理由は、1000文字に届かなかったからです。
では、続きをどうぞ。
第一話
夢を見ていた。
飛んでいた。
自分の意思ではない。背中から巨大な手で押し出されたみたいに、景色が後ろへ、後ろへと吹き飛んでいく。森だったものが川になり、川だったものが岩場になり、岩場だったものが、次の瞬間には海になっている。
腕の中にエリスがいた。
ぐったりして動かない。けれど、温かい。それだけはわかった。
このままでは落ちる。
理由はわからないが、確信だけがあった。速度はいずれ尽きる。尽きた場所が海の上なら二人とも沈むし、山肌なら叩きつけられる。
だから、選ばなければならない。
目まぐるしく切り替わる景色の中から、降りられる場所を。
平らな場所。
木のない場所。
水のない場所。
赤茶けた地面が見えた。
俺は、そこに向かって、落ちた。
意識が、切れた。
*
次に目を開けると、白かった。
上もなく、下もない。壁もなく、天井もない。どこまで行っても何もなさそうな、のっぺりとした白。
夢だな、とすぐにわかった。
夢の中で夢だと気づく、あれだ。
ただ、妙に体が重かった。
手を持ち上げようとして、その手が目に入った。
太い指。
短い爪。
甲に生えた、まばらな毛。
見下ろす。
腹が出ている。シャツの裾から、たるんだ肉がはみ出している。膝の上にうっすらと、ポテトチップスの油の染みまで見える気がした。
前世の、あの体だ。
ああ。
声にならない声が漏れた。
戻ったのか。
不思議と、驚きはなかった。
むしろ、すとんと腑に落ちた。ずっと心のどこかで待っていた答えが、ようやく届いたような気さえした。
ブエナ村の、風の匂い。
パウロの無骨な手と、ゼニスの笑い声。
ロキシーの授業。シルフィの小さな背中。
ロアの館での三年間。エリスの、あの騒がしい拳骨。
全部、長い夢だったのだ。
そりゃそうだ。
あんなに温かい家に生まれて、あんなに可愛い女の子たちに囲まれて、あんなにうまくいく人生が、俺なんかに与えられるはずがなかった。
頑張れば報われる。やり直せば取り戻せる。そんなものは、まともな人間のための話だ。
俺はまともじゃなかった。だから、こうなった。
それだけのことだ。
ルーデウスとして過ごした日々の輪郭が、端のほうから溶けていく気がした。
覚めてしまえば、夢なんてこんなものだ。
「戻ってないよ。安心して」
声がした。
顔を上げると、誰かがいた。
いつからそこにいたのかわからない。最初からいたような気もするし、今この瞬間に現れたような気もする。
白い顔だった。
つるりとしていて、にこにこしている、ような気がする。目の形を捉えたと思った次の瞬間には、もう思い出せない。鼻も、口も、同じだった。見ているのに、頭に残らない。まるで顔の上にだけ、ぼかしがかかっているみたいだ。
背格好も、服装も、同じようにすり抜けていく。
ただ、にこにこしている。それだけが、なぜか確かだった。
「その体は、君の心の形なんだ。本物の体は十歳のまま、ちゃんと無事だよ。怪我もしてない」
声は男とも女ともつかなかった。
やたらと柔らかい。耳の奥をくすぐるような声だ。
……本当か?
