コードギアス 騒動のルルーシュ 〜 Lelouch of ToLOVE Ru 作:elimin
彩南高校、昼休み。
教室の一角では、いつの間にか女子生徒たちが机を寄せ合い、ちょっとした集会のようなものを開いていた。話題は恋愛。誰が誰を好きだとか、どんな告白をされたとか、付き合うならどんな相手がいいだとか、他愛のない話題で盛り上がっている。
その輪の中心にいるのは、籾岡里紗をはじめとする女子生徒たちだった。
「でさー、やっぱりキスって大事だと思わない?」
「分かるー! 付き合ってから初めてするキスって、やっぱり特別じゃん?」
「えー、でも付き合う前にしちゃうのもドキドキしない?」
「それは相手によるでしょ。好きでもない人となんて、絶対イヤだし」
次々と飛び交う意見に、女子たちはきゃいきゃいと声を弾ませる。教室の一角だけ、そこだけ別の空間に切り取られたかのような賑やかさだった。
その一方で、少し離れた男子たちの様子はというと――。
「…………」
「…………」
「…………」
結城リト、猿山ケンイチ、そしてその他数名の男子生徒たちは、各々手元の弁当やら教科書やらに視線を落としながら、明らかに普段とは違う落ち着かなさを見せていた。
聞くつもりがなくても聞こえてくる。かといって、露骨に耳を傾ければ何を言われるか分からない。かといって、話題そのものが気にならないかといえば、決してそんなこともない。
思春期の男子とは、実に面倒な生き物である。
「……なあ、リト」
「な、なんだよ、猿山」
「お前、どうなんだよ」
「どうって、何が?」
「とぼけんな! キスだよ、キス!」
「ぶっ!?」
リトは飲みかけていた牛乳を危うく吹き出しかけた。
「な、なんでオレに聞くんだよ!?」
「そりゃお前、ララちゃんと春菜ちゃんに挟まれてる男だぞ? 何もないなんて、誰が信じるか!」
「何もないって言ってるだろ!」
声を上げた瞬間、リトはしまったという顔をした。女子の輪の中で、ぴたりと会話が止まる。
籾岡がゆっくりと振り返り、にんまりと笑った。
「へえ~? 何もないんだぁ?」
「うっ……!」
「じゃあさ、結城ってキスしたことあるの~?」
「なっ!? な、ないよ! ないない!」
「えー、ホントにぃ? ララちゃんと毎日あんなに仲良くしてるのに?」
「仲良くしてるのとキスは関係ないだろ!?」
「じゃあ、春菜とは?」
「だから、なんで西連寺まで出てくるんだよ!」
リトが必死に否定するたび、女子たちの笑い声が大きくなっていく。その隣では、当のララが不思議そうに首を傾げていた。
「キス?」
「ラ、ララ! お前は気にしなくていいから!」
「えー? なんで? キスって、好きな人とするものなんでしょ?」
「そ、それは……!」
あまりにも無邪気な問いかけに、リトの顔が見る見るうちに赤くなる。
ララ自身は本当に不思議に思っているだけだった。リトとキスをしたことはないし、彼が自分をどう思っているのかについても、彼女なりに考えてはいる。けれど、だからといって今ここでリトを追い詰めるつもりなど毛頭ない。
「ふーん。じゃあ、リトはまだなんだね!」
「ララぁぁぁっ!」
教室中にリトの悲鳴が響き渡った。
そんな騒ぎを、少し離れた席で頬杖をつきながら眺めていた男が一人。ルルーシュ・ランペルージは、騒がしい昼休みの光景をどこか達観したような顔で見ていた。
恋愛。キス。告白。
話題そのものは理解できる。理解できるのだが、こうも大勢で寄ってたかって一人の少年を追い詰める必要があるのだろうか。少なくとも、彼がこれまで経験してきた政治的駆け引きや軍事作戦に比べれば、ずいぶんと平和な問題である。
――まあ、本人たちにとっては、そう簡単に割り切れるものでもないのだろうが。
ルルーシュがそんなことを考えていると、籾岡の視線がふと彼の方へ向いた。
「あ、そうだ」
嫌な予感がした。
「ルルーシュくんは?」
「……何がだ?」
「キスしたことあるの?」
一瞬、教室の空気が止まった。そして次の瞬間、男子たち女子たちの視線が一斉にルルーシュへと集まった。
「た、確かに気になる……!」
「ルルーシュくんって、何かそういうの慣れてそうだよね」
「分かる。なんか、普通に経験豊富そう」
「えーっ、でも、誰としたんだろ?」
男子たちまで、いつの間にか会話に聞き耳を立てている。リトは心の中で叫んだ。
――やめろ! そっちに話を振るな!
