パウロ転生 ー家族のために本気だすー 作:パウロ大好きマン
「わたし、ゼニス!」
無邪気な声が、名乗りとともに響く。
その瞬間、頭の中で何かが、ぐにゃりと歪んだ気がした。知っているはずがない。会ったことなんて、あるはずがない。
それなのに、胸の奥から、堰を切ったように何かが溢れ出してくる。
「……っ」
目の奥が、かっと熱くなる。堪える間もなく、頬を熱いものが伝った。
「え、お兄ちゃん、なんで泣いてるの!? どこか痛いの!?」
「……いや、違う。これは……」
何が、と聞かれても答えられない。ただ、無性に愛おしかった。目の前のこの子を、どうしようもなく大切に思う自分がいた。。
「ま、待ってて! すぐ治すから!」
ゼニスは慌てて両手を俺の顔の前にかざすと、さっき見た俺の真似をするように目をぎゅっと瞑り、唸り始めた。
「えっと……神の力は……? ひ、ひーりんぐっ!」
もちろん、何も起こらない。魔力もない。詠唱にもなっていない。ただの見様見真似だ。それでも、必死に手を伸ばしてくる小さな姿に、涙腺がますます緩んだ。
「……ぐすっ」
「も、もっと泣いちゃった! もっかいやるね! ひーりんぐっ! ひーりんぐっ!」
当然何も起こらないが、それでも真剣な顔で何度も手をかざし直す姿があまりにも不器用で、思わず笑いが込み上げてくる。
「……っ、ふっ」
「え、今度は笑いながら泣いてる!? やっぱり変だよ、お兄ちゃん!」
半泣きになりながら顔を覗き込んでくるゼニスに、どうにか笑って答える。
「大丈夫、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだから、心配しないで」
袖で涙を拭いながら、そう言った。
自分でもよく分からない気持ちだったけど、胸の奥に、あたたかい何かが残っている気がした。
────
落ち着いたところで気を取り直し、二人でゼニスの父親を探すことになった。
「えっと、どこではぐれたんだ?」
「あっちの方! 大きな噴水があるとこ!」
この街にまだ慣れていない俺には土地勘がなかったけど、噴水くらいなら案内板で見た覚えがある。とりあえず、その方向へ歩き出した。
しばらくすると、人通りの多い大通りへ出た。
周囲には買い物をする市民や商人、神殿へ向かう人々が行き交っている。すると、ゼニスが俺の服の袖をきゅっと掴んできた。
「はぐれちゃ、やだ」
「──なら、手を繋ごうか」
「うん!」
小さな手が、迷いなく俺の手を握ってくる。柔らかくて、あったかくて、思っていたよりずっと軽い。はぐれないように歩調を合わせながら、ゆっくりと歩いた。
「そういえば、お兄ちゃんって、どこから来たの?」
「アスラ王国だ。魔術を勉強するために来たんだ。特に、治癒とか解毒の魔術がすごいって聞いたから」
「治癒魔術……さっきの、キラキラの光! わたしも、ああいうの使えるようになりたい!」
「ゼニスならできるよ。俺が保証する」
「本当!? やったぁ!」
繋いだ手を、ぶんぶんと振り回しながら喜ぶゼニス。その無邪気さに、さっきまで泣いていたことも忘れて、俺の口元も緩んでいた。
────
しばらく歩き続けたところで、ようやく噴水広場が見えてきた。そこには、仕立ての良い服を着た男が、青ざめた顔をして辺りを見回していた。
「お父様ー!」
「ゼニス! 無事だったか!」
ゼニスが、繋いでいた手を離して駆け出す。男は、駆け寄ってきたゼニスを強く抱きしめたあと、改めてこちらに向き直り、丁寧に頭を下げた。
「娘を助けていただき、心より感謝申し上げる。私はラトレイア伯爵家の当主、カーライル・ラトレイアと申す」
「ご丁寧に。パウロ・ノトス・グレイラットです。ゼニスちゃんの膝が擦りむいていたので、治癒魔術で治療しました。もう傷は残っていないはずです」
