完全にやらかした! とイーライが自分のしでかした失敗に気づいたのは、シームの母によって「愛の逃避行ね、いってらっしゃい!」と道場から送り出されてからだった。
弟子にでもよかったし、師匠の方にでもよかった、正解は負ける、だったのに。
「これで正々堂々と駆け落ちにいけるわね!」
と、希望に胸を膨らませている様子でシームは言っているが、そもそも駆け落ちって正々堂々といくものだったのか。
そんなことを指摘できるほどの元気は今のイーライにはなかった。
(怒りに身を任せたら、本質を見失うって、こういうことか)
故郷の大人たちに言われてきたことを身をもって思い知った。
今後怒りに飲み込まれそうになるたびにこの日のことを思い出すのだろう。
しかし、今は未来ではなく、目の前にある今の話だ。
先ほど母に手渡された旅行バッグを抱え、道場の出入口の前に立ったままのシームを見やる。
「イーライは行きたい場所ある?」
「……あの、今更なんですが、お話しておかなければいけないことがありまして……」
きちんと話すようなタイミングはいくらでも——いや、なかったように思う。それでもここまで言わずにいたことに対しての後ろめたさはあった。あらたまって姿勢を正し敬語を使うとシームもつられるように真剣な目になった。
「子どもは三人がいい、とか」
「違う」
「あ、そうよね、婚姻届け、まだ取りに行ってなかったから、まずは役場よね」
「じゃなくて、……実は俺——」
「こんなとこにいたのかよ」
背後からかけられた声に、イーライは反射的に振り返った。
顔を見なくても誰かなんてわかったが、見慣れた顔に思わず泣きそうになったのは気のせいではない。
ようやく話が通じる人間がやってきた、そんな感覚だった。
イーライと同じ黒髪と黒目。ぼさぼさに癖毛。イーライよりも7つほど年上だったはずだ。イーライたちの保護者というか子守りだと本人が自称している。
「オルセン!」
「って、おいどうした? 何泣いてるんだよ? ってこっちのお嬢ちゃんは? ……ははーん、さてはナンパか?」
「私はこの人の妻です!」
同郷者のオルセンに洗いざらいぶちまけて、このこんがらがった状況を何とかしてもらおうと、儚い希望を抱いたイーライの目の前をシームの背中が遮った。
「……妻?」
「あなたは夫の何なんですか?」
「夫?」
オルセンの今にも吹き出しそうな顔が憎い。
勘弁しろよ、と怒鳴りつけたいがそこまでの元気もなく、イーライは力なく首を振った。
「こいつが、夫?」
「こいつ呼ばわりはやめてください!」
「オルセン、どうしたの? イーライは……?」
オルセンの後ろから、イーライのもう一人の同行者であるウォルスがひょいっと顔を覗かせる。
オルセンとは違い、ウォルスは金髪を短く切りそろえた柔和な顔つきの男だ。イーライより一つしか年齢は変わらない。柔和な顔つきはいつも通りで、イーライは顔を見ただけでほっとしてしまった。
「ってイーライ? 何かやつれているけど大丈夫?」
「触らないでください!」
ウォルスがイーライに伸ばしかけた手を、シームがはたき落とす。
少しだけ、むっとした表情をしたが、すぐにウォルスはいつもの穏やかな表情に戻った。
「この女の子は?」
「う……」
顔は優しいのに、言葉には圧がある。イーライはどう説明したらいいのかわからず思わず言葉に詰まった。
「……このまま突っ立ってんのも何だし、とりあえず飯食いながら話すか」
膠着状態を感じ取ったらしいオルセンが、全員の顔を見回してそう提案した。