しかし、願いもむなしく、籾岡は机に両手をつき、興味津々といった様子で身を乗り出した。
「ねえねえ、何回くらい?」
ルルーシュは彼女たちを見回した。こういう質問に、どう答えるべきか。
経験がないと答えれば嘘になる。かといって、正直に話せば話したで、面倒なことになるのは目に見えていた。相手の名前も、そのとき何があったのかも、ここで口にするわけにはいかない。
ましてや、その記憶の中には、もう二度と会うことのできない少女の姿まである。
「……四回だ」
「「「ええええええっ!?」」」
教室の一角が爆発した。
「四回!?」
「待って、四回って多くない!?」
「ルルーシュくん、やっぱり経験あるんだ……!」
「えっ、誰と!? どんな人!?」
「いつ!? どこで!?」
「……質問が多すぎる」
ルルーシュは眉間を押さえた。少しは考えてから答えるべきだったかもしれない。だが、いまさら訂正するわけにもいかない。
「そのうち一度は……雨の降る夜だった」
「雨!?」
「え、なにそれ、ロマンチック!」
「どんなシチュエーション!?」
盛り上がる女子たちをよそに、ルルーシュの視線は、教室の窓の向こうへと移っていた。
あの夜も、雨が降っていた。
冷たい雨が街を濡らし、街灯の光をぼやけさせていた。目の前にいた少女は、父親を失った悲しみを抱えながら、それでも必死に自分を保とうとしていた。
その父親の死に、自分が関わっていることを知らずに。
作戦を立案し、実行したのは自分だった。大局を動かすために必要な犠牲だと考え、彼女の父親が巻き込まれたことも、戦争の現実の一部として処理していた。
けれど、彼女にとっては世界の情勢でも、戦略上の損失でもない。ただ一人の父親を失った、取り返しのつかない悲劇だった。
彼女の言葉を聞きながら、ルルーシュは何も言えなかった。
何を言ったところで、自分がその悲劇の一端を担っているという事実は消えない。それでも、目の前で泣く少女を放っておくことだけはできなかった。
だから、彼は彼女を抱きしめた。
そして、雨に濡れながら、そっと唇を重ねた。
互いにとって、それが初めてのキスだった。
「……そのときは、相手がひどく悲しんでいた。俺は、せめて少しでも慰めになればと思ったんだ」
「…………」
先ほどまで騒いでいた女子たちが、少しずつ口を閉じていく。
「えっと……それって、付き合ってた相手?」
「いや。そういう関係ではなかった」
「じゃあ、好きだったの?」
その問いに、ルルーシュはすぐには答えなかった。
好きだったのか、と問われれば、そうだったのだろう。彼女の笑顔に救われたこともある。彼女の存在が、自分の中に残っていた人間らしさを呼び起こしたこともあった。
だが、彼女と過ごした日々は、もう戻ってこない。
「……大切な人だった」
静かな声だった。その言葉に、からかうような空気は消えていた。
「……そっか」
籾岡も、それ以上は茶化さなかった。けれど、別の女子が、少し遠慮がちに尋ねる。
「じゃあ、残りの三回は……?」
ルルーシュは目を伏せた。
「二回は、別れ際だった」
「別れ際?」
「ああ。もう会えなくなるかもしれない相手と、そして……失っていたものを取り戻すために、もう一度」
言葉を選びながら、必要最低限のことだけを口にする。
神根島へ向かう空の上。黒い機体の中で、彼女と交わした魔女との最後の口づけ。
そして、一年という空白の後、偽りの記憶を植えつけられた自分が、本当の自分を取り戻すために交わした口づけ。
その二つの記憶は、ルルーシュの中ではまったく異なる意味を持っていた。だが、ここでその違いを語るつもりはなかった。
「最後の一回は?」
籾岡の声も、先ほどより落ち着いていた。ルルーシュは、わずかに目を伏せた。
「……互いに譲れないものがあった相手とだ」
「譲れないもの?」
「ああ。かつては同じ道を歩いていた。だが、あるときから、どうしても相容れなくなった。俺は俺の信じるものを選び、彼女は彼女の信じるものを選んだ。それだけのことだ」
言葉を選びながら、必要最低限のことだけを口にする。
紅い髪。鋭い眼差し。怒りと悲しみを押し殺しながら、それでも自分を見据えていた瞳。
あのとき交わしたキスは、愛情の確認というよりも、決別に近いものだった。
互いの立場を変えることはできない。歩んできた道も、信じるものも、もう交わらない。それでも、かつて確かに存在した想いまで、すべて偽りだったことにはしたくなかった。
「……そういうキスもある」
ルルーシュは、それだけ言った。教室は、すっかり静まり返っていた。
誰も、どう反応すればいいのか分からないらしい。
恋愛話の延長で聞いたはずだった。初めてのキスはどんな感じだったのか、どんな相手としたのか、甘い思い出を聞き出して盛り上がるつもりだった。
それなのに、返ってきた話は、別れと喪失、取り戻した記憶、そして敵対する者同士の決別だった。
しかも、ルルーシュの表情には、過去を懐かしむような笑みも、経験を誇るような気配もなかった。
ただ、その目元だけが、ひどく暗かった。
「……ごめん。なんか、変なこと聞いちゃったね」
籾岡が、珍しく申し訳なさそうに言った。
「いや、構わない。質問されたから答えただけだ」
「そ、そう……」
「ただ、キスの回数が多いからといって、恋愛に詳しいとは限らないぞ」
ルルーシュは淡々と続けた。
「相手が何を望んでいるのか、自分が何を望んでいるのか。それを理解しないままでは、何度経験したところで同じことだ」
「…………」
今度こそ、誰も何も言わなかった。
そして数秒後。
「……なんか、すごい話になっちゃったね」
「う、うん……」
「ていうか、ルルーシュくん、人生経験重すぎない……?」