「……! 重ね重ね、感謝申し上げる。あの剣才殿に娘が世話になったとあれば、ラトレイア家として礼をせざるを得ませんな。後日、屋敷にお招きして、正式に礼をさせていただきたい」
俺のことを知っていたのか。耳が早いな。さすがに貴族の情報網は侮れない。
「でも、そんな大したことじゃ……」
「そうおっしゃらずに。娘も、パウロ殿に来ていただければ喜ぶでしょう」
「お父様、ほんと!? お兄ちゃん、絶対来てね!」
「──わかった。遊びに行くよ」
ゼニスが、ぱっと顔を輝かせる。頭を撫でてやると、嬉しそうに目を細めた。
日も傾いてきたところで、俺は学校の寮へ戻ることにした。一礼して、きびすを返そうとした瞬間、裾をくいっと引っ張られた。
「……もう帰っちゃうの?」
ゼニスの顔が、一気に曇る。その顔を見ると、胸が締め付けられるような感覚がした。
「ほら、笑って送り出してくれよ。そんな顔してると、また泣きそうになるだろ」
「むー」
わざと茶化すように言うと、ゼニスは頬を膨らませながらも、ゆっくりと手を離した。
「ほんとに、また来てくれる? 約束して!」
「ははっ、わかった」
小指を立てて差し出してくるゼニスに、思わず笑みがこぼれた。小さな指に、自分の指を絡める。
「指切り!」
「指切り」
大きく手を振るゼニスと、丁寧に頭を下げるカーライルに見送られながら、俺は夕暮れの通りを歩き出した。
振り返ると、ゼニスはまだ、こちらに向かって手を振り続けていた。
────
ミリス神聖国に来て一年以上が経ち、俺は八歳になった。
生活のリズムは、もうすっかり体に馴染んでいる。
朝は礼拝堂での祈りから始まり、午前中は座学と魔術理論。午後は実技で、剣術と魔術の授業が交互に組まれている。
放課後は週に三回のカームとの稽古。それ以外の日は、ゼニスと街を歩くことが多くなっていた。
目まぐるしくも、充実した毎日だった。
──魔術の授業は、相変わらず座学が中心だ。
「本日は、中級解毒魔術について扱います」
教壇に立つ魔術教師が、分厚い教本を開きながら言う。
「初級では、単一の毒素、あるいは単純な病原に対する解毒が基本でした。中級からは、複数の毒素が混在する状態や、体内に広がった症状への対応が求められます」
俺は、かじりつくようにその話に耳を傾けた。この授業だけは、どれだけ聞いても飽きない。
「解毒魔術の肝は、対象の『状態』を正確に把握することです。ただ闇雲に魔力を流し込むだけでは、効果が出ないどころか、逆に負荷をかけてしまう場合もあります」
「先生、それって具体的にはどうやって見極めるんですか?」
「よい質問ですね。魔力を通した瞬間の、体内の反応を感じ取る──これは、実践の中でしか身につかない感覚です」
その日の実技では、重度の病気を再現したネズミを使い、解毒魔術をかける演習が行われた。
「対象の状態を、感じ取って……」
目を閉じて、魔力を通す。これまで漠然と流し込んでいた魔力に、初めて明確な「狙い」を持たせる感覚があった。
「清浄なる御手よ 我が眼前の身に巣食う穢れを見定めよ 巡りし血と脈打つ命より 絡みつく厄を断ち切り 蝕みし毒を退け 乱れし身体の流れを 正し清き命の巡りを 再びその身へと取り戻せ──エクスディトックス」
光が溶けるように染み込んでいき、しばらくして、ネズミが目を開けた。
「……! 先生、今の……」
「ええ、見事です。中級解毒魔術、習得おめでとう」
教師の言葉に、思わずガッツポーズが出た。これで、また一歩、前に進んだ気がした。
──カームとの稽古は、相変わらず厳しい。
「水神流は、剣神流とは根本から考え方が違います」
「ぜぇ……ぜぇ……。今日も、ボコボコにされた……!」
模擬戦の合間、息を整えながらカームが説く。
「剣神流は、突き詰めれば合理的な流派です。最速で、最短距離を、最小の動きで斬る。無駄を削ぎ落とした先にある強さです」
