蛇喩経 作:kp3kp3
ずりずり、と米袋がずれる音がした。
いつもの「よいしょ」は、聞こえなかった。
夜だった。窓の外は真っ暗で、物置の中も真っ暗で、熱感知の中にだけ、こはるちゃんの赤いかたまりが浮かんでいた。
米袋が、床に下ろされる。
それから、蓋が開いた。
指二本分じゃなかった。全部。
ケースの上に、天井が見えた。久しぶりに見る、プラスチック越しじゃない天井だった。
「クロ」
こはるちゃんの声は、ほとんど息みたいに小さかった。
「ここ、入って」
ケースの縁に、何かがことんと当たった。
青いバケツだった。掃除用具のところに置いてあった、取っ手のついたやつ。
蓋は、ない。
私は、バケツと、こはるちゃんの顔を、交互に見た。
蓋のないバケツ。
私が入ったら、こはるちゃんはそれを抱えて歩くんだろう。私の頭のすぐ近くに、こはるちゃんの腕があって、胸があって、顔がある。
私がその気になれば、いつでも噛める。いつでも逃げられる。
こはるちゃんは、それを分かっているはずだ。分かっていて、蓋のないバケツを持ってきた。
……信じてくれてるんだ。
私が、噛まないって。逃げないで、ちゃんと最後までついてくるって。
私は、ケースの縁を乗り越えて、バケツの中に滑り込んだ。
底に、何か柔らかいものが敷いてあった。タオルだ。そして、その下に、ほんのりと温かい何か。
「カイロ。ユミさんにもらったやつ」
こはるちゃんが、小さく言った。
「外、寒いから。へびは、寒いと動けなくなるんでしょ」
私はタオルの上でとぐろを巻いて、カイロの温かさにお腹をくっつけた。
こはるちゃんが、バケツを両手で抱え上げた。
◇
物置の扉が、細く開く。
廊下は真っ暗だった。こはるちゃんは、壁に片手をつきながら、そろそろと進んでいく。一歩ごとに、バケツが小さく揺れる。
角を曲がると、空気が変わった。
温かい。
熱感知の中に、赤いかたまりがいくつも浮かび上がった。
横になって、並んでいる。ゆっくりと上下している。寝息の、リズムで。
あの夜、倉庫の扉の隙間から見た場所だった。
あのとき、私はここに入りたいと思った。あったかくて、赤くて、たくさんあって。あれ一人でどれくらい、と考えてしまった場所。
今、私はその真ん中を、こはるちゃんに抱えられて通っている。
胸の奥で、ざわざわが、少しだけ身じろぎした。
私は、バケツの底に頭を押しつけた。タオルとカイロの温かさだけを感じるように。
大丈夫。こはるちゃんの腕の中にいる間は、大丈夫。
寝息と寝息の間を、こはるちゃんの足音が、ゆっくり抜けていく。
「……こはる?」
すぐ近くで、寝ぼけた声がした。
こはるちゃんの足が、ぴたりと止まった。バケツが揺れて、私の体が少しだけずれる。
熱感知で見ると、並んでいる赤いかたまりの一つが、少しだけ持ち上がっていた。小さい。子どもだ。
「……トイレ?」
「……うん」
「……ふうん……」
小さいかたまりは、ころんとまた横になった。すぐに、寝息が戻ってくる。
こはるちゃんが、止めていた息を、そうっと吐いた。
バケツを抱える腕が、少しだけ震えていた。
◇
こはるちゃんが向かったのは、正面の入り口でも、裏の搬入口でもなかった。
建物の横。バリケードの端っこ。積み上げられた車と、建物の壁の間に、細い隙間があった。
「ここ、子どもしか通れないの」
こはるちゃんが、ささやいた。
「タクミくんが見つけたの。大人には、ないしょ」
こはるちゃんは、バケツを先に隙間に押し込んで、それから自分も体を横にして、ずりずりと通り抜けた。
外に出た途端、冷たい空気が、バケツの縁から流れ込んできた。
駐車場だった。
空に、星がたくさん見えた。街の明かりが全部消えてから、星がよく見えるようになった、と思う。人間だった頃の夜空を、ちゃんと覚えているわけじゃないけど。
こはるちゃんは、入り口から一番遠い車の陰まで、早足で歩いた。
それから、アスファルトの上に、そっとバケツを下ろした。
◇
こはるちゃんは、バケツの前にしゃがみ込んだ。
しばらく、何も言わなかった。
私も、バケツの中から、こはるちゃんを見上げていた。
「クロ」
こくん。
「もう、捕まっちゃだめだよ」
こくん。
「ここにも、来ちゃだめ。ダイキさんたちに見つかったら、今度こそ……」
こはるちゃんは、そこで言葉を切った。
私は、少しだけ迷って、それから首を縦に振った。
こくん。
こはるちゃんが、ぎゅっと唇を結んだ。前髪の隙間から見える目が、また赤くなりかけていた。
「……でも」
すごく小さな声だった。
「また、会える?」
——また。
ここには来ちゃだめ、と言ったばかりなのに。
私は、こはるちゃんの顔を見た。赤くて、温かくて、今にも泣きそうな顔を。
会えるかどうかなんて、分からない。明日、私が生きているかどうかも分からない。この世界は、弱いと死ぬ。
でも。
だったら、強くなればいい。
私は、首を縦に振った。
ゆっくり、しっかりと。
こくん。
こはるちゃんが、ふっと笑った。泣きそうな顔のまま。
それから、バケツの中に、そっと手を差し入れてきた。手のひらを上にして、私の目の前に。
蓋も、プラスチックも、何もなかった。
私は、その手のひらに、頭をそっと乗せた。
温かかった。
ボンネットの日差しとも、カイロとも違う。生きているものの、温かさだった。
こうなってから人に触れたのは、初めてだった。