小さな声があちこちから聞こえてくる。
当の本人は、そんな反応を不思議そうに眺めていた。
――何か、おかしなことを言っただろうか。
彼は本気でそう思っていた。
彼にとって、キスとは単に恋愛の進展を示す行為ではない。誰かを慰めるためのものであり、別れを告げるためのものであり、失われた自分を取り戻すためのものであり、そして、もう後戻りのできない決断を確かめるためのものでもあった。
だからこそ、軽々しく語れるような思い出ではなかったのだ。
一方、少し離れたところで話を聞いていたリトは、何とも言えない顔をしていた。
「……ルルーシュって、やっぱりすごい過去があるんだな」
「……そうだね」
春菜も、静かに頷く。
ララはといえば、難しい顔をして考え込んでいた。
「うーん……キスって、そんなにいろんな意味があるんだね」
「ララ……?」
「でも、わたしは好きな人と楽しいキスがしたいな!」
「っ……!」
リトが勢いよくむせた。ララは、そんな彼の様子に気づくことなく、にこにこと笑っている。
「ね、リト!」
「な、なんでオレに聞くんだよ!?」
「だって、リトとしたら楽しそうだもん!」
「ら、ララぁぁぁっ!」
再び教室に響き渡る悲鳴。
先ほどまでの重苦しい空気は、ララの無邪気な一言によって、あっという間に吹き飛ばされてしまった。
ルルーシュは小さく息を吐いた。
――まったく。平和というものは、時に恐ろしく騒がしい。
そう思いながらも、彼の口元には、ごくわずかな笑みが浮かんでいた。
放課後の彩南高校。
最後のホームルームが終わり、教室のあちこちで帰り支度の音が重なり始めた頃、結城リトは鞄の中から一枚のメモを取り出していた。
「えーっと……卵、牛乳、じゃがいも、玉ねぎ……」
小さく口に出しながら、紙に書かれた品目を指で追っていく。朝、美柑から頼まれた買い物のリストだ。
今夜の夕食に使う食材のほか、切らしていた洗剤やら何やら、いくつかの日用品まで書き足されている。どうやら今日はそれなりに荷物が増えそうだった。
「……結構あるな、これ」
「何をぶつぶつ言っているんだ、リト」
隣から声をかけられ、リトは顔を上げた。
いつの間にか、ルルーシュが自分の机の脇に立っていた。黒い鞄を片手に提げ、もう片方の手で制服の襟元を軽く整えている。放課後になっても崩れない姿勢と、いちいち絵になる所作は、相変わらずだった。
「いや、今日、美柑に買い物頼まれてさ。夕飯の材料とか、日用品とか」
「なるほど。確かに一人で持ち帰るには少々多いかもしれないな」
「そうなんだよ。だからララにも手伝ってもらおうと思って」
「もういるよー!」
背後から元気な声が響いた。振り返ると、ララが満面の笑みで立っていた。彼女の鞄はすでに肩にかかっており、帰る準備は万端らしい。いや、そもそもララの場合、授業が終わっていようがいまいが、帰る準備そのものはいつだって万端なのだが。
「リト、ルルーシュ! 商店街にお買い物でしょ? わたしも行くー!」
「話が早いな……。まあ、助かるけどさ」
「買い物か。俺も同行しよう。美柑から頼まれた以上、必要なものを揃えて帰るまでが仕事だ」
「ルルーシュ、なんか買い物を任務みたいに言ってない?」
「目的と必要な手段が明確なら、何であろうと計画を立てるのは当然だろう」
「いや、夕飯の材料を買うだけなんだけど……」
「その卵と牛乳を買い忘れれば、夕食の予定に支障が出る。些細なことだと侮るべきではない」
「……はいはい」
リトは苦笑しながらメモを折りたたんだ。
この男は、どうして日常の買い物にまでそんな大仰な理屈を持ち出せるのだろう。本人にとってはごく真面目な話なのだから、余計に始末が悪い。
もっとも、朝のうちに美柑から頼まれた内容をルルーシュが聞いていたのも事実だった。必要な品目を確認し、店を回る順番まで頭の中で組み立てているらしい。
「それじゃ、しゅっぱーつ!」
「おー……って、ララ! 廊下は走るなって!」
先頭を切って駆け出したララを追いかけ、リトも慌てて教室を出る。
ルルーシュはその後ろ姿を眺めて一度だけ息をつくと、二人の後を追った。
――平穏な放課後。
少なくとも、この時点では、彼らの誰一人として疑っていなかった。
ただの買い物が、これほどまでに騒がしいものになるとは。
彩南高校から商店街までは、歩いてそれほど時間はかからない。
駅へ向かう道から一本入った通りには、昔ながらの八百屋や精肉店、魚屋に惣菜屋、個人経営の喫茶店などが軒を連ねている。新しい店も少しずつ増えているものの、どこか懐かしい雰囲気が残っている場所だった。
夕方の商店街は、買い物に訪れた主婦や学校帰りの生徒たちで賑わっていた。店先からは揚げ物の香ばしい匂いが漂い、八百屋の店主が威勢のいい声で本日のおすすめを呼びかけている。
その通りに足を踏み入れた瞬間、ララがぱっと顔を輝かせた。
「わーっ! 今日もいっぱい人がいるね!」
「そりゃ商店街だからな……」
リトがいつもの調子で返す。
すると、通りの向こうから、聞き覚えのある声が飛んできた。
「あら! ララちゃんじゃない!」
「あっ、おばちゃん! こんにちはー!」
八百屋の店主らしい女性が、店先から手を振っていた。
ララもすぐに手を振り返す。ためらいも遠慮もない、太陽みたいな笑顔だった。
「今日はお買い物? リトくんも一緒なのね!」
「こんにちは。今日は美柑に頼まれて買い物に来たんです」
「まあ、偉いわねえ。いつも妹さんのお手伝いをしてるんだって?」
「いや、まあ……」
「この前もララちゃんがねえ、うちの店の前で面白いことを――」
「わーっ! おばちゃん、その話はもういいよー!」
ララが慌てて両手を振った。その反応を見たリトは、嫌な予感を覚える。
