※メッテルニヒの指示で、ロザリーの死の直後・二世の死の直前、メッテルニヒ自身・ゾフィー・名はないが下級貴族でフランス語の読み書きもできる従僕が、起きたことをそのまま書く~宮廷内印刷機で、一ページずつ別の人が版を組み版のみ目校正で決まった部数印刷~活字をばらす~封筒に入れ、極秘外交便で送るべき相手に送った。
宛先は二世の死の当時離れた宮殿にいた、彼を溺愛していた祖父のフランツ一世皇帝、ポリニャック家、ジャルジェ家、スウェーデン王室、ボナパルト家、ジョゼフィーヌ系係累、イギリスのウェリントン公爵など。
〇メッテルニヒ
以下の話は全て事実であると、名誉にかけて誓います。
また当事者、ゾフィー〔当時の敬称〕さま、もう一人の従僕***と口裏を合わせていません。別々に原稿を書き、宮廷内で印刷しました。
宛名本人のみが読み、読後焼却を伏してお願いいたします。その後、後継者への口伝、実務なども賢明を信じております。
先に、四人の人物の生い立ちを紹介させてください。
オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ
1755年生、フランスの武門レニエ・ド・ジャルジェ伯爵の末娘。男子が生まれぬため男として育てられ、輿入れされたマリー・アントワネットさまの近衛として近衛連隊長。至誠、剣術は当代屈指とされる。
後にフランス衛兵隊に異動し、1789年のバスチーユの戦いですべてを捨てて民衆側に立って戦死。
ロザリー・シャトレ
旧姓ロザリー・ラ・モリエール。
実母はマルティーヌ・ガブリエル・ド・ポリニャック、父はヴァロア家の血筋の私生児。
市井で別の養母ラ・モリエールに育てられ、養母の事故死をきっかけに、上のオスカルに仕えジャルジェ家で遠縁として学と礼儀を学び宮廷にも一時出仕。後に素性が判明しポリニャック家に引き取られ、その後ベルナールと結婚し市井で生活。
マリー・アントワネットさまの最期、夫の地位を用いて牢獄でのお世話を志願。断頭台の朝まで愛と誠意をもってお仕えされたことはジャルジェ伯爵・メルシー伯爵が誓約しております。彼女が示されたリボンは高級店の刺繡入りで、店主が亡命時持参した記録で確認可能な一点ものである。
オスカルの縁により、元フランス衛兵隊のアラン・ド・ソワソン将軍と家族同然でもあった。
後、後述するナポレオン暗殺未遂事件で息子フランソワと共に、旧知のハンス・アクセル・フォン・フェルゼン伯爵を頼りスウェーデンに亡命。
1828年に一度ウィーンに来て、皇帝家に歓迎される。大きい歓迎や報酬は一切望まなかった。
ベルナール・シャトレ
パリの新聞記者。マクシミリアン・ロベスピエールやスタール夫人とも親しい。
若い頃、黒い騎士の名で義賊として活動していた、その事情の多くは秘す。
ロザリーと結婚し、新聞記者・革命委員としてフランス革命に貢献。強硬なジャコバン派と言えるが、良心が強い。
ブリュメール18日クーデターに一家ぐるみで貢献し、官房長官の職を提示され辞退。
ナポレオン戴冠の直前、アラン・ド・ソワソンとともにナポレオン暗殺未遂を起こし、二人とも射殺される。
フランソワ・シャトレ
ロザリーとベルナールの息子。1789年に生まれる。
幼いころからスタール夫人の元で学び俊英と評価される。
スウェーデンに亡命、帰化。
王立図書館の法務部門に勤務、学識を評価され皇太子の教育係となる。
1828年、ローマで遊学後ウィーンにスウェーデン大使補佐として着任、私メッテルニヒの客として実務を学ぶ。きわめて優秀かつ誠実。復讐心や過激思想はない。
アラン・ド・ソワソンの相続者でもあることに留意されたし。
1828年にシャトレ母子はウィーンに来訪、皇帝一家に非公式に歓迎され、ライヒシュタット公とも親交を結ぶ。
1832年、ライヒシュタット公の危篤を連絡されたロザリーは、自らも危篤の状態にありながらウィーンに旅立ち、マリー・アントワネットの代理を私的に名乗ってライヒシュタット公を見舞って翌朝死去。
