蛇喩経 作:kp3kp3
かさ。
音がした。
床下の奥。柱の向こうの、一番暗いところから。
かさ、かさかさ。
かさかさかさかさかさかさかさ——
雨の音に、似ていた。
たくさんの小さな何かが、一斉に地面を叩く音。
熱感知には、何も映らない。床下は、どこまでもくすんだ灰色のままだ。
なのに、音だけが近づいてくる。
柱の陰から、何かが、ぬるりと現れた。
平べったくて、赤黒くて、長い。
頭の先で、二本の触角がゆらゆらと揺れている。その後ろに、硬そうな板を何十枚も重ねたみたいな胴体が続いていて、板の一枚一枚から、黄色い脚が左右に一本ずつ生えていた。
脚が、波みたいに順番に動く。
ムカデだった。
私より、長い。私より、太い。
ムカデって、蛇を食べるんだっけ。
そんなことを、生物の先生は言ってなかった。言ってなかったけど、この床下に転がっている骨を見れば、答えは分かる。
ここは、こいつの家だ。
触角が、ぴたりと私の方を向いた。
あ、これ。見つかった。
先に動いたのは、向こうだった。
速い。
あのたくさんの脚が一斉に地面を蹴って、赤黒い体が一直線に突っ込んでくる。
私は、反射的に頭を振って噛みついた。
牙が、ムカデの頭のすぐ後ろに当たる。
——がちん。
刺さらなかった。
硬い。鱗とも、皮膚とも違う。爪を立てたプラスチックみたいに、牙の先が表面を滑った。毒は、一滴も入らなかった。
代わりに、脇腹に、焼けるような痛みが走った。
頭の横についた、牙みたいな鉤爪。それが、私の鱗の隙間に食い込んでいた。
「シャアアッ!」
痛い。熱い。噛まれたところから、じわじわと熱が広がっていく。
毒だ。こいつも、毒を持っている。
私は、めちゃくちゃに体をよじった。鉤爪が外れる。転がるように後ろへ下がって、柱の陰に逃げ込む。
ムカデは、追ってこなかった。触角を揺らしながら、柱の向こうで様子を見ている。
急がない。
あの猫と、同じだ。狩る側の余裕。
脇腹の熱が、どんどん広がっていく。視界が、少しだけ揺れる。
『スキル【毒耐性】のレベルが上がりました Lv1→Lv2』
……レベルが上がっても、痛いものは痛い。
でも、熱が脇腹のあたりで押しとどめられている。【毒耐性】がなかったら、今ごろもう動けなかったかもしれない。
どうする。
噛んでも、牙が通らない。向こうは、こっちが見えている。こっちは、熱感知で見えない。
勝てる要素が、一つもない。
逃げよう。
この物件は、諦めよう。惜しいけど、命には代えられない。
私は、入ってきた割れた板の方へ、全力で這った。
穴をくぐる。外に出る。夕方の、少し冷えた空気。
振り返った。
穴の縁に、触角が見えた。
それから、赤黒い頭が、するりと出てきた。
——え。
通れるの?
ムカデの体は、平べったかった。私がやっと通れた隙間を、薄い板みたいな体が、何の苦もなく滑り抜けてくる。
条件一。入り口が狭いこと。大きいやつが入ってこられないように。
大きくても、平べったいやつには関係なかった。
私は、石段の方へ逃げた。
なんでそっちに逃げたのか、自分でもよく分からない。たぶん、体が、あったかい方へ向かっただけだ。
一段下りる。石が、まだほんのり温かい。昼間の熱が、残っている。
後ろから、かさかさかさ、と音が追ってくる。
ムカデは、境内の地面を這って、石段の一番上まで来ていた。
そして、そこで、少しだけ動きが鈍った。
触角を振って、ためらうように、段の縁を探っている。
……?
