夜の帳が降りた退魔師学校の敷地内は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
静寂の中、規則的な足音だけが静かに響く。
制服の上に薄手のコートを羽織り、手にいつものバインダーを抱えた村上は、立ち入り禁止の札が掲げられた奥ノ院への参道を一人歩いていた。
村上の頭の中では、無数のデータと論理モデルが目ま律動的に組み替えられていた。
(件(くだん)の能力の本質が『未来の強制改変』であり、自らの死と人間たちの『認知の集合体』をリソースとして消費するシステムであるなら……現代において、その能力を最も効果的に行使する方法は何か?)
歩みを進めながら、村上は思考を深める。
昔のように「飢饉」や「疫病」、「大火」といったストレートな災害の予言は、現代のインフラと情報網の前では分散されやすく、インパクトが薄れる。
件を裏で操る『百物語』が、ただの破壊や殺戮を目的としていない以上、もっと壊滅的で、抗いようのない「構造的破滅」を狙ってくるはずだ。
そのために必要な前準備——それは例えるなら【バブルの創出】だ。
(経済史を振り返れば明白だ。大恐慌やリーマンショックのような致命的な暴落を引き起こす前には、必ず実態を伴わない異常なまでの好景気……根拠なき狂熱(バブル)が存在する。高く上がれば上がるほど、地面に叩きつけられた時の衝撃は絶大になる。グラフを限界まで跳ね上げてからショートさせる……それが最も少ないリソースで最大級の『絶望』を出力するアルゴリズムだ)
村上は立ち止まり、夜空を見上げた。
あまりにも上手くいきすぎている。
紅院が試験を突破し、瞬く間に上級退魔師へ昇格したこと、数々の妖怪を村上の力も借りて封印したこと。
大妖怪の集団である酒呑組が、なぜか実質的に自分たちの管理下に収まったこと。
そして、日本を揺るがす三つの大妖魔家系『旧・御三家』の所在が、ここ数日で急速に自分たちの周囲に引き寄せられていること。
一見すれば、奇跡的なトントン拍子の成功ストーリー。
だが、リスク管理の観点から言えば、これは【異常なまでの超過利回りの連続】であり、あからさまな粉飾決算、あるいは罠としての「仕込み」に他ならない。
(俺たちが今歩まされているこの『トントン拍子の勝利ロード』自体が、件によって上書きされた予言の第一工程……『絶頂期(バブル)の形成』だとしたら?)
絶頂の果てに用意されているのは、紅院が閻魔大王として覚醒し、醜い悪意の掃き溜めである地獄の王として人間性をすり潰される未来か。
あるいは、溜め込まれた『認知のリソース』が一気に弾け飛び、全ての妖怪と退魔師が全滅する決定的な破滅か。
いずれにせよ、村上にとって到底受け入れられるシナリオではなかった。
紅院を地獄の閻魔などという過酷な労働環境に送り出す気もなければ、自身の「平穏な高校生活」を脅かされる気も毛頭ない。
(だとするなら、仕掛けられたバブルが崩壊する前に、こちらから『構造上のバグ』を突いてシステムそのものを破綻させる必要がある)
村上が辿り着いたのは、退魔師学校の最深部。
古びた縄と厳重な注連縄が張り巡らされた、巨大な石造りの祠——旧・御三家の一角『山本五郎左衛門(やまもとごろうざえもん)』の墓所であった。
日本全国の怪談や魔王の伝承を統べる大妖怪、山本五郎左衛門。
白沢たちの情報では、この墓はすでに「もぬけの殻」であるとされていた。
村上は手袋をはめ、バインダーから取り出したセンサー付きの小型測定器を祠の隙間に滑り込ませた。
「……やはりね」
機器が表示した数値を見つめ、村上は冷ややかな息を吐く。
「『もぬけの殻』どころか……意図的に『中身(認知の核)』だけが抽出され、外部のサーバー……いや、百物語のデータ集積所へ転送された形跡がある」
かつて山本五郎左衛門が封印された際、その強大な怪談のエネルギーは、この地に留め置かれたはずだった。
しかし、ここにある封印の符は物理的に破られたのではなく、内側の「意味」だけが綺麗に空洞化されている。契約の虫食い状態だ。
