1828年。ナポレオン1世が孤島セントヘレナで逝ってから7年が過ぎた。フェルゼンの虐殺も遠い昔。
オーストリア宮廷の籠の鳥、ローマ王、ライヒシュタット公、世にナポレオン2世と言われる少年は、17歳になっていた。
スウェーデンで図書館を任され国王の教育係を勤め上げたロザリーとベルナールの息子フランソワ・シャトレは、老いが見られる母とともに、激動の気配を常に感じていた。
もう彼も40歳近い。仕事も円熟し、文人としての名声もある。王室とも近い。
そんな彼に、一通の手紙が届いた。
遠いローマから。レティツィア・ボナパルト。ナポレオン・ボナパルトの母親。弟でカソリック上位者のジョゼフ・フェッシュの館で暮らしている。
ロザリーは震え上がった。
「来な。遠慮したら行ってひっぱたくよ」と、コルシカの乱暴な言葉。代筆、元から彼女は読み書きが得意ではなかった、が、サインも乱れている。
「マダムは白内障で視力を失われつつあるそうです」
フランソワが言い添え、ロザリーが泣き伏した。
ロザリーにとってはレティツィアも、ほんの短い間だが家族も同然だった。
また、スウェーデンそのものにとってもこの招待は小さくない。王はナポレオンの将軍だったのだ。
遠い道をたどってやってきたローマ……戦乱の影はないが、
「やはりあの匂いがするわ。薄いけれど」
そう、ロザリーは言った。
彼女はフランス革命のど真ん中でもまれ、フェルゼンの虐殺もかなり前にかぎつけている。
元枢機卿フェッシュと、瞳の色はないが背はピンと伸びた老婆。
質素。品。そして圧倒的な強さ。美しい。若い日はどれほどの超美人だったかもわかる。
だが、明らかにあちらこちら弱っている。
鋼鉄だ。だがその鋼鉄が崩れるほど風雪も激しかったのだ。
ロザリーが知る、二人の、この上なく強い人間。
深く愛し尊敬している人は何人もいる。
貧しい中自分と姉を育てた血のつながらぬ養母。
自分を助け限りなく多くを与えてくれた、無双の剣士でもあり、初恋の人でもあるオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。
今も最愛の亡き夫ベルナール・シャトレ。
強い人も知っている。
ナポレオン・ボナパルトその人と会話したこともある。
オスカルの父ジャルジェ将軍も。
ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンがどれほど愛する人のために戦い抜いたかも見ている。
今は、1793年に亡くなった実母ポリニャック公爵夫人も、どれほど多くに耐え戦い抜いてきた人なのか理解し、愛している。
だが、別格の強さを知る二人がいる。
一人はフランス王妃マリー・アントワネット。
若い時に遠くからわずかに触れた時にはまだそれほどの強さはなかった。
だがアントワネットが虜囚となり、裁判で相手を暴徒でも裁判官でもなく歴史と神と見極めて戦い抜き、死刑判決を受けて一日一日生きた……ロザリーが最も近くでその朝まで世話をした、一日一日、強さと愛が天を超えて高まっていくのを目の当たりにした。
むしろ食べきれぬほど多くを与えられた、とロザリーは思っている。
もう一人。レティツィア・ボナパルト。
ナポレオン1世の母親。
1世や3世に劣らぬ波乱万丈の人生。
コルシカの厳しい自然の小貴族の娘に生まれ、わずか14歳で結婚、13人の子を産み何人も幼く死ぬ悲しみに耐えて8人を育てた。
その多くに先立たれた。
ナポレオンその人が腹中にいながら、パルチザンの一員として山を這って戦った女兵士でもある。実戦の泥を知っているのだ。
夫は子孫とも共通する、派手好きで冒険好き。常にどうやって財布の帳尻を合わせていたのかわからない苦労をしたのは妻の彼女。
若くして夫を失い、再婚を断って子供たちを守り抜いた。
フランス革命に関する動乱、ナポレオンとリュシアン兄弟の無謀な冒険で、一家ぐるみ藪を歩き故郷コルシカを追われた。それからかなりの間マルセイユで貧しい暮らしに耐え、ナポレオンの出世でやっと豊かな暮らしを得た。
だが、ナポレオン自身とその兄弟姉妹とは違い、地位や贅沢に一切溺れず、莫大な金を貯蓄し、没落したときに一族を支えた。
地位や贅沢を、乗りこなす。それができるものは万人に一人だろう。覇者たちの中でも。
ナポレオン本人に、一国を治められる、女の身体に男の頭がついている、と言われたほどの女傑。
ロザリーらシャトレ一家と、多く共にいたアラン・ド・ソワソンは一時、わずかなナポレオンの給与で貧しく暮らすボナパルト一家と生活のかなりの部分を共にしたことがある。
ベルナール自身が、動乱の時代にはフットワークが軽くなければならない、でなければすぐにギロチン行きだ、といったように逃亡や亡命を繰り返す不安定な日々、その貧困と、故郷を失った子だくさんの一家。
ロザリーは母親としても多くの教えを受けている。フランソワも幼い目でわずかに覚えている。
その鋼の肉体と精神、その鋼すら折り曲げ打ち砕く膨大な苦難を、フランソワも見ている……
「アラン!ベルナール!来たね」
挨拶どころではない。老婆は容赦なく、ロザリーの横の人がいないところを杖で指し、地面を打ち叩いた。
ロザリーがすくむ。
「ボケてないよ。死んでるのはわかってる。でもフランソワとロザリーから離れるわけがないだろう、ベルナールとアランが」
厳しい目にフランソワは圧倒された。
レティツィアにとっては今もベルナールとアランは、ロザリーとフランソワも、家族であり、愛しているからこそ死を悲しみ怒り狂っていることが明らかに伝わる。
突然、レティツィアはじっとロザリーに目を向けた。
「ロザリーの服装を教えておくれ」
その言葉にフェッシュは軽く会釈し、告げた。
「レディに失礼します。清潔ですが、大変に質素なものです」
「やはりね。フランソワ、わかってるかい?ロザリーはマリー・アントワネット王妃様のご最期の恩人。それにあっちこっちの家族、ルイ16世陛下の弟で今の王様などへのお形見を、着服もせずジャルジェ将軍に渡した。それだけでもちょっとした貴族位にはなる。
アラン・ド・ソワソンの相続者。あの命知らずの武勇伝は何十回も聞いた、ナポレオンがどんなに興奮していたか。一度は泥に叩き込まれたこともあるそうだが、あとでわかったって言ってたよ。指揮官は生きなきゃいけないから、と。それに、アランはまだ少年兵のウージェーヌ・ド・ボーアルネさま……ナポレオンの前妻ジョセフィーヌの連れ子でナポレオンの養子……の面倒を見て、百回は命を救った。あちこちの王家につながってるあの一族はあんたのためでもなんでもするよ。ほかの最古参だって、暗殺未遂なんて忘れて命を救われた戦友、となってるだろうさ。
さらにロザリー、あんたはポリニャック家とヴァロワ家の血がある。
もう、とんでもない大金を持ってるのと変わらないんだ。でもそれを見ないふりをして貧乏暮らしをしている……賢いのさ、少なくともうちの娘たちよりはね」
ナポレオンの姉妹たちの贅沢三昧と、レティツィアの質素倹約は知られている。
甥のおかげもあり高い地位に上り莫大な金を作ったフェッシュもばつが悪そうだ。
「でも、まだ完璧じゃない。ロザリー、あんたが物置に放り込んで見ないようにした金は、金貨と違って腐る。うっかり生肉を物置に忘れたらどうなるかはよーく知ってるだろう?ハエがわくのさ。
さんざん見たハエが。うちの家族、あたしにも、山ほどたかったハエが。
あいつらは贅沢ってハエに使っちまった。
そしてナポレオンは……いいかい、ハエが集まってぶんぶんたかってたら、その下の食い物なんてみんななくなっても、まだハエがどんどん集まってくるんだよ。なんにもなくっても、仲間がいるからとかかね。
ハエだけの、食い物なんてない集まりが大きくなって動き回って、それであっさり消えていくのさ。
たぶん、それが残っちまったら国ってもんになるんだろうね……
