蛇喩経   作:kp3kp3

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第9話

 足音が、近づいてくる。

 

 一歩。また一歩。

 

 段ボールの隙間から、光が差し込んでくる。朝の光と、懐中電灯の光。

 

 動け。動け、私の体。

 

 尻尾の先に力を込める。ずる、と少しだけ床を擦った。それだけだった。朝の冷えた空気が、体の芯まで染み込んでいて、筋肉が言うことを聞かない。

 

 お腹が、重い。

 

 昨日の夜、あんなに幸せだったお腹が、今は石みたいに重い。

 

「この辺だ。段ボールの、裏」

 

 若い男の人の声が、すぐ上から降ってきた。

 

 積み上げてあった段ボールが、一つ、どかされる。

 

 また一つ。

 

 光が、私の体を真上から照らした。

 

「……蛇だ」

 

「は? 蛇?」

 

 顔が、三つ。私を覗き込んでいた。

 

 一人は、ひょろっとした若い男の人。たぶん、この人がサーチの持ち主だ。一人は、バケツを持った中年の男の人。

 

 そしてもう一人は、見覚えがあった。

 

 体格のいい、大きな男の人。前にこのモールに来たとき、鹿を仕留めて「これで6だ」とガッツポーズをしていた人だ。

 

「うわ、腹パンパンじゃねえか」

 

「こいつか。たらい空にしたの」

 

「一匹で? どんだけ食ってんだよ」

 

 呆れたような声。それから、大きな男の人が、足元に転がっていた鉄パイプを拾い上げた。

 

 あ。

 

 死ぬ。

 

「シャアアアッ!」

 

 鎌首をもたげようとした。できなかった。持ち上がったのは、首の先っぽだけ。威嚇というより、ちょっと顔を上げただけみたいになった。

 

 鉄パイプが、持ち上がる。

 

 死にたくない。

 

 死にたくない、死にたくない、死にたくない——!

 

 その瞬間、お腹の奥で、何かがひっくり返った。

 

 喉の奥から、せり上がってくる。止められない。止めようとも思わなかった。体が、勝手にそうした。

 

 昨日の夜食べたものが、全部、床の上に戻ってきた。

 

「うおっ!?」

 

「吐いた! こいつ吐いたぞ!」

 

「くっせえええ!」

 

 三人が、一斉に飛びのいた。

 

 体が、軽くなった。

 

 今しかない。

 

 私は、床を蹴るように体をくねらせた。軽い。さっきよりずっと動ける。段ボールの陰から飛び出して、シャッターの方へ——

 

 遅い。

 

 体が、冷たい。軽くはなったけど、冷えた筋肉は、いつもの半分も速く動いてくれない。

 

 ガシャン、と金属の音がして、首の後ろを何かに挟まれた。

 

「捕まえた!」

 

 火ばさみだった。ゴミを拾うときに使う、あの長い金属のはさみ。それが、私の頭のすぐ後ろを、がっちりと挟んでいた。

 

 体をよじる。尻尾で床を叩く。挟まれた首を支点に、体がぶらんと宙に持ち上がる。

 

 噛めない。首が固定されていて、牙がどこにも届かない。

 

「毒あるかもしれねえから気をつけろよ」

 

「分かってるって。……で、どうする。やるか?」

 

 大きな男の人が、もう一度、鉄パイプを持ち上げた。

 

 私は、宙吊りのまま、それを見ていた。

 

「待て」

 

 声がしたのは、倉庫の入り口からだった。

 

 白髪交じりの、年配の男の人が立っていた。腕を組んで、私の方をじっと見ている。

 

「弱ってんだろ、そいつ」

 

「まあ……吐いてるし、動きも鈍いっすね」

 

「なら生かしとけ。チビどものレベル上げに使う」

 

 ——レベル上げ。

 

 その言葉が、冷えた頭の中に、すとんと落ちてきた。

 

◇

 

 私は、衣装ケースに入れられた。

 

 透明で、半分くらい白く濁った、プラスチックの衣装ケース。人間だった頃、たぶん部屋の押し入れにあったのと同じようなやつ。

 

 火ばさみで放り込まれて、すぐに蓋を閉められた。蓋の上に、どすん、と重いものが置かれる音がする。米袋か何かだと思う。

 