言おうとして、口が動かないことに気づいた。声が出ない。
なのに、向こうはうんうんと頷いた。
「本当だよ。目が覚めたら、ちゃんとルーデウス・グレイラットに戻ってる」
考えただけで、通じたらしい。
そうか。
夢なのか。ただの夢なのか。
あっちが本物で、こっちが夢。
膝から力が抜けそうになった。
抜ける膝があるのかどうかも、よくわからなかったが。
「よかったね」
ヒトガミは、心から嬉しそうにそう言った。
少なくとも、そう聞こえた。
*
で。
安心したところで、改めて聞くけど。
お前、誰だ。
「ああ、ごめんね。先に名乗るべきだった」
そいつは、胸に手を当てるような仕草をした。たぶん。
「初めまして、ルーデウス。僕はヒトガミ。人の神、と書いてヒトガミ。まあ、神様だよ」
神様。
「そう。神様」
へえ。
神様ねえ。
「……あんまり信じてないね?」
当たり前だろ。
自分で神様を名乗る奴に、まともなのはいない。前世のネットにもいたよ。俺は神だとか、選ばれし者だとか。だいたい中身は、暇を持て余したおっさんだった。
「僕はおっさんじゃないよ」
そういう問題じゃない。
「ふふ。そうだね。そういう問題じゃない」
ヒトガミは、楽しそうに笑った。
こっちが突っかかるほど、楽しそうになる。気味が悪い。
それで、その神様が、なんで俺の夢に出てくるんだ。
「君が困ってると思ったから」
……。
「力になりたいんだ。君の」
ああ。
出た。
それは、前世で一番聞いた種類の言葉だ。
力になりたい。味方だよ。一緒に頑張ろう。
部屋のドアの向こうから、何人もの人間がそう言った。親戚のおじさん。昔の担任。どこかの支援団体の、やけに声の明るい人。
みんな、ドアさえ開けさせれば後はなんとかなると思っていた。
ドアの内側で、俺が何を怖がっていたのかなんて、誰も聞かなかった。
聞かないまま、うまくいかないと、そのうち来なくなった。
来なくなった連中は、誰も責任なんか取らなかった。
だから、力になりたい、なんて言葉は信用しない。
それを言う奴が、神様でもだ。
「……そっか」
ヒトガミは、しばらく黙っていた。
「うん。そういう人たちは、いたね」
否定しないのか。
「しないよ。君の言うことは、正しいと思う。口だけの味方なんて、いないほうがましだ」
……。
「だから僕は、口だけじゃないつもりだよ」
口だけの奴は、みんなそう言うんだよ。
「そうだね」
また頷いた。
なんなんだ、こいつ。
普通、ここまで言われたら、言い返すものだろう。怒るか、傷ついた顔をするか、せめて話を逸らすか。
なのにこいつは、俺の悪態を一つ残らず受け取って、にこにこしたまま懐にしまっていく。
受け取ったものを、あとでまとめて請求されそうな気がする。利子をつけて。
*
いくつか、聞いていいか。
「どうぞ。答えられることなら」
俺をこの世界に連れてきたのは、お前か?
「違うよ」
即答だった。
「僕には、人を別の世界から連れてくる力はないんだ。君がここにいるのは、僕のせいじゃない。それは本当」
じゃあ、誰のせいだ。
「さあ。少なくとも、僕じゃない」
はぐらかしたな。
「はぐらかしてないよ。僕が言えるのは、僕じゃないってことだけなんだ」
ふうん。
まあいい。どうせ聞いても、本当のことを言うかわからない。
次。
なんで俺なんだ。
この世界には人間なんていくらでもいるだろう。わざわざ異世界から来た、根暗の元引きこもりに声をかける理由がわからない。
ヒトガミは、少し首をかしげた。たぶん。
「理由、ね」
タダで親切にする奴はいない。
親切の裏には、必ず目的がある。何が目的だ。
今度は、さっきより長く黙った。
白い空間に、音はない。黙られると、本当に何もなくなる。
「……君に死なれると、僕が困るんだよ」
ようやく返ってきた答えは、それだった。
はい、出ました。
正直そうな声で、何も言っていない答え。
詐欺師の常套句だ。本音を打ち明けるような口ぶりの台詞ほど、中身はない。困る、と言いながら、何がどう困るのかは言わない。言えば嘘がばれるからだ。
「本当なんだけどなあ」
ヒトガミは笑った。
笑い声だけは、やけに明るかった。
「まあ、いいや。信じなくてもいいよ。僕が困るのは、本当だから」
*
「それより、今の君の状況を話しておくね。大事なことだから」
ヒトガミの声が、少しだけ真面目になった。
「君は今、魔大陸にいる」
魔大陸。
