通路の奥、薄暗がりに佇んでいた巨躯が、こちらへとゆっくり向き直る。
大きい。通常のゴブリンよりも頭一つ、いや二つ分は大きい。全身を覆うのは、いかにも頑丈そうな、くすんだ灰色の皮膚だ。
「……オークですね」
ミアが息を呑み、その名前を口にした。
『うわ、オークだ』
『初めて見たぞ』
『三層ってこんな凶悪なのも出るのかよ』
『普通出ねーよ。レオだけハードモードな気がすんだけど』
オークが、丸太のような太い両腕でずっしりと重そうな棍棒を持ち上げる。
先日の大型ゴブリンと似た武器だが、そこから放たれる威圧感は比べ物にならないほど上だった。
「どうします、レオさん?」
「……倒せそうなら倒す」
「結局それがベストですよね」
『逃げても追ってくるしな』
『頑張れ』
突如、オークが地響きを立てて突っ込んできた。
速い。その巨体からは想像もつかないほどの突進力だ。一瞬で間合いを詰められ、頭上から凶悪な棍棒が振り下ろされる。
直撃の軌道から身体をわずかにずらすと、直後、衝撃音と共に石畳の地面がクモの巣状に砕け散った。
『うわああ』
『掠っても骨持ってかれそうだな……』
「必要だったら気を引きますからね!」
「分かった」
オークは休む間もなく追撃を仕掛けてきた。
容赦ない横薙ぎを、バックステップで後退してかわす。続く叩きつけを、右へのサイドステップで翻弄。
大振りの攻撃の後――そこには、はっきりとした隙があった。
そこだッ!
俺は一歩深く踏み込み、手の中の銀色の短剣を振るった。
ガチ、と硬い手応え。だが、疾風の短剣の鋭い刃は、オークの分厚い皮膚を確かに切り裂き、赤い血を噴き出させる。
「よし! ダメージ入ってます!」
ミアの弾んだ声が響く。
その瞬間、視界の端のコメント欄が、いつも以上の速度で流れ始めた。
『待って、今のオークの右足!』
『右足、動きが怪しくね?』
『なんか引きずってるように見える』
『マジだ、重心が左に寄ってる!』
激しい立ち回りの最中、俺はコメントの指摘を視界の端で確認した。
確かに、奴の右足が少しだけもたついている。重心の偏り。狙うなら膝だな。
オークが咆哮を上げ、再び突っ込んでくる。
俺はその突進を最小限の動きでかわしながら、奴の死角――右足側へと回り込んだ。
そのまま、低い姿勢から短剣を鋭く振るう。
一撃、二撃、三撃。
狙い通り軸足を削られたオークの動きが、目に見えて鈍くなっていく。
『効いてる効いてる!』
『いけるぞ!』
『レオがんばれえええ!』
画面の向こうの、見ず知らずの人たちに応援されている。
ゲーム配信の頃には絶対に無かった光景に、胸の奥が少しだけ変な、でも悪い気はしない気分だった。
「今です、レオさん!」
ミアの声が飛ぶ。
俺は一気に前へと踏み込み、全体重を乗せて短剣を突き立てた。狙うは、完全にがら空きになった首元。
鋭い刃が深く吸い込まれ――一瞬の静寂の後。
オークの巨体がグラリと揺れ、地面が震えたような低い音が響き渡った。
『おおお大金星!!!』
『マジで勝ったよ……!』
お祭りのように盛り上がるコメント欄を横目に、俺はたまらず近くの壁へと寄りかかった。
暫く動けそうにない。ミアに索敵を任せ、息を整えた。
じわりと、遅れて痛みが来た。短剣を握りすぎていたらしく、手のひらに柄の跡がくっきりと残っていた。
「お疲れ様です、レオさん」
「……疲れた。まじで疲れた」
『素直で草』
『知ってた』
『今までだったら途中で倒れてたな。もやし脱出』
「もっと筋トレする……たぶん」
そんな締まらない返事をして、俺たちの第三階層初攻略の配信は幕を閉じた。
――数時間後。
俺たちは、駅前にあるお馴染みのメトロ・ダイナーのボックス席にいた。
注文したのは、お代わり自由のコーヒー。安くて長居できる、駆け出しの参加者御用達の店だ。
「でも同接増えたのは良いんですけど……問題はコレですよね」
ミアが、卓上に置いたノートPCの画面で、今日の配信のアーカイブ動画を一時停止させた。画面の中では、俺がまさにオークの攻撃を避けている瞬間が映っている。
「ここです」
「どこだ?」
「全然喋ってないじゃないですかー」
ミアは机に突っ伏して足をばたつかせた。妙に幼なげな仕草だ。
「レオさん」
「ん?」
「ゲーム配信をやっていた頃から、ずっとこのスタイルだったんですか?」
「……たぶん」
「世界三十位にでも配信じゃ厳しいですよ」
『それは本当にそう』
アーカイブの中の過去コメントが、今の俺の心にまで突き刺さった気がした。
ミアは「はぁ……」と額を押さえて絶望していたが、やがて呆れたように、でも少しだけ優しく笑った。
「まあ、でも」
「?」
「喋ったり、盛り上げたり、そういう解説の仕事は今だけは、全部私がやりますから」
さらっと、彼女は言った。当然の義務だと言わんばかりの口調で。
「レオさんは、ただ目の前の敵を倒すことだけに集中して戦ってください」
「それ……お前に丸投げしてないか?」