ハエのために生きて死ぬんじゃないよ、うちのナポレオンみたいにね」
レティツィアの言葉に圧倒される。そしてロザリーは我に返り、何か言おうとしたが、
「謝っちゃだめだ。ベルナールがしようとしたことは正しい、ってあんたは信じてるだろう?なら心にもない謝罪になる。あんたは嘘をついちゃいけない。そりゃ息子を殺そうとされたら腹は立つが、生き残ったのは息子だ。勝ち負け、恨みっこなし」
そう言われ、ロザリーは泣き伏した。
地位など無視した、家族としての食卓。
本来なら双方、そしてフェッシュの地位からすれば相当大きな宴と儀式になるだろう。だがすべて廃された。軽んじたのではなく、完全に家族扱い。
そこで出たのは、恐ろしいことに、とんでもなく薄いスープだけだった。
客も、主も。
ロザリーに衝撃が走る。
あの、オスカルを変えた忘れられないスープ。
マルセイユで、まだ貧しい軍人だったナポレオンの家族と、革命の過激化で何度も亡命してきたベルナールの一家やアランが何度となく共にした薄いスープ。
アランの家でナポレオンが口にしたネズミ肉のスープ。
略奪禁止に怒る将兵にアランが見せた、将軍だったナポレオンが命じた将兵の誰よりも薄いスープ。
「さて……フランソワ。ベルナールとアランにかわって言い訳しな。なんであんなことをしたのかい?」
レティツィアの言葉にフランソワは震えた。父ベルナール、父同然のアランがナポレオンを殺そうとして倒れた……当時はフランソワもナポレオンを憎み、ロザリーに諭されたこともある。狙われた母子も苦しい逃避行をした。
考え抜いていた、だが同時に、レティツィアの見えぬ目の前では、自分は考えてなどいなかったことを痛感する。
「ベルナール、アラン。二人とも、これだけは言ってもらうよ。あんたたちが成功してうちの息子が死んでて、皇帝政府がぶっとんだら、このスープは濃くなるのかい?濃くなるんなら正義って言えるだろうよ、そうじゃないなら許さないからね」
レティツィアの容赦ない言葉に、ロザリーはただ震え、泣き崩れていた。
フランソワは脳を叩きのめされたようだった。
レティツィアは静かに笑った。
「わかりようがないのかね。
ロザリーから耳にたこができるほど聞いた、オスカルさまがうっすい貧民のスープを食べて変わった、って話、知ってるだろ?こんなスープだ」
「はい」
「たくさんの、オスカルの同僚や父親だってそんなことは知ってるはずだ。だが革命家にならなかった男の軍人がたくさんいる。どう違う?」
「え」
「わかんないのかい、娼館に行くか行かないか、だよ。そこで男の軍人は、貧困層が人間じゃないって体に叩き込まれるんだ。だからスープの薄さを知っても平気でいられる。オスカルさまは女だからそれをやられてなかった。悪人でも善人でもない、体に教わってるかどうかだけの違いだよ」
フランソワは呆然とした。
自分も貧しい暮らしは知っているではないか。父とともに憤ってきたこともある。
考えたこともないことだった。あまりにも明白なことだった。
「一晩でも二晩でも、じっくり考えな。ここには上から数えたほうが早い神父だっているからね」
と、レティツィアは実弟を指さす。
「……あらゆる図書館への便宜を図ろう。我が家の書庫も解放しよう。腐ってもローマだ、本だけはある。絵画は去年美術館に寄付したが」
フェッシュは静かに目を上げた。
「あ、ありがとうございます」
「亡くなられたご家族と向き合う時には、祈りなさい。二人ではなく、イエス様という三人目がいます」
フランソワは強く頭を下げた。
「このスープ、オスカル、アラン、ベルナールに誓って、自分に嘘をつくんじゃないよ。ごまかすんじゃないよ、フランソワ」
「は……はい」
フランソワは必死で学んだ。ある意味天国だった。フェッシュ、他にも多くのローマの学僧から、啓蒙思想とは違うカソリック神学とギリシャローマ思想を短時間でとんでもない質と量詰め込んだ。
「さて、少しはわかったかい?」
ある晩、フランソワの表情を見えぬ目で見たレティツィアが言う。
フランソワは静かに息を詰めた。
「父は……革命にどれほど失望しても、革命の夢をあきらめきれなかったのです。それで、もう民のスープも見えなくなっていた……
アランは、……ただ死にたかった、ずっと、アンドレ・グランディエのように、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェに殉死したかった……オスカルさまも、衛兵隊の仲間も全滅し、一人生き残り、革命と、オスカルさまや仲間をごっちゃにした……
二人とも、スープが見えなくなっていた……」
レティツィアは涙をこらえるように上を向き、しばらく黙った。うなずいた。そして見えぬ目を虚空にさまよわせた。
「アラン、ベルナール、あんたたちは革命のために死んだ、ってのかい?なら、その革命さんをここに連れてきてくれ。コルシカ料理をごちそうしようじゃないか」
フランソワは呆然とし、一瞬考えてその意味の恐ろしさに気が付いた。
「ミュラやネーがナポレオン・ボナパルトのためにくたばった。ほかにも何百万人も。それはわかるさ、あたしだって冷たい急流を渡って、夫のカルロと、コルシカ指導者のパウリのために死んでもいい、って戦ったんだ。
ナポレオン、をここに呼ぶのはいくつか難しいことがあるが筋はある、船を作り、セントヘレナ島に行き、棺を掘り出して、持って帰って、開けて、遺体を生き返らせる。
じゃあどうすれば革命さんをここに呼んで、椅子に座らせられるんだ?」
フランソワも、フェッシュも絶句した。
「人のことは言えないか、ナポレオンという一人の男、この腹を痛めた息子も、皇帝っていうどうやってもここに座れない何か……ええい、学がないからなんて言えばいいかわかんないよ。フランソワ、あんたは学があるんだろう、フェッシュ、おまえも。何て言えばいいんだい?」
二人の学識者が石のようになった。
フランソワは幼いころから、父に言われスタール夫人のもとで学んだ。その後も図書館の仕事で多くを学び、数年前からは父の死を知ろうと学びを深めている。
フェッシュは元枢機卿。学問の王カソリック神学を極めている、それはギリシャ哲学も必然として学ぶ。
それを、この問いは圧倒する。
フェッシュは脂汗を流しながら言った。
「王の権威は、すべての権威は神様から来ます。ローマ書。
ナポレオン1世陛下も、神様、イエス様の鍵を預かる教皇様が皇帝と認め、人を治めるように命じました」
苦しい。ナポレオン1世が自ら戴冠したことは知られている。そして目の前のレティツィアが、戴冠式への出席を拒んだことも誰より知っている。……有名な絵には、ナポレオンの命令で彼女を描き加えてあるのだが。
フランソワは静かに言った。
「ヘーゲルが、自由・国家などを、歴史主体と扱います。ナポレオン陛下を世界霊魂、世界史的個人と呼びました」
「それは偶像だ!甥は人だ、神様によって聖別され権威を持つことはあっても」
フェッシュが厳しく言う。
フランソワは深く礼をした。彼に対する礼儀は非常に気を使っている。
「肝心なのは、よくわからないことなんだ。マダム・メールでございと贅沢な服を着て、高いところに座って、みんながひざまずいてると、自分がただの女だってことを忘れそうになった。
今思えば悪霊に頭を乗っ取られかけたって感じだ。本当に自分がただの女だってことを忘れたら、本当に人間がなくなって、女王様だけが残ったりするんだろうね。ナポレオンがそうなったみたいに。霊能者に騙されるのも近いね、なんか自分が変わっちまって、なんともいえない。
あの戦場だって、軍曹が人間じゃない、神様みたいに思えてた。
おまえも、枢機卿の服を着て説教してるときは、ただの男じゃなくて枢機卿そのものになってただろう?」
フェッシュは脂汗を流している。
「さて、辛気臭い話はやめてデザートにしようね」