「ロアの近くの丘で、空が変な色になったのを覚えてる? あのあと、大きな魔力の災害が起きたんだ。君はそれに巻き込まれて、遠くまで飛ばされた。エリスも一緒にね」
飛んでいた夢。
赤茶けた地面。
あれは、夢じゃなかったのか。
……みんなは。
ギレーヌは、あの場にいた。フィリップやサウロスは館にいたはずだ。ブエナ村は離れているから、大丈夫だと思いたい。
でも、あの光は。
「それは、目が覚めてから、自分で確かめるといい」
答えないのか。
「今の僕が何を言っても、君は信じないだろう? 大丈夫だと言えば気休めだと思うし、駄目だと言えば脅しだと思う」
……。
「だから、言わない。君が自分の目で見て、自分で判断したほうがいい」
よくわかってるじゃないか、俺のこと。
「わかってるよ。君のことなら、だいたい」
覗き魔め。
「うん。覗き魔の神様。それでいいよ」
ヒトガミは、あっさりそう言った。
覗き魔と呼ばれて、それでいい、と言う神様。
ますます、わからない。
「魔大陸はね、中央大陸とは比べものにならないくらい、危ないところだよ。魔物は強いし、食べ物は少ないし、人の考え方も違う。十歳の子供が二人きりで、何の当てもなく歩いて生きていける場所じゃない」
脅しか。
「事実だよ。君は賢いから、わかるよね」
……褒めるなよ。気持ち悪い。
「……うん。ごめんね」
ほんの一拍。
声が、平らになった。
温度も、柔らかさも、そこだけすっと抜け落ちたような声だった。
すぐに、もとに戻った。
「だから、助言をさせてほしいんだ」
*
助言、ね。
「そう。聞くかどうかは、君が決めていい」
聞かない、と言ったら?
「それでもいいよ」
あっさりしてるな。
「無理に聞かせても、君は従わないだろう?」
さっきから、俺のことをわかったような口ばかりきく。
わかったような口をきく奴は、嫌いだ。
……でもな。
魔大陸で、子供二人。当てもない。
それが本当なら、俺には、自信がなかった。
前世で三十四年、部屋から出なかった男だ。この世界で十年、多少は頑張ったつもりだが、それは屋根の下での話だ。家庭教師をして、魔術を練習して、飯は勝手に出てきた。
外で、たった一人で、エリスを守りながら生きていく。
そんなこと、できるわけがない。
「うん」
ヒトガミは、俺の考えを最後まで聞いてから、頷いた。
「だから、一つだけ」
……一つだけ?
「一つだけ。それに、これは君が確かめられる助言だよ。起きてすぐに、当たっているかどうかがわかる。外れていたら、僕のことは二度と信じなくていい」
……。
賭けとしては、悪くない条件だった。
外れれば、こいつが嘘つきだとわかる。当たれば、少なくともこいつには、俺の周りのことが見えているとわかる。
どちらに転んでも、損はしない。
損はしない、というのが、また腹立たしい。
こっちが断りにくいように、ちゃんと作ってある。
わかったよ。
言うだけ言え。
「うん」
ヒトガミは、そこで居住まいを正した。
ように見えた。顔も体も覚えられないのに、そいつの纏う空気だけが、すっと変わったのがわかった。
にこにこした気配が、消えた。
柔らかかった声から、揺らぎが消えた。
「――聞きなさい。ルーデウス・グレイラット」
白い空間に、声が満ちた。
耳で聞いているのではなかった。頭の内側で、鐘が鳴っているようだった。
「汝が目を覚ますとき、そのかたわらに、一人の男がある」
一言ごとに、声が遠くで重なり、また返ってくる。
「その男を頼りなさい。
そして、その男を助けなさい。
さすれば汝は、還るべき場所へと還るであろう」
余韻が、長く、長く尾を引いた。
白の果てまで届いて、跳ね返って、また俺のところへ戻ってくるように。
……なんだ、今の。
さっきまで、覗き魔と呼ばれてにこにこしていた奴と、同じ声とは思えなかった。
ああいう喋り方も、できるのか。
できるくせに、今まで、わざとやらなかったのか。
そう考えたら、最初から最後まで、全部が芝居だったような気がしてきた。
柔らかい声も。謝ったときの一拍も。
どれが本物で、どれが作り物なのか、もうわからない。
*
白い景色が、端のほうから、ほどけ始めた。
目が覚めかけているのがわかる。体の重さが、少しずつ抜けていく。たるんだ腹の感覚が薄れて、代わりに、小さくて軽い、十歳の体の感覚が戻ってくる。
最後に、ヒトガミが言った。
「これから、よろしくね。ルーデウス」
にこやかな声だった。
にこやかすぎて、背中が寒くなった。