蛇喩経   作:kp3kp3

11 / 12
第11話

 ずりずり、と米袋がずれる音がした。

 

 いつもの「よいしょ」は、聞こえなかった。

 

 夜だった。窓の外は真っ暗で、物置の中も真っ暗で、熱感知の中にだけ、こはるちゃんの赤いかたまりが浮かんでいた。

 

 米袋が、床に下ろされる。

 

 それから、蓋が開いた。

 

 指二本分じゃなかった。全部。

 

 ケースの上に、天井が見えた。久しぶりに見る、プラスチック越しじゃない天井だった。

 

「クロ」

 

 こはるちゃんの声は、ほとんど息みたいに小さかった。

 

「ここ、入って」

 

 ケースの縁に、何かがことんと当たった。

 

 青いバケツだった。掃除用具のところに置いてあった、取っ手のついたやつ。

 

 蓋は、ない。

 

 私は、バケツと、こはるちゃんの顔を、交互に見た。

 

 蓋のないバケツ。

 

 私が入ったら、こはるちゃんはそれを抱えて歩くんだろう。私の頭のすぐ近くに、こはるちゃんの腕があって、胸があって、顔がある。

 

 私がその気になれば、いつでも噛める。いつでも逃げられる。

 

 こはるちゃんは、それを分かっているはずだ。分かっていて、蓋のないバケツを持ってきた。

 

 ……信じてくれてるんだ。

 

 私が、噛まないって。逃げないで、ちゃんと最後までついてくるって。

 

 私は、ケースの縁を乗り越えて、バケツの中に滑り込んだ。

 

 底に、何か柔らかいものが敷いてあった。タオルだ。そして、その下に、ほんのりと温かい何か。

 

「カイロ。ユミさんにもらったやつ」

 

 こはるちゃんが、小さく言った。

 

「外、寒いから。へびは、寒いと動けなくなるんでしょ」

 

 私はタオルの上でとぐろを巻いて、カイロの温かさにお腹をくっつけた。

 

 こはるちゃんが、バケツを両手で抱え上げた。

 

◇

 

 物置の扉が、細く開く。

 

 廊下は真っ暗だった。こはるちゃんは、壁に片手をつきながら、そろそろと進んでいく。一歩ごとに、バケツが小さく揺れる。

 

 角を曲がると、空気が変わった。

 

 温かい。

 

 熱感知の中に、赤いかたまりがいくつも浮かび上がった。

 

 横になって、並んでいる。ゆっくりと上下している。寝息の、リズムで。

 

 あの夜、倉庫の扉の隙間から見た場所だった。

 

 あのとき、私はここに入りたいと思った。あったかくて、赤くて、たくさんあって。あれ一人でどれくらい、と考えてしまった場所。

 

 今、私はその真ん中を、こはるちゃんに抱えられて通っている。

 

 胸の奥で、ざわざわが、少しだけ身じろぎした。

 

 私は、バケツの底に頭を押しつけた。タオルとカイロの温かさだけを感じるように。

 

 大丈夫。こはるちゃんの腕の中にいる間は、大丈夫。

 

 寝息と寝息の間を、こはるちゃんの足音が、ゆっくり抜けていく。

 

「……こはる?」

 

 すぐ近くで、寝ぼけた声がした。

 

 こはるちゃんの足が、ぴたりと止まった。バケツが揺れて、私の体が少しだけずれる。

 

 熱感知で見ると、並んでいる赤いかたまりの一つが、少しだけ持ち上がっていた。小さい。子どもだ。

 

「……トイレ?」

 

「……うん」

 

「……ふうん……」

 

 小さいかたまりは、ころんとまた横になった。すぐに、寝息が戻ってくる。

 

 こはるちゃんが、止めていた息を、そうっと吐いた。

 

 バケツを抱える腕が、少しだけ震えていた。

 

◇

 

 こはるちゃんが向かったのは、正面の入り口でも、裏の搬入口でもなかった。

 

 建物の横。バリケードの端っこ。積み上げられた車と、建物の壁の間に、細い隙間があった。

 

「ここ、子どもしか通れないの」

 

 こはるちゃんが、ささやいた。

 

「タクミくんが見つけたの。大人には、ないしょ」

 