「適材適所、って言うんです。私は戦えないし、レオさんは喋れない。これでバランスが取れてるんですよ。けど、6年くらいしたら喋りもできた方が良いですよ」
「何で6年なんだ?」
「私にもいろいろ事情があるのです」
家庭の事情か何かでミアは探索を止めるのだろうか?よく分からない。
でも。一人で画面に向かって黙々とゲームをして、誰にも見向きされずに配信していた頃に比べれば――今の環境は、ずっと心が軽かった。
ブブッ、とテーブルの上の俺のスマートフォンが小刻みに震えた。
何気なく画面に目を落とすと、そこにはシステムからの公式通知が表示されていた。
【チャンネル登録者数:300人を突破しました】
「……っ」
思わず、二度見した。
「ミア」
「はい?」
「これ……三百人」
画面を差し出すと、ミアの大きな瞳がさらに丸くなった。
そして次の瞬間、パッと花が咲いたような笑顔になる。
「おめでとうございます、レオさん! やりましたね!」
「……ああ、ありがとう」
俺は画面に表示された『300』という数字をじっと見つめた。
有名配信者たちからすれば、鼻で笑われるような小さな数字かもしれない。
でも。
これまで何をやってもダメだった俺の人生にとって、それは初めて自分の力で届いた、特別な数字だった。
「はい! というわけで、今日は『チャンネル登録者数300突破記念配信』でーす!」
いつもの第三階層の通路。ミアがカメラドローンに向かって、いつも以上に華やかな声を響かせる。
『おめでと!』
『祝・300人!』
『これでもう古参面していい?』
『いや、古参を名乗るにはまだ早い』
流れるコメントはいつもの賑やかな顔ぶれだ。ただ、明らかにこれまでと違うのはその「人数」だった。リアルタイムの同時視聴者数は、配信開始直後だというのにすでに八十人を突破している。
ほんの一週間前なら、天地がひっくり返っても考えられないような数字だった。
「ほらほらレオさん、主役なんですから視聴者の皆さんに一言お願いします!」
「……。ありがとう」
『うお、珍しい!』
『レオがちゃんと感謝の言葉を述べたぞ!』
『おい、中身は本当にレオか? 偽物じゃないか?』
「失礼な連中だな……」
ぼそりと毒づきながらも、俺はダンジョンの奥へと歩みを進めた。
今日の攻略舞台も第三階層。オーク戦を経て、ここが俺たちの最近の定番コースになりつつあった。
「レオさん、前方から二体来ます。ゴブリンです」
「了解」
俺は腰の鞘から、青い半透明の疾風の短剣を抜いた。
手のひらに吸い付くような抜群の馴染み具合。この圧倒的な軽さと振りやすさには、もう完全に身体が慣れ親しんでいる。
一体目のゴブリンが飛び込んでくる。その攻撃の軌道を完璧に見切り、最小限の動きで回避。すれ違いざまに、閃光のような速度で短剣を横一線に振るった。
返す刀で、二体目の首元を正確に一突き。
時間にして、わずか数秒。
気付けば、戦闘そのものに対する迷いや恐怖は、綺麗に消え去っていた。
「やっぱり、ここ数日で戦い方が見違えましたね、レオさん」
「……そうか?」
「そうですよ。その短剣を手に入れてから、明らかに動きのキレが変わりました」
『それな』
『見てて安心感が違う』
『ステップの軽さが前と全然違うもんな』
画面の向こうの言葉に、俺自身も内心で深く同意していた。
この短剣は、本当に俺にとっての「当たり」装備だった。これがあれば、もっと上を目指せる。本気でそう確信していた。
「レオさん、後ろからウルフです」
次も冷静に対処を
――その、瞬間だった。
視界の中央に、突如として半透明のシステムウインドウが割り込むように出現した。
【運営からのお知らせ】
(なんだ……? 戦闘中に通知なんて、珍しいな)
脳裏を一瞬、嫌な違和感がよぎる。
直後、ウインドウの文字が非情な羅列へと書き換わった。
【貸与品疾風の短剣を回収しました】
「は……?」
次の瞬間、右手に走ったのは、奇妙な「軽さ」だった。
いや、軽くなりすぎたのだ。
つい今しがたまで、確かに手のひらの中で確かな存在感を主張していたはずの短剣が、前触れもなく消え去っていた。粒子にすらならず、完全に、物質としてその場から消失したのだ。
鋭い牙を剥いて俺の喉元へと肉薄していた。
「くっ……!」
反射的に身体を捻り、直撃だけはかわす。しかし、迎撃するための武器が手の中に存在しない。その、ほんの一瞬の困惑と遅れが、現実の戦闘においては致命的だった。
ザリ、と肉を引き裂く嫌な音が響く。
かわしきれなかったウルフの牙が俺の左腕をかすめ、俺はそのまま無様に地面をごろごろと転がった。
「がはっ……!」
『おいおい大丈夫か!?』
『貸与品だったよな?』
『回収つっても戦闘中は聞いた事ねぇぞ!』
激しく流れるコメントの全てに、俺は心の中で激しく同意していた。ふざけるな。いくら何でもこのタイミングは殺しにきているとしか思えない。
「レオさん、これを使ってください!」
ミアの声と同時に、彼女の腰に下がっていた予備の鉄製短剣が空を舞った。
地面に膝をついたまま、俺はそれを右手でキャッチする。
(――重いッ!)