暗くて湿った床下が好きなやつ。
明るくて、開けた場所は、あんまり好きじゃない。
ずっと暗い床下にいたから、周りの土と同じ温度まで冷え切っていたんだ。だから、体温が極端に低くて、熱感知に映らなかった。
日が沈みかけた境内の地面は、もう冷えはじめている。でも、この石段は、まだ温かい。
ここなら、私の方が、少しだけ速く動ける。
ムカデが、一段目を下りはじめた。
平べったい体が、段の角で、くの字に曲がる。
その瞬間、私は見た。
曲がった体の、外側。硬い板と板の間が、ほんの少しだけ開いていた。その隙間から、白っぽい、柔らかそうなものが覗いていた。
——あそこだ。
板は硬い。でも、板と板の間は、硬くない。
しかも、体を曲げたときにだけ、それが開く。
ムカデが、二段目に下りてくる。また、体が角で曲がる。また、白い隙間が見える。
でも、今そこに飛び込んだら、すぐ横にある頭の鉤爪にやられる。あれにもう一回噛まれたら、【毒耐性】があっても、たぶんもたない。
理性はやめろと言うのに、奥底から湧いてくる衝動がうるさい。
殺せ、と。
……うるさい。やるなら、ちゃんとやる。私のやり方で。
私は、石段の横の、落ち葉の吹き溜まりに体を沈めた。背中は、石段の側面の石垣にぴったりつける。
かさかさかさ。
一段下りる。止まる。触角で探る。
かさかさかさ。
また一段。
近づいてくる。私のいる吹き溜まりの、すぐ横の段まで。
やって……やる。
頭が、私の目の前を通り過ぎる。触角が、落ち葉の表面を撫でていく。私の鼻先から、指一本分のところを。
動くな。
私は落ち葉だ。ただの落ち葉。【隠密】を使って潜む。
触角が、離れていった。目は、あんまり良くないみたいだ。
赤黒い胴体が、目の前を流れていく。一枚、二枚、三枚、板が通り過ぎていく。黄色い脚が、次々と石を掴んでいく。
胴体の、真ん中を過ぎた。噛まれたくないから、後ろ側。
ムカデの体が、段の角に差しかかる。
くの字に、曲がる。
白い隙間が、開く。
——今。
私は、落ち葉の中から、体ごと跳ね上がった。
頭を投げるように、口を開いて。
牙が、板と板の隙間に、ずぶりと沈んだ。
柔らかい。
入った。
牙の根元から、熱いものが流れ出ていく。一滴残らず、全部。
ムカデの体が、びくん、と跳ねた。
前の方の脚が、一斉にばたばたと石を掻く。頭が、ぐるりとこっちを向く。
鉤爪が、来る。
私は牙を抜いて、石段の下へ転がり落ちた。
一段、二段、三段。体中を石にぶつけながら、とにかく頭から離れる。
ムカデの頭が、私がいた場所の石を、がちん、と噛んだ。
それから、ムカデは、私を追ってこようとした。
石段を、下りてこようとした。
脚が、揃わなかった。
前の方の脚は動いているのに、後ろの方の脚が、ばらばらに、でたらめに動いている。噛んだところから後ろが、うまく動いていない。
体が、段の縁で引っかかる。ずるりと滑る。また前の脚で踏ん張る。
私は、石段の一番下で、とぐろを巻いて、それを見ていた。
即効性の毒。三つ目のカラスは、一噛みで落ちた。
でも、こいつは大きい。回るまでに、時間がかかる。
だったら、待てばいい。
噛んで、離れて、待つ。
私は、この体の、正しい戦い方を知っている。
ムカデは、それから長いこと暴れていた。
石段を半分まで下りてきて、そこで止まった。脚が一本、また一本と動かなくなっていく。最後まで動いていたのは、触角だった。
それも、やがて、ゆっくりと垂れた。
『個体〈スコロペンドラギガース〉を撃破しました』『経験値を獲得しました』『レベルが上がりました Lv8→Lv10』『スキル【毒耐性】のレベルが上がりました Lv2→Lv3』
『特殊条件を満たしました』
『進化可能条件を満たしました』
私は、しばらく石段の下から動けなかった。
脇腹が、まだ熱い。体中が、石にぶつけたところで痛い。
でも、生きてる。
勝った。
あの猫には、手も足も出なかった。……手も足もないけど。
今回は、勝った。噛んでも通らない相手に、隙間を見つけて。たぶん、格上だったと思う。
勝ったんだ。私は、生きてる。
ムカデの死体を、少しだけ舐めた。
酸っぱくて、薬っぽくて、あんまり美味しくはなさそうだった。そもそも、長すぎて飲み込めない。
今回は、お腹いっぱいにするのが目的じゃない。
私は、石段を這い上がって、拝殿の裏に回った。割れた板の穴をくぐって、床下に入る。
もう、かさかさという音はしなかった。
骨の散らばった床下は、静かで、乾いていて、ひんやりしていた。
家主、交代です。
私は、一番奥の柱の陰でとぐろを巻いた。
それから、進化の項目を開いた。
【進化】
・グランディスセルペンス
・フォルティスウェネヌムセルペンス
・ドラコーセルペンス
三つ、あった。
前は二つだった。
【グランディスセルペンス】 大型の蛇。体格に優れ、寒さへの耐性が高い。
【フォルティスウェネヌムセルペンス】 より強力な毒を持つ蛇。
【ドラコーセルペンス】 竜の因子を宿す蛇。成長には多くの経験値を必要とする。
私は、三つの名前を、順番に見比べた。
グランディス。大きくなる。寒さに強い。
今の私に、一番必要なのはこれかもしれない。冬が来る。大きい体なら、冷えにくい。この床下で、冬を越せる。大きさは、強さだ。
フォルティスウェネヌム。毒が強くなる。
私の武器は、毒だ。ずっとそうだった。でも、さっきのムカデは、毒が強いだけじゃ勝てなかった。牙が通る場所を見つけられたから、勝てた。これが種族的な順当進化っぽい。
ドラコー。竜。
竜って、何。蛇が竜になるって、どういうこと。
説明は、短い。何ができるようになるのか、全然分からない。成長には、多くの経験値が必要。つまり、次の進化までが遠い。
順当に考えたら、グランディスだ。これから多分冬眠するし、そのためには大きい方がいい。
いのちだいじに、なら、グランディス。
毒に特化するならフォルティスもあり。
けれど。
私は、ドラコーの文字から、目を離せなかった。
死なないために、できる限り早く強くなるべきで、たぶんこれじゃない方がいいのに。
竜って、絶対つよいよね。それに、多くの経験値が必要って、上位種みたいな、そういうやつな気がする。
だいたいは、経験値がたくさん必要な、大器晩成型のほうが最終的につよいよね。
それに。
——また、会える?
