1821年5月5日、ナポレオン・ボナパルト、南太平洋の島セントヘレナにて死去。
その知らせはゆっくりとヨーロッパを駆け巡った。ロンドンに伝わったのは7月4日という。帆船が最速なのだ。
まだ知られる前から、いろいろな人が動いていた。
遠い遠いスウェーデンでも。
スウェーデンの王は、フランスの平民。ナポレオンの将軍だったが、いろいろあってスウェーデンの王となり、それからスウェーデンに対する忠誠のためナポレオンに逆らい包囲網の一員として戦った。
そのスウェーデンでこそ波紋は大きい。
ナポレオンが死ぬ少し前に、一人の男が死んだ。
ジョゼフ・フーシェ、1820年12月25日。
この世で最も憎まれた人間だろう。ロベスピエールの側近からナポレオン、さらに王政復古にも生き残った、タレーランに並ぶ裏切りと生き残りの達人。秘密警察を操りあらゆる人に恐れられ、ジャコバン派として虐殺と断じていいことも何度もやった冷酷非道な悪鬼。
王党派はルイ16世処刑に賛成票を投じたフーシェを忘れず…かつてのイギリスでは、王殺しと言われたチャールズ王処刑にかかわった全員に死刑判決、遺体すら罰された…、ルイ16世の唯一生き残った娘マリー・テレーズは礼儀も無視して同席を拒んだほど。
その憎しみで生き残り続けたフーシェは失脚し追放され、追放先で死んだ。
スウェーデンにとってそれが波紋なのは、フーシェの子がスウェーデンに来て、王宮に仕えたことだ。大貴族の位も得て。
皇太子オスカル1世の教育係であるフランソワ・シャトレにとってはそれは重大なことだった。
だが、彼はフーシェの子がスウェーデンに来たことの意味を知らなかった。
フランソワ・シャトレは、フランスのジャーナリスト、ベルナール・シャトレと、その妻ロザリー・ラ・モリエールの息子。
ベルナール・シャトレが、ナポレオンの草創期からの副官・将軍にして革命の立役者・フランス衛兵隊唯一の生き残りアラン・ド・ソワソンと共に、皇帝になる直前のナポレオンを暗殺しようとして射殺され、フランソワとロザリーはスウェーデンに逃れた。名門ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン伯爵とその家族の庇護を受け、フランソワは王立図書館で働き始めた。
ベルナールは貴族を恨んで生まれ育ち、若い頃は黒い騎士の名で義賊としても活動していた。その後もロベスピエール、サン・ジュスト、スタール夫人らとも近いジャーナリストとして活動。その縁で幼いフランソワをスタール夫人の元で学ばせている。
ロザリーは平民とされるが、かなりとんでもない存在である。私生児で、父親はかつての王家ヴァロア家の血を引く貴族、母親はフランス革命に大きくかかわる悪名高いマルティーヌ・ガブリエル・ド・ポリニャック公爵夫人。妊娠に惑う箱入り貴族娘を、恋敵と言える同じ父に孕まされた平民の女が同情して助け、生まれたロザリーを引き取り、姉妹二人育てた。
後に姉のジャンヌは家を飛び出し、残された母子は貧しい暮らしを続けた。時には売春すら考えるほどに。母が貴族の馬車に轢かれて死に犯人が裁かれず、復讐しようとベルサイユに出たロザリーは、武門貴族の末娘で男として育てられたオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェに助けられ、ジャルジェ家で過ごす。
だが後に、実母で馬車の仇でもあると判明したポリニャック夫人に求められ脅されてその元に戻り認知されるが、政略結婚の駒と知って街に逃れ、ベルナールと結婚した。
さらにフランス革命のかなり重要な存在だったベルナールの権力で、宮廷にも出入りしていたころ見ていた王妃マリー・アントワネットが処刑されるまで牢獄で世話をしている。
その後も、不安定な革命政権で何度も逃げ回る貧しい暮らしで夫を助け、息子を育て、他人を助け続けた。それゆえに裏切られることがあっても。