「……ララ。お前、ここで何したんだ?」
「えー? ちょっとお手伝いしただけだよ?」
「その『ちょっと』が信用できないんだよ……」
「失礼だなあ、リト!」
抗議するララの隣で、ルルーシュは静かに店主へ会釈した。
「いつもお世話になっています。今日は野菜をいくつか買いたいのですが」
「あら、ルルーシュくんも一緒だったのね!」
店主の顔が、さらにぱっと明るくなる。
「この前は重い荷物を運んでくれてありがとうねえ。あのときも助かったわ。こんなに礼儀正しい男の子が近所にいてくれると、こっちも嬉しくなっちゃうわね」
「いえ、大したことではありません。お役に立てたのなら何よりです」
「もう、ルルーシュくんは本当にしっかりしてるわねえ。ララちゃんもリトくんも、ちゃんと見習わなくちゃ駄目よ?」
「ええーっ! わたしだってしっかりしてるよー!」
「俺まで巻き込まないでくださいよ!」
「ふふふ、はいはい」
店主は楽しそうに笑いながら、店先に並べた野菜を手早く袋へ詰めていく。
ルルーシュは代金を払い、受け取った袋の中身を一つずつ確かめた。数も品目も間違いない。ついでに、リトが手にしているメモと照合し、買い忘れがないかまで確認している。
その様子を見て、店主はますます感心したように頷いた。
「本当に真面目ねえ。ルルーシュくんが来ると、こっちまで背筋が伸びる気がするわ」
「恐縮です」
「でもねえ、あんまり気を張りすぎちゃ駄目よ。若いんだから、もっと気楽にね」
「……肝に銘じておきます」
その返事は丁寧だったが、リトにはルルーシュが少しだけ困った顔をしたように見えた。
ルルーシュは、こういうときに何と答えれば相手が喜ぶのか、理解していないわけではない。ただ、相手の好意を受け取ることそのものに、まだ慣れていないのだろう。
「じゃあ、またねー!」
ララが元気よく手を振り、三人は再び歩き出した。その直後、今度は惣菜屋の店主から声がかかった。
「あっ、リトくん! 今日は大丈夫かい?」
「えっ、何がですか!?」
「いやあ、今日は空から何も降ってこないかなと思ってね!」
「なんで俺が来ると天気の心配をされるんですか!?」
商店街に笑い声が広がった。リトは頭を抱えた。
「……俺、そんなにこういう話題で有名なのかな」
「うん! すっごく有名だよ!」
ララは悪びれもせず、にこにこと答えた。
「ララのせいだろ、それ!」
「えー? わたしだけじゃないよ? リトがいると、いろんなことが起きるもん!」
「それを言ってるんだよ!」
「まあ、否定はできないな」
ルルーシュがさらりと付け加えた。
「ルルーシュまで!?」
「事実を指摘しただけだ。商店街の人々が君を認識している理由について、俺が嘘をつく必要はないだろう」
「そういう問題じゃないんだって……!」
リトは肩を落とした。
ララ達がこの町に来てから、彼の周囲では何かと騒動が起こる。ララの発明品が原因だったり、宇宙人絡みの事件だったり、本人の意思とは無関係な不幸な偶然だったり。もはや一つひとつを説明する気力もない。
その結果、商店街の人々にまで顔を覚えられてしまったらしい。
しかも、ララは言うまでもなく、ルルーシュもまた、すっかり顔なじみになっていた。
最初は結城家に身を寄せる、見慣れない美少年だった。
それが、買い物の荷物を持ち、困っている人がいれば自然に手を貸し、店主たちには必ず丁寧に挨拶をする。話しかけられれば足を止め、相手の話を最後まで聞き、礼を欠かさない。
そんな振る舞いを何度も重ねていれば、町の人々が彼に親しみを覚えるのも不思議ではなかった。
「ルルーシュくん、今日は美柑ちゃんのお使いかい?」
「ええ。夕食の材料を買いに来ました」
「偉いねえ。今度うちの孫にも、その礼儀正しさを教えてやってくれよ!」
「俺にできることであれば」
「ははは、頼もしいねえ!」
また一人、店主が笑顔で声をかけてくる。
ルルーシュは足を止めて応じ、その間にララが別の店を覗き込み、リトが慌てて彼女を呼び戻す。
そんな光景は、もう珍しいものではなくなっていた。
――かつて世界を変えた男が、今では近所の商店街で名前を呼ばれている。
それを本人がどう思っているのか、リトにはまだ分からない。
ただ、以前のルルーシュなら、こうして見知らぬ人々から気軽に声をかけられる生活を想像することさえなかったのではないか。
そう思うと、少し不思議な気分になった。
「……なんか、ルルーシュってこの町に馴染んだよな」
「何だ、突然」
「いや。最初に会ったときは、もっとこう……」
「もっと何だ?」
「……近寄りがたい感じだったっていうか」
「ほう」
ルルーシュが片眉を上げる。
「それはつまり、今の俺は近寄りやすいということか?」
「うーん……」
「なぜそこで考える」
「いや、近寄りやすくはなったと思うけど、たまにすごく面倒くさいんだよな……」
「君は本当に、余計な一言を付け加えずにはいられないらしいな」
「ほら、そういうところ!」
「二人とも、早く行こー!」
先を歩いていたララが、両手を振って呼んでいた。リトとルルーシュは顔を見合わせ、揃って小さく息をつく。
「……行くか」
「ああ」
二人は再び、ララの後を追った。
商店街の中ほどまで来たところで、甘い匂いが漂ってきた。小豆を煮詰めたような、香ばしくてどこか懐かしい匂い。その発生源は、通りの端に設けられた小さなたい焼き屋だった。
店先では、年季の入った鉄板の上で、魚の形をした生地が次々と焼き上がっている。焼き手の老人は慣れた手つきでたい焼きを取り出し、紙袋へと詰めていた。
その店の前に、一人の少女が立っていた。
金色の髪。白い肌。整った顔立ち。学校の制服を着ているにもかかわらず、周囲の雑踏からそこだけ切り取られたような、独特の存在感がある。
