蛇喩経 作:kp3kp3
朝は、米袋がずれる音で始まるようになった。
ずりずり、よいしょ。ずりずり、よいしょ。
こはるちゃんの力だと、米袋を蓋の上からどかすのは結構な大仕事らしい。毎朝、同じ掛け声が聞こえてくる。
それから蓋が、指二本分だけ開く。
「おはよう」
おはようございます。
割り箸で、肉の切れ端が差し込まれる。咥えて、引き抜いて、飲み込む。
何日か経つと、割り箸はもう震えていなかった。
◇
二日目の朝、こはるちゃんは、ケースごと私を窓際まで引きずっていった。
物置の小さな窓から、朝日が四角く差し込んでいる。その光の中に、ケースがすっぽり収まるように置き直された。
「へびはね、自分で体あっためられないんだって。だから、ひなたぼっこするの」
知ってます。身をもって知ってます。
「図鑑に書いてあった」
こはるちゃんは、ちょっと得意そうだった。
白く濁ったプラスチック越しに、日差しがじんわりと鱗に染みてくる。ボンネットほどじゃないけど、十分あったかい。
……この子、分かってる。
私のために、ちゃんと調べて、考えてくれている。
殺さなきゃいけない相手のために。
それから、こはるちゃんは、ケースの横に座って、いろんな話をした。
話し相手は、私しかいなかった。
このモールには、大人が二十人くらいと、子どもが五人いること。
年配のおじさんは、ゲンさんといって、ここのリーダーみたいな人であること。怖い顔だけど、子ども好きなこと。
大きい男の人は、ダイキさん。声が大きくて、ちょっと苦手なこと。
優しい女の人は、ユミさん。ご飯を作るのが上手なこと。
学校では、図書室にいるのが好きだったこと。
動物の図鑑を、何回も何回も借りて、返して、また借りていたこと。動物が好きだということ。
「クワガタのページと、へびのページが、いちばん好き」
意外な趣味だった。
こはるちゃんは、よくしゃべった。
最初に見たとき、大人の後ろに隠れていた子とは思えないくらい。私が返事をしないから、しゃべりやすいのかもしれない。
私はケースの中で、ずっとそれを聞いていた。
不思議なことに、こはるちゃんの話を聞いている間、胸の奥のざわざわは、ほとんど動かなかった。
◇
三日目の午後だった。
「ねえ」
こはるちゃんが、ケースに額をくっつけるようにして、私を覗き込んだ。
「わたしの言ってること、わかる?」
冗談みたいな、軽い口調だった。
たぶん、答えなんて期待していない。犬に「お手」って言うみたいな、そういう感じ。
私は、動かなかった。
動けなかった、の方が近いかもしれない。
分かる、と答えるのは簡単だ。首を縦に振ればいい。
でも、答えたら、どうなるんだろう。
ただの蛇じゃないと分かったら。言葉の分かるモンスターだと知られたら。この子は、怖がるかもしれない。大人に話すかもしれない。そうなったら、私はもっと危険なものとして扱われる。
黙っていた方が、安全だ。
分かってる。分かってるのに。
——自分が人間だったことを、誰かに確かめてほしかったのかもしれない。
初めてこのモールに来た日に、そう思ったことを覚えている。
あの日、私は石を投げられるみたいに追い払われた。
今、目の前に、答えを待っている子がいる。
私は、ゆっくりと、首を縦に振った。
こくん。
こはるちゃんが、固まった。
「……え」
まばたきを、二回。
「い、今の……たまたま?」
私は、首を横に振った。
ふる、ふる。
こはるちゃんの口が、ぽかんと開いた。
それから、ケースから額を離して、正座になった。背筋が、ぴんと伸びていた。
「じゃ、じゃあ……『はい』だったら、たてにふって。『いいえ』だったら、よこ」
こくん。
「お、おなか、すいてる?」