レティツィアの言葉に、皆がほっと息をついた。ロザリーなどはつぶれかかっている。
デザートを食べたレティツィアは、姿勢を正して切り替えた。
「さて、ロザリー、フランソワ……あんたたちはこれからどうするんだい?そんな大金を持って」
ロザリーとフランソワは絶句している。
「いいか、うまく使うんだよ。そうじゃなきゃハエが寄ってくる。息子たちに寄ってくるハエはいやというほど見たあたしがいうんだ。
ハエのために生きるな。地位とかみたいに食えもしない幻のために使うな。
世話になった人のために死ね、そうすればお前自身は皆に笑われても、一族を皆が助けてくれる。
どんなことがあっても、本当の名誉と約束だけは重んじる。ハエの名誉じゃない、本当の名誉だ。区別をつけな。
この薄いスープの味を、絶対に忘れるな……腹が減ればどんな強い大軍だって全滅するんだ。
きっちり大声で言うんだね」
誰に、と問い返そうとしたフランソワははっとした。
ナポレオン2世。ウィーンの籠の鳥。目の前の老婆の孫。何度面会を望んでも会わせてもらえない孫。
ウィーンへの旅、その前に、レティツィアとフェッシュは膨大な信任状・推薦状を取るように言った。そのメンバーの恐ろしさは、フランソワにとってはあらためて、ロザリーを通じ自分が負った財産の恐ろしさを思い知らされた。
意外なことに、スウェーデンの王室も、その旅を全面的に認めた、むしろ命令した。オーストリア大使の助手のような職も用意し、旅費も全面的に支給した。
ウィーンに旅立とうとするロザリーとフランソワを見送るレティツィアは、呆れたように言った。
「ふたりとも、何でそんなめんどくさくて危険で金もかかることを、一スーも要求しないで引き受けたのかい?ちゃんとわかってるのかい?」
「え、あたりまえじゃないですか」
とロザリー。フランソワは黙っている。
「ロザリー、あんたの養母のラ・モリエールって人とオスカルって人がどんな人だったかよくわかるよ……」
レティツィアは深く嘆息した。
「こんなこと本来、大金でお願いすることだよ。でもお金を動かしたらあんたらにも、ベルナドットにも迷惑がかかる。だが……ハエ除けのコツを教えてやったんだ、それぐらいいいだろう?
それに、うちの孫のフランソワ……2世も、フランソワあんたも、家よりおっきな馬の背に尻の皮を縫われてるようなもんだ。それで怖がられ憎まれ大失敗するよりは、しっかり乗り方を覚えるほうがまだいい。降りられないんだから。
ちょっと乗り方を教えてやった、その報酬に、このばあさんにひと肌脱いでくれてもいいだろう?憎いナポレオン、だろうけどね。メッテルニヒと勝負してきな。乗馬のいい練習になるよ」
フランソワは絶句した。この財産を乗りこなすのはそれほど大変なことなのか……それを、まさに最大の権威権力を乗りこなしたこの国母から教われるなら、それはもうこちらが万金を払うべきことだ。
「あれもとんでもない傑物さ。思いっきり負けな。そのときは、このあたしがついてる。
ロザリー、あんたは……その使用人根性を、これからは捨てな」
そう言って、レティツィアは一枚の封筒を手渡した。封はされていない。
中身を見たロザリーは震え上がった。
見たフランソワも。
〈このロザリー・シャトレの言葉は、私マリア・レティツィア・ボナパルト~~(称号)の言葉である
署名:マリア・レティツィア・ボナパルト
口述筆記:ジョゼフ・フェッシュ枢機卿
ロザリー・シャトレの言葉はマリア・レティツィア・ボナパルトの言葉である、とマリア・レティツィア・ボナパルトが自分の意思で、正気で口述したことを誓います
署名:ジョゼフ・フェッシュ枢機卿〉
重大すぎる文書である。ボナパルト家全体への巨大な権威。
レティツィアは笑って続けた。
「ロザリー、あんたはマリー・アントワネット王妃様の恩人だ。
ジャルジェ家も、ポリニャック家も、あんたに頭が上がらない。ポリニャック家なんて、あんたに虫みたいに潰されるんじゃないか、それができる、って怯えてるよ……高圧的になるだろうが恐怖の裏返しだ。
忘れるんじゃないよ。これから、公的な場では、あんたはマリー・アントワネット様とあたしが背中についてる。堂々と、無口に、笑っているんだね。何を言われても虫だと思うんだ。
ああ、耳にタコができるほどあんたがいってたオスカルさまは、上の貴族にもいつも堂々としてたそうだね。それを真似る。目に焼き付いてるだろう?
フランソワ、思いっきり失敗するんだよ。あたしみたいに。
あたしは失敗した。ナポレオン?リュシアンとの争い?ジョゼフィーヌをいびった?コルシカを追われたあ~んなことやこ~んなこと?干拓?訴訟?たいしたことじゃない。
あたしとこのフェッシュは、ナポレオン1世が孤島でくたばるその前後、騙されてたんだ。霊能者に。
ナポレオンはセントヘレナなんかにいない、って。
誰に何と言われても耳を貸さなかった。
目が覚めた時には遅かった、もうあの子は死んでた。
……失敗したんだ。ロザリー、あんたも失敗の一つや二つはしてるだろ?」
ロザリーも深くうなずいた。
多くの失敗でオスカルにもどれだけ迷惑をかけたか。革命そのもの。オスカルとアンドレの死。アントワネットの処刑。
さらにブリュメール18日のクーデターでは、一家ぐるみでナポレオンを支援し高く評価されている。
アントワネットもレティツィアも、完全無欠ではない…アントワネットは革命そのものやその中のいくつもの判断ミスがあり、レティツィアも肝心の、遠いセントヘレナでのナポレオンの死の時に弟と共に霊能力者にだまされていた……でもそれは二人の強さを傷つけるものではない。
「それで、七年前、ウージェーヌ様やベルナドットが動いたんだ。心配した娘たちやジョゼフィーヌのほうの家族がいろいろ困って、フーシェに相談した。
フーシェも自分ももう危ないとわかって、家族が無事に豊かに暮らせることを報酬に動いた。家族をスウェーデンにやった。
ナポレオンが若い頃、出世していく権力者にたびたび起きる偽霊能者たち対策も思い出してくれた。
そのたびに、アラン・ド・ソワソンが、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェの縁者、ル・ルーというご婦人を引っ張り出していた。革命でアランはル・ルーさんの一家を救ったって」
ロザリーは青い顔をしている。黒衣の伯爵夫人が起こし、ほぼル・ルーが解決した不気味な事件には彼女も巻き込まれている。
「それで、フーシェは自分が、アランとベルナールの遺言状を押収していることを思い出した。それを執行させ、フランソワあんたがアランの相続者として手紙を出せる。ロザリーもル・ルーさんを知ってる。それで所領に引っ込んでるご婦人を動かせる。
あとは……本当に簡単に、ル・ルーさんはあたしたち姉弟の目を覚まさせてくれたよ。間違いなくウィーンだろうね、あの霊能者は……やられた方が間抜けなのさ。ただ、ボナパルト家に喧嘩を売ったら……やり返させてもらう。百日天下みたいにね。あたしは帝国には興味がなかったが、エルバであいつらがナポレオンをなめた。だから財産をはたいて背中を蹴飛ばして、あれを起こしたんだ。まあボコられたが、肝は冷えただろう。息子たちには言ってたからね、フランスの学校でコルシカ生まれとばかにされたら殴れ、それでどれだけのされても、ってね」
フランソワは立っていられないほどだった。
なんという事件が起きていたのか。
レティツィアとフェッシュが霊能者に騙され封じられていた……ナポレオン1世・2世の奪還を防ぐため。
それから救うために、ナポレオンの家族、元臣下で元婚約者の夫など複雑な血縁があるスウェーデン王、フーシェ、遠いフランス貴族が動いた。
それが、亡きアランの権威と相続で……
自分は知らされなかった。
この戦いに参加する権利がなかったのだ。それだけの人格と信用がなかった。
