蛇喩経   作:kp3kp3

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第8話

 車の下は、思っていたより悪くなかった。

 

 昼の日差しを吸ったアスファルトが、お腹の下からじんわりと温かい。頭の上には車体があって、左右はタイヤ。背中を見られる心配もない。

 

 ただ、一つだけ問題があった。

 

 ここが、人間の目と鼻の先だということ。

 

 駐車場の向こう、バリケードの隙間から、ときどき人が出入りしている。鉄パイプを持った男の人。バケツを提げた女の人。みんな疲れた顔をしていて、でも、足取りは慣れていた。

 

 ——おい、近くになんかいるぞ。

 

 ——あ? サーチか?

 

 あのときの声を思い出して、鱗がきゅっと縮こまった。

 

 そうだ。人間には、ああいうスキルがある。私の熱感知みたいに、隠れているものを見つける何かが。

 

 今、見つかったら。

 

 傷はまだ治りきっていない。飛びかかると脇腹が引き攣れる。あのときみたいに瓦礫の隙間まで逃げ切れるかと聞かれたら、正直、自信がない。

 

 ……帰ろうかな。

 

 そう思ったのと同時に、風向きが変わった。

 

 血と、脂と、肉のにおいが、舌の上にどっと押し寄せてくる。

 

 お腹の底が、きゅうっと鳴った。気がした。

 

 ……うん。もうちょっとだけ、様子を見よう。

 

 【隠密】は、動かなければ効く。だったら、ここでじっとしていればいい。待つのは得意だ。この一週間で、たぶん人生で一番得意になった。人生というか、蛇生というか。

 

◇

 

 じっとしているあいだに、分かったことがいくつかあった。

 

 まず、においの元は、正面の入り口じゃない。

 

 バリケードのある正面から、建物の横をぐるっと回った先。裏手のほうから、においが流れてくる。

 

 昼すぎ、二人の男の人が、何か大きなものを引きずってそっちへ向かった。茶色い毛の、脚の長い獣。頭には、ジャキジャキした殺意マシマシの角。

 

 あのときの鹿の仲間だ。……たぶん。

 

「今日のは脂のってんなあ」「解体すんの誰だっけ」

 

 楽しそうな声が、建物の陰に消えていく。

 

 つまり、あっちに、肉を捌いて置いておく場所がある。

 

 それから、屋上。

 

 手すりのところに、洗濯物が干してあった。Tシャツ、タオル、小さな靴下。風にぱたぱたと揺れている。

 

 小さな靴下。子どもも、いるんだ。

 

 夕方が近づくと、屋上の煙が少し濃くなった。そして、風に乗って、別のにおいが降りてきた。

 

 ご飯のにおいだった。

 

 お米が炊けるときの、あの、甘いような湯気のにおい。

 

 ……あ。

 

 胸の奥が、変な風にぎゅっとなった。

 

 家族の顔も、家の場所も、何も思い出せないのに。このにおいは覚えてる。

 

 でも風が吹いて、そのにおいが消えて、あとに残ったのは、血と生の肉のにおいだけだった。

 

 そっちの方が美味しそうに感じてしまうのが、今の私だ。

 

 舌を出す。血。脂。

 

 お腹が空いた。

 

 ……うん。やっぱり今の私が食べたいのは、こっちだ。

 

◇

 

 日が沈んだ。

 

 ここで、一つ困ったことに気がついた。

 

 人間が寝静まるのは、夜。

 

 私が動けなくなるのも、夜。

 

 ……詰んでない?

