蛇喩経 作:kp3kp3
車の下は、思っていたより悪くなかった。
昼の日差しを吸ったアスファルトが、お腹の下からじんわりと温かい。頭の上には車体があって、左右はタイヤ。背中を見られる心配もない。
ただ、一つだけ問題があった。
ここが、人間の目と鼻の先だということ。
駐車場の向こう、バリケードの隙間から、ときどき人が出入りしている。鉄パイプを持った男の人。バケツを提げた女の人。みんな疲れた顔をしていて、でも、足取りは慣れていた。
——おい、近くになんかいるぞ。
——あ? サーチか?
あのときの声を思い出して、鱗がきゅっと縮こまった。
そうだ。人間には、ああいうスキルがある。私の熱感知みたいに、隠れているものを見つける何かが。
今、見つかったら。
傷はまだ治りきっていない。飛びかかると脇腹が引き攣れる。あのときみたいに瓦礫の隙間まで逃げ切れるかと聞かれたら、正直、自信がない。
……帰ろうかな。
そう思ったのと同時に、風向きが変わった。
血と、脂と、肉のにおいが、舌の上にどっと押し寄せてくる。
お腹の底が、きゅうっと鳴った。気がした。
……うん。もうちょっとだけ、様子を見よう。
【隠密】は、動かなければ効く。だったら、ここでじっとしていればいい。待つのは得意だ。この一週間で、たぶん人生で一番得意になった。人生というか、蛇生というか。
◇
じっとしているあいだに、分かったことがいくつかあった。
まず、においの元は、正面の入り口じゃない。
バリケードのある正面から、建物の横をぐるっと回った先。裏手のほうから、においが流れてくる。
昼すぎ、二人の男の人が、何か大きなものを引きずってそっちへ向かった。茶色い毛の、脚の長い獣。頭には、ジャキジャキした殺意マシマシの角。
あのときの鹿の仲間だ。……たぶん。
「今日のは脂のってんなあ」「解体すんの誰だっけ」
楽しそうな声が、建物の陰に消えていく。
つまり、あっちに、肉を捌いて置いておく場所がある。
それから、屋上。
手すりのところに、洗濯物が干してあった。Tシャツ、タオル、小さな靴下。風にぱたぱたと揺れている。
小さな靴下。子どもも、いるんだ。
夕方が近づくと、屋上の煙が少し濃くなった。そして、風に乗って、別のにおいが降りてきた。
ご飯のにおいだった。
お米が炊けるときの、あの、甘いような湯気のにおい。
……あ。
胸の奥が、変な風にぎゅっとなった。
家族の顔も、家の場所も、何も思い出せないのに。このにおいは覚えてる。
でも風が吹いて、そのにおいが消えて、あとに残ったのは、血と生の肉のにおいだけだった。
そっちの方が美味しそうに感じてしまうのが、今の私だ。
舌を出す。血。脂。
お腹が空いた。
……うん。やっぱり今の私が食べたいのは、こっちだ。
◇
日が沈んだ。
ここで、一つ困ったことに気がついた。
人間が寝静まるのは、夜。
私が動けなくなるのも、夜。
……詰んでない?
人間が寝るのを待っていたら、私の体が冷え切ってしまう。冷えたら、動けない。動けないまま見つかったら、今度こそ終わりだ。
お腹の下のアスファルトに、意識を向ける。
まだ、ほんのりと温かい。
昼のあいだにたっぷり日を浴びたアスファルトは、日が沈んでもすぐには冷えない。ボンネットは夜になった途端に冷たくなるのに、地面はしばらく熱を溜めこんでいる。この一週間、毎晩寝床を探して這い回りながら、なんとなく覚えたことだった。
つまり、勝負は、地面が冷え切るまで。
人間が寝静まって、でも地面はまだ温かい。その間。
屋上の話し声が、少しずつ減っていく。明かりが、一つ、また一つと消えていく。
お腹の下の温かさも、少しずつ、少しずつ減っていく。
屋上の最後の明かりが、消えた。
——今。
車の下から、車の下へ。十回くねって、止まって、舌を出す。
建物の角を曲がると、においが一気に濃くなった。
裏手は、トラックが荷物を下ろすための場所になっていた。搬入口、っていうんだっけ。灰色のシャッターが三つ並んでいて、そのうち一つだけ、下の方が少し開いている。木の板が挟まっていて、完全には閉まらないようにしてあった。
においは、そこから漏れてきていた。
そして、そのシャッターの横に。
赤い熱のかたまりが、一つ。
パイプ椅子に座った男の人だった。膝の上に金属バット。足元にはドラム缶があって、中で火がちろちろ燃えている。見張り、なんだと思う。
男の人は、大きなあくびをした。
……いいな、ドラム缶。あったかそう。
じゃなくて。
壁沿いに進めば、ドラム缶の明かりが届かない影がある。シャッターまでは、車三台分くらい。
私は、壁と地面の隙間に体をぴったりつけて、這い出した。
ゆっくり。ゆっくり。
