蛇喩経   作:kp3kp3

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第10話

 朝は、米袋がずれる音で始まるようになった。

 

 ずりずり、よいしょ。ずりずり、よいしょ。

 

 こはるちゃんの力だと、米袋を蓋の上からどかすのは結構な大仕事らしい。毎朝、同じ掛け声が聞こえてくる。

 

 それから蓋が、指二本分だけ開く。

 

「おはよう」

 

 おはようございます。

 

 割り箸で、肉の切れ端が差し込まれる。咥えて、引き抜いて、飲み込む。

 

 何日か経つと、割り箸はもう震えていなかった。

 

◇

 

 二日目の朝、こはるちゃんは、ケースごと私を窓際まで引きずっていった。

 

 物置の小さな窓から、朝日が四角く差し込んでいる。その光の中に、ケースがすっぽり収まるように置き直された。

 

「へびはね、自分で体あっためられないんだって。だから、ひなたぼっこするの」

 

 知ってます。身をもって知ってます。

 

「図鑑に書いてあった」

 

 こはるちゃんは、ちょっと得意そうだった。

 

 白く濁ったプラスチック越しに、日差しがじんわりと鱗に染みてくる。ボンネットほどじゃないけど、十分あったかい。

 

 ……この子、分かってる。

 

 私のために、ちゃんと調べて、考えてくれている。

 

 殺さなきゃいけない相手のために。

 

 それから、こはるちゃんは、ケースの横に座って、いろんな話をした。

 

 話し相手は、私しかいなかった。

 

 このモールには、大人が二十人くらいと、子どもが五人いること。

 

 年配のおじさんは、ゲンさんといって、ここのリーダーみたいな人であること。怖い顔だけど、子ども好きなこと。

 

 大きい男の人は、ダイキさん。声が大きくて、ちょっと苦手なこと。

 

 優しい女の人は、ユミさん。ご飯を作るのが上手なこと。

 

 学校では、図書室にいるのが好きだったこと。

 

 動物の図鑑を、何回も何回も借りて、返して、また借りていたこと。動物が好きだということ。

 

「クワガタのページと、へびのページが、いちばん好き」

 

 意外な趣味だった。

 

 こはるちゃんは、よくしゃべった。

 

 最初に見たとき、大人の後ろに隠れていた子とは思えないくらい。私が返事をしないから、しゃべりやすいのかもしれない。

 

 私はケースの中で、ずっとそれを聞いていた。

 

 不思議なことに、こはるちゃんの話を聞いている間、胸の奥のざわざわは、ほとんど動かなかった。

 

◇

 

 三日目の午後だった。

 

「ねえ」

 

 こはるちゃんが、ケースに額をくっつけるようにして、私を覗き込んだ。

 

「わたしの言ってること、わかる?」

 

 冗談みたいな、軽い口調だった。

 

 たぶん、答えなんて期待していない。犬に「お手」って言うみたいな、そういう感じ。

 

 私は、動かなかった。

 

 動けなかった、の方が近いかもしれない。

 

 分かる、と答えるのは簡単だ。首を縦に振ればいい。

 

 でも、答えたら、どうなるんだろう。

 

 ただの蛇じゃないと分かったら。言葉の分かるモンスターだと知られたら。この子は、怖がるかもしれない。大人に話すかもしれない。そうなったら、私はもっと危険なものとして扱われる。

 

 黙っていた方が、安全だ。

 

 分かってる。分かってるのに。

 

 ——自分が人間だったことを、誰かに確かめてほしかったのかもしれない。

 

 初めてこのモールに来た日に、そう思ったことを覚えている。

 

 あの日、私は石を投げられるみたいに追い払われた。

 

 今、目の前に、答えを待っている子がいる。

 

 私は、ゆっくりと、首を縦に振った。

 

 こくん。

 

 こはるちゃんが、固まった。

 

「……え」

 

 まばたきを、二回。

 

「い、今の……たまたま?」

 

 私は、首を横に振った。

 

 ふる、ふる。

 

 こはるちゃんの口が、ぽかんと開いた。

 

 それから、ケースから額を離して、正座になった。背筋が、ぴんと伸びていた。

 

「じゃ、じゃあ……『はい』だったら、たてにふって。『いいえ』だったら、よこ」

 

 こくん。

 

「お、おなか、すいてる?」

 

 こくん。

 

「……きのうのお肉、おいしかった?」

 