「じゃあ、水神流は?」
「水神流は、不合理の塊です。しかし、その不合理さの中にこそ、水神流の真髄がある。合理性だけを追い求めていては、水王以上には届きません。精神面──心が大事なのです」
「は、はぁ……」
分かるような、分からないような話だった。それでも、頭の片隅に刻み込んでおく。
「それでは、滝に打たれに行きましょうか。そこで瞑想を五時間ほどしましょう。お風呂代わりです」
「──えっ!? ちょっ、まっ、誰か助けてくれ!!」
「ふふふ、もちろん闘気なんて使ってはいけませんよ? いやぁ、懐かしいですね。母によくやらされてましたよ」
しばらく、水が怖くなった。
──そして、ゼニスとの日々。
「パウロお兄ちゃん、今日はあっち行こう!」
休みの日には、大抵、ゼニスに手を引かれて街を歩くことになる。
大聖堂前の広場で屋台の焼き菓子を分け合って食べたり、商業区の露店を冷やかして回ったり、冒険者区の近くまで足を延ばして、ちょっとだけ怒られたりもした。
「ねえ、今日は治癒魔術、教えてくれる?」
「ああ、いいぞ。この前の続きからだな」
街の外れにあるちょっとした空き地で、簡単な詠唱を教える。
「えっと……ちから、うしないし、かの、もの……」
「そうそう、その調子」
「ひ、ひーりんぐ!」
ゼニスの手のひらから、残念ながら何も起きない。魔力の流れも、イメージも、まだまだこれからだ。
「……できない」
「焦んなくていい。俺もすぐにできたわけじゃないから」
「本当に?」
「本当。だから、今日も駄目でも気にすんな」
「……うん!」
何度やっても、光の一つも灯らない。それでも、ゼニスは飽きもせず、毎回楽しそうに挑戦していた。できないなら、できないなりに、少しずつ。
そんなふうに、一年という時間が、ゆっくりと過ぎていった。
そんなある日、事件が起こった。
────
一年が過ぎても、ゼニスの屋敷を訪れる頻度は変わらなかった。
「お邪魔します」
声をかけながら玄関をくぐる。でも、すぐに違和感に気づいた。いつもなら、顔見知りの使用人が笑顔で迎えてくれる。
しかし今日は、誰もが沈んだ表情で、せわしなく歩き回っている。すれ違った使用人の一人に声をかけても、まともに目を合わせてもらえなかった。
「あの、すみません。ゼニスは……」
「……申し訳ございません。今は……」
言葉を濁したまま、足早に去っていく。胸の奥がざわついた、嫌な予感だけが膨らんでいく。足の裏から、冷たいものがじわじわと這い上がってくるような感覚だ。
「パウロ様。旦那様が、お話があるそうです。応接間までご案内します」
執事らしき男に案内されるまま、俺は半ば無意識に足を動かした。頭の中では、さっきの使用人たちの様子が何度も繰り返されている。
応接間の扉を開けると、ソファに座るカーライルの姿があった。
「カーライル殿……?」
声をかけて、俺は息を呑んだ。
いつも穏やかで、落ち着いた物腰のカーライルが、今は見る影もなかった。目の下には濃い隈。表情からは、覇気というものが完全に抜け落ちている。まるで、何年も一気に老け込んでしまったみたいだった。
力なく顔を上げた彼の声は、かすれていた。
「……ああ、パウロ殿か。ゼニスは、留守にしている」
「……何があったんですか」
単刀直入に聞くと、カーライルはしばらく黙り込んだ。言葉を選んでいるのか、それとも、口にすることすら躊躇っているのか。その沈黙が、余計に恐ろしかった。
「……ゼニスは、聖堂騎士に連れて行かれた」
「……は?」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
聖堂騎士団。団長はカーム。この一年、ずっと剣を教えてもらってきた師匠。街の誰からも慕われる、誠実な人。その組織が、ゼニスを連れて行った──?
