酒呑組も現在持ち場を離れ、一次的に学校生活に平穏が戻った束の間、紅院には現在大きな危機が迫っていた。
村上も通っている普通の高校の方の成績が全く芳しくない状況が続いている。
学生である以上避けられない課題、更に試験もそろそろ近い。
これ以降も紅院が退魔師で居続ける為にも、なんとしても成績は解消しなくてはならない……!
——
「留年……? 留年って、もう一年同じ学年をやること……だよね……?」
放課後の誰もいない教室。紅院は、村上から突きつけられた赤ペンだらけの小テストと中間判定の成績表を前に、蚊の鳴くような声で震えていた。
「うん。日本の高等学校における単位制および学年制の仕組み上、規定の出席日数と評定平均に達しなければ、自動的に留年——つまり原級留置になるわけだね」
村上はバインダーに挟んだ模範解答と紅院の答案用紙を見比べながら、容赦ないトーンで言った。
「言っておくけど、紅院君。山奥での退魔修行は従来の文部科学省の学習指導要領には一切記載されていないよ。『陰陽道の呪言を覚えているから国語は免除される』なんて特例は存在しない。単位や成績は学生生活する上で俺達の敵になるんだから、もし紅院君の立場で留年したら誰も面倒みきれないよ」
「うぐっ……! す、凄まじい正論……! でも僕、退魔師学校の課題とバイトと、妖怪の封印で本当に時間がなくて……!」
「それを世間では『タイムマネジメントの欠如』と呼ぶんだよ」
村上は伊達メガネをクイッと押し上げると、黒板に向かって白い粉を散らしながら、一文字大きく『赤点回避』と書きつけた。
「村上くんその眼鏡好きだね」
「なんかインテリっぽい感じがするからね、白沢さんがつけるのもわかる気がする」
「それはともかく……いいかい、紅院君。今回の期末試験で全科目平均40点以上を取らなければ、君の高校生活はここで詰みだ。そうなれば退魔師学校との掛け持ちどころか、社会的な信用を失い、保護者(修行の師匠)への報告、さらには奨学金や今後の活動資金の審査にも致命的な悪影響が出る。まさに倒産寸前の破綻リスクだよ」
「言い方が生々しすぎて胃が痛いよ村上君!! 助けて、僕どうすればいいの!?」
「だからこうして、俺がわざわざ放課後の貴重な時間を削って『紅院君救済プロジェクト(集中補習)』を立ち上げたんだよ、友達は見捨てられないからね」
村上はカバンから分厚い手製のプリント類を取り出し、机の上にドサリと置いた。
「過去三年の出題傾向分析、担当教師の癖、および最低限の暗記で30点を稼ぎ出す特製対策プリントだ。目標は満点じゃない。『ギリギリで単位を毟り取る安全圏の確保』。これだけに集中する」
「うわぁぁん! 村上君! やっぱり君は頼りになる親友だよ〜〜っ!」
「勘違いしないで。君が留年して『妖怪退治のために留年しました』なんて噂が広まったら、万が一色々片付いた後の平穏な高校生活のイメージまで連座で汚されるから防衛措置をとっているだけだよ」
「照れ隠しのスケールが歪だよ!!」
こうして、超・現実主義者によるスパルタ赤点回避セミナーが幕を開けた。
◆
「はい、英語。関係代名詞の『that』と『which』の使い分け。紅院君、この文章の空欄に入りそうな言葉は?」
「え、ええと……『汝、封印を司る者なり』……みたいな呪文……?」
「不合格。英語のテストに霊力は通用しない。主語が人か物かで判断しなさい。妖怪を封印する前に文法を封印してどうするの」
「容赦ない! 次! 数学は!?」
「数学は計算じゃない、パズルみたいなものだよ。公式に数字を当てはめる作業を『術式の展開』だと思って処理しなさい。サイン・コサイン・タンジェントは、空間の結界の角度計算と同じだ」
「あ、それならちょっとイメージできるかも……! 結界の展開角度を30度ズラして……」
「よし、その調子だ。思考の変換効率を上げていくよ」
二人がそんな不毛かつ切実なやり取りを繰り広げていると、ガラッと教室のドアが開いた。
「やっほ〜♪ 勉強がんばってる〜?」
ひょっこり顔を出したのは、スマホを片手を持ったサッキーちゃん(サキュバス)だった。放課後の校内に違法侵入……ではなく、インキュバス店長のツケを払うついでに様子を見に来たらしい。