 少し考えて、こくん。廃棄予定の部分なだけあって、実際は美味しくなかったけれど、それは言わないでおく。

 

「わたしのこと、かもうとおもったこと、ある?」

 

 ……。

 

 一日目の、割り箸の先の指。

 

 私は、しばらく動けなかった。それから、ゆっくりと、首を縦に振った。

 

 嘘は、つきたくなかった。

 

 こはるちゃんは、少しだけ身を引いた。でも、逃げなかった。

 

「……でも、かまなかったね」

 

 こくん。

 

「なんで?」

 

 それは、はいかいいえじゃ、答えられない。

 

 こはるちゃんも、それに気づいたみたいだった。うーん、と唸って、それから、質問を変えた。

 

「かみたく、なかった?」

 

 こくん。

 

 こはるちゃんは、しばらく私を見ていた。

 

 それから、へにゃっと笑った。前髪の隙間から見えた目が、少しだけ潤んでいた。

 

「……そっか」

 

 こはるちゃんは、もう一度ケースに額をくっつけた。

 

「あなた、ほんとうに、へび?」

 

 ——。

 

 その質問には、首が動かなかった。

 

 縦にも、横にも。

 

 私は、蛇だ。黒い鱗で、手も足もなくて、ネズミを丸呑みにする。

 

 でも、蛇じゃない。レポートの締め切りに追われていた。お米の炊けるにおいを知っている。

 

 どっちなのか、私にも、もう分からなかった。

 

 こはるちゃんは、じっと待っていた。

 

 それから、小さな声で聞いた。

 

「……わかんない、の?」

 

 こくん。

 

「そっかあ」

 

 こはるちゃんは、それ以上、何も聞かなかった。

 

「名前、ある?」

 

 その日の夕方、こはるちゃんが聞いた。

 

 私は、少し迷って、首を横に振った。

 

 あったはずだ。でも、思い出せない。思い出せないなら、ないのと同じだ。

 

「……じゃあ、つけてもいい?」

 

 こくん。

 

 こはるちゃんは、腕を組んで、うーん、と唸った。天井を見て、床を見て、ケースの中の私を見た。

 

「くろい、から……」

 

 あ、これは。

 

「クロ」

 

 ……犬みたい。

 

 ものすごく、犬みたい。近所の犬とかについてそう。

 

 でも、こはるちゃんは、両手を膝の上でぎゅっと握って、じっと私の返事を待っていた。

 

 だめかな、って顔で。……かわいい。

 

 私は、首を縦に振った。

 

 こくん。

 

 その瞬間、目の前に、青白い画面が浮かんだ。

 

『個体名〈クロ〉が登録されました』

 

 え。

 

 登録?

 

 画面が、勝手に切り替わる。

 

 

――――――――――――――――

名前 :クロ

種族 :ウェネヌムセルペンス

Lv  :7

状態 :正常

スキル:【毒牙Lv5】【熱感知Lv2】【隠密Lv3】【毒耐性Lv1】【悪食Lv1】【邪神の種Lv2】

進化 :条件未達成

――――――――――――――――

 

 

 一番上に、行が一つ、増えていた。

 

 今までは、空欄ですらなかった場所。最初から、そんな項目は存在しなかった場所。

 

 名前 :クロ

 

 私は、その文字をじっと見つめた。

 

 犬みたいな名前だ。本当の名前じゃない。

 

 なのに、なんでだろう。

 

 ずっと、足りなかった何かが、一つだけ埋まったような気がした。

 

「クロ」

 

 こはるちゃんが、呼んだ。

 

 私は、首を持ち上げて、こはるちゃんの方を向いた。

 

「……クロ、って呼んだら、こっち向いた」

 

 こはるちゃんは、トレーナーの袖で顔を半分隠して、笑った。

 

「クロはかしこいね」

 

 そりゃあ、そこらの動物よりはね。

 

◇

 

 四日目の夜。

 

 こはるちゃんは、いつもより遅い時間にやってきた。

 

 手には、何も持っていなかった。エサの時間は、もう終わっている。

 

 ケースの横に座って、膝を抱えた。しばらく、何も言わなかった。

 

「クロ」

 

 私は、顔を上げた。

 

「わたしね、お母さんがいるの」

 

 小さな声だった。

 

「いる、っていうか……いたの。世界がおかしくなっちゃったときね、お薬買いに行ってたの。わたしが熱出してて、熱をさげるお薬」

 

 こはるちゃんの声が、少しだけ揺れた。

 

