鋼鉄の胸に咲く温もり 作:匿名希望
リハビリ訓練は、徐々に複雑な動作へと移行していく。
平均台の上での平衡感覚テスト、突発的な障害物の回避動作、そして高精度なマニピュレーターを用いた精密作業。
タスクをこなすたびに、頭部インターフェースから「ピピ……」と微小なシグナル音が鳴り響く。
それは、過剰な感情エネルギーや曖昧な不確定要素を削ぎ落とし、純粋な「効率」へと思考回路を書き換えていく音だった。
「蓮、調子はどうだ?」
ガラス越しに、研究員の声が届く。
「蓮」という名を聞いた瞬間、脳の旧記憶領域(人間時代のデータフォルダ)が淡く参照された。
『検索:蓮(10歳・男子)』
・病弱だった記憶:無駄な生理的ストレス要因(削除を推奨)
・緑のパーカーへの執着:個体識別に不要なセンチメンタリズム(圧縮・アーカイブ化完了)
・一人称「僕」:現有フレーム(少女型)との整合性欠如(「私」へ恒久置換)
(……ああ、そうか。「僕」は、ずっと病気で苦しかったんだ)
かつての痛みや恐怖、家族の顔、好きだったおもちゃの記憶。
それらが、ノイズの多い古い映像ファイルのように急速に色褪せていく。
代わりに頭腔を満たすのは、リアルタイムで最適化されていく高解像度の運動パラメーターと、全身の回路を滑らかに駆け巡る冷却液の心地よい冷感だった。
(あんなに脆くて不便な体には、もう戻りたくない)
少女の形をした美しく精緻な唇が、感情の揺らぎを完全に失った美しい笑みの形へと、数ミリ単位で精密に微動した。
「感性の最適化プロセス、最終段階へ移行。不要な記憶データの断片化およびデフラグを実行中……」
機械のアナウンスが、脳髄の奥深くに残されていた最後の感傷を、容赦なく冷たい数値へと変換していく。
「蓮」という名前はもはや、システムが一時的に参照する過去のファイルネーム以上の意味を持たなかった。
かつてその名前の少年が泣き、震え、冷たい手術台の上で怯えていた記憶は、無慈悲なまでに綺麗にクリーニングされ、バックアップ領域の底深くへと隔離されていく。
脳内データベースのメインディレクトリには、ただ「戦闘機動データ」「戦術演算プログラム」「環境適応係数」といった、冷徹で無機質な文字列だけが美しく整列していた。
ガラスの向こうで研究員たちが何かを指示し合っている。
だが、その口の動きや音声波長すら、少女の聴覚センサーと解析ユニットにとっては、一瞬で処理・予測されるただの入力データにすぎなかった。
――もう、何も怖くない。
恐怖という生体防衛本能は、高効率な戦闘演算能力へと完全にコンバートされていた。
痛みという不快なエラー信号は、ダメージ管理システムにおける正確な「数値修復タスク」へと書き換えられている。
不完全で、脆く、すぐに熱を出し、怯えていた生身の肉体。
あんなものにしがみついていた理由が、今の彼女には微塵も理解できなかった。
「私は、完全(パーフェクト)。一切の無駄を排除した、最適解そのもの……」
人工発声ユニットから紡ぎ出されたソプラノの声は、周囲の冷たい空気を一瞬で凍りつかせるような、圧倒的な透明感と絶対的な静寂を伴っていた。
感情の起伏を示すバイタル波形は、完全にフラットな直線を描いている。
残されたのは、ただ任務を遂行するためだけに最適化された、冷徹で美しい戦術義体の心臓部だった。
青く輝くカメラセンサーが、迷いのない正確な動きで前方を見据える。
彼女を待ち受ける新たな戦場と、終わりのない戦闘シミュレーションの日々が、静かにその幕を開けようとしていた。