その権威は皇族皆が非公式に認める。
私とフランソワは、この件が諸国・諸卿の災いとなることを懸念しております。貴族平民問わず愚かな人々は、この話をむさぼり、関わる者を深刻に貶めて楽しむであろう、と。
私たちは、ロザリーの御霊の安らぎ、ライヒシュタット公の名誉のためにいくつかのことをする所存です。すべての関係者の利益となるように心がける。協力をお願いいたします。
また、シャトレ母子にふさわしい敬意を払うことを求めます。
署名
※ボナパルト家限定の追伸
ロザリー・シャトレは、1828年より、マリア・レティツィア・ボナパルトの全権委任を持っている。
ボナパルト一家がコルシカからマルセイユに移ってしばらくシャトレ一家はレティツィアらと家族同然に過ごしていた。
ロザリーもフランソワも、ライヒシュタット公に対しても完全に穏当であり、乱を求めず正しく身を処すことのみを言った。
ライヒシュタット公は、ベルナール・シャトレとアラン・ド・ソワソンの赦免、シャトレ家との友情を署名された。
最期の見舞いも口にしなかったがマダム・メールの代理を兼ね、公にとり大きな力づけとなったことは間違いない。
決して忘れませぬよう。
署名
〇ゾフィー
これより書くことが真実であることを主とわが名誉にかけて誓います。
1828年に、シャトレ母子はウィーンを訪れました。何度かロザリーさまにマリー・アントワネット様のご最期の日々や、ありし日のベルサイユ宮殿のすばらしさをうかがいました。
御子息のフランソワさまはメッテルニヒ大臣を手伝われ、きわめて高く評価されております。
わたくしも一度お話をうかがいましたが、その生い立ちも興味深く、学識も人格も高いお方でした。
そして1832年。
わたくしは親戚でもあるライヒシュタット公の看病をしておりました。
その日の夕方、突然にその母子はいらっしゃいました。
車椅子の、息を引き取られそうな瀕死の老婦人と、悲しみに打ちひしがれたその御子息。
他のものに目もくれず、ただ病床のフランツさまだけをお二人は見ておりました。
ロザリーさまは、何よりもアントワネットさまの最期のことを語られました。
最後の夜中まで、拝見したこともあるご家族への手紙を書き続けられたのだと。おぞましい石牢で、身の毛もよだつ体調を押して。己のことがなく、ただご家族を愛したのだと。
ロザリーさまはアントワネットさまに食べきれぬ愛をいただいた、アントワネットさまのご親戚であるライヒシュタット公にお返しに上がった、とおっしゃられました。
そのお口からハンス・アクセル・フォン・フェルゼン伯爵、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ女伯爵のお名がありました。
御子息フランソワさまとのお話から、フェルゼン伯爵もオスカル女伯爵もお命があればアントワネットさまのために迷わず捨てたであろう、代わりにロザリーさまがお命を捧げる、ということだとわかりました。
すぐにロザリーさまは意識を失われました。フランツさまはそのお言葉を受け取り、心を取り直されました。
ロザリーさまは翌朝亡くなられました。
それからフランソワさまもたびたびお見舞いにいらしておりますが、むしろ恐ろしいお悲しみの中、メッテルニヒ宰相と共に働いてくださっております。それがお母上と、ライヒシュタット公の名誉のためと聞き、尊敬の念を強めております。
あの時のロザリーさまには、間違いなく、気高さがありました。まるで外套のように、実際のものという実感を持って。
断頭台の朝のアントワネットさまがどれほど誇り高く、どれほど気高く、フランスの女王として胸を張って歩かれたか、そこにいたように明らかにわかりました。
ロザリーさまはその外套をアントワネットさまから受け取り、その外套をまとわれて病室におもむき語り、その外套をライヒシュタット公に渡されたのです。
