蛇喩経 作:kp3kp3
朝、カイロはすっかり冷たくなっていた。
使い捨てだから、当たり前だ。ひと晩もってくれただけで、十分すぎるくらいだった。
車の下から這い出す前に、敷いてあったタオルに、ちろっと舌を当てた。
洗剤と、埃と、それから、こはるちゃんのにおいがした。
……よし。
タオルは、持っていけない。手がないから。
私はタオルをそのままにして、車の下から出た。モールの方は、振り返らなかった。ここにはもう来ちゃだめ、と言われたから。
駐車場から出て、ボンネットに登って、日向ぼっこをする。
なかなか、温まらない。
日差しはちゃんと当たっている。でも、体の芯まで熱が届くのに、ずいぶん時間がかかった。こうなったばかりの頃は、ちょっと寝そべっていれば尻尾の先まで動くようになったのに。今は、その倍くらいかかっている気がする。
街路樹の葉っぱが、黄色くなりはじめていた。
舌を出すと、何か強烈なにおいがした。
……うっ。
銀杏だった。道に落ちた実が潰れて、独特の、なんというか、ものすごく個性的なにおいを放っている。
蛇になって初めて知った。銀杏は、蛇にも臭い。
それはともかく。
葉っぱが色づいて、銀杏が落ちている。つまり、秋が深まっている。
秋の次は、冬だ。
変温動物にとって、冬がどういうものかは、なんとなく分かる。夜の寒さであれだけ動けなくなるのだから、冬になったら、昼間でも動けなくなるかもしれない。
野生の蛇は、冬の間は冬眠するらしい。土の中や、穴の中で、春まで眠って過ごす。
……私、冬眠とかできるのかな。
できたとして、どこで?
今まで私は、その日その日で寝床を探してきた。側溝、焚き火の跡、物置の下、ブロック塀の穴。一晩しのげれば、それでよかった。
でも、冬を越すなら、そうはいかない。
ちゃんとした、住む場所がいる。
◇
日向ぼっこをしながら、私は物件の条件を考えた。
一つ。入り口が狭いこと。大きいやつが入ってこられないように。猫又とか。
二つ。濡れてないこと。水抜き穴の雨の日は、もう二度とごめんだ。でもジメジメはいい。
三つ。すぐ近くに、日当たりのいい場所があること。朝一番に日向ぼっこできるように。
四つ。近くに獲物がいること。
五つ。人間の生活圏から離れていること。あと、猫又の縄張りからも。
駅近とか、南向きとか、そういうのに近い気がする。蛇にとっての、だけど。
……あと、欲を言えば、日当たりのいい場所が石とかだと嬉しい。コンクリートでもいい。昼間の熱を溜めこんでくれるやつ。
条件、多いな。
こういう人が、なかなか部屋が決まらないんだと思う。私はかぐや姫か。
◇
それから二日、私は内見に歩き回った。
最初の候補は、乗り捨てられた車の中だった。窓が少し開いていて、中に入れる。座席はふかふかだし、風も入ってこない。
夜になったら、車の中は外と同じくらい冷えた。金属の箱は、熱を溜めこまないらしい。却下。
次の候補は、大きな下水の入り口。広くて、奥まで続いていて、大きいやつも来なさそう。
入ってすぐ、足元……お腹の下がびしょびしょになった。そして、奥から何か得体の知れない、ぬめっとしたにおいがした。却下。即却下。
三つ目は、空き家の床下。乾いていて、狭くて、悪くなかった。
ただ、床下の土に、見覚えのある足跡があった。丸くて、指が四本の。舌を出して集中すると、あの金色の目のにおいが、うっすらと残っていた。
却下。全力で却下。マジでありえない。
私は、その日のうちに、その辺りから通りを三本離れた。
◇
三日目の昼すぎ。
住宅街の奥で、少しだけ坂になっている道を登っていたら、急に、周りの空気が変わった。
ひんやりしていて、湿っていて、土と、苔と、古い木のにおいがする。
顔を上げると、大きな木が何本も、道の先を覆うように立っていた。住宅街の真ん中に、そこだけぽっかりと、小さな森がある。
森の入り口に、赤い柱が二本立っていた。
上に、横木が二本、渡してある。
鳥居だ。
塗装はところどころ剥げて、赤というより、くすんだ茶色に近かった。根元には落ち葉が積もっていて、ずいぶん長い間、誰も掃除していないみたいだった。あの日よりずっと前から、たぶん。
鳥居の向こうに、石段が続いていた。
私は、その石段を見上げた。
石段は、南を向いていた。日差しが、真正面から当たっている。
……いや、まさか。
石段の一段目に、そっと体を乗せてみた。
あったかい。
昼間の日差しを、たっぷり吸いこんだ石の温かさ。ボンネットみたいに熱すぎず、コンクリートみたいに冷たすぎない。お腹の下から、じんわりと、ちょうどいい熱が染みてくる。
条件三、クリア。
私は、石段をゆっくりと登っていった。一段ごとに、ぽかぽかする。天国の階段かな。
登りきったところに、小さな境内があった。