百物語は、怪談の王である山本五郎左衛門の「認知データ」を既に回収し、件の予言(未来改変)を稼働させるための膨大な素材として組み込まれる。
「旧・御三家の力を集結させて世界を書き換える……実に古典的で、同時に悪質なマルウェアになるかもしれない」
それが意味するものは何か……簡単な事だ、『山本五郎左衛門』はもうとっくに復活している。
「……ふむ。データ上の空洞化だけでなく、実体のアクセスログまで残されているとは、想定以上想像以下だな」
夜の参道、注連縄が千切れた古びた祠の前で、村上はバインダーのページをめくりながら呟いた。
その背後——漆黒の闇が突如として歪み、禍々しいまでの怨念と魔気が渦を巻き始める。
『……ククク、愚かな人間め。我が封印の綻びに気付いたか』
地の底から響くような地鳴りとともに、闇の中から巨大な影が立ち現れた。
頭上には異形の角、身には巨大な眼と千の口を宿し、存在そのものが世界を歪める圧倒的な脅威。
旧・御三家の一角、かつて日本、中国、インドの三国を破滅の淵へと追い詰めた最凶最悪の魔王——『山本五郎左衛門』である。
『我は既にこの地に縛られぬ。百物語が集めし認知の記録を得て、解き放たれたのだ! ひとつの命も残さず、この現世を地獄の坩堝と化して破滅させてくれようぞ! 再び世界征服してくれるわ!!』
三国を滅ぼしかけた伝説の大妖怪による、世界崩壊の宣言。
並の退魔師であれば、その霊圧に気押されて即座に発狂するか精神を崩壊させているところだ。
だが、村上は静かにバインダーを正すと、冷ややかな視線を大魔王へと向けた。
「山本五郎左衛門さんですね。まず第一に、不法侵入および施設の損壊行為について言及させていただきます。退魔師学校の最深部は関係者以外立ち入り禁止区域です。第三者による無断使用は建造物侵入罪に該当します」
『……は?』
魔王の禍々しい雰囲気が、一瞬ピクリと停止した。
「第二に、『認知データの無断抽出』について。あなたが百物語経由で回収したとされる封印エネルギーですが、これは退魔師協会の管理資産に該当します。無許可でのサーバーデータ書き出し、およびライセンス違反のコピー使用は、著しい著作権ならびに知的所有権の侵害です。今すぐ元のデータベースへデータを返還し、損害賠償の協議に応じてください」
『な、何を言い出すかと思えば……たかが人間の小僧が! 我は三国を滅ぼしかけた妖怪の王ぞ!? 法律などという人間ドモの戯言がこの我が魔術に届くと思うてか!!』
「法が届かないと誤認されているようですが、社会的な信用と手続きを無視した組織は、例外なく外部からのコンプライアンス介入によって破綻します。現に、あなたはいま『解き放たれた』と主張しながら、わざわざこの祠の前に居座って俺という一般高校生相手に長文の自己紹介(プレゼン)を行っている。極めて承認欲求が高く、行動効率が悪い」
『無礼者めが──ーッ!!』
山本五郎左衛門の全霊の怒りが爆発し、天を衝くほどの魔気が上がった。
村上が狙っていたのはまさにこれである。
(……よし、ヘイト(ヘイトスピーチならぬヘイトギャザー)の回収は完了した)
村上は心の中で冷徹に計算を弾く。
現在、大江山では紅院の上級退魔師昇進を祝って、酒呑組の妖怪たちがドンチャン騒ぎの真っ最中だ。
旧・御三家のひとりである源浜岸雪右衛門(酒呑組の幹部)の力を借りるという選択肢もあるが、それは不可能だ。酒呑組を動かせば、妖怪同士の巨大な勢力争いへと発展し、平穏な高校生活など一瞬で吹き飛ぶ。
さらに最大の懸念は、紅院の正体——旧・御三家の最後の一人『紅甲飴教皇院破道閻魔(閻魔大王)』であることが世間にバレることだ。
もし紅院がここで覚醒し、己の力に気付けば、そのまま地獄の過酷なブラック職場へと直行させられる危険性がある。
(紅院君に閻魔大王の仕事をやらせるわけにはいかない。そして酒呑組も使えない……ならば、この場に存在する『利用可能なリソース』は何か?)