だが、今は……レティツィアの思いを、幽閉された2世に届ける任務は、自分の初仕事だ。
フランソワはひざまずいた。
「必ず」
レティツィアは静かに笑った。
ローマからウィーン。その旅は不便や危険も多かったが、美しいことも多かった。
ナポレオンによる戦争の傷の深さと、それを癒した歳月の力が見えた。
平和の力、ウィーン体制のおかげでもあることは、フランソワには見えにくかった。
むしろ、メッテルニヒの抑圧政策に対する怒りの言葉を多く聞いた。
その中でフランソワは、見なかったことがあると後に悟った。スウェーデンでの長い生活で、当たり前になっていたことがこの旅路にもあると。……平和と子供の笑顔。ロザリーはそれが特別であることをもう知っていた。
フランソワには、貧困と抑圧しか見えない……
うるわしのウィーン。美しく、健康には悪い都市。
宰相メッテルニヒは、スウェーデン大使から挨拶を受け、同時に手紙の束を渡された。
一人の助手のような存在が着任すると。
フランソワ・シャトレ、平民。フランスから亡命、帰化。
その紹介状・推薦状に、メッテルニヒは呆然となった。胃が痛んだ。
スウェーデン国王はもちろん。
スウェーデンの名門フェルゼン家。反革命。
フランスの武門貴族ジャルジェ家。王党派。
名門ポリニャック家。王党派。
スタール夫人門下のマダム・レカミエ、バンジャマン・コンスタンから、スタール夫人の直弟子の俊英だったことが語られる。追われるほどの自由主義。
マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス、フランス王太子妃。ルイ16世の唯一生き残った王女。
バイエルンの、ウジェーヌ・ド・ボーアルネの子供たち。ボナパルトの妻の連れ子の子孫、ナポレオンの家族やバイエルン王室とも複雑な婚姻を結ぶ有力者。
そしてマダム・メールことレティツィア・ボナパルト。
悪夢だ。なぜこれほどに対立する、これほど多くの強大な勢力が一人の青年を推薦するのか。
秘密警察網を駆り、調査を進めた。衝撃の事実が次々と出る。
同行しているフランソワの母、ロザリー。ポリニャック家とヴァロワ家の私生児で認知もある。ジャルジェ家での養育と教育。
ハプスブルク皇女・フランス王妃マリー・アントワネットの死の直前の大恩人。ハプスブルク皇室もフランス王室も彼女の頼みを拒めない。
その夫、フランソワの父はフランス革命で重要な役割を果たした新聞屋ベルナール・シャトレ。死後も、遺された文章が翻訳印刷されて爆弾と化し秘密警察の棍棒やメッテルニヒの胃をすりへらしている危険な扇動家。
さらに、シャトレ一家が家族同然だったアラン・ド・ソワソン。ナポレオン草創期の副官から将軍、そのすさまじい戦果は、メッテルニヒ自身がよく知っている。何人もの友人や親戚の戦死と葬儀、百度の領土の喪失で。
アランはウジェーヌ・ド・ボーアルネの恩人でもあり、その縁を辿ればゾフィーの実家バイエルン王室からシェーンブルンに入り込める。
ベルナールとアランが、皇帝になる直前のナポレオンを殺そうとして射殺された事件もよく覚えている。
そうしているときも密偵が来る。
マークしている筋金入りボナパルティストのフランスの老将軍がフランソワに暴力的に何か叫び、間もなく仲良く痛飲している、と……
当然想像できる最悪シナリオ。
スウェーデン王はナポレオン1世の将軍。戦争末期ではスウェーデンのためにナポレオンを裏切り戦ったが、信用できるわけがない。ボナパルティストのスーパーエースを送り込み、2世をさらって、北欧からナポレオン帝国ふたたび……という最悪シナリオ。
革命家としても今のこの火薬庫に油と松明。
ポリニャック家でも恐ろしい。
何であるかわからず、何であってもとてつもないことをする力を秘めているのだ、フランソワという男は。
信心深いメッテルニヒは、思わず教会に駆け込み祈ったほどだ。
「私は罪びとです、しかし、こんな嫌がらせはあんまりです」
と。
そして翌朝には、昨日の報告にあった、フランソワを裏切者と怒鳴った老いた狂信的ボナパルティストが、フランソワとロザリーを抱きしめなんでもする、と忠誠を叫んでいたという報告も加わった……
教会から戻ったメッテルニヒは、紹介状の主の名前だけしか見ていなかったことを思い出し、順番に読み始めた。
本来は手間をかけないが、あまりにも重かった。
最後に回した、レティツィア・ボナパルトの、口述の手紙。
それを読んだメッテルニヒは頭を抱えた……
二日後、許可を受けて伺候したフランソワは、激しい怒りを込めてにらまれた。
メッテルニヒは長身、超絶美形、鍛え抜かれた肉体と超絶な知性の持ち主。フランソワにも見ただけで分かる。
礼儀もろくになく、
「なぜ一人で来た。なぜまず来た」
と言ってメッテルニヒは、目の前の手紙を一通差し出してきた。
口述筆記された、レティツィア・ボナパルトからの紹介状。
「読むがいい」
読み始めたフランソワは衝撃に震えた。
挨拶、再婚の祝い。
すぐに、
『二通用意しました。こちらの手紙をお読みになっているということは、フランソワ・シャトレが、出立の時に金や徒党を言い出さなかったということです。
そのような赤子が大砲のような恩義を持っているのは、義娘マリー・ルイーズの故国にとってもよいことではございますまい。
教えてやってください。
もう一人のフランソワ、我が孫ナポレオンにも。同じように、大砲を持つ子なのですから。大砲を使える男に育てることは、貴殿の利益にもなるはずです』
「読め、ここからここの文章は、お前の活動資金を私に送るための暗号だ。
人は一人ではなにもできん、賄賂と舞踏会という礼儀で動く。遠くで会議は踊ると笑っていただろうが、それがどれほどの苦労だったか知らんだろう。
ナポレオン一世陛下も、アラン・ド・ソワソンも、ベルナール・シャトレも、たくさんの人間と金を動かして戦って膨大な成果をあげてきたのだ。そのことを知らんのか!軍を動かす金、印刷所を動かす金、それを口八丁手八丁で手に入れ、散らしてきたことを私の方が知っている!」
「フ、フーシェ閣下からも同じように」
「よくわかる。フーシェ閣下のご家族なら。私をあれほど苦しめた、あれほど偉大な二人の父のことを何も知らぬ、知ることもできずに息子でございと言っているのだからな!」
と、メッテルニヒは机に積まれたおびただしい文書の一部を、フランソワに突き出した。
手に取ったフランソワは目を見張る。
ベルナールがまいたアジビラの写し。ナポレオンが伝説の大勝利を繰り返し、その生命をアランが何度も助けたイタリアやエジプトの戦いの報告書。
「……ライヒシュタット公殿下も、確かにきちんとその力を使いこなせるように学ばせるのがオーストリアの国益になる、それはかなり正しい。ただ、あの方は本人を見ておらん。
数学に優れ、好きなことには驚異的な忍耐を見せ、何より美しい。比べ……」
言葉を切ったメッテルニヒの鉄面皮に苦悩が漏れた。今のオーストリアの皇帝を含む直系皇族と、ナポレオン2世を比べてしまったら破滅的だ。
「ここを読め。わかるか、マダム・メールは遠いローマにいながら、ライヒシュタット公殿下の、悪評がないという情報を得たことを指摘した。どれほど隠しても隠せぬこともある……
スウェーデン王室からも連絡がある。何月かこの私に付き添いすべてを学べ。すべてはそれからだ」
「は……」
フランソワは完全に打ちのめされていた。
子供扱い。大砲を持つ幼子。
前に、子供扱いを察したとき以上の衝撃だった。
大失敗は、とっくにしていたのだ。レティツィアとその話をしていた、出発の時点で。
贅沢と賄賂の外交に対する単純な正義感による反発。だが、現実に世界を動かし、平和を保ってきたのはそれなのだ。
自分の幼い正義感が、ベルナールのそれと同様、どれほど危険か。母ロザリーが、フランス革命に大きな貢献をした自分を、どれほど責めているか。