「……つめたい」
こはるちゃんが、くすっと笑った。
「でも、すべすべ」
それは、どうも。進化してから、鱗の艶には自信があるんです。手入れとかしたことないけど。
「……クロは、やさしいね」
こはるちゃんは、しばらくそのまま、手のひらを動かさなかった。
それから、ゆっくりと手を引いた。
「……行って」
私は、バケツの縁を乗り越えて、アスファルトに降りた。
冷たい。昼間の熱は、もうとっくに逃げてしまっている。体が、じわじわと重くなりはじめる。
こはるちゃんが、バケツの底からタオルごとカイロを取り出して、車の下に押し込んだ。
「朝まで、これであったかいでしょ」
……この子は、本当に。
私は、車の下に潜り込んで、タオルの上でとぐろを巻いた。カイロの温かさが、お腹からじんわりと上ってくる。
車の下から、こはるちゃんの足が見えた。
足は、しばらくそこから動かなかった。
それから、くるりと向きを変えて、歩き出した。
一歩、二歩。止まる。
また歩き出す。三歩、四歩。また止まる。
振り返っているんだと思う。
私は、車の下から、少しだけ頭を出した。
見えるかどうか分からないけど。
こはるちゃんの熱が、バリケードの隙間に吸い込まれて、見えなくなった。
……ありがとう。
言えなかった。蛇だから。
でも、いつか。
ちゃんと、言えるようになりたい。
――――――――――――――――
名前 :クロ
種族 :ウェネヌムセルペンス
Lv :7
状態 :正常
スキル:【毒牙Lv5】【熱感知Lv2】【隠密Lv3】【毒耐性Lv1】【悪食Lv1】【邪神の種Lv2】
進化 :条件未達成
――――――――――――――――
◇
振り返らない、って決めてたのに、四回も振り返った。
車の下は真っ暗で、クロがどこにいるのか、もう全然見えなかった。
ちゃんと、あったかいかな。カイロ、朝までもつかな。明日、どこに行くのかな。ごはん、ちゃんと食べられるかな。
わたし、クロのこと、なんにも知らない。
図鑑には、黒いへびのことがたくさん書いてあった。でも、クロのことは、どこにも書いてない。言葉がわかるへびなんて、どの図鑑にもいなかった。
知りたい。
クロのこと、もっと、ちゃんと知りたい。
そう思って、もう一回だけ、車の方を振り返ったときだった。
目の前に、青い画面が、ぱっと出た。
『スキル【鑑定】を獲得しました』
「……え」
声が出そうになって、あわてて口を押さえた。
鑑定?
――――――――――――――――
名前 :こはる
種族 :ホモサピエンス
Lv :1
状態 :正常
スキル:【鑑定Lv1】
――――――――――――――――
ほんとうに、スキルのところに、ひとつふえてた。
「今は……戻らなきゃ」
隙間を通り抜けて、建物の中に戻った。
空っぽのバケツを抱えて、壁に手をついて、立ち上がった。
その瞬間、顔に光が当たった。
「……っ」
まぶしくて、目をぎゅっとつぶった。
懐中電灯の光だった。
「こはる」
低い声がした。
ゲンさんだった。
隙間のすぐ横に、パイプ椅子を置いて、座っていた。ずっと、そこにいたみたいに。
懐中電灯の光が、わたしの顔から、わたしが抱えているバケツに移った。
空っぽの、バケツ。
ゲンさんは、しばらく何も言わなかった。
わたしも、何も言えなかった。
「……逃がしたのか」
心臓が、ばくばくした。
怒られる。
ダイキさんに言われる。みんなに言われる。わがままだって。足手まといだって。
ごめんなさい、って言えばいいのかもしれない。
でも。
「……はい」
わたしは、バケツを抱えたまま、ゲンさんの顔を見た。
「わたしが、逃がしました」
ゲンさんの眉が、ぴくっと動いた。
「お前は、1のままだぞ」
「……わかってます」
「次に、中にモンスターが入ってきたら、どうする」
「……わかってます。でも」
声が、震えた。
震えたけど、止めなかった。
「クロは、ころしたくなかった。クロは、わたしのこと、かまなかった。だから、わたしも……」
それ以上は、うまく言葉にならなかった。
ゲンさんは、懐中電灯を下に向けた。
光が床に落ちて、ゲンさんの顔が暗くなった。
長い、長い、ため息が聞こえた。
「……母ちゃんに似て、頑固だな」
え、と思った。
ゲンさんは、よいしょと椅子から立ち上がった。
「この隙間、明日塞ぐからな。子どもが勝手に出入りしていい場所じゃねえ」
「……はい」
「もう寝ろ。風邪ひくぞ」
ゲンさんは、わたしのことを、怒らなかった。
何か言わなきゃと思ったのに、声が出なかった。
ゲンさんの足音は、ゆっくり遠ざかっていった。
◇
毛布にもぐって、目を閉じる前に、もう一回だけ画面を出した。
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名前 :こはる
種族 :ホモサピエンス
Lv :1
状態 :正常
スキル:【鑑定Lv1】
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レベルは、1のまま。
みんなより、ずっと弱いまま。
でも、スキルの欄に、一つだけ、文字が増えていた。
わたしは、画面を閉じて、毛布の中でぎゅっと膝を抱えた。
強くなりたいと、思った。このままじゃ、だめだって。
クロがまた会えるって言ってたから、その時まで生きていられるように。