村上はちらりと後方——夜の帳が降りた退魔師学校の校舎群を見やった。
ここには今、『式神雇用資格・実技査定』および『上級退魔師昇格試験』のために、全国から集まったエリート退魔師たちがゴロゴロと溢れかえっている。
先ほど試験官を務めていた高ランク退魔師や、ヤル気だけは空回りしている蒼介を含め、戦闘に特化した「高負荷の労働力」が極めて過剰に密集している状態なのだ。
(自社(紅院)のリソースを消費せず、外部の協力会社(一般退魔師たち)に防衛業務を完全丸投げする……アウトソーシング・スキームの構築だ)
『集え! 我が配下、百鬼夜行に巣食う異形どもよ! この小僧を真っ先に血祭りにあげ、この退魔師学校を血の海に変えてくれるわ!!』
山本五郎左衛門が咆哮を上げると、空に巨大な穴が開き、何百、何千という凶悪な野良妖怪たちの軍勢が雪崩のように湧き出してきた。
妖怪の王の呼び声に応じ、日本各地の怪異がこの退魔師学校へと大集結を開始する。
「うわあああッ!? な、なんだこの禍々しい魔気はーッ!?」
「演習場の方から妖怪の大軍が押し寄せてくるぞ! 全員、迎撃姿勢をとれ!!」
校舎や宿舎にいた退魔師たちがパニックを起こし、武器を手にして飛び出してきた。
参道に溢れ返る妖怪の群れ、そしてその頂点に君臨する巨大な大魔王・山本五郎左衛門の姿を見て、エリート退魔師たちの顔が青ざめる。
「ば、バカな……旧・御三家の山本五郎左衛門だと!? なぜ封印が破られている!?」
「あんな大妖怪、俺たちの手に負えるわけがない……!」
戦意を喪失しかける退魔師たち。
その最前線、巨大な魔王の目の前に、ポツンと一人で立ち続けている制服姿の男子高校生——村上がいた。
村上は鞄からメガホンを取り出すと、スイッチを入れて音量を最大に設定し、怯える退魔師たちに向かって朗々と言い放った。
「退魔師学校の生徒および職員の皆さん! 落ち着いて行動してください!」
「あれは紅院の式神……!? お前、なんでそんなところにいるんだ! 早く逃げろ!」
蒼介が剣を抜いて叫ぶ。
「逃げる必要はありません。現在、当敷地内において無許可の集会および不法侵入を行っている妖怪の群れに対し、労働安全衛生法第26条に基づく『緊急危険回避および防衛業務』が発生していますから」
村上はバインダーを掲げ、ビシッと指を突きつけた。
「本日の実技査定において、皆さんは『実践的な連携と実績』を求めていたはずです。あちらに鎮座している山本五郎左衛門さんは、討伐実績として最高査定枠に該当する超大型案件です! これを討伐した場合、参加者全員に特別手当およびシーズンランクの大幅な加点(ボーナス)が確定します!」
「「「えっ……加点ボーナス!?」」」
退魔師たちの目が、一瞬で「実績に飢えたビジネスマン」のそれに変わった。
「ただし! 無計画な突撃は過重労働および負傷リスクを高めます! 鬼頭試験官! あなたが現場の安全管理者(プロジェクトマネージャー)として指揮を執ってください! 1課は左翼の雑魚妖怪の処理、2課は後方の遊撃隊! 蒼介さんはその無駄に高いモチベーションを生かして前線のタゲ取り(ヘイト集め)を担当しなさい!」
「俺この扱いなの? まあいいや、報酬は紅院のデートの約束取り付けで働いてやるからな!」
蒼介が叫ぶが、村上の圧倒的なロジカル指揮に、現場の退魔師たちは抗えない。
「ちょっと待て! 残業申請はどうなるんだ! こんな夜中に大妖怪と戦うなんて聞いてないぞ!」
鬼頭試験官が半泣きで叫ぶと、村上は間髪入れずに返した。
「本件は『緊急災害協定』に基づく特例措置として処理します! 労基署への事前申請は俺が後から書類を偽造……失礼、代行手続きを行いますので、深夜手当および危険手当は200%増しで請求可能です! 勝利すれば全員、有給休暇の無条件取得権を協会から毟り取れます!」
「有給200%増し手当──ーッ!? 野郎ども、妖怪どもを片付けるぞぉぉぉッ!!」
「山本五郎左衛門を倒してキャリアアップだ──ーッ!!」
村上の一言で、恐怖に震えていた退魔師たちが一転、血走った目で妖怪の軍勢へと襲いかかった!