 こはるちゃんは、バケツを先に隙間に押し込んで、それから自分も体を横にして、ずりずりと通り抜けた。

 

 外に出た途端、冷たい空気が、バケツの縁から流れ込んできた。

 

 駐車場だった。

 

 空に、星がたくさん見えた。街の明かりが全部消えてから、星がよく見えるようになった、と思う。人間だった頃の夜空を、ちゃんと覚えているわけじゃないけど。

 

 こはるちゃんは、入り口から一番遠い車の陰まで、早足で歩いた。

 

 それから、アスファルトの上に、そっとバケツを下ろした。

 

◇

 

 こはるちゃんは、バケツの前にしゃがみ込んだ。

 

 しばらく、何も言わなかった。

 

 私も、バケツの中から、こはるちゃんを見上げていた。

 

「クロ」

 

 こくん。

 

「もう、捕まっちゃだめだよ」

 

 こくん。

 

「ここにも、来ちゃだめ。ダイキさんたちに見つかったら、今度こそ……」

 

 こはるちゃんは、そこで言葉を切った。

 

 私は、少しだけ迷って、それから首を縦に振った。

 

 こくん。

 

 こはるちゃんが、ぎゅっと唇を結んだ。前髪の隙間から見える目が、また赤くなりかけていた。

 

「……でも」

 

 すごく小さな声だった。

 

「また、会える?」

 

 ——また。

 

 ここには来ちゃだめ、と言ったばかりなのに。

 

 私は、こはるちゃんの顔を見た。赤くて、温かくて、今にも泣きそうな顔を。

 

 会えるかどうかなんて、分からない。明日、私が生きているかどうかも分からない。この世界は、弱いと死ぬ。

 

 でも。

 

 だったら、強くなればいい。

 

 私は、首を縦に振った。

 

 ゆっくり、しっかりと。

 

 こくん。

 

 こはるちゃんが、ふっと笑った。泣きそうな顔のまま。

 

 それから、バケツの中に、そっと手を差し入れてきた。手のひらを上にして、私の目の前に。

 

 蓋も、プラスチックも、何もなかった。

 

 私は、その手のひらに、頭をそっと乗せた。

 

 温かかった。

 

 ボンネットの日差しとも、カイロとも違う。生きているものの、温かさだった。

 

 こうなってから人に触れたのは、初めてだった。

 

「……つめたい」

 

 こはるちゃんが、くすっと笑った。

 

「でも、すべすべ」

 

 それは、どうも。進化してから、鱗の艶には自信があるんです。手入れとかしたことないけど。

 

「……クロは、やさしいね」

 

 こはるちゃんは、しばらくそのまま、手のひらを動かさなかった。

 

 それから、ゆっくりと手を引いた。

 

「……行って」

 

 私は、バケツの縁を乗り越えて、アスファルトに降りた。

 

 冷たい。昼間の熱は、もうとっくに逃げてしまっている。体が、じわじわと重くなりはじめる。

 

 こはるちゃんが、バケツの底からタオルごとカイロを取り出して、車の下に押し込んだ。

 

「朝まで、これであったかいでしょ」

 

 ……この子は、本当に。

 

 私は、車の下に潜り込んで、タオルの上でとぐろを巻いた。カイロの温かさが、お腹からじんわりと上ってくる。

 

 車の下から、こはるちゃんの足が見えた。

 

 足は、しばらくそこから動かなかった。

 

 それから、くるりと向きを変えて、歩き出した。

 

 一歩、二歩。止まる。

 

 また歩き出す。三歩、四歩。また止まる。

 

 振り返っているんだと思う。

 

 私は、車の下から、少しだけ頭を出した。

 

 見えるかどうか分からないけど。

 

 こはるちゃんの熱が、バリケードの隙間に吸い込まれて、見えなくなった。

 

 ……ありがとう。

 

 言えなかった。蛇だから。

 

 でも、いつか。

 

 ちゃんと、言えるようになりたい。

 

 

――――――――――――――――

名前 :クロ

種族 :ウェネヌムセルペンス

Lv  :7

状態 :正常

スキル:【毒牙Lv5】【熱感知Lv2】【隠密Lv3】【毒耐性Lv1】【悪食Lv1】【邪神の種Lv2】

進化 :条件未達成

――――――――――――――――

 