自分も、幼い子供の正義感で力を振り回せば、同じことをしてしまう。友ノーベルの死も思い出す。
「おまえは、一国を買える、革命を起こせる、帝国を作れるだけの遺産を負っている。それで何をする?沢山の人を殺すことになるのだ、戦死者の母、妻、子の嘆きを知っているか」
メッテルニヒの獅子吼が、フランソワを深く打ちのめした。頼れたのは、強い人……
「マダム・メールに言われました。ロザリーは財産を見ないことにしている、それも少し利口だが、財産は腐る。正しく使え、と。マダム・メールは、賢く貯めて、そして孤島の息子や没落した一族の皆様に正しく使われました」
メッテルニヒは苦々しく受け取った。正しく使った、にはあの百日天下も含まれる。どれほど恐ろしい人間だかわかっているのだ。彼女の手紙は黙殺し続けているが。
フランソワは実感を込め、打ちのめされたように思う。
父ベルナールが、妻のロザリーと息子の自分を危険に置いて、家族に近いナポレオンを殺そうとした。革命という座れないしスープも飲めない存在のために。
革命はあまりにも多くの人を殺した。そのいくつかは自分も目の前で見ている。両親もアランも苦しめられた。
薄いスープではなくよいものを食べたい、子に食べさせたい。それは当たり前だ。だが、革命は、その正しい手段ではなかった。
では……
「何か言うことはあるか?」
メッテルニヒの言葉に、フランソワは言葉を絞った。
「父が殉じた、革命は、連れてきて座らせて食べさせることができない、とマダム・メールがおっしゃいました。ナポレオン・ボナパルトという人のために多くの将兵が死に、パスカル・パオリ氏のためならご自分も死ぬつもりで戦えたのと同じように、と。フランス皇帝そのものも、ナポレオン・ボナパルトというパンを食べる人とは別の、食べない何かである」
「それ以上は危険だ」
メッテルニヒは厳しく言う。正当な皇帝や王、神にさえ深入りしかねない。
「民が食べる。それだけが革命だったか。飢えながらも革命がないことがある。何が分けるのか。ネロのように国や軍が崩壊する、暴徒化する、あるいはサラセン(イスラム教のこと)が立ち上がったその瞬間は何か。
明日から私の仕事を見ながら考えよ。下がれ」
メッテルニヒの容赦ない言葉に、フランソワは震えながら退出するしかなかった。
ゴングの瞬間の強烈なノックアウト。冷や汗、涙すら必死でこらえていた。
送り出したメッテルニヒが胃を押さえ、頭を抱えていることは見えていない。
そしてスウェーデン王室は、レティツィアとメッテルニヒの二人から、ほぼ同じ、どうしてこんなになるまで放っておいたんだ、という詰問手紙に冷や汗を流すことになる……
母子はメッテルニヒ家の客となり、ロザリーはハプスブルク皇室の求めに応じて何度か伺候した。皇帝フランツ1世はマリー・アントワネットの最後のことを聞きたがり、涙と共に深い感謝を繰り返した。
ロザリーはレティツィアに言われたように堂々としていたが、常にこう繰り返した。
「アントワネット様にいただいたのは、このリボンなど、宝石の山の前の小銭です。どれほどの金貨でも、国でも、爵位でも、称号でも、いただいたものに比べればパンくずにもなりません。
物ではございません。
強さ。けだかさ。わたくしも与えられた、愛。
それをいただいたから、わたくしは革命の激流の中、夫とともに生きることができました。
夫を失い、絶望しても、息子のために生きることができました。
ああ、この贈り物を皆様にお返しすることができましたら。
わたくしを恩人などと呼ばないでくださいませ。わたくしが恩を受けたのです。いただいたのです。みなさまにどのように返せばいいのかわからないのです」
その言葉は皇族がそろって涙を流すものだった。
だが、近い親族のはずのライヒシュタット公フランツ、ナポレオン2世とは厳しく隔離されていた。
かなりの時間をかけ、ロザリーは、遠いジャルジェ家からル・ルーを通じ、かなりの量の衣類を受け取った。
苦しい時も廃棄していなかった、オスカルとアンドレの服。
フランス近衛隊長と衛兵隊長の制服。ほかにも。
ロザリーは泣き、キスを繰り返しながらフランソワに合わせて修理した。幸い体格は近かった。
ロザリーは革命期はずっと針子として働き、それは多くの情報交換の役にも立った。できた品を届ける時に紙をひそめればよいのだから。腕は衰えていなかった。
亡夫ベルナールの、黒い騎士の扮装と仮面も縫い上げた。
フランソワはメッテルニヒに昼夜問わずつきっきりになり、仕事そのものを短期間で覚えた。すぐに改革案を出したが、それはメッテルニヒが何年も前に出して皇帝に却下されたものとかなり一致していた。
それでフランソワは冷や汗と共に悟らざるを得なかった。メッテルニヒはただの悪人ではない、想像を絶するほどの知性で、想像を絶するほどの仕事をしてきた、今もしているのだと。
互いに、その学識の高さには話すたびに驚かされた。両方にとって大きな喜びでもあった。
さらに、金の作り方も強制的に学ばされた。マダム・メールがどのように金を託したか、その引き出し方から、メッテルニヒが金を求める財閥との接触も。
その語彙はなかったが、贈収賄と詐欺とインサイダー取引とポン引きを足して割らない汚濁の極みで莫大な金を得、右から左に散らす。だがそれで平和は保たれたのだ。
メッテルニヒ自身は無欲だともわかる……1848年革命で亡命したときは文無しで、最初は友人、後に財閥の支援を受けている。
同時に、時間を盗みメッテルニヒに閲覧を許された、オーストリアから見たアランやベルナールの姿を読んだ。
自分が知らぬ、戦場でのアランはとてつもなかった……城壁をよじ登り、銃弾の雨の中跳ね橋の鎖を断ち切る。まさに必要なところを死守する。略奪禁止に怒る将兵に誰より質素なナポレオンのスープを見せる。まだ幼いウージェーヌを担いで戦友を見捨てながら砂漠を歩く。ちょうどここというタイミングで砲兵隊を率いて援護する。
ベルナールの、革命思想の影響と危険がこのオーストリアをどれほど脅かしているか。メッテルニヒにとって今も父が残した文章が爆弾と伝染病を足して割らない代物だとよくわかる。スウェーデンにとってさえもそれは変わらない……だから自分は図書館に隔離され、古典の知識だけを引き出されてきたと悟る。
それを知らない自分をなぜフーシェ家やメッテルニヒが怒るのかもよく分かった。
ロザリーに届けられた衣類、またウィーンの酒場やポリニャック家縁者、スウェーデン大使館の支援を得て、メッテルニヒに連れられ仮面舞踏会に出ることも始めた。
フランソワ自身も長身の美形で、古いフランス近衛隊長の制服も、フランス衛兵隊長の制服も、ロザリーが新しく縫った黒い騎士の扮装も、スウェーデンの官服もよく似合っていた。
フランソワの血筋だけでも美形になるのは当然である。血の祖母ポリニャック公爵夫人は美貌でフランスをひっくり返した美人、ロザリーもオスカルに連れられ宮廷に出入りし注目されていた。父のベルナールも母は貴族の愛人で追い出された子、当然美男だった。
そして腰の、フーシェ家から返されたアランの剣。刀身は砕け護拳にも弾痕があるが、オスカルの予備剣を刀身として入れ替えた。
それを見た古参ボナパルティストは飛びつき、激しくとがめ、それからアランの相続者、ナポレオンその人の顔を知る子、レティツィアら一家と家族同然、と知り激しい感謝と愛情……それがいつものこととなった。
仮面舞踏会で、どの服がいいか候補を見せられたメッテルニヒはまた頭を抱えた。さすがに、黒い騎士がベルナールだったということは初耳だったし、それがまた重大すぎた。
フランス旧近衛隊長、オスカルの後継や、衛兵隊長、アランの後継に扮することも。
アラン、ベルナール、また聞きだがオスカル、革命の物語は誰もが熱狂した。
オスカルとアランの後継者、黒い騎士……ウィーンの話題となった。
