怪盗は、お隣の天使様を甘やかしたい 〜世界を救った男の二度目の高校生活〜 作:スバルック
夕飯のハンバーグを平らげ、皿洗いを交代で済ませた後、真昼はどこか落ち着かない様子で自分の部屋へと戻っていった。
夜の九時を過ぎた頃。
雨宮蓮はマグカップに淹れたてのルブラン風コーヒーを注ぎ、網戸を開けてベランダへと出た。
春の夜風はまだ少し肌寒いが、火照った頭を冷やすにはちょうどいい。星のない夜空を見上げながらコーヒーを啜っていると、隣のベランダから小さく網戸の開く音が聞こえた。
「……奇遇ですね、雨宮さん」
磨りガラスの仕切りの向こうから、鈴を転がすような、けれど少しだけ疲労の滲む声が響いた。
「椎名さんも、夜風に当たってたのか?」
「……ええ。少し、色々と考え事をしていて」
仕切り越しでも、彼女がベランダの手すりに寄りかかり、夜の街を見下ろしている様子が気配で伝わってくる。
「……待ってて」
蓮は一度部屋に戻り、もう一つのマグカップに温かいホットミルクを注いで、再びベランダに出た。そして、仕切りの下にある僅かな隙間から、そのマグカップをそっと隣へと差し出す。
「え……?」
「少し冷えるからね。甘いものの方が、頭も休まるだろうと思って」
「……準備がいいんですね、本当に」
戸惑いながらも、真昼の白い手がマグカップを受け取る。ふわりと甘い湯気が立ち上り、隣から小さく息をつく音が聞こえた。
「……雨宮さんって、不思議な人ですね」
ホットミルクを一口飲んだのだろう。真昼の声は、学校での『天使様』のような張り詰めたものではなく、年相応の無防備なものに変わっていた。
「不思議?」
「はい。だって……料理も完璧で、クラスの男子に絡まれても全く動じなくて。……それに、私のことも、ただの『椎名真昼』として扱ってくれる。あなたを見ていると、同い年の高校生とは思えないくらい、達観しているというか……何か、大きなものを背負ってきたような、そんな気がするんです」
真昼の鋭い観察眼に、蓮は思わず苦笑した。
(さすがに、世界を滅ぼそうとした神様と喧嘩したとは言えないな)
だが、彼女が真摯に自分に向き合おうとしてくれているのは分かる。蓮は手すりに肘をつき、夜空を見上げながら静かに口を開いた。
「……去年、ちょっと色々なことがあってね。謂れのないレッテルを貼られて、知らない街に放り出されて……理不尽な大人たちとも随分ぶつかった」
「レッテル……」
「でも、そこで大切な仲間たちに出会えた。喫茶店のマスターにコーヒーの淹れ方を教わったり、闇医者に薬の知識を教わったり、……まあ、とにかく濃い一年だったよ。今の俺があるのは、その経験のおかげだ」
隠し事はしていない。ただ、日常の言葉に翻訳しただけの真実。
その言葉の裏にある「理不尽」という響きに、真昼はハッとしたように息を呑んだ。彼女自身も、両親からの愛情を得られず、周囲からは『天使様』という偶像(レッテル)を押し付けられて生きている。
「……辛く、なかったんですか?」
「辛かった時期もある。でも、一人じゃなかったから乗り越えられた」
蓮は仕切りの向こう側にいる真昼へ、優しく、けれど力強い声で告げた。
「だから、椎名さんも一人で抱え込む必要はないって言ったんだ。……君が無理をして『天使』の仮面を被り続けるのが苦しいなら、いつでも俺の部屋に逃げてくればいい」
「逃げる、なんて……そんなの……」
「俺は、こう見えて『奪い去る』ことには自信があるんだ」
元・心の怪盗団リーダーとしての、不敵で、甘い囁き。
それは冗談のようにも聞こえたが、声に込められた絶対的な安心感は、真昼の心の奥底にまで真っ直ぐに届いた。
「〜〜っ……! あ、雨宮さんは、本当に……無自覚なタラシ、です……っ!」
仕切りの向こう側で、真昼がしゃがみ込む気配がした。きっと今頃、顔を真っ赤にしてマグカップを両手で抱え込んでいるに違いない。
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めてません……っ!」
夜の静寂に、真昼の照れ隠しの抗議が小さく響く。
春の夜風は冷たかったが、ベランダ越しに共有する時間だけは、溶けるように温かかった。部屋の奥で、丸まって眠るモルガナの寝息が微かに聞こえる。
怪盗としての役目を終え、ようやく手に入れた穏やかな日常。
その隣には、彼がこれから不器用に甘やかし、その心ごと盗み出してしまうであろう、一人の可愛らしい天使がいた。