 

 人間が寝るのを待っていたら、私の体が冷え切ってしまう。冷えたら、動けない。動けないまま見つかったら、今度こそ終わりだ。

 

 お腹の下のアスファルトに、意識を向ける。

 

 まだ、ほんのりと温かい。

 

 昼のあいだにたっぷり日を浴びたアスファルトは、日が沈んでもすぐには冷えない。ボンネットは夜になった途端に冷たくなるのに、地面はしばらく熱を溜めこんでいる。この一週間、毎晩寝床を探して這い回りながら、なんとなく覚えたことだった。

 

 つまり、勝負は、地面が冷え切るまで。

 

 人間が寝静まって、でも地面はまだ温かい。その間。

 

 屋上の話し声が、少しずつ減っていく。明かりが、一つ、また一つと消えていく。

 

 お腹の下の温かさも、少しずつ、少しずつ減っていく。

 

 屋上の最後の明かりが、消えた。

 

 ——今。

 

 車の下から、車の下へ。十回くねって、止まって、舌を出す。

 

 建物の角を曲がると、においが一気に濃くなった。

 

 裏手は、トラックが荷物を下ろすための場所になっていた。搬入口、っていうんだっけ。灰色のシャッターが三つ並んでいて、そのうち一つだけ、下の方が少し開いている。木の板が挟まっていて、完全には閉まらないようにしてあった。

 

 においは、そこから漏れてきていた。

 

 そして、そのシャッターの横に。

 

 赤い熱のかたまりが、一つ。

 

 パイプ椅子に座った男の人だった。膝の上に金属バット。足元にはドラム缶があって、中で火がちろちろ燃えている。見張り、なんだと思う。

 

 男の人は、大きなあくびをした。

 

 ……いいな、ドラム缶。あったかそう。

 

 じゃなくて。

 

 壁沿いに進めば、ドラム缶の明かりが届かない影がある。シャッターまでは、車三台分くらい。

 

 私は、壁と地面の隙間に体をぴったりつけて、這い出した。

 

 ゆっくり。ゆっくり。

 

 動いている間は【隠密】が効かない。だから、動くのは男の人がドラム缶の方を見ているときだけ。こっちを向いたら、止まる。

 

 這う。止まる。這う。止まる。

 

 だるまさんが転んだ、みたいだった。命がけの。

 

 あと、車一台分。

 

 そのとき、男の人がふっと顔を上げた。

 

「……ん?」

 

 体が、固まった。

 

 男の人は、椅子に座ったまま、きょろきょろと首を回した。懐中電灯を持ち上げて、あたりをぐるっと照らす。

 

 光の輪が、地面を滑ってくる。

 

 私の、すぐ手前まで。

 

 動くな。動くな。動くな。

 

 今の私は、壁のしみ。ただのしみ。コンクリートのひび割れ。

 

 光の輪が、私の尻尾の先をかすめて——通り過ぎた。

 

「……気のせいか」

 

 男の人は、懐中電灯を下ろして、またあくびをした。

 

「ネズミだろ、どうせ。あーあ、交代まだかよ……」

 

 ……心臓が口から出るかと思った。

 

 私は、残りの距離をじりじりと詰めて、シャッターの隙間に頭を差し込んだ。

 

 狭い。でも、通れる。

 

 体をくねらせて、するりと、中へ。

 

◇

 

 中は、真っ暗だった。

 

 熱感知にも、ほとんど何も映らない。コンクリートの床と壁の、くすんだ灰色。

 

 なのに、においだけは、すごかった。

 

 舌を一回出しただけで、頭の中がにおいでいっぱいになる。血、脂、肉、それから、少し酸っぱいような、甘いような、腐りかけのにおい。

 

 目の前に、あるはずなのに。熱感知では、見えない。

 

 死んだものは、冷たいんだ。

 

 舌を頼りに、においの濃い方へ進む。

 

 ぶつかったのは、プラスチックの大きなたらいだった。縁に巻きついて登って、中を覗き込む。

 

 ぬるっとしたものが、たくさん詰まっていた。

 

 内臓だ。解体したときに出た、捨てる部分。人間は、ここは食べないらしい。

 

 ……いただきます。

 

 一口目を飲み込んだ瞬間、体の奥がかっと熱くなった。

 

『捕食により体力が回復しました』

 

 二口目。三口目。

 

『捕食により体力が回復しました』

 

 脇腹の引き攣れが、ほどけていく。ずっと残っていた鈍い痛みが、すうっと引いていく。

 

 

――――――――――――――――

状態 :正常

――――――――――――――――

 