ヤミだった。
彼女は店先に並ぶたい焼きを真剣な眼差しで見つめていた。いつも通り表情の変化は乏しいが、視線の動きからして、どの味を選ぶか考えているらしい。
「おや、ヤミちゃん。今日はいつものあんこかい?」
焼き手の店主が親しげに声をかける。
「……はい。あと、カスタードを一つ」
「はいよ。いつもありがとうねえ」
「別に……。お礼を言われるようなことではありません」
「ははは、相変わらずだねえ」
ヤミは差し出された紙袋を受け取り、代金を支払った。どうやら、ここにも顔なじみの店があるらしい。
「ヤミちゃん、また来てね!」
店先にいた小さな女の子が、嬉しそうに声をかけた。
ヤミは一瞬だけそちらへ視線を向ける。
「……はい」
ほんのわずかに柔らかくなった声で答えると、少女は満足そうに母親の陰へ隠れた。
「いやあ、ヤミちゃんは本当に綺麗な子だねえ。あんなに可愛らしいのに、しっかりしてるし」
「この辺りじゃ、もうすっかり有名人ですよ」
隣にいた別の客が笑いながら応じる。
「そうそう。おとなしくて礼儀正しいしねえ。最初は外国の子かと思ったけど、すっかりこの町の子だもの」
「……」
本人の耳にも届いているはずだが、ヤミは特に反応を示さなかった。ただ、紙袋を両手で持ち直し、静かに店を離れようとする。そこへ…
「あっ、ヤミちゃん!」
明るい声が響き、ヤミの肩がほんの少しだけ動いた。
振り向いた先にいたのは、ピンク色の髪を揺らして駆け寄ってくるララだった。その後ろにはリトとルルーシュも続いている。
「プリンセス……」
ヤミは小さく呟いた。
「こんにちは、ヤミちゃん! たい焼き買ったの?」
「ええ。今日のおやつです」
「わあ、おいしそう! あっ、カスタードもある!」
「……プリンセスも食べますか?」
「いいの!?」
「一つくらいなら」
「やったー! ヤミちゃん、だーいすき!」
ララが満面の笑みでヤミに抱きつこうとする。ヤミは紙袋を持ったまま、すっと半歩横へ避けた。
「……プリンセス。たい焼きが潰れます」
「えへへ、ごめんね!」
「まったく……」
呆れたような声を出しながらも、ヤミはカスタードのたい焼きを一つ、ララへ差し出した。
そのやり取りを見ていた一人の老人が、楽しそうに目を細める。
「あらあら、ララちゃんも一緒だったのかい。今日は賑やかだねえ」
「うん! リトとルルーシュとお買い物に来たんだよ!」
「そうかいそうかい。彼らも一緒か」
「こんにちは」
ルルーシュが丁寧に頭を下げた。
「おや、今日は美男美女が揃ったねえ」
「えっ?」
ララが首を傾げる。
「いやあ、ララちゃんは相変わらず可愛らしいし、ヤミちゃんは綺麗だし、リトくんは愛嬌あるし、ルルーシュくんは格好いいし。こうして並んでいると、まるで雑誌の表紙みたいだ」
「……雑誌の表紙?」
ルルーシュが、意味を測りかねたように聞き返す。
「そうそう。若い子たちが並ぶと、華やかでいいねえ。ほら、そこのお嬢さんたちも見てごらんよ」
老人が指し示した先では、通りすがりの女子高生たちがこちらをちらちらと眺めていた。
「えっ、あの人たちすごくない?」
「ララちゃんだよね? あの子、商店街のイベントでも見たことある!」
「隣の金髪の子、ヤミちゃんだよね。たい焼き屋さんによくいる……」
「また巻き込まれてるんだあのリトくんって子…で、あの男の子って、ルルーシュくん?」
「そうそう! すっごく格好いい人!」
声を潜めているつもりらしいが、人数が増えれば話し声も大きくなる。結局、当人たちにも聞こえてしまっていた。ルルーシュは微妙な表情で周囲を見回し、ヤミはいつも通り無表情のまま、紙袋を抱えている。ララだけは、何がそんなに面白いのか、にこにこと笑っていた。
「ねえねえ、ルルーシュ! わたしたち、人気者だって!」
「……そうらしいな」
「ヤミちゃんもだよ!」
「私は、たい焼きを買いに来ただけですが……」
「それでも人気者なんだよ!」
「……理解できません」
ヤミは心底不思議そうに呟いた。ルルーシュも似たような心境だった。
人々の注目を集めること自体には慣れている。かつては、その視線を利用し、恐怖や畏敬を演出することすらあった。
だが、今ここにある視線は、そうしたものとはまるで違う。
誰も彼らを恐れていない。何かを命じられるのではないかと警戒しているわけでもない。ただ、綺麗な子たちが一緒に歩いているのを見て、面白がっているだけなのだ。
その無害さが、かえってルルーシュを困惑させていた。
「……人目を引くことは、必ずしも悪いことではないが」
「ルルーシュ?」
「いや、何でもない」
ルルーシュは小さく首を振った。
「ところで、ヤミ。今日は一人なのか?」
「ええ。読書のついでに寄っただけです。プリンセスたちがいるとは思いませんでした」
「そっか! じゃあ、一緒にお買い物しようよ!」
「……私は、たい焼きを買いに来ただけなのですが」
「買い物も一緒にすればいいじゃない!」
「……プリンセス」
ヤミが困ったように眉を寄せる。しかし、ララはまるで気にしなかった。
「ね、リト!ルルーシュ!ヤミちゃんも一緒でいいよね?」
「まあ、別にいいんじゃないか?」
リトが答える。
「荷物が増えたら、俺たちで持てばいいし」
「……ターゲットに感謝はしたくありませんが、ありがとうございます、結城リト」
ヤミは小さく頭を下げた。
「いや、そんな大したことじゃないって」
「それにしても、あなたたちはいつも一緒ですね」
「え?」
「結城リトとルルーシュ。プリンセスも。商店街の方々にも、よく声をかけられているようですし」
「あー……」
リトは、さっきまでの店主たちの反応を思い出して、頬を引きつらせた。