 それから、ドライバーのようなもので、蓋にいくつか穴が開けられた。

 

「息できねえと死ぬからな。死んだら経験値入んねえし」

 

 親切なのか、そうじゃないのか、よく分からない理由だった。

 

 ケースごと持ち上げられて、揺られて、どこかに運ばれていく。倉庫を出て、扉をくぐって。

 

 昨日の夜、私が越えなかった、あの扉。

 

 越えちゃった。こんな形で。

 

 ケースが置かれたのは、建物の中の、狭い部屋だった。物置、みたいな場所だと思う。段ボールと、折りたたんだパイプ椅子と、掃除用具。

 

 倉庫よりは、ずっと暖かかった。

 

 ……それが、少しだけ複雑だった。

 

◇

 

 ケースの中で、私はとぐろを巻いた。

 

 今度は、ちゃんと巻けた。お腹に何も入っていないから。

 

 あんなに食べたのに。全部、吐いてしまった。

 

 もったいない、と思った。思ってから、自分で少し笑いそうになった。

 

 今、それを気にする?

 

 壁の向こうから、話し声が聞こえてきた。さっきの人たちの声だ。

 

「——で、誰にやらせる?」

 

「タクミんとこの坊主はもう3だろ。ミナミちゃんも2になったし」

 

「じゃあ、残ってるの……」

 

 少しだけ、間があった。

 

「こはるだろ」

 

「……あの子に蛇とか、無理じゃない?」

 

 女の人の声だった。少し困ったような。

 

「無理でもやらせんだよ」

 

 年配の男の人の声が、きっぱりと言った。

 

「あの子、まだ1だぞ。次にまた中にモンスターが入ってきたとき、1じゃ死ぬ。いつまでも大人が守ってやれるわけじゃねえ」

 

「そうだけど……」

 

「あの子は、自分の身は自分で守れるようにしとかねえと。……一人なんだから」

 

 誰も、言い返さなかった。

 

 私は、ケースの中で、じっとそれを聞いていた。

 

 なんだろう。

 

 ひどいことを言われてるはずなのに、ひどい人たちだとは、思えなかった。

 

 あの人たちは、私を経験値としか思っていない。それは、初めてここに来た日から知っている。

 

 でも、それは、子どもを生かすための経験値だった。

 

 私だって、生きるためにネズミを食べた。鳥を食べた。三つ目のカラスを、食べきれないのに殺した。

 

 ……同じだ。

 

 同じだから、文句が言えない。

 

 それが、一番悔しかった。

 

 しばらくして、扉が開く音がした。

 

 足音が、二つ。一つは大きくて、重い。もう一つは、小さくて、軽い。

 

 熱感知に、赤いかたまりが二つ映る。大きいのと、小さいの。

 

 小さいのは、大きいのの後ろに、半分隠れていた。

 

「ほら、こはる。これだ」

 

 年配の男の人の声だった。

 

「蛇……」

 

 細い、小さな声がした。

 

「毒があるかもしれねえから、手は入れるなよ。蓋の上から、これで刺せばいい」

 

 かちゃ、と金属の音。たぶん、何か尖ったもの。

 

「……い、今?」

 

「今じゃなくていい」

 

 年配の男の人は、少しだけ声を和らげた。

 

「覚悟が決まったらでいい。それまで、お前が世話しろ。エサは倉庫の余りもんでいい。逃がすなよ」

 

「……うん」

 

「……悪いな。でもな、お前のためだ」

 

 大きい方の熱が、扉の向こうに消えた。

 

 小さい方の熱だけが、残った。

 

 しばらくは何も起こらなかった。

 

 小さい熱は、扉の近くで立ち止まったまま動かなかった。

 

 それから、そろそろと、一歩ずつ近づいてきた。

 

 ケースの前で、しゃがみ込む気配がした。

 

 白く濁ったプラスチックの向こうに、顔が見えた。

 

 女の子だった。

 

 たぶん、小学校の低学年くらい。前髪が長くて、目が半分くらい隠れている。大きすぎるトレーナーの袖が、手の甲まで垂れていた。

 

 足元を見ると、小さな靴下を履いていた。

 

 女の子は、両膝を抱えて、じっと私を見ていた。

 