こはるちゃんが、手のひらを差し出してきたときの顔を思い出す。
今度会うときは、胸を張って会いに行きたい。冬を越せるだけの大きな蛇、じゃなくて。
もっと、ずっと、強いものになって。
それに、竜なら……言葉を発したり、できるかもしれない。
胸の奥で、ざわざわが動いた気がした。
これは、あのざわざわのせいなんだろうか。強さへの、抑えきれない渇き。
分からない。
分からないけど、この選択だけは、自分で選んだと思いたかった。
『ドラコーセルペンスへの進化を開始しますか?』
——はい。
最初に来たのは、やっぱり痒みだった。
それから、熱。
前の進化とは、比べものにならなかった。
体の奥から、焼けた鉄を流し込まれたみたいな熱が噴き上がる。骨が、軋むんじゃなくて、形を変えていく。頭の骨の、目の上あたりが、内側から押し上げられるみたいにむず痒い。
鱗の一枚一枚が、剥がれて、生え直していく感覚。
視界の端で、画面が狂ったように点滅していた。
『進化処理を実行中』『……』『██████へ██%を送信』『██████へ██%を送信』『進化処理を実行中』『スキル【邪神の種】のレベルが上がりました Lv2→Lv3』『スキル【竜鱗】を獲得しました』
意識が、落ちていく。
今度は、ちゃんと床下にいる。大丈夫。ここは、私の家だ。
真っ暗な中に、落ちていく。
◇
——ねえ。
——あー、やっと……■■がった。前より、マシ……■■
——あんた、■前……もらったんだ。
——クロ、っていうの?
——いい名前■■ない。……ペットかなにかみたいだけど。
——……ねえ、よく聞いて。■■たが強く■■たびに、■■■が■■を持ってって……
——次の……■■化で、■■ちゃんと……■■るから。それまで……
——死ぬんじゃ、ないわよ。
◇
目が覚めた。
床下の、柱の陰。割れた板の穴から、朝の光が細く差し込んでいる。
ひと晩、眠っていたらしい。
体の熱は、嘘みたいに引いていた。脇腹の、ムカデに噛まれた傷も、石段でぶつけた痛みも、全部なくなっていた。
すぐ横に、抜け殻が落ちていた。
前の抜け殻より、ずっと長い。
そして、私自身も、ずっと長くなっていた。
今度は、はっきり分かった。とぐろを巻くと、柱の周りを一周しても、まだ尻尾が余る。胴体の太さも、前とは全然違う。
床下に差し込む光に、自分の体を映してみた。
黒い鱗は、前よりも一枚一枚が大きくて、角ばっていた。光の当たり方で、ほんの少しだけ、深い緑色が混じって見える。
背中の真ん中に、一筋、小さな突起が並んでいた。背骨に沿って、頭から尻尾の方まで。
かっこいい……のか?
私は、自分の抜け殻に、ちろっと舌を当てた。
それから、少し迷って、前と同じように、それを食べた。
今度は、ちゃんと自分で選んで。
昨日までの私を、置いていかないように。
――――――――――――――――
名前 :クロ
種族 :ドラコーセルペンス
Lv :1
状態 :正常
スキル:【毒牙Lv5】【熱感知Lv2】【隠密Lv3】【毒耐性Lv3】【悪食Lv1】【竜鱗Lv1】【邪神の種Lv3】
進化 :条件未達成
――――――――――――――――
【竜鱗Lv1】 あらゆるものにわずかな耐性を得る鱗。レベルに応じて強度が上昇する。
新しいスキルが、一つ増えていた。あらゆるもの、って。わずかな、とは書いてあるけど……それでも強くない? なにこれ。
【邪神の種】も、また一つ、上がっていた。
夢の中の声を、思い出す。
——死ぬんじゃ、ないわよ。
邪神……なのかな? 言われなくても、死ぬつもりは無い。
私は、床下の穴から、朝の光の方へ這い出した。
石段が、南向きの日差しを浴びて、温まりはじめていた。
新しい家の、最初の朝だった。