怪盗は、お隣の天使様を甘やかしたい 〜世界を救った男の二度目の高校生活〜 作:スバルック
買い物から戻り、二人は蓮の部屋のドアをくぐった。
重い荷物をテーブルに置くと、蓮はすぐに腕まくりをし、手際よく手洗いと消毒を済ませる。その無駄のない洗練された動作に、真昼は感心したような、少し悔しそうな視線を向けた。
「……本当に、手際が良いですね。普段からやり慣れていないと、そんなにスムーズには動けません」
「東京での居候先が喫茶店だったからね。マスターの手元を毎日見てたら、自然と身についたんだ」
蓮は微笑みながら、冷蔵庫から先ほど買ったばかりの新鮮な春キャベツとベーコン、それににんにくを取り出した。
「今日は春キャベツとベーコンのオイルパスタにしようと思う。椎名さん、野菜を洗うのを手伝ってもらえるか?」
「はい、喜んで」
真昼は嬉しそうにエプロンを取り出した。自前の、可愛らしい薄ピンク色のエプロンだ。買い出しの途中で一旦自分の部屋に寄り、持ってきていたらしい。真昼がエプロンの紐を後ろで結ぼうと手を回すが、少しもたついていた。
「手伝おうか?」
「えっ……あ、大丈夫です、自分で……」
真昼が焦って振り返った瞬間、すでに蓮の手がそっと真昼の腰の後ろへ回っていた。
ふわりと舞い散る、彼女の髪の甘い香り。息が届きそうなほどの至近距離に、真昼は完全に身体を硬直させた。蓮の指先が手際よくリボン結びを作り上げると、すっと体温が離れていく。
「はい、できたよ」
「〜〜〜っ! あ、ありがとうございます……っ」
カンストした「器用さ」と「魅力」の無自覚な破壊力に、真昼は耳まで真っ赤にして俯き、心臓を激しく打ち鳴らしていた。
気を取り直した二人は、狭いキッチンで並んで調理を始めた。
真昼が丁寧に洗ったキャベツを、蓮が包丁で切り分けていく。トントントン、と軽やかでリズム良い音が響く。均一な大きさに切り揃えられたキャベツを見て、真昼は思わずため息を漏らした。
「包丁捌きまでプロ並みなんですね……。私が『お世話』をする余地が、本当になくて困ります」
「そんなことないよ。椎名さんがキャベツを丁寧に洗ってくれたおかげで、仕上がりが全然違ってくる。料理は準備が一番大事だからね」
何気ない一言で自分の存在を肯定してくれる蓮の「優しさ」に、真昼の心が温かいもので満たされていく。
フライパンにニンニクとオリーブオイルを入れ、弱火でじっくりと香りを引き出す。香ばしい香りが部屋いっぱいに広がると、ソファーの上で丸くなっていたモルガナが鼻をひくひくさせながら起きてきた。
「おい蓮! 良い匂いがしてきたぞ! ワガハイの分の魚料理はまだか?」
「モルガナちゃん、待っててね。パスタが出来たら、ちゃんとお魚のスープを作ってあげるから」
真昼が優しく声をかけると、モルガナは「ふん、真昼が言うなら待ってやるか」と嬉しそうに尻尾を振った。
フライパンにベーコンと春キャベツを投入し、茹で上がったパスタと手早く絡める。隠し味に自家製の昆布だしをほんの少し加えるのが、ルブランで学んだ蓮オリジナルの隠し味だった。
「はい、召し上がれ」
テーブルに運ばれた二皿のパスタ。色鮮やかな緑とピンクが映え、湯気と共に食欲をそそる香りが立ち上っていた。
「……いただきます」
真昼はフォークでパスタを綺麗に巻き取り、口へと運んだ。
噛みしめた瞬間、彼女の丸い瞳がさらに大きく見開かれた。
「……! キャベツの甘みとベーコンの塩気が、すごく引き立っています……。それに、オイルパスタなのに全然くどくない……和風の出汁のコクがありますね?」
「正解。やっぱり椎名さんは舌が肥えてるな。隠し味に少しだけ昆布だしを使ってるんだ」
「……美味しいです。ものすごく、美味しいです……っ」
どこか悔しそうに、けれど本当に嬉しそうにパスタを頬張る真昼。
完璧主義で、自分に厳しく生きてきた彼女が、蓮の前では年相応の少女らしい表情をコロコロと見せるようになっていた。
「おい蓮、ワガハイのご飯は!?」
「はいはい、モルガナもな」
蓮はボイルした真鯛のほぐし身に温かい出汁をかけた特製スープを器に盛ってやった。モルガナは「うおー! さすが蓮、分かってるじゃねーか!」と夢中で食べ始める。
賑やかで、どこか温かい昼食の時間が過ぎていった。
食後、食器洗いを申し出た真昼に対し、蓮は「今日は買い出しに付き合ってもらったから」と彼女をソファーへ促した。そして、ルブラン直伝の淹れたてコーヒーと、真昼用のミルクたっぷりのカフェオレを用意する。
「どうぞ、椎名さん」
「……ありがとうございます」
カフェオレを一口飲んだ真昼は、ほうっと深い息を吐いた。
午前中の買い物と、美味しい食事、そして心地よいコーヒーの香り。さらに、蓮の部屋を包む絶対的な安全地帯のような空気感が、彼女の緊張を完全にほぐしていた。