「まあ、いろいろあって……」
「いろいろ、ですか」
「うん! いろいろだよ!」
ララが元気よく答える。
「ララがいろいろ起こすからだろ!」
「えーっ!?」
「否定は難しいな」
「ルルーシュまで!?」
ヤミは三人の顔を順番に見つめた。そして、たい焼きの入った紙袋を持ち直し、ぽつりと言った。
「……賑やかですね」
その声には、いつもの淡々とした調子の奥に、ごくわずかな柔らかさが混じっていた。
結局、ヤミも加わって四人で商店街を回ることになった。
といっても、買い物の進行を主導していたのは、ほとんどルルーシュだった。
「次は精肉店だ。牛乳は最後に回した方がいい。荷物が増えると持ち運びに不便だからな」
「ルルーシュ、ほんとに買い物の順番まで考えてるんだね……」
「効率の問題だ」
「うんうん、効率は大事だよね!」
ララが大きく頷いた。その直後、彼女は道端の雑貨屋を見つけるなり、目を輝かせた。
「あっ、あのお店、新しいおもちゃが入ってる!」
「ララ」
「ちょっとだけ!」
「買い物が先だ」
「ちょっと見るだけだよー!」
「君の『ちょっと』がどの程度の時間を指すのか、俺はまだ正確に把握できていない」
「ひどーい!」
「事実だ」
リトが苦笑し、ヤミはたい焼きを一口かじった。
「……プリンセスは、相変わらずですね」
「だろ?」
「結城リトも、大変ですね」
「分かってくれるか……!」
リトは思わずヤミの手を取らんばかりの勢いで身を乗り出した。
「ララの発明品に何度巻き込まれたことか……。学校でも家でも商店街でも、気がついたらとんでもないことになってるんだぞ!」
「リトー! 何の話してるのー?」
「な、何でもない!」
ララが振り向いたため、リトは慌てて姿勢を戻した。その横で、ルルーシュが冷静に言った。
「被害の頻度と規模を考えれば、対策を講じるべきだろうな」
「そうなんだよ! さすがルルーシュ!」
「まずは、君がララの発明品に不用意に近づかないことだ」
「俺が悪いの!?」
「すべて君の責任だとは言っていない。だが、事故に巻き込まれる頻度が高い以上、自衛の余地はある」
「正論だけど! 正論だけどさあ!」
「……ふふ」
ごく小さな笑い声がした。三人が振り向くと、ヤミがたい焼きを手にしたまま、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
「ヤミちゃん、今笑った?」
ララが嬉しそうに顔を覗き込む。
「笑っていません」
「えー、笑ったよ!」
「気のせいです」
「絶対笑ったって!」
「……プリンセス」
ヤミが静かに睨むと、ララは楽しそうに笑いながら逃げるように前へ進んだ。リトはその様子を見て、ほっとしたように息をついた。
ヤミがこの町で過ごすようになってから、それなりに時間が経った。
初めて会った頃の彼女は、誰かと必要以上に関わろうとはしなかった。人との距離を保ち、必要なことだけを話し、どこか世界から一歩引いた場所に立っているような印象があった。
今だって、誰にでも心を開くわけではない。
それでも、ララの誘いに付き合い、商店街の人々に顔を覚えられ、たい焼き屋の老人と自然に言葉を交わしている。
それは、彼女なりにこの町での日常を築いているということなのだろう。
「……何だ、リト。俺の顔に何かついているか?」
気づけば、リトはルルーシュを見ていた。
「いや、別に」
「そうか」
ルルーシュは追及せず、歩きながら買い物メモに目を落とした。
「……あとは、洗剤と牛乳、それから卵か」
「うん。もうすぐ終わりだな」
「なら、寄り道はここまでにしよう」
「はーい!」
ララが返事をした、そのときだった。
「ルルーシュくん!」
通りの反対側から、また別の声が飛んできた。
振り返ると、買い物袋を提げた老婦人がこちらへ歩いてくるところだった。
「この前はありがとうねえ。おかげで助かったわ」
「いえ、どういたしまして。もう足の具合はよろしいのですか?」
「ええ、おかげさまでね。あんたは本当に気が利く子だよ」
「恐縮です」
老婦人はにこにこと笑い、隣にいるヤミにも目を向けた。
「あら、今日はヤミちゃんも一緒なのね。まあまあ、綺麗な子たちが揃って。ララちゃんもリトくんもいるし、まるで家族みたいだねえ」
「家族……?」
ルルーシュが、わずかに目を瞬かせた。
「そうそう。仲が良くていいことだよ。みんなで仲良く、これからもこの町で暮らしておくれね」
老婦人はそう言い残すと、ゆっくりと歩いていった。その背中を、ルルーシュはしばらく見送っていた。
家族。
その言葉は、彼にとって決して軽いものではない。
血の繋がりだけでは語れないもの。守りたいと願い、時にはそのために遠ざけ、結局は取り返しのつかない傷を残してしまったもの。
かつての彼なら、きっとそんなことを考えていただろう。
だが、今は。
「ルルーシュ?」
リトの声に、彼は視線を戻した。
「……どうした?」
「いや、なんかぼーっとしてたから」
「少し考え事をしていただけだ。気にするな」
「そっか」
リトはそれ以上、何も聞かなかった。その代わり、ララがルルーシュの腕に自分の腕を絡める。
「ねえねえ、ルルーシュ! 早くお買い物終わらせて帰ろうよ! 美柑のご飯、楽しみだなー!」
「……ああ、そうだな」
ルルーシュはララの腕を振りほどかなかった。ヤミがそれを横目で見て、何か言いたげに目を細める。
「……ルルーシュも、大変ですね」
「何の話だ?」
「いえ。何でもありません」
「そうか」
ルルーシュはそれ以上追及せず、再び歩き出した。その後ろ姿を眺めながら、リトはふと思った。
――こいつら、いつの間にアイドルみたいな扱いになったんだろう。