頭の中で、知っているはずの顔と、今聞いた言葉が、うまく繋がらない。
「表向きの理由は、『神子としての素質を持つ可能性があるため、教団の保護下に置く』というものだ。形式上は、何の問題もない手続きに見える。だが──」
「……裏がある、ってことですか」
「ああ」
カーライルは、震える手を握りしめながら、苦しそうに顔を歪めた。
「教団内に、以前からあまりいい噂を聞かない司教がいる。『保護』『調査』という名目で、何人もの少女を自分の管理下に置いてきた。その中には、深く心を傷つけられて帰ってきた子もいる。……そのまま、消息が分からなくなった子もいるそうだ」
「──っ」
聞いているうちに、体の芯がすっと冷えていくのが分かった。信じたくないという気持ちと、信じるしかないという現実が、頭の中でせめぎ合っている。
「証拠はない。噂だけだ。教団内部での権力が強く、表沙汰になったことは一度もない。それでも、この噂を知っている者は少なくない」
「それって……ゼニスが、その司教のところに?」
「……ああ」
その瞬間、頭の中で何かが焼き切れたような感覚があった。目の前が、一瞬だけ赤く染まった気がした。気づけば、立ち上がっていた。拳が震えている。
「──ふざけんなッ!!」
これまでの優しい日々。笑ったゼニスの顔。治癒魔術の練習に付き合った時間。
それら全部が、今、誰かの手によって踏みにじられようとしている。そう思うだけで、腹の底から怒りが突き上げてくる。
「今すぐ、聖堂騎士団の本部に行きます……!!」
「待て、パウロ殿! 気持ちは分かる。だが、今、君が感情のままに動けば、ゼニスを救う道そのものが閉ざされてしまうかもしれない」
「何を待つんですか! ゼニスが、そんな奴のところにいるかもしれないのに!」
「聞いてくれ!君は、剣術大会を制した『剣才』として名の知られた、アスラ王国の上級貴族だ」
カーライルが、必死に俺の腕を掴んだ。
「君が今、教団の施設に乗り込めば、それは『アスラ王国の貴族が教団施設を襲撃した』という話にすり替えられる。そうなれば、ラトレイア家も、君の家も、両国の関係も、すべてが巻き込まれる。そして、教団側は事件を隠すために、『保護対象を奪おうとした』という形にできる。そうなれば、教団にさらに強い口実を与えてしまう」
頭が真っ白になりかけていた思考に、冷や水を浴びせられたような感覚があった。
分かっている。
頭では、カーライルの言葉が正しいことくらい、分かっている。
自分の立場。政治的な問題。下手に動けば、むしろゼニスを救えなくなるかもしれないという現実。
全部、頭では理解できる。それでも──理屈で納得できることと、心が受け入れられることは、まったく別の話だった。
「………ゼニスっ……!」
声が、自分でも驚くくらい震えていた。握り締めた拳に、爪が食い込む。
「……すまない。私も、親として、何もできない自分が情けない」
カーライルは、顔を伏せた。その言葉に、それ以上、何も言えなくなった。
理由は分からない。それでも──ゼニスを失うことだけは、絶対に許せなかった。
あの子が泣いていた日のことも、はしゃいで笑っていた顔も、繋いだ手の小ささも、全部、まだ鮮明に覚えている。
体の奥底から、説明できない何かが、静かに、でも確かに燃え上がっていた。
それは、頭で考えるよりも先に、俺の心を動かしていた。
──死んでも助ける。