 

◇

 

 振り返らない、って決めてたのに、四回も振り返った。

 

 車の下は真っ暗で、クロがどこにいるのか、もう全然見えなかった。

 

 ちゃんと、あったかいかな。カイロ、朝までもつかな。明日、どこに行くのかな。ごはん、ちゃんと食べられるかな。

 

 わたし、クロのこと、なんにも知らない。

 

 図鑑には、黒いへびのことがたくさん書いてあった。でも、クロのことは、どこにも書いてない。言葉がわかるへびなんて、どの図鑑にもいなかった。

 

 知りたい。

 

 クロのこと、もっと、ちゃんと知りたい。

 

 そう思って、もう一回だけ、車の方を振り返ったときだった。

 

 目の前に、青い画面が、ぱっと出た。

 

『スキル【鑑定】を獲得しました』

 

「……え」

 

 声が出そうになって、あわてて口を押さえた。

 

 鑑定?

 

 

――――――――――――――――

名前 :こはる

種族 :ホモサピエンス

Lv  :1

状態 :正常

スキル:【鑑定Lv1】

――――――――――――――――

 

 

 ほんとうに、スキルのところに、ひとつふえてた。

 

「今は……戻らなきゃ」

 

 隙間を通り抜けて、建物の中に戻った。

 

 空っぽのバケツを抱えて、壁に手をついて、立ち上がった。

 

 その瞬間、顔に光が当たった。

 

「……っ」

 

 まぶしくて、目をぎゅっとつぶった。

 

 懐中電灯の光だった。

 

「こはる」

 

 低い声がした。

 

 ゲンさんだった。

 

 隙間のすぐ横に、パイプ椅子を置いて、座っていた。ずっと、そこにいたみたいに。

 

 懐中電灯の光が、わたしの顔から、わたしが抱えているバケツに移った。

 

 空っぽの、バケツ。

 

 ゲンさんは、しばらく何も言わなかった。

 

 わたしも、何も言えなかった。

 

「……逃がしたのか」

 

 心臓が、ばくばくした。

 

 怒られる。

 

 ダイキさんに言われる。みんなに言われる。わがままだって。足手まといだって。

 

 ごめんなさい、って言えばいいのかもしれない。

 

 でも。

 

「……はい」

 

 わたしは、バケツを抱えたまま、ゲンさんの顔を見た。

 

「わたしが、逃がしました」

 

 ゲンさんの眉が、ぴくっと動いた。

 

「お前は、1のままだぞ」

 

「……わかってます」

 

「次に、中にモンスターが入ってきたら、どうする」

 

「……わかってます。でも」

 

 声が、震えた。

 

 震えたけど、止めなかった。

 

「クロは、ころしたくなかった。クロは、わたしのこと、かまなかった。だから、わたしも……」

 

 それ以上は、うまく言葉にならなかった。

 

 ゲンさんは、懐中電灯を下に向けた。

 

 光が床に落ちて、ゲンさんの顔が暗くなった。

 

 長い、長い、ため息が聞こえた。

 

「……母ちゃんに似て、頑固だな」

 

 え、と思った。

 

 ゲンさんは、よいしょと椅子から立ち上がった。

 

「この隙間、明日塞ぐからな。子どもが勝手に出入りしていい場所じゃねえ」

 

「……はい」

 

「もう寝ろ。風邪ひくぞ」

 

 ゲンさんは、わたしのことを、怒らなかった。

 

 何か言わなきゃと思ったのに、声が出なかった。

 

 ゲンさんの足音は、ゆっくり遠ざかっていった。

 

◇

 

 毛布にもぐって、目を閉じる前に、もう一回だけ画面を出した。

 

 

――――――――――――――――

名前 :こはる

種族 :ホモサピエンス

Lv  :1

状態 :正常

スキル:【鑑定Lv1】

――――――――――――――――

 

 

 レベルは、1のまま。

 

 みんなより、ずっと弱いまま。

 

 でも、スキルの欄に、一つだけ、文字が増えていた。

 

 わたしは、画面を閉じて、毛布の中でぎゅっと膝を抱えた。

 

 強くなりたいと、思った。このままじゃ、だめだって。

 

 クロがまた会えるって言ってたから、その時まで生きていられるように。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。