ララは言うまでもない。彼女が町で騒ぎを起こすたびに、その顔と名前は確実に広まっている。
ルルーシュも、今では店主たちから気軽に声をかけられるほどの顔なじみだ。
そしてヤミまで、たい焼き屋の常連として子供たちに名前を覚えられ、商店街の人々に親しまれている。
よく考えれば、恐ろしい状況である。
美男美女が四人も揃って歩いていれば、そりゃあ目立つに決まっている。
「……なんか、俺だけ普通じゃない?」
「何を今さら言っているんだ、リト」
ルルーシュが即座に返した。
「君は君で、この町では十分に有名だろう」
「だから、何で俺の有名さだけ別の方向なんだよ……!」
「日頃の行いだな」
「お前、絶対楽しんでるだろ!」
「まさか。俺は事実を述べているだけだ」
「その顔で言われても説得力ないんだよ!」
ルルーシュの口元には、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。リトはそれを見て、ますます頭を抱えた。
買い物も、残すところあとわずか。
四人は最後の店で牛乳と卵を買い、帰り道へと向かっていた。
ルルーシュが両手に荷物を提げ、リトも別の袋を持っている。ララは片手に雑貨屋で買った小さな袋を持ち、ヤミはたい焼きの紙袋を大事そうに抱えていた。
「いやー、今日はいっぱい買ったね!」
「お前、途中で余計なもの買っただろ……」
「だって可愛かったんだもん!」
「美柑に頼まれたもの以外は、買い物リストに含まれていなかったはずだが」
「ルルーシュ、細かいよー!」
「予算の管理は重要だ」
「もう、リトとルルーシュって似てないところは全然似てないのに、こういうときだけ同じこと言うんだから!」
「俺を巻き込むなよ!」
ヤミは三人のやり取りを聞きながら、最後の一口になったたい焼きを食べた。そのときだった。
カラン、と。
乾いた音が足元で鳴った。
「ん?」
リトが視線を落とす。
歩道の端に、誰かが捨てたらしい空き缶が転がっていた。ちょうど彼の足先が、それを踏みつけたところだった。
「うわっ!?」
靴底が滑る。身体が大きく傾いた。
「あっ、リト!」
ララの声が響く。リトは反射的に腕を伸ばした。何かに掴まろうとしたのだが、その手が引っかかったのは、すぐ隣を歩いていたルルーシュの制服の袖だった。
「なっ――!」
不意に引っ張られたルルーシュの身体が傾く。
荷物を落とさないように踏ん張ろうとしたものの、片手には卵が入った袋、もう片方には牛乳と野菜。とっさに体勢を立て直すには、あまりにも条件が悪かった。
「リト、君は――!」
「わ、悪い!」
二人がもつれるように倒れかける。そして、その進行方向には。
「……?」
たい焼きの紙袋を持ったヤミがいた。ヤミが状況を理解するより早く、ルルーシュの肩が彼女にぶつかる。
「きゃっ……!」
珍しく、ヤミの口から小さな悲鳴が漏れた。
三人の身体が、ほとんど一塊になって歩道へ倒れ込む。
ガサッ、と買い物袋が地面に落ちた。
「いったぁ……!」
リトは地面に手をつき、なんとか顔を打つのを免れた。
しかし、目の前に柔らかい感触があることに気づき、動きを止める。
「……え?」
目の前には、ヤミのスカートの中身が広がっていた。
倒れた勢いで、リトの顔がヤミのスカートの中へ突っ込む形になっている。視界を覆う布地に気づいた瞬間、リトの顔が一気に青ざめた。
「うわあああああっ!?」
慌てて顔を上げようとするが、身体がうまく動かない。
そのすぐ横では、ルルーシュがヤミに覆いかぶさるような姿勢になっていた。彼の片手は地面につき、もう片方の手は、ヤミの胸元へ伸びかけている。だが、実際に触れそうになっていたのは胸そのものではなく、服の袖口から覗く、肌の出た腋の付近だった。
それでも、見た目だけなら十分に誤解を招く体勢である。
「…………」
「…………」
「…………」
一瞬、時間が止まった。
最初に動いたのは、ヤミだった。
「…………えっちぃのはキライです……!」
静かな声だった。けれど、その声には普段の淡々とした調子とは違う、はっきりとした怒気がこもっていた。
「ち、違う! これは事故で――」
リトは慌てて顔を上げ、両手を振った。
「本当にわざとじゃない! 空き缶を踏んで、それでルルーシュを巻き込んで――」
「分かっています」
ヤミはリトの言葉を遮った。
「分かっていますが……!」
彼女の視線が、スカートの中へ顔を突っ込んでいたリトと、腋の近くへ手を伸ばしかけたまま固まっているルルーシュを交互に捉える。
「ですが、ルルーシュよりは結城リトの方が悪いです…あなたは、こういうことが多すぎます」
「いや、それは……そうだけど!」
「今もあなたが最初に転んだのでしょう?」
「ぐっ……!」
否定できなかった。
確かに、空き缶を踏んで転んだのはリトだ。そして、その勢いでルルーシュを巻き込み、さらにヤミまで巻き込んでしまった。しかも結果として、ヤミのスカートの中に顔を突っ込むという、言い訳のしようもない体勢になっている。
一方、ルルーシュもまた、ヤミの腋付近へ手を伸ばしかけたまま、身動きが取れずにいた。
「……ルルーシュ」
ヤミが静かに呼びかける。
「何だ?」
「その手を、ゆっくり下ろしてください」
「……ああ」
ルルーシュは慎重に手を引いた。触れてはいない。だが、触れそうになったこと自体は事実だった。
「誤解のないように言っておくが、俺にそのような意図はない」
「分かっています」
「本当に事故だ」
「それも理解しています」
「ならば――」
「ですが、あなたも巻き込まれたとはいえ、原因の一端です」
ルルーシュは言葉を失った。
リトはまだヤミのスカートから顔を出したまま、気まずそうに視線を逸らしている。