こくん。
「……きのうのお肉、おいしかった?」
少し考えて、こくん。廃棄予定の部分なだけあって、実際は美味しくなかったけれど、それは言わないでおく。
「わたしのこと、かもうとおもったこと、ある?」
……。
一日目の、割り箸の先の指。
私は、しばらく動けなかった。それから、ゆっくりと、首を縦に振った。
嘘は、つきたくなかった。
こはるちゃんは、少しだけ身を引いた。でも、逃げなかった。
「……でも、かまなかったね」
こくん。
「なんで?」
それは、はいかいいえじゃ、答えられない。
こはるちゃんも、それに気づいたみたいだった。うーん、と唸って、それから、質問を変えた。
「かみたく、なかった?」
こくん。
こはるちゃんは、しばらく私を見ていた。
それから、へにゃっと笑った。前髪の隙間から見えた目が、少しだけ潤んでいた。
「……そっか」
こはるちゃんは、もう一度ケースに額をくっつけた。
「あなた、ほんとうに、へび?」
——。
その質問には、首が動かなかった。
縦にも、横にも。
私は、蛇だ。黒い鱗で、手も足もなくて、ネズミを丸呑みにする。
でも、蛇じゃない。レポートの締め切りに追われていた。お米の炊けるにおいを知っている。
どっちなのか、私にも、もう分からなかった。
こはるちゃんは、じっと待っていた。
それから、小さな声で聞いた。
「……わかんない、の?」
こくん。
「そっかあ」
こはるちゃんは、それ以上、何も聞かなかった。
「名前、ある?」
その日の夕方、こはるちゃんが聞いた。
私は、少し迷って、首を横に振った。
あったはずだ。でも、思い出せない。思い出せないなら、ないのと同じだ。
「……じゃあ、つけてもいい?」
こくん。
こはるちゃんは、腕を組んで、うーん、と唸った。天井を見て、床を見て、ケースの中の私を見た。
「くろい、から……」
あ、これは。
「クロ」
……犬みたい。
ものすごく、犬みたい。近所の犬とかについてそう。
でも、こはるちゃんは、両手を膝の上でぎゅっと握って、じっと私の返事を待っていた。
だめかな、って顔で。……かわいい。
私は、首を縦に振った。
こくん。
その瞬間、目の前に、青白い画面が浮かんだ。
『個体名〈クロ〉が登録されました』
え。
登録?
画面が、勝手に切り替わる。
――――――――――――――――
名前 :クロ
種族 :ウェネヌムセルペンス
Lv :7
状態 :正常
スキル:【毒牙Lv5】【熱感知Lv2】【隠密Lv3】【毒耐性Lv1】【悪食Lv1】【邪神の種Lv2】
進化 :条件未達成
――――――――――――――――
一番上に、行が一つ、増えていた。
今までは、空欄ですらなかった場所。最初から、そんな項目は存在しなかった場所。
名前 :クロ
私は、その文字をじっと見つめた。
犬みたいな名前だ。本当の名前じゃない。
なのに、なんでだろう。
ずっと、足りなかった何かが、一つだけ埋まったような気がした。
「クロ」
こはるちゃんが、呼んだ。
私は、首を持ち上げて、こはるちゃんの方を向いた。
「……クロ、って呼んだら、こっち向いた」
こはるちゃんは、トレーナーの袖で顔を半分隠して、笑った。
「クロはかしこいね」
そりゃあ、そこらの動物よりはね。
◇
四日目の夜。
こはるちゃんは、いつもより遅い時間にやってきた。
手には、何も持っていなかった。エサの時間は、もう終わっている。
ケースの横に座って、膝を抱えた。しばらく、何も言わなかった。
「クロ」
私は、顔を上げた。
「わたしね、お母さんがいるの」
小さな声だった。
「いる、っていうか……いたの。世界がおかしくなっちゃったときね、お薬買いに行ってたの。わたしが熱出してて、熱をさげるお薬」