そして何度も皇族に呼ばれ、贅沢ではないがとても親しく話す品のある母親のことも。
マリー・アントワネットが断頭台に赴く朝、容赦なく白くなったかつての金髪を切られ、無用となったリボンはロザリーに与えられた……高級店の産、店の台帳に記録され偽造不可能な刺繍で確定でき、アントワネットの遺髪が縫い込まれた聖遺物。その権威は絶大だった。
力を強めている美しい嫁ゾフィーにとって、その実家バイエルン王家はウジェーヌ・ド・ボーアルネと深いつながりがあり、それでアランを通じシャトレ家ともつながりができてしまっている。
ポリニャック家もウィーンにもロシアにも深く食い込んでいる。
フランソワも仕事に慣れてきたある日。
メッテルニヒのわずかなミスだった。
メッテルニヒがついて歩くフランソワに、フランス語のフランソワとも、ドイツ語のフランツともわかりにくい呼び方になってしまった。
それに二人が反応した。
廊下の角を曲がる直前の少年と、旧フランス衛兵隊の制服で書類の山を抱えたフランソワが。
「はい、メッテルニヒ卿……その方は?」
(同じ名?フランソワとフランツどちら?フランス衛兵隊?だが革命前だ)
いぶかむ美少年に、メッテルニヒは歯を食いしばり、
「閣下。こちら、スウェーデンからおこしのフランソワ・シャトレ氏。今私の仕事を手伝っていただいております。
フランソワ、こちら、ライヒシュタット公フランツ様。正式の紹介は、今宵フランソワの母ロザリーともども」
「ロザリー!ゾフィーさまが何度か話されていた、マリー・アントワネット大叔母様の最後の恩人、聖女様だと。だが」
わずかに声に違和感。
ナポレオン2世。長身、父と違い。すさまじいまでの美貌。
とっさにフランソワは、何度も会っているその父親ナポレオン・ボナパルトと比較し、振り払った。
「シャトレ、聞いた名だ。皇帝になる直前の父を暗殺しようとしたジャーナリスト、だがブリュメール18日では父をよく助け、官房長官の地位も約束されたと聞く。
足りなかったのか?なぜだ?そう、アラン・ド・ソワソン……その制服を着た肖像を見た。なんという戦いぶり!」
少年が、ひたすらに父の戦いを読み続け、それを支えに生きている。
「なぜだ」
押さえた叫び。感情のまま爆発してもおかしく無い年齢なのに、抑制されている。
「……父ベルナールは、革命のためにお父上のお命を狙いました。
ナポレオン陛下その人は、この私も話したことがあります。どうして嫌えましょうか、素晴らしい人だったと覚えております。
民が幸せになるために革命を起こしたはずでした。しかしそうはなりませんでした。
革命は人の肉を持たず、皇帝も人の肉とは違うことが大きくなりました。ああ……」
フランソワの言葉、同じフランソワ……ナポレオン2世は衝撃を受け、下を向いた。
「父上に、会ったことがあるのか。話したことがあるのか」
「はい、子供のころ。ブリュメール18日クーデターのために使い走りをし、報告を届けました」
「な、なんと……人の肉を持たぬ、とは」
「殿下、しばらくお休みください。鍛錬のお疲れもおありでしょう。お体を冷やしてはお風邪を召してしまいます。臣がゾフィー様に叱られます」
メッテルニヒが内容は暖かいが、冷たく厳しい声をかけた。
「ああ……ありがとう。よろしく頼む」
去る少年を見送り、メッテルニヒは告げた。
「お願いするほかない……平和のために、マダム・メールの伝言は……良い子であられる。だが不確定要因が多すぎる」
彼は今の正規の皇族を誰よりも知る……皇帝は老い、男子は人としての最低限以下。賢く美しい、同じ血を引くライヒシュタット公の脅威。ゾフィーの国運をかけた妊活はまだ功を奏していない……
「はい」
袖をつかむ力の強さに、フランソワはそういうしかなかった。刃も辞さない覚悟。
フランソワは、突然気が付いた。無数の断片がこのわずかな会話から急速に固まった。自分の言葉自体が、これまではっきりさせられなかったことを固めたことを自覚した。
父がしようとしたナポレオン暗殺は、革命は、誤っていたのだと。父は家族を捨てて、席に座りスープを食べることもできない「革命」、多くの人の血を吸った「革命」のために命を粗末にしたのだと。悪い主君と分かったからこそ殉じたのだと。
突然、自分が見ていたが見ていなかったことが、見えた。
長い旅で見た民。スウェーデンと、ローマからウィーンに共通するもの……平和。平和の中、痩せてぼろを着ていても育ち、軍靴に踏まれず育った子供たちとその父の笑顔。
父親がいる。徴兵され戦死していない、虐殺されていない。徴発されていない。
革命も、ナポレオンも、多くの父親・息子を殺したのだ。
自分は考えなければならない。目の前のメッテルニヒを批判するには、彼が作り守っている体制よりよいものを思いつかなければならない。
「どうした」
「父の、過ちが……あなたの、ご苦労が」
ふん、とメッテルニヒは鼻息を荒げ、早足に歩き出した。
フランソワは必死でついていく。
静かな一室。本来ならばナポレオンやその家族の肖像画に満ちているだろう、だがそれが許されず殺伐とした部屋。
メッテルニヒの耳があるのはわかっている。
ロザリーを連れ、スウェーデンの官服を着たフランソワは、丁寧に礼をした。
ロザリーの自己紹介は、ごく自然にオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェの話となった。
同じフランソワの名。アントワネットを守り、フランス革命を起こした英雄オスカル。オスカルが一度ナポレオンに会っていたことには、少年は強く食いついた。
そして、マリー・アントワネットとレティツィア・ボナパルトの代理としてのロザリーの言葉は、レティツィアの名前など出さず、ただ、体を厭い、贅沢や遊びを控え、励むように、それだけだった。やせすぎが気になってしまったロザリーは食べるようにとも言った。
フランソワも、レティツィアの名は出さなかった。
会話の中、フランソワは自然に言った。
「ローマで会ったお年寄りに言われました。私は大金を持っているそうで、それをうまく使っていないと。
そんな人にはハエが寄ってくる。ハエのために生きるな、栄光とかみたいに食えもしない幻のために使うな。本当の名誉と、ハエでしかない栄光の分別をつけろ。
世話になった人のために死ね、そうすればお前自身は皆に笑われても、一族を皆が助けてくれる。
そして、貧しい人の薄いスープの味を知り、絶対に忘れるな……腹が減ればどんな強い大軍だって全滅するんだ、と教えてくれました。
私はそのとおり、この財産を使い、フェルゼン家・スウェーデンのために死にます」
少年はしばし嘆息し、言葉を咀嚼した。
「兵と同じスープなら食べるようにしている」
「はい。こんな話を聞いたことがあります。まだ将軍のナポレオン・ボナパルト陛下が軍を率いてイタリアを攻め、略奪を禁じました。軍は食料にも事欠き、略奪をさせてくれと部下に責められました。
アラン・ド・ソワソンは、その部下たちに見せたそうです。誰よりも薄い、ナポレオン将軍のスープを」
「おお」
「そのナポレオン将軍のためなら、アランは何度でも死地に走ることができたのです」
「おお」
「オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェさまも、民の薄い薄いスープを口にしたことで、目を開かれました」
そうロザリーが半泣きで言い添えた。
「その老人とは」
少年の問いに、フランソワは静かに微笑み、母を目顔で止めた。
ナポレオン2世も、すぐに悟った……会えぬ祖母、レティツィア・ボナパルトだ。あふれそうになる涙をこらえた。
そして、何を悟ったのか。このフランソワ母子は、ナポレオンの名に群がるハエなどではない……一人の、座って食べる人間を心配した、祖母の代理だと。
(なぜ自分は生きているのか?なんのために?父の帝位を継げぬのなら?自分は何なのだ?)