「あ、サッキーちゃん! 見てよ、僕いま村上君に社会的に命を救われてるところなんだ……!」
「へぇ〜、放課後の誰もいない教室で、二人きりの密着個別指導……」
サッキーちゃんの目がキラーンと怪しい光を放った。
「『だめだよ村上君、こんなの覚えられるわけないよ……』『黙って俺の言う通りにしろ。落第したくないならな……』って感じのシチュエーション!? 尊い! 勉強教えながらの距離の縮まり方、これ完全に学園ものの王道ルートじゃないの!!」
「自家発電の妄想を口に出すんじゃありません」
村上は即座に赤ペンを投擲(※正確なコントロールでサッキーちゃんの額へ命中)した。
「痛っ!? なによ! 応援してあげようと思ったのに!」
「応援なら静かに立ち去るか、過去問のデータベースでも探してきてよ。君の無駄な妄想は紅院君の集中力を削ぐ有害物質(ノイズ)でしかないから」
「ほんと身も蓋もないわねこの男!! でもまあ、一応天狐ちゃんにも声をかけておいたから、ネット上に転がってるこの学校の過去問スレから問題傾向を拾ってもらってるわよ」
「えっ、天狐さんが!?」
紅院が目を見開くと、サッキーちゃんはスマホの画面を見せた。そこにはVTuberのアイコンをした天狐からのチャット画面が映っていた。
『天狐:この学校の社会の松尾先生、毎年同じテスト使い回してるって掲示板に書かれてるお! 過去問の画像ゲットしたから送るお!』
「ありがたいけどなんとなくネット知識がガラパゴスすぎない!?」
「……素晴らしい情報収集力だ。著作権および内部漏洩の観点からはグレーゾーンだけど、背に腹は代えられない。天狐さんには後でコンビニの油揚げを補給しておこうかな」
「村上君、時々コンプライアンスの基準がゆるゆるになるね!?」
「背に腹は代えられない局面でのフレキシブルな対応だよ」
◆
夜。村上の自室にて、最終追い込みの勉強会は続いていた。
机の上にはエナジードリンクと、村上がまとめた要点ノート。紅院は目を血走らせながら、猛烈な勢いで歴史の年号と暗記項目を頭に叩き込んでいた。
「……ッ良し! 昭和恐慌の年号覚えた! 1930年!」
「よし、精度が上がってきたね。これで目標の45点ラインは射程圏内だ」
村上は温かいお茶を二つの湯呑みに注ぎ、一つを紅院の前に置いた。
「ふぅ……。ありがと、村上君……」
お茶を一口すすり、紅院はふと和やかな表情を浮かべた。
「僕さ……山で退魔の修行ばっかりやってたから、こういう『テスト勉強』とか『友達の家で遅くまで勉強する』みたいなの、ずっと憧れてたんだ。もちろん赤点は嫌だけど……なんかちょっとだけ、楽しいかも」
「……呑気なことを言っている場合じゃないよ。明日からの三日間が本番なんだから」
村上は素っ気なく返したが、バインダーの端を少しだけ緩めた。
「だけど……まあ。君が妖怪退治なんていう非現実的なリスクを背負っている以上、せめてこの『普通の高校生としての日常』くらいは、俺が論理と対策で守ってあげるよ」
「村上君……!」
「……ただし、もし赤点を取ったら、俺の労力に対する損害賠償として、来期のノート取りは全部君にやってもらうからね」
「やっぱり最後はビジネスライク! でも頑張るよ僕!」
数百年の封印から目覚めた大妖怪との決戦……ではなく、目の前にある紙とペンで挑む『定期テスト』という名の現実的な試練。
最恐の大妖怪をもマジレスで退ける超・現実主義者の高校生と、心優しき退魔師の二人は、明日の朝一番のチャイムに向けて、鉛筆を握り直すのだった——!
そして……実を言うと天狐がずっと村上のそばにいた。
セミナーの時以来、色々教えてくれる村上にちょっと気が合ったりするのだが……サッキーちゃんの陽キャオーラに追い込まれてとても近寄れる雰囲気ではなかった、陰キャ特有のアレである。
(多すぎる 恋のライバル 多すぎる)
あまりにもハードルが高くて一句読んでしまったレベル、サッキーちゃんは腐女子なので実際村上をどう思っているのかはわからないが村上が好きな妖怪としてはよりによって酒呑童子……自分の組のボスがいる、性格はともかく万が一戦争規模で荒れるようなことがあれば勝てる気が……。
……酒呑童子、好かれている?