 

 治った。

 

 猫にやられてから、初めて、どこも痛くない。

 

 ……よかった。本当に、よかった。

 

 ここで帰っていれば、よかったのかもしれない。

 

 でも、口が止まらなかった。

 

 たらいの向こうで、小さな熱がちょろちょろと動いた。

 

 ネズミだった。前脚の長い、いつものやつ。人間の食料を盗みに来たらしい。

 

 同業者だ。

 

 私はたらいの縁から、頭を落とすように噛みついた。ネズミは声も上げずに、ころんと転がった。

 

『個体〈クロアカムース〉を撃破しました』『経験値を獲得しました』『レベルが上がりました Lv6→Lv7』

 

 ここは今夜、私の貸し切りなので。同業他社はつぶすに限る。

 

 ネズミも、ついでに飲み込んだ。

 

 奥には、もっとあった。

 

 天井から下がったフックに、皮を剥がれた大きな肉のかたまりがいくつも吊るされている。昼間の鹿も、たぶんあそこにいる。さすがに大きすぎて、吊るされたままじゃ無理だ。

 

 でも、その下。床に広げたブルーシートの上に、切り分けた肉や骨がごろごろ転がっていた。小さな切れ端。筋の多いところ。骨にこびりついた肉。

 

 人間にとっては、たぶん、残りもの。

 

 私にとっては、ごちそうの山だった。

 

 食べた。

 

 食べて、食べて、食べた。

 

 ちょっと古くて、においがきつくなりかけた切れ端も、平気で喉を通った。

 

『スキル【悪食Lv1】を獲得しました』

 

【悪食Lv1】 腐敗したものを食べても腹を壊しにくい。

 

 あると便利の代表みたいなスキルかもしれない。

 

 お腹がいっぱいになっていく感覚は、ちゃんとあった。体の真ん中あたりが、ずっしりと重くなっていく。

 

 なのに、止まらない。

 

 もっと。もっと食べないと。

 

 食べられるときに、食べられるだけ。そうしないと、次はいつ食べられるか分からない。この一週間で、身をもって知ったことだ。

 

 ブルーシートの端に、細長いかたまりが一つ転がっていた。

 

 獣の脚だった。膝から下の、細い脚。先には蹄がついている。

 

 その足首に、何かが食い込んでいた。

 

 毛に埋もれて、泥で汚れて、ほとんど色も分からない。でも、よく見れば分かる。

 

 ピンク色の、ゴムだった。

 

 私は、舌を出したまま、しばらく動けなかった。

 

 ……誰かが、ふざけて付けたのかな。

 

 人間が、解体するときに、目印か何かで。

 

 そういうことにした。

 

 気がつくと、私の体は、とんでもないことになっていた。

 

 お腹の真ん中あたりが、ぽっこりと膨らんでいる。いや、ぽっこりなんてかわいいものじゃない。靴下にじゃがいもを詰め込んだみたいな形だった。

 

 ツチノコか?

 

 ……食べすぎた。

 

 完全に、食べすぎた。

 

 とりあえず、帰ろう。

 

 シャッターの隙間まで這っていく。這う、というより、ずるずると引きずる。お腹が重くて、床に擦れる。

 

 隙間に、頭を差し込む。首が通る。胴体の前半分が通る。

 

 そして、お腹で止まった。

 

 ……。

 

 入るときは、通れたのに。

 

 ぐいっと押し込んでみる。つっかえる。もう一回。つっかえる。シャッターが、ガシャ、と小さく鳴った。

 

 外で、男の人が「ん?」と言うのが聞こえた。

 

 私は、全力で後ろに下がった。

 

◇

 

 シャッターから離れた床の上で、私はとぐろを……巻けなかった。お腹がじゃまで、きれいに巻けない。いびつな輪っかになって、転がっていた。

 

 そして、寒かった。

 

 コンクリートの床は、外のアスファルトよりずっと冷たい。体の芯から、熱がどんどん逃げていく。

 

 ここで、嫌なことを思い出した。

 

