山本五郎左衛門の一件から、早くも一週間が経過していた。
理念市の街並みは、気味が悪いほどに平和だった。
妖怪たちの動きはピタリと止まり、退魔師協会もまた、あの夜の「実技試験(という名のアウトソーシング総力戦)」の処理と莫大な残業代・手当の計算に追われ、前線の警戒網はかえって静まり返っていた。
旧・御三家の一角が復活して即座に退魔師たちの「有給と手当に狂った猛攻」で叩き潰されたという噂は、妖怪社会の裏ネットワークを駆け巡り、「現代の退魔師協会は兵士に危険手当を200%乗せて突撃させる狂人集団である」という酷い風評被害(誤認)を生んでいた。
だが、村上の表情は晴れない。
教室の窓際、自分の席でバインダーを開きながら、村上は静かにペンを走らせていた。
(嵐の前のアキュムレーション……『蓄積』の期間だろう)
経済のバブル崩壊直前と同じだ。市場が異常なまでに静まり返り、ボラティリティ(変動率)が極限まで低下したときこそ、裏で膨れ上がった巨額のポジションが一気に弾ける合図となる。
件(くだん)が『世界を望む未来へ書き換える』ための認知リソースは、山本五郎左衛門の一件で一時的にショートしたはずだった。だというのに、この静けさはあまりにも不自然すぎる。
そして——最大の不確定要素。
あの夜を境に、紅院が姿を消していた。
「……ふぅ」
村上は小さく息を吐き、ポケットからスマホを取り出した。画面には、白沢からの着信履歴と、暗号化された定期報告が届いている。
『村上さん。大江山の情報網を全開にして捜索させておりますが、紅院様の霊気はいまだ感知できません。あの大騒動の直後、退魔師学校の奥ノ院から理念市方面へ移動した痕跡を最後に、足取りが完全に途絶えているようですね』
『追跡の優先度を上げてくれ、恐らくもっと広範囲まで』と村上は返信を打つ。
『了解いたしました。……酒呑様が「紅院ちゃんがいなくなって寂しいから、捜索にかかった経費は全部酒呑組の裏金から落としていいよ」と仰っております。それと……盗聴して色々聞きました、並行世界のあなたが言ったという「君は本当に紅院君なのか?」という言葉、白沢としても気になります。紅院様は己の出自と存在理由の解離に耐えかね、自己蒸発されたのでは……』
村上は短く『心理的逃避の可能性は37%。残り63%は別のリスク行動だ』と打ち返し、通信を切った。
「……バカバカしい」
村上は一人、つぶやいた。
アイデンティティの探求など、17歳の高校生が中間テストの勉強から逃避するために使う定番の言い訳に過ぎない。自分が閻魔大王の生まれ変わりだろうが、旧・御三家の最後の一人だろうが、現在の戸籍と社会的身分は「高等学校2年・紅院」で確定しているのだから、何を悩む必要があるというのか。
……そう自分に言い聞かせながらも、村上の胸の奥には、鉛のような重みが残っていた。
(紅院君は……真面目すぎるんだな)
雲外鏡越しに告げられた「本来の役割」という不吉な言葉。
もし紅院が、自分が「地獄の閻魔大王」という悪意と穢れの掃き溜めを統べる存在だと知り、その責務から村上や周りの人間を遠ざけようとして一人で姿を消したのだとしたら。
『ただの村上の友達でいてくれたらよかったのに。』
あの日、大江山の居間で抱いた身勝手な感情論が、冷酷なデータの中に澱(おり)のように沈んでいた。
◆
放課後。村上は単身で紅院のアパートを訪れていた……住所はこの時初めて知った、会う時なんて大体山に籠って修行している時でプライベートな付き合いも無いので、付き合いは長かったがここに来る機会なんて一度もなかった。
鍵はかかっていなかった。不用心極まりないが、それがかえって「急いで立ち去った」わけではないことを物語っていた。
整然と片付けられた四畳半の部屋。
机の上には、村上が以前渡した『個人事業主としての節税セミナー』の資料と、公共交通機関の無料パス申請書類が几帳面に並べられていた。
そして、その中央に、1枚の便箋が置かれていた。
『村上君へ。
突然いなくなってごめんなさい。
僕が何者なのか、並行世界の村上君が言っていた「僕の中に眠る原典」が何なのか、自分自身の目で確かめてきます。
もし僕が本当に「閻魔」という恐ろしい存在で、みんなに災いをもたらすものだったら、僕はもう戻ってこない方がいいのかもしれない。