天狐と村上は顔も見ていないのに嫌な予感がシンクロしたような気がした。
そして紅院も割り込むようにアンテナのように嫌な予感を電波として受信した。
——深夜二時。
参考書のページをめくる音が、静まり返った村上の自室にカサリと響く。
冷めたお茶を飲み干した紅院は、ふと鉛筆を握る手を止め、真剣な目つきで隣の村上に向き直った。
「ねえ……村上君」
「なに、紅院君。昭和恐慌の年号をもう忘れたの?」
「違うよ! テストのこともすごくありがたいし、僕自身の学業は大問題なんだけど……僕、村上君自身の『今後』のことが急に心配になってきてさ」
「俺の今後?」
そろそろ寝ることも想定して村上は布団を用意しながら、淡々と答えた。
「進路希望調査なら、すでに第一志望としては都内の国立大学法学部で提出済みだよ。出席日数も成績も安全圏だから、学業面でのリスクはゼロに等しいけれど……ああ、ゆくゆくは電機メーカーに就活」
「そっちの進路じゃなくて!まあ関係はあるけど……『酒呑組』との付き合いのことだよ」
紅院は膝を乗り出し、声をひそめながら言った。
「酒呑組の頭領の酒呑童子さん……どう見たって村上君にガチで惚れ込んでるよね!? 介抱されて話を受けてから完全に落ちてるし、今の酒呑組が実質的に村上君の指示で動いてるのって、要するに『頭領の意中の男が陰で仕切ってる』状態じゃないか」
「それは感情の誤認知だよ、紅院君」
村上はバインダーに挟んだ組織図をトントンと指で叩いた。
「彼女が俺に抱いているのは、恋愛感情などという高尚なものではない。長年の頭領職による過重労働と燃え尽き症候群(バーンアウト)の最中に、たまたま適切な介入(※冷やし中華の差し入れと現実的な労理的アドバイス)を行った人間に対する『心理的依存』および『精神的転移』に過ぎないよ」
「言い方が臨床心理士か人事部なんだよ! でも現実問題、相手は数十万の妖怪を束ねる最恐の大妖怪だよ!? 今は僕たちのサポートをしてくれてるけど、高校を卒業した後のこと考えてる!? このままだと村上君の将来の進路が、自動的に『酒呑組の若頭』とか『二代目頭領(人間の夫)』になっちゃうよ!?」
紅院の切実な叫びに対し、村上は一切の動揺も見せずに淡々と答えた。
「仮にそんな不当な就職契約や婚姻の強要を迫られたとしても、公序良俗に反する行為は民法第90条により無効だよ。それに、俺の人生設計(キャリアプラン)に『非合法妖怪組織の幹部』という選択肢は存在しないし……俺一生付き合うことになっちゃう」
「法律が通じる相手なら苦労しないよ! 酒呑童子さんが『村上くんと一生一緒に酒を飲む!』って聞き入れなかったらどうするの!?」
「だからこそ、俺は現在『酒呑童子自立化プロジェクト』を並行して計画中なんだ」
「自立化!?」
「そうだよ」
村上は黒のボールペンをくるりと回した。
「彼女の過度な依存を絶つためには、彼女自身が健全なモチベーションと適切な労働環境を手に入れる必要がある。具体的には、酒呑組の法人化および『日本伝統酒類・エンタメホールディングス』への組織変更だ。彼女には最高経営責任者(CEO)ではなく、社外取締役程度のポジションに退いてもらい、週休三日と適切な株主配当を与える。そうすれば彼女は二度と過労に苦しむこともなく、俺という個人に依存する必要もなくなるよ」
「妖怪の巨大組織を上場企業みたいに改組して、トップを隠居させる気なの!?」
「当然だよ。卒業後の俺は普通に大学に進学し、将来は企業のコンプライアンス部門か法務部に就職する予定だ。妖怪の身内トラブルや恋愛ごっこに俺の貴重な人生を拘束されるつもりは毛頭ない。卒業と同時に、俺と酒呑組の関係は『第三者機関の外部顧問』程度に希釈化(フェードアウト)させる……」
「顧問としてはちゃっかり残る気満々なんだ……!?」
「顧問料として大学の学費および生活費の補添(※奨学金代わり)をしてもらう契約を取り付けるつもりだからね。持続可能な関係性とは、適度な距離感と契約に基づく対価によって成り立つものだ。感情に流されて『極道の妻』ならぬ『妖怪の夫』に収まるなんて、リスクマネジメントの観点からあり得ないよ……まあ、ここまで来ると都合のいい理想論になってくるから今後を見て割り切ってくつもりだけど」
身も蓋もない超・現実主義者の将来設計に、紅院は開いた口が塞がらなかった。
大妖怪からの熱烈な執着すらも「認知の歪みと過労」と言い捨て、組織改革と外部契約によってスマートにフェードアウトを企む高校生——。
「……なんか、酒呑童子さんがちょっとかわいそうになってきたよ……」
「情をかける暇があるなら、昭和恐慌の年号をあと三回書き写しなさい。君の明日のテストの破綻リスクの方が、よっぽど緊急性が高いんだから」
「ううっ、はい……! 頑張ります……!」