「……結城リト」
「は、はい……」
「君は本当に、予測のつかない男だな」
「ごめんって!」
「謝罪は後だ。まずは全員、怪我がないか確認する」
そう言うとルルーシュはヤミから身体を離し、すぐに立ち上がろうとした。
だが、ヤミは彼の袖を掴んだ。
「……待ってください」
「ヤミ?」
「あなたも、こちらへ」
「何?」
次の瞬間、ヤミの髪がぐにゃりと形を変えた。
金色の美しい髪の束が、拳の形をしたものへと姿を変えて膨らむ。まるでゴムのように変形したそれが、ルルーシュの頭上へと持ち上がった。
「……おい。待て、ヤミ。話し合おう」
ルルーシュの声が、わずかに低くなる。
「あなたも巻き込まれたとはいえ、原因の一端です」
「俺は巻き込まれた側だろう!」
「結城リトほどではありませんが」
「比較対象がおかしい!」
「トランス……ゲンコツです」
ゴンッ。
「ぐっ……!」
ルルーシュの頭に、見事な拳骨が落ちた。
「ルルーシュ!?」
リトが思わず声を上げる。
ルルーシュは頭を押さえ、しばらくその場にうずくまった。さすがに痛かったらしい。
「……っ、ヤミ。君はもう少し、加減というものを――」
「次は気をつけてください」
「…………」
反論しようとしたルルーシュは、口を閉じた。
確かに、結果として彼もヤミを巻き込んだ。意図したことではないにせよ、彼女が不快な思いをしたのは事実である。
「……分かった。以後、気をつける」
「はい」
ヤミはそれで納得したらしく、変形させた髪を元に戻した。そして、ゆっくりとリトへ顔を向ける。
「さて、結城リト」
「……は、はい」
「あなたは、もう少し反省した方がいいと思います」
「い、いや、だから悪かったって――」
「えっちぃのはキライです……!」
ヤミの腕が、今度は鋭い刃へと変わった。
「ちょっ、待って!? それはさすがに危ないって!」
「大丈夫です。峰打ちにします」
「その言い方、全然安心できないんだけど!?」
ヤミは無表情のまま、刃を構えた。
リトは一瞬で顔を青ざめさせる。
「ララ! 助けてくれ!」
「えー? リトが悪いんじゃない?」
「そんなあああああっ!」
リトは悲鳴を上げながら走り出した。
「待ちなさい、結城リト!」
「だから事故だってばああああ!」
「事故でも、もう少し周囲に注意してください!」
「はいぃぃぃ!」
ヤミが追いかけ、リトが逃げる。
その後ろ姿を、ララは楽しそうに手を振って見送った。
「リトー! 頑張ってねー!」
「応援するなあああああ!」
商店街に、聞き慣れた悲鳴が響き渡った。
「……まったく」
ルルーシュは、落ちた買い物袋を拾い上げながら、深々とため息をついた。
卵の袋を確認する。幸い、割れてはいない。牛乳も無事だ。野菜も多少袋の中で位置がずれた程度で、問題はなさそうだった。
「大丈夫、ルルーシュ?」
ララが隣から覗き込んでくる。
「……ああ。問題ない」
「頭、痛くない?」
「痛いに決まっているだろう」
「えへへ、ごめんね」
「なぜ君が謝る?」
「なんとなく!」
「……そうか」
ルルーシュは額を押さえた。
ヤミの拳骨は、想像以上に強烈だった。あの細い身体のどこに、あれほどの力があるのか。いや、そもそも彼女が普通の人間ではないことを考えれば、驚くべきことではないのかもしれない。
それよりも問題なのは。
「……あの男は、また逃げ切れるのだろうか」
「リトなら大丈夫だよ! いつものことだもん!」
「それは大丈夫と言っていいのか……?」
ララは元気よく頷いた。
「うん!」
「……そうか」
ルルーシュは、それ以上考えるのをやめた。
遠くから、リトの悲鳴がまだ聞こえてくる。
「待ちなさい、結城リト!」
「だから、わざとじゃないってばああああ!」
「分かっています! ですが、反省は必要です!」
「はいぃぃぃ!」
その声が、商店街の向こうへと遠ざかっていった。
ルルーシュは、もう一度ため息をついた。
「……平和というものは、存外に騒がしいな」
「そうだね!」
ララはまるで何の疑問もないように笑った。そしてルルーシュの手から野菜の袋を一つ受け取る。
「じゃあ、帰ろう! 美柑が待ってるよ!」
「ああ」
ルルーシュは頷いた。買い物袋を提げ、夕暮れの商店街を歩き出す。
店先からは、相変わらず賑やかな声が聞こえていた。顔なじみの店主たちは彼らに気づくと、笑顔で手を振ってくる。
「ルルーシュくん、またね!」
「ララちゃん、今度はゆっくり遊びに来てね!」
「リトくんは……まあ、気をつけてねえ!」
「俺だけ最後にそれ!?」
遠くからリトの抗議が聞こえた。ララが声を上げて笑い、ルルーシュも、ほんのわずかに口元を緩めた。やがて彼らは、夕陽に染まる通りを抜けていく。その背中を、商店街の人々は親しげな眼差しで見送っていた。
世界を変えた男も、宇宙から来た王女も、数々の騒動を引き起こす少年も、そして孤独な暗殺者だった少女も、この町では、ただの顔なじみだった。
名前を呼ばれ、挨拶を交わし、買い物をして、失敗すれば叱られる。
そんな何でもない日常の中に、彼らは少しずつ溶け込んでいる。
「……ルルーシュ、何か考えてる?」
隣を歩くララが尋ねた。
「いや」
ルルーシュは首を振った。
「……帰ったら、美柑に今日のことを話しておこうと思っただけだ」
「リトがヤミちゃんに追いかけられたこと?」
「それも含めてな」
「えへへ、きっと美柑、呆れるね!」
「ああ。……まったくだ」
ルルーシュは、静かに笑った。その表情は、かつて世界を欺いた皇帝のものではなかった。
ただ、帰る場所を持った一人の少年のものだった。
ラッキースケベってどこまで内容書いても許されるのやら
R-18版作っちゃうか迷う( . ̫ . )