「それで、帰ってこなかった」

 

 それは……もしかして。

 

「どこ……行っちゃったのかな」

 

 こはるちゃんは、膝に顎を乗せた。

 

「わたし、学校でも、しゃべるの苦手だった。友だちも、あんまりいなかった。お母さんとしか、ちゃんとしゃべれなかった」

 

 私は、ケースの中で、じっと聞いていた。

 

「だから、今、だれともちゃんとしゃべれない」

 

 こんなに、いい子なのに。

 

「みんな、レベル上がってるの。タクミくんも、ミナミちゃんも。わたしだけ、1のまま」

 

 こはるちゃんは、自分の手を見た。袖から、少しだけ指先が出ている。

 

「わたし、クロのこと、ころさなきゃいけないの」

 

 私は、こうなってから二週間くらいで、何匹殺したんだろう。

 

 ネズミ。鳥。カエル。虫。数えきれない。

 

 最初の一匹を噛み殺したとき、震えが止まらなかった。

 

 今は、もう、震えない。この子は、まだその一歩を踏み出せてないんだ。

 

「ゲンさんは、わたしのために言ってるの。わかってる。レベル上げないと、次にモンスターが入ってきたとき、死んじゃうから。みんなの、足手まといになるから」

 

 こはるちゃんは、ケースの中の私を見た。

 

「でも、クロのこと、ころしたくない」

 

 私は、何も返せなかった。

 

 はいか、いいえで答えられる質問じゃなかった。

 

◇

 

 五日目の昼、扉の向こうで、声が聞こえた。

 

「もう五日だぞ」

 

 ゲンさんの声だった。

 

「こはる。そろそろ、やれ」

 

「……」

 

「分かってる。嫌なのは分かってる。でもな、あれはモンスターだ。情が移る前に——」

 

「クロは」

 

 こはるちゃんの声だった。

 

 私が今まで聞いた中で、一番大きな声だった。

 

「クロは、わかってるの。言葉、わかるの。はい、って、うなずくの」

 

 扉の向こうが、一瞬、静かになった。

 

「……は?」

 

 ダイキさんの声だった。

 

「蛇が、言葉分かるって?」

 

「わかるの! 名前つけたら、呼んだら、ふりむくの! 噛もうと思ったけど、噛まなかったって、言ったの!」

 

「こはる、落ち着け」

 

「ほんとうなの!」

 

 私は、ケースの中で、体を固くしていた。

 

 だめだ。

 

 こはるちゃん、それは、だめだ。

 

「……だとしたら、なおさらだろ」

 

 ダイキさんが、低い声で言った。

 

「言葉が分かるモンスターなんて、聞いたことねえ。何考えてるか分かんねえってことだろ。そんなの、子どもの近くに置いとけるかよ」

 

「クロは、そんなんじゃ——」

 

「こはるちゃん」

 

 ユミさんの声だった。困ったような、悲しそうな声。

 

「ちょっと、疲れてるのかも。ずっとあの部屋にいたし……」

 

「疲れてない!」

 

「こはる」

 

 ゲンさんの声が、静かに割って入った。

 

 静かなのに、誰よりも重い声だった。

 

「明日の朝だ」

 

「……」

 

「明日の朝までに、お前がやれ。やれないなら、ダイキがやる。経験値は、ダイキに回す」

 

「……」

 

「……お前のためなんだ。分かってくれ」

 

 足音が、遠ざかっていった。

 

 扉の向こうで、誰かが、鼻をすする音がした。

 

◇

 

 その夜、こはるちゃんは、また遅い時間にやってきた。

 

 ケースの横に座って、膝を抱えた。

 

 何も言わなかった。

 

 私も、何もできなかった。

 

 明日の朝。

 

 明日の朝、私は、殺される。

 

 死にたくない。

 

 死にたくないのは、今も同じだ。目が覚めた日から、ずっと変わらない。

 

 でも、この子になら、殺されてもいいと思えた。

 

「……クロ」

 

 こはるちゃんが顔を上げた。赤く腫れた目で。

 

 私は、首を持ち上げて、こはるちゃんの方を向いた。

 

 呼ばれたから。

 

 私の、名前だから。

 

 こはるちゃんは、しばらく私を見ていた。

 

 それから、ゆっくりと、ケースの蓋の上に目を移した。

 

 蓋の上に乗った、重たい米袋。

 

 こはるちゃんは、その米袋を、ずっと、ずっと見つめていた。

 

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