動いている間は【隠密】が効かない。だから、動くのは男の人がドラム缶の方を見ているときだけ。こっちを向いたら、止まる。
這う。止まる。這う。止まる。
だるまさんが転んだ、みたいだった。命がけの。
あと、車一台分。
そのとき、男の人がふっと顔を上げた。
「……ん?」
体が、固まった。
男の人は、椅子に座ったまま、きょろきょろと首を回した。懐中電灯を持ち上げて、あたりをぐるっと照らす。
光の輪が、地面を滑ってくる。
私の、すぐ手前まで。
動くな。動くな。動くな。
今の私は、壁のしみ。ただのしみ。コンクリートのひび割れ。
光の輪が、私の尻尾の先をかすめて——通り過ぎた。
「……気のせいか」
男の人は、懐中電灯を下ろして、またあくびをした。
「ネズミだろ、どうせ。あーあ、交代まだかよ……」
……心臓が口から出るかと思った。
私は、残りの距離をじりじりと詰めて、シャッターの隙間に頭を差し込んだ。
狭い。でも、通れる。
体をくねらせて、するりと、中へ。
◇
中は、真っ暗だった。
熱感知にも、ほとんど何も映らない。コンクリートの床と壁の、くすんだ灰色。
なのに、においだけは、すごかった。
舌を一回出しただけで、頭の中がにおいでいっぱいになる。血、脂、肉、それから、少し酸っぱいような、甘いような、腐りかけのにおい。
目の前に、あるはずなのに。熱感知では、見えない。
死んだものは、冷たいんだ。
舌を頼りに、においの濃い方へ進む。
ぶつかったのは、プラスチックの大きなたらいだった。縁に巻きついて登って、中を覗き込む。
ぬるっとしたものが、たくさん詰まっていた。
内臓だ。解体したときに出た、捨てる部分。人間は、ここは食べないらしい。
……いただきます。
一口目を飲み込んだ瞬間、体の奥がかっと熱くなった。
『捕食により体力が回復しました』
二口目。三口目。
『捕食により体力が回復しました』
脇腹の引き攣れが、ほどけていく。ずっと残っていた鈍い痛みが、すうっと引いていく。
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状態 :正常
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治った。
猫にやられてから、初めて、どこも痛くない。
……よかった。本当に、よかった。
ここで帰っていれば、よかったのかもしれない。
でも、口が止まらなかった。
たらいの向こうで、小さな熱がちょろちょろと動いた。
ネズミだった。前脚の長い、いつものやつ。人間の食料を盗みに来たらしい。
同業者だ。
私はたらいの縁から、頭を落とすように噛みついた。ネズミは声も上げずに、ころんと転がった。
『個体〈クロアカムース〉を撃破しました』『経験値を獲得しました』『レベルが上がりました Lv6→Lv7』
ここは今夜、私の貸し切りなので。同業他社はつぶすに限る。
ネズミも、ついでに飲み込んだ。
奥には、もっとあった。
天井から下がったフックに、皮を剥がれた大きな肉のかたまりがいくつも吊るされている。昼間の鹿も、たぶんあそこにいる。さすがに大きすぎて、吊るされたままじゃ無理だ。
でも、その下。床に広げたブルーシートの上に、切り分けた肉や骨がごろごろ転がっていた。小さな切れ端。筋の多いところ。骨にこびりついた肉。
人間にとっては、たぶん、残りもの。
私にとっては、ごちそうの山だった。
食べた。
食べて、食べて、食べた。
ちょっと古くて、においがきつくなりかけた切れ端も、平気で喉を通った。
『スキル【悪食Lv1】を獲得しました』
【悪食Lv1】 腐敗したものを食べても腹を壊しにくい。
あると便利の代表みたいなスキルかもしれない。
お腹がいっぱいになっていく感覚は、ちゃんとあった。体の真ん中あたりが、ずっしりと重くなっていく。
なのに、止まらない。
もっと。もっと食べないと。
食べられるときに、食べられるだけ。そうしないと、次はいつ食べられるか分からない。この一週間で、身をもって知ったことだ。
ブルーシートの端に、細長いかたまりが一つ転がっていた。
獣の脚だった。膝から下の、細い脚。先には蹄がついている。
その足首に、何かが食い込んでいた。
毛に埋もれて、泥で汚れて、ほとんど色も分からない。でも、よく見れば分かる。
ピンク色の、ゴムだった。
私は、舌を出したまま、しばらく動けなかった。
……誰かが、ふざけて付けたのかな。
人間が、解体するときに、目印か何かで。
そういうことにした。
気がつくと、私の体は、とんでもないことになっていた。
お腹の真ん中あたりが、ぽっこりと膨らんでいる。いや、ぽっこりなんてかわいいものじゃない。靴下にじゃがいもを詰め込んだみたいな形だった。
ツチノコか?