となるほどの苦しみが、晴れた。
レティツィアの孫。自分は愛されている。深く。
衝動的に、2世は紙を手にした。
そして手早く、フランス語でつづった。
『ベルナール・シャトレと、アラン・ド・ソワソンを許す。シャトレ家との永遠の友情を誓う』と、署名を入れ、フランソワに押しつけた。
フランソワにとっては激しい衝撃だった。見ている使用人……スパイにとっても。
もう数日、メッテルニヒを手伝い続け、何度もナポレオン2世とも話し、スウェーデンからの連絡を受け辞することになったフランソワとロザリー。
会話が少し微妙なことにいったこともある。それは同席客を装うスパイによる罠でもあったのだが……野心、ナポレオンの皇位。
フランソワは罠を察し、話を歴史にそらした。東洋や古代ローマの歴史における、王家の次男の苦労。
「次男は予備の剣です。切れ味を保ちながら、決して手にされることを望まず。いや他人に、抜かれたいと思っていないと思わせねばなりません。自分の頭の中身ではなく、他人がどう思うか、が決定的になる立場です。とても苦しく難しい。無事に出番なく終わればそれが幸せなのです」
それで2世には十分だった。
実際問題、もしも彼が健康であれば、じっとしていれば玉座のほうから……
2世とフランソワは、欲しくもない遺産を負わされ苦しんでいる、という共通点もあった。その共感は強いきずなとなった。
フランソワは、ナポレオン2世の教育係ディートリヒシュタインとも親しくなった。図書館からキャリアを始めたフランソワと、図書館とも関係し後にはオーストリアの帝国図書館館長ともなった男、同じ本好き。
メッテルニヒは疲れた表情で母子を見た。どれほど胃壁を削られたか。
「どうか、拝見させてくださいませんか」
その問いに、ロザリーとフランソワはすぐ悟って、高級な封筒に入れた三つを出した。
マリー・アントワネットのイニシャルが刺繍され、遺髪が縫い込まれたリボン。
レティツィア・ボナパルトからロザリーへの全権委任状。
そして、ナポレオン2世による赦免と友情の書。
「これは……捨てろともよこせとも言えぬ。うかつに使わないでくれ、人に見せないでくれ。私がどれほどの努力でこの汚い平和を守ってきたか、学んだだろう。この平和を破壊できる代物だ……少しはましになったか」
「学ばせていただきました。誓います、決して、決してむやみには見せず、使いません」
「隠しているだけでも伝説、虚名は膨らむ。このようなやり方もある……最初は小さい秘密で権力者を脅す。権力者がその秘密を求める、それ自体が弱みとなり、何の中身もない秘密が膨れ上がり巨額の金にもなる……」
彼らが知るはずがない、ラプラスの箱や、吉原御免状のように。
「恐ろしさをわかろうと思います」
「君ほど優秀な生徒はいない……いてくれたらどれほど助かるか、もしフェルゼン伯爵でなくこちらに来てくれていたら私の後継者に……わかってくれたか、革命をなぜ私がこれほど憎むか」
「はい。父のいる子供たちの笑顔を旅で見たことを思い出しました。その子供たちにかわり心から感謝し、尊敬しております。私欲とスープの具にならぬ正義を求めず、平和のため。誓って」
メッテルニヒは何とも言いようがない表情で、退出を命じた。
ほんの数年後だった。1832年。
1830年には、フランスで7月革命が起きた。きっかけはポリニャック家のジュールが首相となり議会と対立したことだった。ナポレオン2世を、という声があったがメッテルニヒが何とか押さえた。フランソワはうまくかかわらなかったが、仕事は多かった。
フランソワはただ仕事に精励し、ロザリーもつつましく生きていた。あの紙など出すことなく。
ルイ16世とマリー・アントワネットの唯一生き残った長女、マリー・テレーズ・シャルロットに呼ばれ会ったことも二度ほどあった。生前のフェルゼンは彼女のためにも奔走し、フランソワもその遺志を継ぐつもりはあった。
ほかにもボナパルト家の主要人物や、ポリニャック本家とも会った。イギリスにもコルシカにも行った。
そしてフランソワは常に、あちこちと多くの手紙をやり取りするようになった。
その一つと思えた。ディートリヒシュタインから、フランソワに手紙があった。
ちょうど、折からの病で母ロザリーがもう明日も危なく、哀しみにくれていたフランソワは、その手紙に衝撃を受けた。
「母さん……」
「どうしたの」
「……ライヒシュタット公が、結核で、危篤だと。すぐマダム・メールに知らせ」
「連れて行ってください」
「え?」
「連れて行ってください、と言ったのです。途中で死んでもいい。フェルゼンさまも、途中で死んでもいい、とアントワネットさまを助けに向かいました。
ライヒシュタット公さまは、シャトレを友と呼ばれました。友なれば命危ういときは命を捨てて飛んでいかねば。
アンドレもアランも、オスカルさまをかばって銃弾を浴びました」
「でも、母さんでも、助けることなんて」
「アントワネットさまにいただいたものを、少しでもお返しする。オスカルさまも、そうせよとおっしゃいます。
オスカルさまが生きたら、アントワネットさまにお命を捧げたでしょう。ご親戚です。かわりに捧げるのです。
わたくしはマダム・メールとマリー・アントワネットさまの代理人なのです」
固い決意。フランソワは涙ながらに、決意するほかはなかった。
過酷な船と馬車の旅。健康でもきつい、それが危篤の老婆とともに。
スウェーデン王もとてつもない便宜、またバイエルン王室なども援助してくれた。
そんなものは目に入らない。
かつてのフェルゼンのように、フランスから母を守って逃げたように、馬車を急がせた。
ウィーンの宮殿に走り込んだ……王室も、メッテルニヒも、それどころではなかった。
ロザリーはあのリボンを振りかざすように、ほぼ死んだ身体で、旅の埃も落とさずにナポレオン2世の病室に直行した。
リスクも構わず献身的に看護していたゾフィー妃が驚くのも構わず、フランソワは車椅子を押して病室に突入した。
「あ、あなたは」
「ロザリーです。お話、が。
アントワネットさまは、毎夜、明日は断頭台という夜中まで、お手紙を書いておられました」
「!!」
メッテルニヒが従僕に小声で、皇族が受け取った手紙を持ってくるよう命じた。
「ご家族に。ご自分ではなく、残していく子供たち、ほかのご家族にも。
髪は、あの黄金のおぐしが白くなり、そして体の下から常に血が流れている、刑がなくともそのまま一月もすれば亡くなるであろう苦しみの中。
わたくしがレンガを温めても、それが無駄なほどの寒さでした、あの牢獄は。
それでも、あの方は、最後の、最後の瞬間まで、つよく、けだかく……与えたのです。強かったのです。
お返しに上がりました。わたくしがいただいた愛を。いただいたのです。食べきれないほど。
アントワネットさまのご家族に、お返しするのです。フェルゼンさま、オスカルさま、かわって、与え」
そう言ってロザリーは意識を失った。
