蛇喩経 作:kp3kp3
足音が、近づいてくる。
一歩。また一歩。
段ボールの隙間から、光が差し込んでくる。朝の光と、懐中電灯の光。
動け。動け、私の体。
尻尾の先に力を込める。ずる、と少しだけ床を擦った。それだけだった。朝の冷えた空気が、体の芯まで染み込んでいて、筋肉が言うことを聞かない。
お腹が、重い。
昨日の夜、あんなに幸せだったお腹が、今は石みたいに重い。
「この辺だ。段ボールの、裏」
若い男の人の声が、すぐ上から降ってきた。
積み上げてあった段ボールが、一つ、どかされる。
また一つ。
光が、私の体を真上から照らした。
「……蛇だ」
「は? 蛇?」
顔が、三つ。私を覗き込んでいた。
一人は、ひょろっとした若い男の人。たぶん、この人がサーチの持ち主だ。一人は、バケツを持った中年の男の人。
そしてもう一人は、見覚えがあった。
体格のいい、大きな男の人。前にこのモールに来たとき、鹿を仕留めて「これで6だ」とガッツポーズをしていた人だ。
「うわ、腹パンパンじゃねえか」
「こいつか。たらい空にしたの」
「一匹で? どんだけ食ってんだよ」
呆れたような声。それから、大きな男の人が、足元に転がっていた鉄パイプを拾い上げた。
あ。
死ぬ。
「シャアアアッ!」
鎌首をもたげようとした。できなかった。持ち上がったのは、首の先っぽだけ。威嚇というより、ちょっと顔を上げただけみたいになった。
鉄パイプが、持ち上がる。
死にたくない。
死にたくない、死にたくない、死にたくない——!
その瞬間、お腹の奥で、何かがひっくり返った。
喉の奥から、せり上がってくる。止められない。止めようとも思わなかった。体が、勝手にそうした。
昨日の夜食べたものが、全部、床の上に戻ってきた。
「うおっ!?」
「吐いた! こいつ吐いたぞ!」
「くっせえええ!」
三人が、一斉に飛びのいた。
体が、軽くなった。
今しかない。
私は、床を蹴るように体をくねらせた。軽い。さっきよりずっと動ける。段ボールの陰から飛び出して、シャッターの方へ——
遅い。
体が、冷たい。軽くはなったけど、冷えた筋肉は、いつもの半分も速く動いてくれない。
ガシャン、と金属の音がして、首の後ろを何かに挟まれた。
「捕まえた!」
火ばさみだった。ゴミを拾うときに使う、あの長い金属のはさみ。それが、私の頭のすぐ後ろを、がっちりと挟んでいた。
体をよじる。尻尾で床を叩く。挟まれた首を支点に、体がぶらんと宙に持ち上がる。
噛めない。首が固定されていて、牙がどこにも届かない。
「毒あるかもしれねえから気をつけろよ」
「分かってるって。……で、どうする。やるか?」
大きな男の人が、もう一度、鉄パイプを持ち上げた。
私は、宙吊りのまま、それを見ていた。
「待て」
声がしたのは、倉庫の入り口からだった。
白髪交じりの、年配の男の人が立っていた。腕を組んで、私の方をじっと見ている。
「弱ってんだろ、そいつ」
「まあ……吐いてるし、動きも鈍いっすね」
「なら生かしとけ。チビどものレベル上げに使う」
——レベル上げ。
その言葉が、冷えた頭の中に、すとんと落ちてきた。
◇
私は、衣装ケースに入れられた。
透明で、半分くらい白く濁った、プラスチックの衣装ケース。人間だった頃、たぶん部屋の押し入れにあったのと同じようなやつ。
火ばさみで放り込まれて、すぐに蓋を閉められた。蓋の上に、どすん、と重いものが置かれる音がする。米袋か何かだと思う。
それから、ドライバーのようなもので、蓋にいくつか穴が開けられた。
「息できねえと死ぬからな。死んだら経験値入んねえし」
親切なのか、そうじゃないのか、よく分からない理由だった。
ケースごと持ち上げられて、揺られて、どこかに運ばれていく。倉庫を出て、扉をくぐって。
昨日の夜、私が越えなかった、あの扉。
越えちゃった。こんな形で。
ケースが置かれたのは、建物の中の、狭い部屋だった。物置、みたいな場所だと思う。段ボールと、折りたたんだパイプ椅子と、掃除用具。
倉庫よりは、ずっと暖かかった。
……それが、少しだけ複雑だった。
◇
ケースの中で、私はとぐろを巻いた。
今度は、ちゃんと巻けた。お腹に何も入っていないから。
あんなに食べたのに。全部、吐いてしまった。
もったいない、と思った。思ってから、自分で少し笑いそうになった。
今、それを気にする?
