蛇喩経 作:kp3kp3
目が覚めると、地面が冷たかった。
硬くてざらざらしている。たぶんコンクリートだ。なんでこんなところで寝てるんだろう、と思いながら起き上がろうとして——起き上がれなかった。
腕に力が入らない。というより、腕の感覚がない。
「……?」
とりあえず目を開けてみる。
まず目に入ったのは、灰色の巨大な壁だった。首を持ち上げてみると、それは道路の縁石だった。普段なら膝の高さもないはずのそれが、ビルみたいにそびえ立っている。
え、なにこれ。私が小さくなってる?
声を出そうとしたら、口から出たのは「しゅうっ」という空気の音だけだった。
同時に、口の先から何かがちろっと出て、すぐに引っ込んだ。
その瞬間、周りのにおいが一気に分かるようになった。焦げたゴム、鉄っぽいにおい、何かが腐ったようなにおい。鼻で嗅いだんじゃない。舌で感じた、としか言いようがなかった。
……舌?
もう一回、ちろっと出してみる。舌の先が二つに分かれているのが分かった。
すごく嫌な予感がした。
私はおそるおそる、自分の体を見下ろした。
黒い鱗に覆われた、細長い胴体。
手も、足もない。
「しゅ、しゅうううっ!?」
悲鳴を上げたつもりが、やっぱり空気が抜ける音しか出なかった。
とにかく落ち着こう。
縁石の陰で体を丸めて、とぐろを巻いて、私は状況を整理することにした。
まず、私は人間だった。これは間違いない。
大学生で、レポートの締め切りに追われていたことは、なんとなく覚えている。そんな嫌な記憶だけは、しっかり残っている。
なのに、自分の名前も、家族の顔も、友達のことも、何も出てこない。昨日何をしていたのかすら分からない。思い出そうとすると、その部分だけぽっかり穴が空いているみたいだった。
いや、ただ単純に友達がいなかった可能性はあるが。
一番新しい記憶は……ものすごくお腹が空いていたこと。何かを追いかけて、噛みついて——
背中の鱗が、ぞわっと逆立った。
……うん、今はやめておこう。なんとなく思い出さない方がいい気がする。
とりあえず気持ちを切り替えて、周りを見回した。
ここはどこかの街の大通りみたいだった。ただ、明らかに普通じゃない。
道路には車が何台も乗り捨てられていて、そのうち一台はひっくり返っていた。ビルの窓ガラスは割れていて、信号も消えている。
そして、人が一人もいない。
まさに文明崩壊後とか、そういった景色だった。
何があったんだろう。災害? 戦争?
ちろっと舌を出して、空気のにおいを確かめる。
——何かいる。
人間じゃない、獣みたいなにおいがした。
ずしん、と遠くから重い足音が響いてくる。
私は縁石の陰から、そっと頭だけ出して音の方を見た。
交差点の真ん中を、何かが歩いていた。
最初は熊かと思ったけど、違った。脚が六本もある。茶色の毛に覆われた体の背中からは、骨みたいなトゲがいくつも飛び出して、口が縦に割れている。
映画かゲームでしか見たことのないような、なかなかにグロテスクな化け物だ。
そいつは道に転がっている何かに顔を突っ込んで、ぐちゃぐちゃと食べていた。何を食べているのかは、確かめる気になれなかった。
すると、化け物がふいに顔を上げた。
牙の覗く割れた口が、ゆっくりとこっちを向く。
——目が合った。
やばい、逃げなきゃ。
そう思った瞬間には、もう体が動いていた。
体をくねらせると、驚くほどスムーズに前へ進む。蛇の動き方なんて知らないはずなのに、体が勝手に分かっているみたいだった。
後ろから、だかだか、と地響きが迫ってくる。
振り返らなくても分かる。あいつが追いかけてきている。地面の揺れがどんどん大きくなっていく。
無理、無理、絶対無理!
こんな小さな体で、あの巨体から逃げ切れるわけないじゃん!
そのとき、道の端に黒い鉄の格子が見えた。
側溝のフタだ。
私は迷わず、格子の隙間に頭から飛び込んだ。細い体は、するりと隙間を通り抜ける。
直後、頭上でガシャン! と大きな音が鳴った。
見上げると、格子の向こうに化け物の顔が押し付けられていた。格子の隙間から牙が無理やりねじ込まれてくる。生臭い湿った息が、上から降ってきた。
格子がミシッと嫌な音を立てた。
うそでしょ、壊れる!?