あ、確定申告の書類、途中まで書いたから置いておくね! 誤字があったらごめん!』
文章の端々に滲む、相変わらずのポンコツぶりと、不器用な優しさ。
村上はバインダーの角で、バシッと音を立てて机を叩いた。
「……ハラが立つね」
村上の声は、普段の無機質なトーンをわずかに欠いていた。
「確定申告の控除対象のチェックボックスが漏れている。これでは税務署で書類を突っ返されて二度手間になるだけだ。提出期限を前にして書類の不備を残したまま失踪するなど、社会的信用を著しく損なう行為だぞ、紅院君……」
村上は眼鏡の位置を正し、便箋を丁寧に折りたたんでバインダーに挟み込んだ。
「ああ、でもこれが本当に紅院君が書いていたらの話だけど」
その時——。
村上のスマホが激しく振動した。白沢からの緊急着信だ。
『村上様! 理念市の中心街で異常事態です! ネット上のSNS、怪談掲示板、都市伝説のまとめサイトが一斉に書き換えられています!』
「書き換え……? 件(くだん)の予言かな?」
『ええ! 拡散されている都市伝説のタイトルは……【理念市の地獄の門が開く。姿を消した少年は、閻魔として現世を裁く】……! 認知のリソースが急速に集積され、現実を書き換えるパッチプログラムが起動しかけています!』
村上の瞳に、氷のような冷徹な光が宿った。
(やはりな。紅院君の『自己探求の失踪』すらも、百物語と件は織り込み済みでリソースとして利用していたわけだ)
絶頂期(バブル)を演出し、主人公を孤独に追い込み、そのアイデンティティを奪って「決定的な破滅の予言」へと繋げる。悪質極まりないシナリオ構築(アルゴリズム)だ。
「白沢さん」
『はい』
「酒呑童子さんには前もって伝えてありますが、酒呑組の全戦力に緊急通達を出してください。労基法および労働安全衛生法は本日をもって一時凍結。全従業員に対し、特別有給休暇と『黒字化ボーナス』の無制限支給を条件として、緊急迎撃体制(スクラム)を組ませます」
『な……っ! 貴方が法律を一時凍結!?酒呑様の許可ありきとはいえ唐突に……』
「それと、理念市内の防衛線を固めつつ、旧・御三家の伝承に関するデータベースを再検索してください。……あのバカが『地獄の閻魔』として就職活動(覚醒)を完了してしまう前に、俺が直接内定を取り消しに行きます」
村上はバインダーをパチンと閉じた。
「閻魔大王だろうが、最恐の予言だろうが関係ない。俺の平穏な高校生活と、ポンコツな友人の未来は……論理と契約で、すべて俺が買い戻す」
「……貴方は本当に、その人間に対しては熱心になるのですね」
——
そうして村上は一人動き出した……紅院に対して何か嫌な予感がする、百物語が遂に動いた。
元々それを想定していたのだからしっかり解決しなくては話にならない。
しかしどう動いたところで紅院のアテはない、しかし今回村上は柄にもなくひたすら探し回った。
そして……ゆっくり休んでいると、酒呑童子と再会する。
思えば彼女も最初に会ったときはすっかり変わった、立場に縛られて好きなように生きられずストレスと酒におぼれていた酒呑童子は村上との出会いで愚痴を受け入れる理解者として好意を持ち村上に権限と椅子だけ譲ってからは酒もあまり呑まなくなり、雰囲気だけ見たらキャリアウーマンそのもののようにも見える、大きな組織の長にはふさわしい姿だがあの頃の面影はすっかりなくなった。
ただし色気は多い。
「酒、呑まなくなったんですね」
「今は呑まなくても……色々と楽しい、そういうふうに思えるようになったのは村上、お前のおかげだ」
「俺はありふれたことしかしていないですよ、自分が生きる為に……相手も食い潰されるような存在にさせない、でも今度は紅院君が同じようなことになろうとしている」
「本当に特別なのか?その人間だけは」
「多分そう、俺は紅院君がいないと孤独だから、雇用者とか仕事仲間とか……作戦の為に色んな協力者を集めてきたけど、紅院君だけは違うんだ……決定的な何かが」
「私では同じ席に入れないのか?それは私が……妖怪だから?私はこれでも……お前の事が好きなのに」
「いや……俺が単純に、人付き合いというものを深く掘りたくないだけかもしれない、恋というものは一貫性だから」
「そうか……」
二人はベンチで空を見上げる、ここで出会ったのが二人の始まりであり、酒呑組という大きな戦力もここから巡り合わせた。