その人助けで、シャトレ一家はフーシェとも妙な縁ができている。ロザリーが助けしばらく居候させたカトリーヌという娘は、当時ジャコバン派だったフーシェに家族を虐殺され、彼とジャコバン派を恨んでいた。実はベルナールの情報を何度も彼の敵に流してもいる。それからタレーランと縁ができ、別の事件で処刑された……処刑をベルナールとフランソワは見ている。その憎しみをロザリーは聞かされているのだ。
そのフーシェの子と、同じスウェーデン王室で働く。まず先に来て王に信任されているフランソワのところに兄弟はあいさつに来た。
土産を持って。
ベルナールと、アランの遺言状と押収した書類・書物・剣。
財産などなかったアランだが、その遺産は全てシャトレ一家に贈ると遺言があった。
そして突発的なナポレオン暗殺の理由も、二人ともわずかな時間で書きつけ、懐に入れたまま撃たれ、弾薬の穴と血がついていた。
アランの剣の、柄と銃弾で破壊された小さな切っ先部も。
それとともに、奇妙なことにスウェーデン王自らが、フランソワに何通かの手紙を書くように事実上命令してきたのだ。
フランソワがアランの相続者となったこと、フーシェの家族がスウェーデンに来たことを、旧姓ル・ルー・ド・ラ・ローランシーに告げるように、と。
オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェの姪。ロザリーがオスカルのところにいた時はまだ十になるやならずの幼子だった。フランス革命で領地に逃れており、フランソワとは面識もない。
ロザリーの添え書きもつけた手紙を、なぜ書くのか。
そのためになぜ、フーシェの子まで動かしたのか……フランソワには知るべくもなかった。
そして、フーシェの子がロザリーに会いたがり、二人きりでかなり長い話をしたこと、その後のロザリーの悲しみと焦りの激しい感情も。
フランソワやロザリーにとっては本来はフーシェは許せない。だが、膨大な情報に触れられるフランソワは知ってしまった。
ジョゼフ・フーシェも、治せる病気の子を失うほどの激しい貧困に苦しみぬき、それゆえにどんな手段を使っても生き延びる、家族だけは守る、という男だったのだと……
極薄のスープの味を知るロザリーの息子が、彼を責めることはできなかった。
そして、父とアランの遺言という土産の価値はあまりにも重かった。
またフーシェの子は、フランソワに頼る立場でありながら、突然怒鳴ったことがある。
「おまえは、ベルナール・シャトレの息子で、アラン・ド・ソワソンの息子同然と言いながら二人のことを何も知らない!父が、どれほどその二人に苦しめられたことか。あの陰謀も手紙も資金も何もない暗殺、危うく免職どころか処刑ものだった!
扇動文筆家ベルナールがどんなにとんでもなかったか!ナポレオンは官房長官の地位を出して断られた。
アランだって元帥が確定、即位してすぐナポレオンが元帥を選んだ時真っ先に名を出してしまってうろたえた。どれだけ活躍したか」
抑えながらも激しすぎる言葉に、フランソワは返す言葉がなかった。できたのは、当時の新聞などを片端から調べることだけだった。
その件があった前後、そして後にナポレオン1世が死んだ日と知ったその夜、フランソワはロザリーに言われる。
なぜ、ベルナールとアランが、あんなことをしたのか、よくよく考えるように、と……
それを、フランス革命を理解しようとしたら、それは各国の歴史や、ギリシャローマ古典や、最近紹介翻訳され始めた東洋古典をより深く学ぶしかなかった。
何も知らされなかったのだ、フランソワは。自分が、王や母やフーシェの家族の何か重大な政治を知らされていないこと、外されていること、守られていること、子供扱いされていることは、わかってはいた。その屈辱のはけ口は、学ぶことだけだった。
歴史を見守るように、というフェルゼン伯爵の遺言。父親やアランの最後の姿。
そして母が、フーシェの子に会う前に言ったこと……
「人を憎んで、その人を知らない、知ろうとしないなんて、目隠しをして切りかかるようなものよ。切りたいならちゃんと目を開いてしっかり見なければいけないんじゃないかしら」
それだけ。