私は慌てて、側溝の奥へと逃げ込んだ。
しばらくガシャン、ガシャンと格子を叩く音が続いたけど、やがてそれも止まった。足音が遠ざかっていく。
……諦めてくれた、のかな。
私はしばらく、その場でじっとしていた。心臓がバクバクしている。蛇にも心臓ってあるんだな、なんてどうでもいいことを考えてしまった。
側溝の中は暗くて、じめじめしていて、ひどいにおいがした。
ただ、真っ暗で何も見えない、というわけでもなかった。目で見ているのとは少し違う。周りの温度が、なんとなく色みたいに感じ取れるのだ。水は冷たい青っぽい色、コンクリートはくすんだ灰色。
そういえば、蛇には熱を感じる器官があるって、生物の先生が雑談がてら言ってた気がする。
……帰りたいな。
家は思い出せないが。これが家なき子か。
特に意識していたわけでもなく、チロチロと出していた舌が新しいにおいを拾った。
獣っぽい、脂ぎったにおい。それに混じって、なぜか洗剤のような、甘い香りがする。
暗闇の奥に、赤っぽい熱のかたまりが見えた。
さっきの化け物よりはずっと小さい。でも、今の私よりは大きい。
カサカサ、カサ。
それは、こっちに近づいてきていた。
わずかに差し込む光の中に、その姿が浮かび上がる。
ネズミだった。……いや、ネズミっぽい何か、だ。
大きさは子猫くらいある。毛がところどころ抜け落ちていて、その下の皮膚は灰色にぶよぶよと膨らんでいた。前脚だけが異様に長くて、人間の指みたいに関節がいくつもある。白く濁った目が、まっすぐ私を見ていた。
よく見ると、首に何か紐のようなものが巻きついている。泥だらけの……ストラップ?
キイッ、とネズミが鳴いた。
獲物を見つけた、という鳴き声だった。
あ、これ。私が食べられる側だ。
逃げたとしても、この狭い側溝じゃ追いつかれる。あの長い前脚で背中から襲われたら、きっと終わりだ。蛇の体って抑え込まれたら何もできなくない?
ネズミが跳びかかってきた。
考える暇なんてなかった。
私はとっさに体を縮めて、横に跳ねた。ネズミの爪が、さっきまで私の頭があった場所を空振りする。
そしてすれ違いざまに——私は口を大きく開けていた。
自分でも驚くくらい、大きく。
ネズミの前脚の付け根に、思いきり噛みつく。牙がぶよぶよした皮膚に、ずぶりと沈んだ。
その瞬間、牙の根元から何か熱いものが流れ出ていく感覚があった。
これ……毒だ。私、毒を持ってるんだ。
ギイイイッ! とネズミが悲鳴を上げて暴れ出した。私は振り落とされないように、噛みついたまま体をネズミの腕に巻きつける。これも、誰に教わったわけでもないのに自然とできた。
ネズミの爪が、私の体を引っかく。鱗が剥がれる感触がした。痛い。めちゃくちゃ痛い。
でも、ここで離したら死ぬ。
死にたくない。
死にたくない、死にたくない、死にたくない——!
必死で締めつけて、噛みついて、食らいつく。
どれくらい経ったのか分からない。
気がつくと、ネズミは動かなくなっていた。さっきまで赤く見えていた熱が、ゆっくりと消えていく。
私は牙を抜いて、巻きつけていた体をほどいた。全身が痛くて、震えが止まらなかった。
どくどくと血が体中を流れて、熱い体から思考が離脱して冷めていく。
……殺した。
まだかすかに残っている甘い香り。ぴくぴくと痙攣するネズミが、キラキラ光って美味しそうに見えた。
そのときだった。
目の前に、青白く光る四角い板のようなものが、ぱっと現れた。
——え?
まるで空中に浮かぶ画面みたいなそれには、文字が表示されていた。
『個体〈イニティウムムース〉を撃破しました』『経験値を獲得しました』『レベルが上がりました Lv1→Lv3』『スキル【毒牙】のレベルが上がりました Lv1→Lv2』
……は?
何度か瞬きした。蛇にまぶたはないから、気持ちだけだけど。でも、画面は消えなかった。
『ステータスを確認しますか?』
なにこれ、ゲーム?
確認するかと聞かれても、どうやって答えればいいのか分からない。とりあえず、心の中で「はい」と念じてみる。
すると、画面が切り替わった。
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種族 :イニティウムセルペンス
Lv :3
状態 :負傷(軽度)
スキル:【毒牙Lv2】【熱感知Lv1】【邪神の種Lv1】
進化 :条件未達成
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まるでゲームみたいな言葉が、当たり前のように並んでいた。
普通だったら、ふざけてるとか、夢だとか思っただろう。
でも私は、ついさっきまで化け物に追いかけられて、化け物を噛み殺したばかりだ。体中が痛いのも、全部本物だった。
ていうか、邪神の種? 私、将来邪神になるの?
進化……進化あるんだ。
強くなれるんだ。
そう思った瞬間、胸の奥で何かがざわっと動いた。
もっと強く。もっと強くならなきゃ。
お腹が空いたときみたいな、熱くて抑えきれない衝動。死にたくない。
こんな世界で、こんな体のまま弱かったら、きっとすぐに死ぬ。
それだけは、嫌だ。だから、こんなネズミとか熊みたいな化け物にも負けないくらい強くなろう。
そのとき、画面の一番下に、一瞬だけノイズが走った。
『██え て る? ……▒ ねえ、 □ こえ ──』
え、と思ったときには、その文字はもう消えていた。
あとには、何事もなかったかのように、さっきと何ひとつ変わらない青白いステータス画面だけが浮かんでいた。