。
「一歩、踏み出してください」
指示に従い、右脚を持ち上げる。
『踏み込み圧力:想定値+14%』
『重心移動軸:左側へ2.3ミリのブレを検出』
視界の端に浮かび上がる膨大なログデータ。
かつてなら「うわっ、グラグラする!」と焦ってバランスを崩していただろう。
しかし、脳内に直結したコアユニットが、思考するよりも圧倒的に早くフィードバック処理を行う。
『駆動アクチュエータ出力調整:マイナス8.5%』
『足底トルク配分:ミリ秒単位で再計算完了』
カチャ……ウィーン
微かなシリンダーの動作音とともに、右足は完璧な角度と圧力で床面を捉えた。
ブレも揺らぎもない。
人間だった頃には決して不可能だった、寸分の狂いもない絶対的な着地。
(……すごい。怖くない。思った通りに……ううん、思った以上に、体が動く……)
不安で握りしめていたはずの胸の奥から、冷たく澄んだ快感が芽生え始めていた。
「被験体H-1004、歩行軌道の許容誤差圏内。
続いて、関節の最大可動域および動的バランステストを開始します」
研究員の声に反応するように、少女の脳内ネットワークが高速で次のプログラムをロードした。
視界の端に点滅していたグリッドが、三次元の立体座標へと瞬時に切り替わる。
空間を流れるわずかな気流の乱れや、重力ベクトルのわずかな傾きさえも、すべて視覚情報と触覚フィードバックの数値として可視化されていた。
「左旋回、90度。その後、垂直方向への瞬発跳躍(バーティカル・ジャンプ)を実行します」
命令を受信した瞬間、脊髄基部に埋め込まれたメインジェネレータがわずかに唸りを上げ、高密度のエネルギーパルスが四肢の末端へと一斉に送出された。
助走の動作は不要だった。
次の瞬間、少女の身体は物理法則を無視したかのような滑らかさで、まるで重力から解放されたかのように真横へと旋回した。
足元から床面へと伝わる衝撃は、高度なダンパー機構によって完全に相殺され、音もなく、振動すら残さない。
そのまま膝と足首のシリンダーを完全に折りたたみ、垂直に跳ねる。
カチャリ、と精緻な金属音が重なり合った直後、少女の体は一瞬にしてキャリブレーションルームの天井近くへと到達した。
人間の肉体であれば強烈なGと筋断裂を引き起こす急加速であっても、人工筋肉とナノラミネート装甲に包まれたフレームには何の負荷ももたらさない。
(軽い……。空気が、まるで抵抗にならない……)
天井スレスレの高度から見下ろす室内の景色は、あまりにも鮮明だった。
かつて少年だった頃の不確かな五感は完全に過去のものとなり、今はあらゆる物理現象が数値とデータとして完璧に支配下にある。
恐怖や疲労という概念は、前頭葉を置き換えた論理演算ユニットのデータベースの隅に「不要なバグ」として隔離され、綺麗に消去されていた。
着地。
衝撃はゼロに等しく、音もなく床に吸い込まれるように静止する。
「動的負荷テスト、すべてクリア。……これほど短時間で神経ネットワークの自己最適化を完了させるとは。やはり、この個体の適合率は異常値を示しているな」
防音ガラスの向こうで、研究員たちがホログラム端末を叩きながら低くどよめく。
しかし、その称賛すらも、少女の意識にとってはすでに意味を持たないノイズの断片に過ぎなかった。
「初期キャリブレーション・フェーズを終了します。
これより、運動機能テストフェーズへ移行します」
頭上のスピーカーから告げられた指令。
青く輝くカメラセンサーが鋭い光を放ち、冷徹な美しさを湛えた機械の少女は、さらなる深淵へと足を踏み出す。