 私も、じっと見返した。

 

 そういえば、人間とこんなに近くで見つめ合ったのは、いつ以来だろう。

 

「……こんにちは」

 

 女の子が、小さな声で言った。

 

 ……こんにちは。

 

 返事をしようとして、ちろっと舌が出た。

 

 女の子の肩が、びくっと跳ねた。それから、ちょっとだけ身を乗り出した。

 

「……べろ、出た」

 

 出ました。

 

「長いね」

 

 女の子は、トレーナーの袖で口元を隠して、少しだけ、ほんの少しだけ、目を細めた。笑ったのかもしれない。

 

「わたし、こはる」

 

 知ってる。さっき、聞こえた。

 

「あなたは?」

 

 ……私は。

 

 私は、なんだっけ。

 

 名前が、出てこなかった。当たり前だ。ずっと思い出せないままなんだから。今までは、それでも別に困らなかった。呼ぶ人が、誰もいなかったから。

 

「……って、名前あるわけないか。へびだもんね」

 

 女の子——こはるちゃんは、少しだけ首をかしげて立ち上がった。

 

 それから、こはるちゃんは一度部屋を出ていって、しばらくして戻ってきた。

 

 手に、紙皿を持っていた。上には、小さな肉の切れ端が、いくつか乗っていた。

 

「倉庫の、余ってるやつ。……食べる?」

 

 こはるちゃんは、米袋をよいしょと横にずらして、蓋をほんの少しだけ開けた。指が二本入るくらいの隙間。

 

 そこから、割り箸でつまんだ肉の切れ端が、そろそろと差し込まれてきた。

 

 割り箸が、ぷるぷる震えていた。

 

 私は、ケースの中で頭をもたげた。

 

 肉のにおい。それから、そのすぐ上に、もう一つのにおい。

 

 あったかい、においだった。

 

 割り箸を持つ、こはるちゃんの指。熱感知で見ると、指先まで赤くて、あたたかい。

 

 ——近い。

 

 今、私が頭を伸ばせば。割り箸じゃなくて、その先の指に、牙が届く。

 

 即効性の毒。三つ目のカラスが、一噛みで落ちた毒。

 

 この子は、Lv1だ。

 

 胸の奥で、ざわざわが動いた。

 

 お腹が空いている。昨日の分を、全部吐いてしまったから。空っぽのお腹の底から、あの熱くて抑えきれない何かが、ゆっくりと這い上がってくる。

 

 あったかい。

 

 あれ一人で、どれくらい——

 

 私は、割り箸の先の肉だけを、そっと咥えた。

 

 肉を引き抜いて、ケースの底に戻る。飲み込む。

 

 こはるちゃんが、ふうっと息を吐いた。

 

「……食べた」

 

 食べました。

 

「よかったぁ……」

 

 こはるちゃんは、割り箸を持ったまま、へにゃっと座り込んだ。

 

 たぶん、ずっと緊張していたんだと思う。噛まれるかもしれないって。

 

 二つ目の切れ端が、差し込まれる。さっきより、ほんの少しだけ、割り箸の震えが小さい。

 

 咥えて、引き抜いて、飲み込む。

 

 三つ目。四つ目。

 

 紙皿が空になると、こはるちゃんは蓋を閉めて、米袋を元の位置に戻した。

 

 それから、またケースの前にしゃがみ込んだ。

 

 両膝を抱えて、白く濁ったプラスチック越しに、私を見る。

 

「あのね」

 

 小さな声だった。

 

「わたしね、あなたのこと、ころさなきゃいけないんだって」

 

 知ってる。

 

 さっき、聞こえた。

 

「……ごめんね」

 

 こはるちゃんは、それだけ言って、膝に顔をうずめた。

 

 私は、ケースの中で、とぐろを巻いたまま、それを見ていた。

 

 謝られても、困る。

 

 困るけど。

 

 こうなってから、誰かに謝られたのは、初めてだった。

 

 

――――――――――――――――

種族 :ウェネヌムセルペンス

Lv  :7

状態 :正常

スキル:【毒牙Lv5】【熱感知Lv2】【隠密Lv3】【毒耐性Lv1】【悪食Lv1】【邪神の種Lv2】

進化 :条件未達成

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