正面に、古い木造の建物。たぶん、拝殿っていうやつだ。屋根の瓦がいくつか落ちていて、賽銭箱は横倒しになっていた。
横には、屋根のついた石の水盤。手水舎。雨水が溜まっていて、落ち葉が浮いている。
そして、境内を囲むように、大きな木々が立っていた。見上げると、枝の間で鳥がたくさん鳴いていた。
人間のにおいは、しなかった。
舌を何度出しても、人の気配はどこにもない。猫又のにおいもしない。
……ここ、すごくいいのでは。
私は、拝殿の正面まで這っていった。
古い木の階段の下で、なんとなく、頭を下げた。
蛇が頭を下げると、ただ地面に顎をつけただけにしか見えないと思うけど。
お邪魔します。
家賃は……お賽銭、とか? 持ってないけど。
内見の続きをする前に、まずは条件四の確認だ。
境内の周りの森で、待ち伏せをしてみた。背中を大きな木の根っこにつけて、落ち葉に体を沈めて、【隠密】。
鳥は、すぐに来た。
森の鳥は、街の鳥より警戒心が薄いのかもしれない。二羽、三羽と地面に降りてきて、落ち葉をつついている。
一羽が、目の前まで来た。
——今。
ばくん。
『個体〈ロードーフォリア〉を撃破しました』『経験値を獲得しました』
もう一羽。場所を変えて、さらにもう一羽。
『レベルが上がりました Lv7→Lv8』
条件四、クリア。
ただ、一つだけ、気になることがあった。
ネズミのにおいが、ほとんどしない。
街では、ゴミ捨て場にも側溝にも、あの前脚の長いネズミのにおいがあった。なのに、この森では、ほとんどしない。たまにしても、すごく古い。
……森だから、ゴミがなくて、ネズミも来ないのかな。
そういうことにして、私は石段に戻った。
◇
夕方まで、石段で日向ぼっこをした。
石は、日が傾いてもなかなか冷めなかった。お腹の下から、ずっとじんわりあったかい。
落ち葉が一枚、ひらひらと降ってきて、私の頭の上に乗った。
振り落とす気にもならなかった。
こはるちゃん、今ごろ何してるかな。
隙間、塞がれちゃったかな。ダイキさんに怒られてないかな。ちゃんとごはん、食べてるかな。
……私が心配しても、仕方ないんだけど。
ステータスを開く。
――――――――――――――――
名前 :クロ
種族 :ウェネヌムセルペンス
Lv :8
状態 :正常
スキル:【毒牙Lv5】【熱感知Lv2】【隠密Lv3】【毒耐性Lv1】【悪食Lv1】【邪神の種Lv2】
進化 :条件未達成
――――――――――――――――
あと、2。
レベルが10になれば、また進化できる。前と同じなら、だけど。
次に進化するときは、安全な寝床で。前にそう決めた。
ここなら、ちょうどいい。
あとは——一番大事な、寝室の内見だけだ。
◇
拝殿の床は、石の土台の上に乗っていて、地面との間に隙間があった。
ぐるっと一周すると、裏手の板が一枚、腐って割れていた。私がちょうど通れるくらいの穴。大きいやつは、通れない。
条件一、クリア。
穴に頭を差し込んで、中を覗く。
暗い。
でも、熱感知と舌がある。暗いのは、もう慣れっこだ。
私は、床下に体を滑り込ませた。
乾いていた。
地面は、さらさらした土と埃。上には床板があって、雨も風も入ってこない。ひんやりしているけど、湿ってはいない。
条件二、クリア。
……完璧じゃない?
入り口が狭い。乾いている。すぐ前に南向きの石段。森には鳥。人間も猫又もいない。
全部、クリアだ。
こんな物件、二度と出てこない。即決です。私、今日からここに住みます! ここで働かせてください!
いや、住むだけなんだけど。
私は、うきうきしながら、床下の奥へと進んでいった。どこでとぐろを巻こうか。柱の陰がいいかな。それとも、真ん中あたり——
舌の先に、何かが引っかかった。
つん、と鼻の奥……じゃない、舌の奥に刺さるような、酸っぱくて、薬みたいなにおい。
なんだろう、これ。
においのする方へ、少しだけ進む。
体の下で、何かがかさりと鳴った。
小さな骨だった。
ネズミの頭の骨。その隣にも、また一つ。鳥の羽が、ひとかたまり。細い脚の骨。
一つ、二つじゃない。
舌を出すたびに、においが分かる。床下のあちこちに、骨が散らばっている。どれも、きれいに肉がなくなっていた。
……森に、ネズミのにおいがしなかった理由。
背中の鱗が、ぞわっと逆立った。
熱感知に、意識を集中する。
何も、映らない。
床下は、どこまでもくすんだ灰色だった。赤い熱のかたまりなんて、一つもない。
虫でも、熱は見えたはずなのに。
なのに、においだけが、どんどん濃くなっていく。
骨の山の向こうに、何か、平べったいものが落ちていた。
薄くて、茶色くて、硬そうな殻。節がいくつも連なっていて、一つ一つの節から、細い棒みたいなものが二本ずつ生えている。
抜け殻だった。