(学校では、ずっと張詰めていましたからね……)
蓮は静かに自分のコーヒーを嗜みながら、隣の真昼を見守っていた。
真昼の瞼が、次第に重そうに下がり始めている。普段、誰にも隙を見せず『天使様』を演じ続けている彼女の身体には、自覚以上に深い疲労が溜まっていたのだろう。
「……雨宮、さん……私……少しだけ……」
言い終わる前に、真昼の頭がこてんと横に傾いた。
そのまま、彼女の身体は蓮の肩へと静かに預けられた。
ふわりと漂う、シャンプーの甘い香り。規則正しい小さな寝息。
完全に無防備な姿で、真昼は蓮の肩に頭を預けたまま、すやすやと眠りに落ちてしまった。
「おい蓮……これ、どうすんだ?」
魚を食べ終えたモルガナが、忍び足で寄ってきて小声で尋ねる。
「……静かにしてやってくれ。ずっと気が張ってたんだと思う」
蓮は極力動かないように息を殺し、カンストした「度胸」と「優しさ」で彼女の存在をしっかりと受け止めた。そして、片手でそっとソファーの背もたれにあった薄手のブランケットを引き寄せ、真昼の肩に優しくかけてやった。
真昼の寝顔は、学校での冷ややかな「天使様」の面影など微塵もなく、幼く無邪気で、守ってあげたくなるような愛らしさに満ちていた。
数々のパレスを攻略し、人の悪意や闇を砕いてきた元怪盗リーダーの腕。
その腕は今、世界を救うためではなく、目の前の傷ついた少女の眠りを守るために使われていた。
「……お疲れ様、真昼」
初めて、苗字ではなく名前で小さく呼びかけた。
真昼は夢の中で安心したように、蓮の服の裾をキュッと小さく握りしめ、彼の肩に深く顔を埋めたのだった。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
西日が部屋の窓から差し込み、室内をオレンジ色に染め始めた頃。
「……ん……」
小さく身悶えし、椎名真昼はゆっくりと意識を取り戻した。
肌に触れる温かい毛布の感触。そして、鼻腔をくすぐる香ばしいコーヒーと、自分のではない体温。
ふと視線を上げると、すぐ間近に雨宮蓮の綺麗な顎のラインと、静かな横顔があった。
自分は、彼の肩に頭を乗せ、彼の服の裾をしっかりと握りしめたまま熟睡していたのだ。
「……っ!?!?!?」
理解が追いついた瞬間、真昼の顔が一瞬で沸騰したかのように真っ赤に染まった。
弾かれたように跳ね起き、ソファーの端まで後退する。
「あ、あ、雨宮さんっ!? 私、私、私……っ!?」
「おかえり、真昼。よく眠れたか?」
蓮は腕の痺れを少しだけほぐしながら、何事もなかったかのように優しく微笑んだ。真昼は自分の名前を自然に呼ばれたことにも気づかないほどパニックになっている。
「な、なぜ止めなかったのですか!? 男性の前で寝てしまうなんて、私、失礼すぎます……! それに、肩、重かったですよね……っ!?」
「全然。羽みたいに軽かったよ。それに、すごく安らかな顔をして眠ってたから、起こすのが邪魔かなと思って」
「〜〜〜っ!!!」
蓮の「魅力」全開のストレートな言葉に、真昼は両手で顔を覆い隠してうずくまってしまった。指の隙間から覗く耳の先まで、真っ赤に染まっている。
「……バカ雨宮さん……。どうしてそうやって、平気な顔で恥ずかしいことを言えるんですか……」
「本当のことだからね。……君が俺の前で力を抜いてくれたなら、俺としては嬉しいよ」
蓮は静かに立ち上がると、真昼の前にしゃがみ込み、彼女の目線に合わせた。
伊達メガネの奥にある、深遠でどこか見通すような黒い瞳。だがそこには、溢れんばかりの温かさと慈愛が宿っていた。
「学校では無理してもいい。でも、ここに戻ってきたら、君は『天使様』じゃなくていいんだ。ただの椎名真昼でいてくれればいい」
「……雨宮さん……」
真昼の目から、ぽろりと小さな涙がこぼれ落ちた。
誰からも「完璧な天使」であることを求められ、両親からさえも見捨てられた自分。そんな自分を、ただの「自分」として受け入れ、優しく甘やかしてくれる存在。
ずっと求めていた温もりが、今、目の前にある。
「……ずるいです。そんなこと言われたら……私、本当にあなたに甘えてしまいます……」
「いくらでも甘えていいよ。俺の人間観察のスキルは、君を甘やかすためにあるようなものだから」
悪戯っぽく笑う元怪盗に、真昼は涙を拭いながら、恥ずかしそうに、けれど今までで一番綺麗な笑顔を見せた。
「……ふふ。生意気な隣人さんですね。……じゃあ、今日の夕食は、私が腕によりをかけて作ります。覚悟してくださいね?」
「楽しみにしているよ、天使様」
「……もう、からかわないでくださいっ!」
赤く染まる部屋の中で、二人の楽しげな笑い声が響き渡る。
世界の歪みを正した男と、心を閉ざしていた天使。二人の物語は、少しずつ、けれど絶対に解けない甘い絆で結ばれながら、静かに紡がれていくのだった。