怪盗は、お隣の天使様を甘やかしたい 〜世界を救った男の二度目の高校生活〜 作:スバルック
「……あの、藤宮さん……ではなく、雨宮さん、ですよね?」
隣の部屋の前に立っていたのは、噂通りの整った容姿をした少女——椎名真昼だった。
彼女はスーパーの袋を下げた俺の手元と、整然とした部屋の玄関を交互に見つめ、少し困惑したように瞬きをしている。
「ええ、今日引っ越してきた雨宮蓮です。よろしく、椎名さん」
都会での「あの騒動」を終え、保護観察も明けて地元へと戻ってきた春。
静かに高校生活をやり直すつもりだった俺の前に現れたのは、学校で『天使様』と呼ばれているらしい、少し寂しげな瞳をした隣人だった。
「……その、お一人暮らしとお聞きしたので、もし食事などでお困りなら……と思ったのですが」
彼女の視線の先には、俺がキッチンで煮込み始めたばかりの、スパイスの香りが漂うカレーの鍋。
「……ものすごく、本格的な香りがしますね」
「喫茶店で仕込まれたんだ。よかったら、椎名さんも食べていく?」
そう言って微笑むと、彼女は「天使様」の仮面を少しだけ崩し、耳まで赤くして固まってしまった。
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雨宮蓮は、運ばれてきた湯気立つスープを一口含み、微かに目を細めた。
「……美味いな。コンソメの出汁がちゃんと取れてる」
「……当たり前です。料理を振る舞う以上、手抜きはしません」
向かいに座る椎名真昼は、どこか警戒心を残した瞳で蓮を見つめている。
本来なら、一人暮らしを始めたばかりの男子高校生に「食事の世話」を焼きに来るはずだった。それがどうだろう。蓮の部屋のキッチンには、プロ顔負けのスパイスの瓶が並び、手際よく作られた隠し味たっぷりのカレーと、淹れたての芳醇なコーヒーが用意されていたのだ。
立場が完全に逆転してしまっている。
「椎名さんは、普段からこうやって一人で完璧にこなしてるのか?」
「……ええ。誰もやってくれませんから。自分のことは自分でやるのが当然です」
真昼の声には、高校生らしからぬ淡々とした諦念が混ざっていた。
クラスでは『天使様』と呼ばれ、誰にでも完璧で分け隔てなく接する彼女。だが、その瞳の奥には、東京で数々の「心の闇」と向き合ってきた蓮にとって見慣れた、深い孤独の影が落ちている。
(親との確執、か……あるいは、誰にも甘えられない環境で育ったか)
蓮は追及するように踏み込むことはせず、ただ静かにコーヒーカップに手を伸ばした。
人間ステータス「優しさ」と「知識」がカンストした男の立ち振る舞いは、相手に威圧感を与えず、それでいて確かな安心感を抱かせる。
「無理に完璧でい続ける必要はないと思うけどね。たまには誰かに頼ってもいいんじゃないか」
「……私に、そんな人は必要ありません」
真昼が少しだけ感情を硬くして俯いた、その時だった。
「ナー」
蓮の鞄の中から、黒い猫がひょっこりと顔を出した。モルガナだ。
「あっ……猫……?」
一瞬で真昼の表情が解けた。完璧な『天使様』の仮面が剥がれ、年相応の少女らしい目が輝く。
「おい蓮、この女子高生、めちゃくちゃ心が弱ってるぞ。お前の得意な『愚痴聞き』でもしてやったらどうだ?」
モルガナの鳴き声は真昼には「ナアナア」としか聞こえないが、彼女はすっかり毒気を抜かれたように膝の上にモルガナを抱き上げた。
「……かわいいです。名前は?」
「モルガナだ。ちょっと生意気だけど、人懐っこいよ」
「モルガナちゃん……ですか。ふふ、よろしくお願いしますね」
モルガナを優しく撫でる真昼の横顔を見つめながら、蓮は静かに口を開く。
「椎名さん」
「はい?」
「俺でよければ、たまには夕飯、一緒に食べないか。料理のバリエーションなら、まだまだある」
真昼は一瞬驚いたように目を見張り、それから照れくさそうに視線を泳がせた。
「……それじゃあ、私が『お世話』しに来た意味がないじゃないですか」
「じゃあ、日替わりで当番にしよう。君の料理も、もっと食べてみたい」
すっと自然に、一切の嫌みなく提示された提案。
断る理由を見失った真昼は、頬を微かに赤く染めながら、小さく頷くしかなかった。
「……生意気な隣人さんですね。でも……ごちそうさまでした。美味しかったです」
こうして、世界を救った元・怪盗と、心を閉ざした『天使様』の、不思議で少し甘いお隣生活が幕を開けた。