……食べすぎた。
完全に、食べすぎた。
とりあえず、帰ろう。
シャッターの隙間まで這っていく。這う、というより、ずるずると引きずる。お腹が重くて、床に擦れる。
隙間に、頭を差し込む。首が通る。胴体の前半分が通る。
そして、お腹で止まった。
……。
入るときは、通れたのに。
ぐいっと押し込んでみる。つっかえる。もう一回。つっかえる。シャッターが、ガシャ、と小さく鳴った。
外で、男の人が「ん?」と言うのが聞こえた。
私は、全力で後ろに下がった。
◇
シャッターから離れた床の上で、私はとぐろを……巻けなかった。お腹がじゃまで、きれいに巻けない。いびつな輪っかになって、転がっていた。
そして、寒かった。
コンクリートの床は、外のアスファルトよりずっと冷たい。体の芯から、熱がどんどん逃げていく。
ここで、嫌なことを思い出した。
蛇は、食べたあとに体が冷えると、うまく消化ができない。そのまま冷え続けると、お腹の中のものが傷んでしまうから、吐き戻す——らしい。
生物の先生の雑談。今のところ、百発百中で役に立っている。先生、ありがとう。名前も顔も思い出せないけど。
……吐くのは、嫌だ。
せっかく食べたのに。こんなに食べたのに。もったいない。
あったかいところ。あったかいところに行かなきゃ。
熱感知に、意識を集中する。
倉庫の奥に、扉があった。
建物の中へ続く扉。その下の隙間から、ほんのりと、温かい空気が漏れていた。
私は、ずるずると扉まで這っていって、隙間に顔を寄せた。
温かい。
そして、隙間の向こうに、見えた。
赤い熱のかたまりが、たくさん。
横になって、並んでいる。ゆっくりと上下している。寝息の、リズムで。
大きいのも、小さいのも。
……人間だ。
この扉の向こうで、みんな、寝ているんだ。
たくさんの人が集まって寝ている場所は、温かい。人間の体温と、毛布と、誰かが焚いた火の名残り。その温かさが、扉の隙間から、じんわりと私の顔を撫でていく。
あったかい。
あっちに行けば、あったかい。
胸の奥で、ざわざわが、大きくなった。
お腹はいっぱいのはずなのに。それとは違う、何か。熱いものが、欲しい。あの赤いかたまりが、欲しい。
あれ一人で、どれくらい——
私は、扉から顔を離した。
だめだ。
ここから先は、だめ。
この扉を越えたら、戻れなくなる気がした。
扉から目をそらすと、横の壁際に、段ボールが積み上げてあった。その陰に、潜り込む。
壁に、体をぴったりとくっつける。
コンクリートの壁は、ほんのりと温かかった。
この壁の向こうで、人間たちが寝ている。その体温が、壁を通して、少しだけこっちに染みてきている。
私は、壁越しの温かさにお腹を押し当てて、いびつなとぐろを巻いた。
不思議な気分だった。
あの人たちは、私を見つけたら、たぶん殺そうとする。
なのに今、あの人たちの体温で、私は温まっている。
壁一枚。
たった壁一枚なのに、ずいぶん遠い。
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種族 :ウェネヌムセルペンス
Lv :7
状態 :満腹
スキル:【毒牙Lv5】【熱感知Lv2】【隠密Lv3】【毒耐性Lv1】【悪食Lv1】【邪神の種Lv2】
進化 :条件未達成
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満腹。
そんな表示、初めて見た。
お腹の中のものが、ゆっくり、ゆっくりと溶けていくのを感じながら、私は目を閉じた。……閉じたつもりになった。まぶた、ないけど。
◇
ガラガラガラ、という音で、目が覚めた。
まぶしい。
シャッターが、上がっていた。朝の光が、倉庫の床に四角く差し込んでいる。
「うわ、くっせ。……ん?」
「どうした」
「内臓のたらい、空になってねえか? 昨日いっぱいだったろ」
「ネズミだろ」
「ネズミがあの量食うかよ」
足音が、二つ。三つ。倉庫の中に入ってくる。
私は、段ボールの陰で、息を殺した。
逃げなきゃ。
体を動かそうとして——動かなかった。
お腹が、重い。朝の冷えで、体がこわばっている。這おうとしても、ずる、と少し滑るだけ。
……うそでしょ。
「おい、待て」
若い男の人の声がした。
「……なんかいる。奥だ」
足音が、止まった。
それから、ゆっくりと、こっちに向かってきた。