ブラック労働に喘ぐ若手退魔師たちの「有給と手当」への執念は、大妖怪の恐怖すらも凌駕したのだ。
報酬の力って怖い、退魔師も楽じゃない。
『な……なんだこの人間ドモの異常な士気はーッ!? 我の威圧が効いておらんのか!?』
山本五郎左衛門が困惑の声をあげる。
妖怪の王として世界を滅ぼそうとした男が、今や退魔師たちの「インセンティブ(報酬)」のために狩られる標的へと成り下がっていた。
村上は乱戦の渦中、バインダーにチェックを入れながら、冷酷に呟いた。
「よし。外部リソースによる防衛線の構築は完了。これで紅院君を引っ張り出す必要も、酒呑組を巻き込む必要もない」
早いうちに、山本五郎左衛門の手下および野良妖怪の大部分をこの場所で絶っておく。
そうすれば、百物語が画策していた「認知データを用いた未来改変の準備」は、リソース不足を起こして大幅に遅延するはずだ。
「さあ、山本五郎左衛門さん」
村上は怒り狂う大魔王を見上げ、メガネの奥の瞳を冷たく光らせた。
「三国を滅ぼした過去の栄光に縋るのも結構ですが……現代社会の『組織力』と『インセンティブ設計』の恐ろしさを、その身でじっくり味わってください」
「紅院──ーッ!!」
1人だけ煩悩を隠さなかった。
「ああ念の為言っておくと紅院君は男なんですけど」
「えっ」
関係ないところで一人のエースの人生観を破壊してしまったが割愛。
ちなみに村上にとっては特に興味のないことではるが、この1件の後に蒼介は退魔師を辞めたという。
——
そしてこの1件はすぐに紅院の所にも届く。
「え!? 退魔師学校で山本五郎左衛門が復活した!? 色んな退魔師がやってきて暴れている!? 村上が1人で抑えてる!?」
紅院は大慌てで急いで向かおうとするが、そうこうして追いつく間に内に妖怪退魔師学校にて紅院と対峙している人物がいた。
それは……大きな鏡のようになっていた。
「なあ紅院君、ちょいといいか」
「なんですか、僕は今急いでるんだけど……あれ、なんかこの声覚えがあるような……」
「うん、それは多分、雲外鏡を通して話しているからかな」
「えっ……え!? 村上君!?」
なんと、妖怪の雲外鏡を通して村上の姿が現れた、だが妙なことにそこにいるのは自分の知ってる村上ではないような気もしてくる。
それでいて目の前の村上は別物にも見えない。
「パラレルワールドって思ってくれたらいいかな」
「なるほど……それはいいとして今すごく忙しいんだけど」
「そっちでも山本五郎左衛門が復活して暴れているのかな?」
「そうそう」
「その辺はこっちの俺で何とかしておくから紅院君は安心して待っててくれればいいよ……それよりも大事な話があってだね、まずは妖怪について少しある事ない事説明をしておくよ」
「ある事ない事言わないで!?」
「ある事ない事」
「繰り返さないで!! なにそれ怖いんだけど!?」
「妖怪は単純に悪だからとか理由で封印されてるわけじゃなくて、あくまで人間との不和を解決するために封印されたりしてるんだよ、だから俺の所だと和解の道に進んだりしてるよ」
「和解!?」
信じられないことに並行世界では妖怪と人間の共存という方向性になり、その第一線に立っているのが向こうの村上らしい。
妖怪どころか同じ人間に対しても不信感を強く宿している自分の知る村上とは大きく正反対だ。
「そもそも妖怪は元は人間が作り出した概念みたいなものだったそうからね、元通りにすればいいんだよ。そして、紅院君には教えておくよ。何故妖怪達が紅院君を狙っているのかを」
「確かに、妖怪が僕の事を狙うのは不思議だけど……退魔師だから当然じゃないの?」
「そえ、君が、妖怪を封印してるからじゃない……君が紅院君からほど遠いからだよ」
「え?」
「もしかして、自覚なかった?」
紅院の背筋が氷のように冷える。
「僕は……一体何者なんだ?」
「…………」
「教えられない。それを言ったら、君が"本来の役割"に縛られるから」
「本来の役割って……どういうことだよ!?」
「妖怪が君を狙うのは、君の中に"妖怪たちの原典"が眠っているからだ」
「……原典?」
「簡単に言うと、君の魂には三つの妖怪の家系……所謂旧・御三家の妖怪達の魂が内包されており、それに惹かれる妖怪は多い……それこそが紅甲飴教皇院破道閻魔の後継者……」
「えっ……ええ!? まさか、僕が旧・御三家の最後の一人!? でも僕は人間で……」
「そう、紅院君は人間だよ、俺の知ってる方を含めてもね……でも、何かおかしいんだ」
紅院は人間だ、退魔師でとても立派な夢を抱えている。
しかし紅院はね、ゴリラみたいな筋力は無いし、霊力はいまいちだし、優しさだけで退魔師をやっているような人間なの。
紅院は中身は同じに見えるだろう……中身は。
「君は本当に紅院君なの?」
それだけ言って雲外鏡は割れて並行世界の村上の声は聞こえなくなる。
自分は本当に紅院なのか? その言葉は呪いのように紅院の心に残り続けた。
だがそれどころじゃない、村上が心配だ……一旦忘れて退魔師学校の奥まで行くとまるで終戦後のように荒れ果てているところに……村上が居た。
「村上君!? 本当にここにいた……大丈夫!? 山本五郎左衛門はどうなったの!?」
「ああ紅院くん……どうしたの? 何か焦ってるみたいだけど」
「……僕が、紅甲飴教皇院破道閻魔が旧・御三家って本当なの!?」