ずしり、と腕に伸しかかる不格好な鉄の質量。だが、贅沢を言っている暇はない。
俺は迫り来るウルフを睨みつけ、泥臭く前方へと踏み込んだ。
「おおおおおッ!」
強引に腕を振り抜き、飛びかかってきたウルフの脳天を叩き割る。まず一体。
返す刀で、背後から迫っていたもう一体の腹部へと、泥臭く刃を突き刺した。
――戦闘、完了。
ダンジョン内に、ハァハァという俺の荒い呼吸の音だけが響く。
左腕からは、じわりと赤い血が滲んでいた。幸い、傷は浅い。大した怪我ではない。
だが。それ以上に、腹の底からドス黒い怒りが込み上げていた。
『一歩間違えたら死んでたぞ』
『結局これ回収だったのか?』
「ああ。消える直前システムウインドウが出て、回収したって出たからな」
『うわあ……ひどすぎるだろ』
「そうですね」
ミアもそう口にしながら背を向けてウルフの魔石を回収していた。
「魔石を取り終えましたが……大丈夫ですか?」
「……一応」
俺は、さっきまで銀色の短剣を握っていた、今は空っぽの右手を見つめた。
貸与品。運営の所有物。
いつでも回収される可能性があることは、言葉としては理解していたつもりだった。でも、実際に失ってみて、初めて思い知らされた。
「……思った以上に、あの武器が気に入ってたんだな、俺」
ぽつりと、無意識に本音が口から漏れ出していた。
『あ、認めた』
『レオが素直に弱音を吐いたぞ』
『ぶっきらぼうだけど、まじであの短剣好きだったんだな』
「うん……」
――配信終了後。
ギルドのロビーに戻った俺は、改めて自分に届いていた運営からのシステム通知を開いた。
【貸与品回収完了】
【ご利用ありがとうございました】
あまりにも事務的で丁寧なその文章が、余計に俺の神経を逆撫でする。
「レオさん……どうします?」
隣でドリンクの缶を握ったミアが、心配そうに覗き込んできた。
「武器だ。武器をどうにかする」
「はい」
答えなんて、最初から一つしか用意されていなかった。
借り物の力じゃ駄目だ。いつ消えるか分からない他人の武器に命を預けるなんて、そんな危なっかしい真似は二度と御免だ。今日、その事実を俺は嫌というほど骨の髄まで理解させられた。
「買う。自分の武器を」
俺が即答すると、ミアはホッとしたように、どこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
「……ですよね!」
システム画面を乱暴に閉じる。
頭の中で現在の貯金残高を思い浮かべると、正直、これからの生活は一気に苦しくなる計算だった。
でも、必要な投資だ。
あの第四階層を目指すなら。
これからもっと、誰も辿り着いていない先へと進むつもりなら。
俺は、他の誰のものでもない、俺だけの武器が欲しかった。
配信を終えて一人地下鉄を乗り継ぎブルックリンのアパートに帰った。
テーブルにミアから借りた短剣を置くと、それはゴトリと音を立てた。あの短剣はこんな音をさせなかった。
外から聞こえる遠いサイレンの音を背に、何気なくテーブルの短剣を手に取ってみた。
やっぱり重い。指の収まり方も、どこかちぐはぐだ。
握った時のあの馴染み方。
あれは本当に、俺の手に合っていたんだな。
回収されちゃった