大妖怪の愛と将来の進路すらもビジネスライクに処理する親友の冷酷な頼もしさに戦慄しつつ、紅院は再び猛然と鉛筆を走らせるのだったが、村上は紅院を覗き込んで圧をかける。
「それと……酒呑童子のことをあまり可哀想って思わないほうがいいよ」
「え!?その言い方はさすがに」
「紅院君、最近ちょっと勘違いしてることもあるよ……あの双子みたいな例もあるし、天狐とかは大人しいけど、あの人は違う……いつまでも酒呑童子が俺の味方で居てくれると思う?」
「えっ?」
酒呑童子が村上を気に入っているのはあくまで恋愛感情に過ぎない、信頼でも尊敬でもなく一次的な愛しさによるもの。
人間同士でも覚えのある、誰かはこう言う……一時の気の迷い、蝋燭が燃え尽きるまでの感覚に過ぎない……村上はそう考えている。
そういった感情は突然消えてもおかしくない、そしてそれが消えることがあればこの紅院軍も妖怪の封印も旧・御三家も、自分の周囲で起きているあれこれを想定していたものが一気に崩れて破産のように追い込まれる。
今の自分があるのは酒呑童子の機嫌次第……村上は理解している、言霊で追い込めるとしても妖怪は格上であること、酒呑童子にはそれが通用しない相手であること。
いつか、いつか……明日かもしれない。
酒呑童子が興味をなくせば、自分なんてどの程度の人間なのか。
村上はそう考えている。
(やっぱり、村上君は簡単に誰かを信用することが出来ないんだな、昔から……人付き合いを利用し合うように考えて、その上で村上くんは相手が損しないように現実的なメリットを報酬のように与えているんだ)
思えばそうだ、紅院に協力してくれるのも、全ての妖怪を封印するという約束も自分に期待しているようでもあり、紅院にとって村上がそばにいるメリット誇示のようにも感じられる。
妖怪がいるだけ自分は紅院の助けになる……。
(村上くんはずっと、大人の付き合い方をしているんだ……このままじゃきっと良くない)
紅院は考えた、自分の成績も大事ではある。
でも村上はこのままでは……きっと、また別の良くない道に進んでしまう。
(僕がなんとかしないと……村上くんの友達になれたものとして……)
そして、それを天狐が聞いていたことは二人も知らない。
村上の根底にあるのは無関心だけではない、警戒ではなく不安にある、臆病ではあるがその臆病さが自分にしか向いていない。
自分の弱さを自己完結して、自分のなかの人生を自分だけで解決しようとしている、利用されたくないから自分の全てを見せない。
法という存在を自分のバリアにしている。
それをすぐに天狐は伝えた、仕事中にも関わらず酒呑童子は受けてくれた。
——
「白沢、こんな夜中だけど一言言っていいか」
「別に貴方、夜中は普段から酔いつぶれて昼夜逆転みたいな生活してるじゃないですか」
「聞け、私達が封印されてる間に人間は疑心暗鬼になってしまった」
「元々知性のある生命体は蹴落とし合うものです、脳を用いた弱肉強食・食物連鎖……それが止められないからこそ自己を守る手段を作るしかなかったのでしょう」
「あの頃の恐怖とは違う、私がかつて人間と戦っていた時の源氏は強かったなあ……でも、あの頃とは違う」
「戦国武将がどうとかやっていた頃とは文字通り歴史が違いますから……ああ、なるほど、酒呑様もお気づきになられましたか」
白択はこの現世に復活してすぐに気付いた事がある。
元々霊気は有り余るほどに存在していた、Sランクの貫禄が充分あるくらいに。
しかし全盛期よりは落ちてきている、自分だけではない……酒呑童子も、大江山四天王も、天狐も、鎌鼬も上から下まで……。
妖怪達その物の霊気が落ちてきている、どんどん妖怪その物が力を失ってきている、
霊気とは恐怖の力、それが失われるという事は……答えは見える。
「人間は……もう余裕はないんだな、私と同じで」
「ええ、人間同士でも心底怯えるくらいには疑り深くなったことで、我々のような超常現象に構う余裕などなくなったのでしょう。」
「そしてこれに気付けば……」
「ええ、貴方が予想している通り村上という人間の対妖怪の価値はゼロに等しいです」
人が妖怪を恐れないことによって、妖怪の霊気は失われる。
おそらくは何体か察しているのだろう、己が弱体化していることに……だからこそ旧・御三家の力を欲しているのもあるのかもしれない。
しかし酒呑童子は別のことを思った。
「これ、何の意味もないんじゃないのか?」
「まあ貴方がそう思うのも無理もないかもしれません、向こうもそれを認識した時が転換点でしょう……我々妖怪と人間の付き合いも」
「……白沢、最後になるが、異なる種族と手を取り合うなんてありえないと言ったのはお前じゃなかった?」
「ええ、仲良くなんてのは絵空事……だとしても、彼が望むように利用価値を見出す付き合いくらいは、知性あるものとして可用性くらいは。」