 蛇は、食べたあとに体が冷えると、うまく消化ができない。そのまま冷え続けると、お腹の中のものが傷んでしまうから、吐き戻す——らしい。

 

 生物の先生の雑談。今のところ、百発百中で役に立っている。先生、ありがとう。名前も顔も思い出せないけど。

 

 ……吐くのは、嫌だ。

 

 せっかく食べたのに。こんなに食べたのに。もったいない。

 

 あったかいところ。あったかいところに行かなきゃ。

 

 熱感知に、意識を集中する。

 

 倉庫の奥に、扉があった。

 

 建物の中へ続く扉。その下の隙間から、ほんのりと、温かい空気が漏れていた。

 

 私は、ずるずると扉まで這っていって、隙間に顔を寄せた。

 

 温かい。

 

 そして、隙間の向こうに、見えた。

 

 赤い熱のかたまりが、たくさん。

 

 横になって、並んでいる。ゆっくりと上下している。寝息の、リズムで。

 

 大きいのも、小さいのも。

 

 ……人間だ。

 

 この扉の向こうで、みんな、寝ているんだ。

 

 たくさんの人が集まって寝ている場所は、温かい。人間の体温と、毛布と、誰かが焚いた火の名残り。その温かさが、扉の隙間から、じんわりと私の顔を撫でていく。

 

 あったかい。

 

 あっちに行けば、あったかい。

 

 胸の奥で、ざわざわが、大きくなった。

 

 お腹はいっぱいのはずなのに。それとは違う、何か。熱いものが、欲しい。あの赤いかたまりが、欲しい。

 

 あれ一人で、どれくらい——

 

 私は、扉から顔を離した。

 

 だめだ。

 

 ここから先は、だめ。

 

 この扉を越えたら、戻れなくなる気がした。

 

 扉から目をそらすと、横の壁際に、段ボールが積み上げてあった。その陰に、潜り込む。

 

 壁に、体をぴったりとくっつける。

 

 コンクリートの壁は、ほんのりと温かかった。

 

 この壁の向こうで、人間たちが寝ている。その体温が、壁を通して、少しだけこっちに染みてきている。

 

 私は、壁越しの温かさにお腹を押し当てて、いびつなとぐろを巻いた。

 

 不思議な気分だった。

 

 あの人たちは、私を見つけたら、たぶん殺そうとする。

 

 なのに今、あの人たちの体温で、私は温まっている。

 

 壁一枚。

 

 たった壁一枚なのに、ずいぶん遠い。

 

 

――――――――――――――――

種族 :ウェネヌムセルペンス

Lv  :7

状態 :満腹

スキル:【毒牙Lv5】【熱感知Lv2】【隠密Lv3】【毒耐性Lv1】【悪食Lv1】【邪神の種Lv2】

進化 :条件未達成

――――――――――――――――

 

 

 満腹。

 

 そんな表示、初めて見た。

 

 お腹の中のものが、ゆっくり、ゆっくりと溶けていくのを感じながら、私は目を閉じた。……閉じたつもりになった。まぶた、ないけど。

 

◇

 

 ガラガラガラ、という音で、目が覚めた。

 

 まぶしい。

 

 シャッターが、上がっていた。朝の光が、倉庫の床に四角く差し込んでいる。

 

「うわ、くっせ。……ん?」

 

「どうした」

 

「内臓のたらい、空になってねえか? 昨日いっぱいだったろ」

 

「ネズミだろ」

 

「ネズミがあの量食うかよ」

 

 足音が、二つ。三つ。倉庫の中に入ってくる。

 

 私は、段ボールの陰で、息を殺した。

 

 逃げなきゃ。

 

 体を動かそうとして——動かなかった。

 

 お腹が、重い。朝の冷えで、体がこわばっている。這おうとしても、ずる、と少し滑るだけ。

 

 ……うそでしょ。

 

「おい、待て」

 

 若い男の人の声がした。

 

「……なんかいる。奥だ」

 

 足音が、止まった。

 

 それから、ゆっくりと、こっちに向かってきた。

 

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