フランソワは深く頭を下げ、車椅子を押して退出しようとした。
「待ってくれ……フランソワ……与えたい、ぼくも。その、文箱を」
と、近くの、愛用の文箱を、激しくせき込み血を吐きながら、指が動かず目で指す。
「もう、手紙も書けない……その、箱を。中身など出して。
……この紋章は迷惑に、なってはいけない。白く塗りつぶしてくれ」
ナポレオン1世・帝国の鷲でもない。蜜蜂もない。ハプスブルク家の双頭の鷲でもない。奇妙な遠慮の塊のような紋章。それも潰せと。
ゾフィーの目配せを受けたディートリヒシュタインがうなずき、箱を持って去った。
「生きる、ふさわしく、与える、最後まで」
喀血とともに苦しい言葉が漏れ続ける。
翌朝、窓の光を浴びながら、車いすに座ったままロザリーは息絶えた。フランソワに手を握られて。
ライヒシュタット公フランツ=ナポレオン2世は、それから数週間、死に物狂いで生きた。
やっと駆け付けた実母マリー・ルイーズを許した。
あまりにも若く、結婚もまだの身で死んでいった……
レティツィア・ボナパルトにローマから出る許可はなかった、マリー・ルイーズからの手紙が届きフェッシュが代返するのが精いっぱいだった。嘆きはこの上なく深かった。
その悲しみがあまりにも大きく、関係者のロザリーへの悔やみはごく小さかった。棺もスウェーデンにすぐ送った。
だがそれは、フランソワとメッテルニヒの情報操作の成果でもある。
フランソワには見えていた。
目の前でとてつもないものを見たゾフィーや宮廷雀。
ナポレオンの名を求めるパリの民。
発達し続けている、新聞。まだ幼いからこそ獣のように凶暴に、人を食い荒らす怪物。
フランソワは、母を失った悲しみを押さえ、メッテルニヒに頼んだ。
「おまえ……」
「決して、オーストリア、イギリスなど、閣下の損にさせることはしません。また、祖国スウェーデンと、ジャルジェ家など私が恩を受けている人たちの得になるようにすることもお許しください。
神話の食卓を汚すハルピュイアのようなやからに、母上とライヒシュタット公は絶対に渡さない」
「ベルナールの、息子だな……あの新聞屋、血は争えぬか」
メッテルニヒとフランソワの合作による情報操作。
ウィーンの民には情報を押さえ、たいしたことではないようにする。複数の嘘をぶつかり合わせる。ほかの事件を混ぜ、味を調整するように話題を変え興味を操る。ゾフィーの美しさ・信仰・賢さ・慈悲深さ、やっと生まれた男子……のちのフランツ・ヨーゼフ1世とマクシミリアン……のかわいらしさを強調する。
パリの民にも別の多くの、本当は大したことのない事件をセンセーショナルな事件に仕立てて流すことで、ロザリーの存在感を減らす。同時にオスカル、黒い騎士、黒衣の伯爵夫人などの伝説を、書いたのはフランソワだが別の作家に原稿料と名誉が行くようにして大騒ぎにさせる。それでジャルジェ家の名誉を、容認できるように上げる。事実を流せば爆発するが、その程度なら、と。
ジャルジェ家のオスカルを知る当主は、
「オスカルさまならば是とするだろう。わが家の娘といってよいロザリーとオスカルさまが、シェーンブルンを落城させたのか」
とつぶやいたという。
ポリニャック家・現フランス王室・亡命王室にはロザリーを利用宣伝させないかわり、そのものに慈善事業をさせ大きく宣伝して売名させ、さらにパリの貧民の飢えを軽減する。
だが、遠くにいて孫の死を知らされたオーストリア皇帝フランツ1世、アントワネットの生き残った娘マリー・テレーズ・シャルロット(アングレーム公爵夫人)、ジャルジェ家やポリニャック家、ボナパルト家の長男、ウージェーヌの家族、イギリス幹部ら重要な人にはメッテルニヒ自らが詳細で正確な事実を書き送った……それこそ、
(黒衣の伯爵夫人の殺人人形の話よりとんでもない、まるっきり聖女物語……)
なのだが。
メッテルニヒは、激しい悲しみの中激務を続けるフランソワに、静かに語りかけた。
「恐ろしい男になった……大砲を持つ幼子が、倍の射程と威力を持つ大砲を正確に操る砲兵隊長となってしまった。恩という遺産も百倍にした、どうやって持てばいいかわからんほどに。汚泥にまみれる強さも身につけた。
今のおまえには一国も、革命も、帝国も、パンを買うよりたやすいだろう。一人の母の名誉を守るほうが帝国を作るより難しく、貴いか。
それでなにをするのだ……」
「ライヒシュタット公閣下に申しあげたとおりです。スウェーデンのため、恩人のために死にます。出世や贅沢は求めません。
座ってスープを食べる『肉ある人』の友ですが、ボナパルト帝国という座れないのは仇です」
「もっと知ればよかったのかもしれん……わかっているだろう、私が暗殺したという噂もばらまいたが、この世で最もあの方に死んでほしくなかったのは、ゾフィー様でもマダム・メールでもなく、私だ」
「別のボナパルト、ですね。手元の性格も知る大きい火より、遠くの知らない小さい火が燃え広がるかもしれない」
両方が一人の男を思い描いている。レティツィア・ボナパルトも心配した冒険の気が強いシャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト。……1世の甥、のちのナポレオン3世。
「さて、もう一度手紙を書かなければ」
「帰りに私自身も行きます」
「よせ、ジャルジェどのにお願いしている。お怒りが冷えてからだ。おまえはローマのマダム・メールに知らせ、それからロンドンで顔を売ってスウェーデンに帰れ」
マリー・テレーズ・シャルロットは、メッテルニヒの詳細な手紙を受けて怒った。
『母アントワネットの愛なら娘の自分が受け取りたかった。アントワネットの代理を名乗るなら自分のところに来てほしかった。想像します、実際には若く死んだ母が、老いて看病……そうしたかったように彼女を母と思って孝行を尽くして看取り、豪華な葬儀を出したものを。貴重な愛を憎いボナパルトが受け取るなんて。母の最期のけだかさをまとって見せられたのならば、この私の目に焼きつけたかった』
と。
なんとか、ロザリーが愛を返したのはボナパルトではなく、アントワネットの親戚なのだ、と説得している。
なお、何とも言えないことがある。
はるか後……フランスを征服したアドルフ・ヒトラーは、すでに併合していたオーストリアの墓所から、ナポレオン2世の棺を1世の隣に移した。
フランスが百年近く要求し、断られ続けたこと。
憧れた征服者へのプレゼントかもしれない。フランス人にとってこれ以上の尊厳破壊はない。善意だったとすれば、それはどんな悪よりも悪い。
もしもその時のヒトラーの心を客観的に表示でき、それが軽蔑・サディズム・プロパガンダなど悪意ならばまだいい……善意であればあるほど、フランス人の屈辱は増すという奇妙なことになった。
※ミュージカル「エリザベート」の、あのゾフィーの若い頃。人妻でナポレオン2世の死とほぼ同時に息子たちが生まれています。若い頃は超絶美人、頭もとんでもなくよかった……