紅院軍は酒呑組とは別派閥のつもりだがトップが居ないのであれば話にならない。
そして村上も実は理解している、酒呑童子が今向けている好意はいつか薄れてしまうかもしれなくても、相手からの誠意にはしっかり答えなくてはならない。
「嫌じゃないですよ、俺は」
「え?」
「確かに大人のしがらみも抱えてどうしようもない人だけど、俺もなんだかんだ……楽しかったのかな、この生活が、だから今でも凄い満足してて、これからも……?いや、変わらないのもどうかと思うけど、紅院君を連れ戻したら今度は酒呑様の行きたいところに……」
「そっか……村上、よかった、私が鬱陶しく思われてなくて良かった、それだけで嬉しい」
「ごめん」
その声を聴いて振り向くと、そこに酒呑童子の姿はなかった。
確かにそこに座っていたはずのベンチには小さな箱があり、そこの入っていたのは……根元から折れた、赤い、角。
それを見て途端に白択から着信、いつものように盗聴していたのだろう。
だが村上はこの時何故か分からないが出たくなかった、ここから発せられる報告の内容が自分が想像しているものではないと願ってしまった。
村上には致命的な欠陥がある、結局の所彼はここまで何の変哲もない普通の高校生として、平和な環境で生きてきたことによる認識のボケ。
こうなることだってあるのだ、自分達が送っている『いつか』はあまりにも簡単に崩れ去る。
——あの時彼女は、自分が村上からどう思われていたのか、それだけが心残りだったのだろう。
「もしもし」
「村上さん、非常事態で今も準備を始めているので簡潔に言います……」
「酒呑童子様が死亡しました、封印ではありません……『死亡』です、酒呑組の今後については別で考えていきますが、貴方にも葬式に参加していただく……」
「ぁ。」
理解して、村上はそんな声が漏れた。
これまで自覚していなかったのか、見て見ぬふりをしていたのか……自分は、いなくなったらどうなるのかなんて考えた事も無かった。
ただ、これで分かる事はただ一つ。
人は、悲しいことがあっても泣くことはないのだと。
——
酒呑童子の葬儀は、大江山の奥深くに位置する幽玄の谷で行われた。
普段なら酒と宴の狂騒に満ちているはずの場所に、数千もの妖怪たちが集まっていた。だが、そこにあるのは異様なまでの静寂と、冷たく重苦しい空気だけだった。
祭壇に祀られているのは、あの日ベンチに残されていた、根元から折れた赤い角——酒呑童子の唯一の形見である。
Sランクと呼ばれる最恐の大妖怪が、封印ではなく『死』という形で突如としてこの世から姿を消した。その現実に、参列した妖怪たちは深い悲しみと同時に、底知れぬ恐怖に震えていた。
(……実感が、湧かない)
黒いスーツを身に纏い、いつものバインダーを抱えたまま、村上は静かに祭壇を見つめていた。
つい先日まで、自分に権限を押し付けて愚痴をこぼし、柄にもなく少女のように微笑んでいた彼女が、もうこの世界のどこにも存在しない。
頭の中では自動的に損益計算やリスク評価のデータが弾き出されようとするが、その全てが虚空に消えていく。
人間は本当に悲しいとき、涙すら流せず虚しい気持ちが川のように流れるだけだということを、村上は己の身をもって知っていた。
「……村上様」
傍らに佇む白沢が、低く絞り出すような声で話しかけてきた。
「酒呑組の幹部たちの動揺は抑えておりますが……限界があります。Sランクである酒呑様を害した存在への復讐を叫ぶ者もいれば、恐怖のあまり隠遁しようとする者も……四天王達を止めるのも精一杯です」
「退魔師学校周辺の動きは?」
「以前から警戒網を敷いてはいましたが、ここ最近は妖怪側を刺激しないよう静観を保っています。そもそも退魔師の根本的な理念は『封印』および『隔離』であり、妖怪の完全な『消滅(殺害)』は霊的なタタリや生態系の崩壊を招くため、禁手とされています。現代の退魔師の仕業ではありません」
「ああ、知っているよ……俺もそういう退魔師をずっと見てきたから」
村上は冷ややかに答えた。
退魔師側の行動原則とリソースコストを考えれば、酒呑童子をわざわざ殺害するメリットが存在しない。むしろ強力な秩序の維持者であった彼女を失えば、全国の妖怪が暴走するリスクが高まるだけだ。
では、一体誰が……何のために酒呑童子を手にかけたのか?