フランツさまはしっかりとその外套を受け取り、まとい続け、全ての人に配られました。
聖書のコリント人への第一の手紙13章4-7節そのままでありました。
まぎれもなく、フランス王妃マリー・アントワネット様が天国よりつかわされた代理であらせられたと実感しております。
お心とお心で、この会話が聞こえたように思えます。
「もう死ぬ、何事もなせなかった自分には価値がない」
「アントワネットさまは死ぬ日と時を何日も前から知っていた、その最後まで手紙を書き、ご家族に与えたのです。あなたにも最後まで価値があります。命を懸けてあかしします」
「そうだ、アントワネットさまに比べれば自分は恵まれている、この自分も最後の息まで与えることに使う、アントワネットさまの親戚としてふさわしく」
と。
息を引き取るその時まで、人は神に奉仕し、隣人に与えることができるのです。その時まで、人には価値があるのです。
ロザリーさまとフランツさまは、その生命をもってそのことをあかししてくださいました。
口だけではなく、本当に生命を捧げるということを、目の当たりにしてしまいました。
ロザリーという女性は、最後のわずかな月日を安楽な病床で友に見守られて過ごすのではなく、あのお体では拷問台に等しい馬車と船に身を投じたのです。そばには御子息一人だけの孤独に耐えられたのです。
御子息も、その苦しい旅をやりとおしたのです。
また母子とも、いかなる爵位・地位・金銭も断られたことも添えておきます。もちろん列聖に至る道も絶対に断る、と。
ロザリーさまの名誉のため、名声すらも消すお覚悟を御子息よりうかがいました。
フランソワさまがこのことを私利私欲に、またお国の短い利益に使おうと思えばなにができるかお考え下さい。そのすべてを捨てられたのです。
アントワネットさまの件だけでもどう返してよいかわからない、さらにハプスブルク家そのものが、筆に尽くせぬ恩を受けてしまったことを名誉にかけて告げます。
どうかロザリーさまの御霊が神と御夫君と、マリー・アントワネットさまのみもとで安らげますよう、またライヒシュタット公のことも、心の底より祈っております。
署名
〇名もない従僕
私はライヒシュタット公フランツ閣下の従僕として、看病の補助をしておりました。
そこに突然、小さな騒ぎと共に、車椅子の瀕死と思える老婦人と、その車椅子を押すその御子息が入ってこられました。
本来ならばお止めすべきでしょう。しかし動けませんでした。
そのお二人には数年前に見覚えがありました。
老婦人のほうは何度も皇帝陛下らに、ごく私的に、秘密裏に謁見しておられました。ほかの貴族の皆様との付き合いはありませんでした。
その息子さまであるフランソワどのは、メッテルニヒ様の従者として顔と名前を覚えました。
人と会うことに厳重な制限があるライヒシュタット公が何度か珍しくお会いになれた方です。
平民ではあるが侯爵家待遇を秘密裏に命じられており、従いました。
お二人ともご自分の身分を低く思っておられるようで、大変に礼儀正しく親切なお方でした。ただしお母上には威厳がございました。
私は少し遠ざけられ、細かな会話は聞いておりません。
ただ、その今生きているのが不思議な老婦人からは、ある気配を感じました。
昔、三帝会戦に従軍した折、沼を這う音がしたので誰何したところ、同郷の顔見知りの兵が這っていました。
腹から内臓が出ているほどの重傷、生きているわけがない状態で這い、私に、上官に命じられた通信文を渡し、満足して死んでいきました。
その笑顔でした。その苦痛と覚悟でした。
それ以降、病床のライヒシュタット公閣下は明らかに変わりました。
戦場で人が変わり、最後まで戦い抜く、と覚悟を決めた兵士のようになられました。
あのお二人の素性は存じ上げません。
メッテルニヒ公の命令を受け、見たことをそのままに書きつけたことを誓います。
署名