こはるちゃんの声が、少しだけ揺れた。
「それで、帰ってこなかった」
それは……もしかして。
「どこ……行っちゃったのかな」
こはるちゃんは、膝に顎を乗せた。
「わたし、学校でも、しゃべるの苦手だった。友だちも、あんまりいなかった。お母さんとしか、ちゃんとしゃべれなかった」
私は、ケースの中で、じっと聞いていた。
「だから、今、だれともちゃんとしゃべれない」
こんなに、いい子なのに。
「みんな、レベル上がってるの。タクミくんも、ミナミちゃんも。わたしだけ、1のまま」
こはるちゃんは、自分の手を見た。袖から、少しだけ指先が出ている。
「わたし、クロのこと、ころさなきゃいけないの」
私は、こうなってから二週間くらいで、何匹殺したんだろう。
ネズミ。鳥。カエル。虫。数えきれない。
最初の一匹を噛み殺したとき、震えが止まらなかった。
今は、もう、震えない。この子は、まだその一歩を踏み出せてないんだ。
「ゲンさんは、わたしのために言ってるの。わかってる。レベル上げないと、次にモンスターが入ってきたとき、死んじゃうから。みんなの、足手まといになるから」
こはるちゃんは、ケースの中の私を見た。
「でも、クロのこと、ころしたくない」
私は、何も返せなかった。
はいか、いいえで答えられる質問じゃなかった。
◇
五日目の昼、扉の向こうで、声が聞こえた。
「もう五日だぞ」
ゲンさんの声だった。
「こはる。そろそろ、やれ」
「……」
「分かってる。嫌なのは分かってる。でもな、あれはモンスターだ。情が移る前に——」
「クロは」
こはるちゃんの声だった。
私が今まで聞いた中で、一番大きな声だった。
「クロは、わかってるの。言葉、わかるの。はい、って、うなずくの」
扉の向こうが、一瞬、静かになった。
「……は?」
ダイキさんの声だった。
「蛇が、言葉分かるって?」
「わかるの! 名前つけたら、呼んだら、ふりむくの! 噛もうと思ったけど、噛まなかったって、言ったの!」
「こはる、落ち着け」
「ほんとうなの!」
私は、ケースの中で、体を固くしていた。
だめだ。
こはるちゃん、それは、だめだ。
「……だとしたら、なおさらだろ」
ダイキさんが、低い声で言った。
「言葉が分かるモンスターなんて、聞いたことねえ。何考えてるか分かんねえってことだろ。そんなの、子どもの近くに置いとけるかよ」
「クロは、そんなんじゃ——」
「こはるちゃん」
ユミさんの声だった。困ったような、悲しそうな声。
「ちょっと、疲れてるのかも。ずっとあの部屋にいたし……」
「疲れてない!」
「こはる」
ゲンさんの声が、静かに割って入った。
静かなのに、誰よりも重い声だった。
「明日の朝だ」
「……」
「明日の朝までに、お前がやれ。やれないなら、ダイキがやる。経験値は、ダイキに回す」
「……」
「……お前のためなんだ。分かってくれ」
足音が、遠ざかっていった。
扉の向こうで、誰かが、鼻をすする音がした。
◇
その夜、こはるちゃんは、また遅い時間にやってきた。
ケースの横に座って、膝を抱えた。
何も言わなかった。
私も、何もできなかった。
明日の朝。
明日の朝、私は、殺される。
死にたくない。
死にたくないのは、今も同じだ。目が覚めた日から、ずっと変わらない。
でも、この子になら、殺されてもいいと思えた。
「……クロ」
こはるちゃんが顔を上げた。赤く腫れた目で。
私は、首を持ち上げて、こはるちゃんの方を向いた。
呼ばれたから。
私の、名前だから。
こはるちゃんは、しばらく私を見ていた。
それから、ゆっくりと、ケースの蓋の上に目を移した。
蓋の上に乗った、重たい米袋。
こはるちゃんは、その米袋を、ずっと、ずっと見つめていた。