(単なる殺戮が目的ではないはずだ。彼女を消すことによって『得をする』あるいは『障壁を排除できる』存在……?そういえば、ちょっと前にはあの雷獣の件みたいに高ランクの妖怪が次々と狙われたこともあった……)
村上の思考回路が、激しい感情の底から冷徹な論理を汲み上げ始める。
酒呑童子という巨大な存在。彼女がその身をもって守っていたもの、あるいは封印・管理していた「資産」とは何か。
そこまで考えが至った瞬間、村上の脳裏に雷撃のようなひらめきが走った。
「……白沢さん」
「はい?」
「酒呑組が代々厳重に管理・保管していたはずの……旧・御三家の一角『源浜岸雪右衛門(みなもとのはがんゆきえもん)』の墓所の状態は?」
「……っ!?」
白沢の顔色がガラリと変わった。
◆
大江山の最奥、酒呑組の聖域とされる地下結界。
普段ならば酒呑童子の強力な霊気と重厚な結界によって固く閉ざされているはずの岩窟へ、村上と白沢は足を踏み入れた。
「……これは……」
白沢が言葉を失う。
そこに広がっていたのは、無惨な破壊の痕跡だった。
何重にも張り巡らされていた古代の封印陣は跡形もなく引き千切られ、中央に安置されていた源浜岸雪右衛門の霊廟は、粉々に打ち砕かれていた。
山本五郎左衛門の祠が「中身を空洞化された」のに対し、こちらは暴力的なまでの力によって破壊され、蓄積されていた認知の核と霊的エネルギーが根こそぎ強奪されていた。
「酒呑様は……まさか、これを行おうとした侵入者を止めようとして……」
白沢の声が震える。
村上は膝を折り、破壊された石棺の表面に触れた。残された微かな残留エネルギーのデータをセンサーで計測する。
アクセスログの波形は、退魔師学校で回収した山本五郎左衛門のデータ構造と完全に一致していた。
「……パズルが繋がったよ」
村上は立ち上がり、バインダーをパチンと音を立てて閉じた。
「酒呑さんを殺害したのは……『百物語』、そして件(くだん)だよ、そして御三家を破壊したのは酒呑さん自身だ」
酒呑童子は、源浜岸雪右衛門の力を強奪しに来た百物語の刺客と交戦し、命を落としたのだ。旧・御三家の力を手に入れようとする百物語にとって、Sランク妖怪であり酒呑組の頭領である彼女は最大の障壁だった。
「山本五郎左衛門の『認知データ』。そして源浜岸雪右衛門の『霊的構造』……。百物語はすでに、旧・御三家のうち二つのエンジンを手に入れている……件はもう寿命で絶命していそうだが、流れるエネルギーのように未来に進む事象は止まらない。」
世界の未来を強制的に書き換える「件の予言」。
その巨大なシステムを起動させ、決定的な破滅のバブルを弾けさせるためのリソースとして、旧・御三家の力が必要不可欠だったのだ。
そして——。
「残るマスターキーは、あと一つということですか……3つ揃える、ただしそれは完全なカタチでなくえもよいと」
白沢が息を呑む。
村上の言葉の意味を、理解したからだ。
山本五郎左衛門は自分が消した。
源浜岸雪右衛門は潰した。
そして——最後の旧・御三家、『紅甲飴教皇院破道閻魔(べっこうあめきょうこういんはどうえんま)』。
旧・御三家は本来3つ揃わなくては力にならない、だからこそ酒呑も村上も作戦を荒らすために旧・御三家を絶つという行動をとり、実質2つの無力化に成功したわけだが……これでも完全に止められるわけではない。
その力をその身に宿し、己の存在理由とアイデンティティに苦悩しながら、理念市のどこか、もしくは誰にも認識できない所へ一人で姿を消した少年。
「紅院君……」
村上はメガネの位置を正し、鋭い光を宿した瞳で闇の奥を見据えた。
百物語の狙いは、最初から紅院だったのだのは確かだ。
失踪させ、孤立させ、精神的に追い詰めた上で『地獄の閻魔』として覚醒させるか、あるいはその魂を砕いて旧・御三家の最後の素材として組み込むか。
「白沢さん、葬儀の参列者および酒呑組の全戦力へ伝達」
村上の声に、いつもの冷徹なビジネス・トーンが戻っていた。だがその奥底には、決して消えることのない静かな怒りの炎が燃え盛っていた。
「悲しみに暮れる時間は終わりました。これより『紅院軍』および酒呑組の全リソースを投入し、百物語に対する全面的な敵対的買収(防衛戦)を開始します」
「……御意に!」
村上はバインダーを強く握りしめた。
友達を失ったショックに浸る暇すら与えない、不条理で悪質な未来改変のアルゴリズム。
だが、相手がどれほど完璧な絶望のシナリオを描こうと、関係ない。
(酒呑童子さん……あなたが命を懸けて守ろうとしたものを、俺が絶対に無駄にはさせない。そして——)
「紅院君。地獄の王の内定も、破滅の未来も……全部俺が、身も蓋もない論理(マジレス)で叩き潰して買い戻してやる……俺は、『妖怪バスター村上』になる」