壁の向こうから、話し声が聞こえてきた。さっきの人たちの声だ。
「——で、誰にやらせる?」
「タクミんとこの坊主はもう3だろ。ミナミちゃんも2になったし」
「じゃあ、残ってるの……」
少しだけ、間があった。
「こはるだろ」
「……あの子に蛇とか、無理じゃない?」
女の人の声だった。少し困ったような。
「無理でもやらせんだよ」
年配の男の人の声が、きっぱりと言った。
「あの子、まだ1だぞ。次にまた中にモンスターが入ってきたとき、1じゃ死ぬ。いつまでも大人が守ってやれるわけじゃねえ」
「そうだけど……」
「あの子は、自分の身は自分で守れるようにしとかねえと。……一人なんだから」
誰も、言い返さなかった。
私は、ケースの中で、じっとそれを聞いていた。
なんだろう。
ひどいことを言われてるはずなのに、ひどい人たちだとは、思えなかった。
あの人たちは、私を経験値としか思っていない。それは、初めてここに来た日から知っている。
でも、それは、子どもを生かすための経験値だった。
私だって、生きるためにネズミを食べた。鳥を食べた。三つ目のカラスを、食べきれないのに殺した。
……同じだ。
同じだから、文句が言えない。
それが、一番悔しかった。
しばらくして、扉が開く音がした。
足音が、二つ。一つは大きくて、重い。もう一つは、小さくて、軽い。
熱感知に、赤いかたまりが二つ映る。大きいのと、小さいの。
小さいのは、大きいのの後ろに、半分隠れていた。
「ほら、こはる。これだ」
年配の男の人の声だった。
「蛇……」
細い、小さな声がした。
「毒があるかもしれねえから、手は入れるなよ。蓋の上から、これで刺せばいい」
かちゃ、と金属の音。たぶん、何か尖ったもの。
「……い、今?」
「今じゃなくていい」
年配の男の人は、少しだけ声を和らげた。
「覚悟が決まったらでいい。それまで、お前が世話しろ。エサは倉庫の余りもんでいい。逃がすなよ」
「……うん」
「……悪いな。でもな、お前のためだ」
大きい方の熱が、扉の向こうに消えた。
小さい方の熱だけが、残った。
しばらくは何も起こらなかった。
小さい熱は、扉の近くで立ち止まったまま動かなかった。
それから、そろそろと、一歩ずつ近づいてきた。
ケースの前で、しゃがみ込む気配がした。
白く濁ったプラスチックの向こうに、顔が見えた。
女の子だった。
たぶん、小学校の低学年くらい。前髪が長くて、目が半分くらい隠れている。大きすぎるトレーナーの袖が、手の甲まで垂れていた。
足元を見ると、小さな靴下を履いていた。
女の子は、両膝を抱えて、じっと私を見ていた。
私も、じっと見返した。
そういえば、人間とこんなに近くで見つめ合ったのは、いつ以来だろう。
「……こんにちは」
女の子が、小さな声で言った。
……こんにちは。
返事をしようとして、ちろっと舌が出た。
女の子の肩が、びくっと跳ねた。それから、ちょっとだけ身を乗り出した。
「……べろ、出た」
出ました。
「長いね」
女の子は、トレーナーの袖で口元を隠して、少しだけ、ほんの少しだけ、目を細めた。笑ったのかもしれない。
「わたし、こはる」
知ってる。さっき、聞こえた。
「あなたは?」
……私は。
私は、なんだっけ。
名前が、出てこなかった。当たり前だ。ずっと思い出せないままなんだから。今までは、それでも別に困らなかった。呼ぶ人が、誰もいなかったから。
「……って、名前あるわけないか。へびだもんね」
女の子——こはるちゃんは、少しだけ首をかしげて立ち上がった。
それから、こはるちゃんは一度部屋を出ていって、しばらくして戻ってきた。
手に、紙皿を持っていた。上には、小さな肉の切れ端が、いくつか乗っていた。
「倉庫の、余ってるやつ。……食べる?」
こはるちゃんは、米袋をよいしょと横にずらして、蓋をほんの少しだけ開けた。指が二本入るくらいの隙間。
そこから、割り箸でつまんだ肉の切れ端が、そろそろと差し込まれてきた。
割り箸が、ぷるぷる震えていた。
私は、ケースの中で頭をもたげた。
肉のにおい。それから、そのすぐ上に、もう一つのにおい。
あったかい、においだった。
割り箸を持つ、こはるちゃんの指。熱感知で見ると、指先まで赤くて、あたたかい。
——近い。
今、私が頭を伸ばせば。割り箸じゃなくて、その先の指に、牙が届く。
即効性の毒。三つ目のカラスが、一噛みで落ちた毒。
この子は、Lv1だ。
胸の奥で、ざわざわが動いた。
お腹が空いている。昨日の分を、全部吐いてしまったから。空っぽのお腹の底から、あの熱くて抑えきれない何かが、ゆっくりと這い上がってくる。
あったかい。
あれ一人で、どれくらい——
私は、割り箸の先の肉だけを、そっと咥えた。
肉を引き抜いて、ケースの底に戻る。飲み込む。
こはるちゃんが、ふうっと息を吐いた。
「……食べた」
食べました。
「よかったぁ……」
こはるちゃんは、割り箸を持ったまま、へにゃっと座り込んだ。
たぶん、ずっと緊張していたんだと思う。噛まれるかもしれないって。
二つ目の切れ端が、差し込まれる。さっきより、ほんの少しだけ、割り箸の震えが小さい。
咥えて、引き抜いて、飲み込む。
三つ目。四つ目。
紙皿が空になると、こはるちゃんは蓋を閉めて、米袋を元の位置に戻した。
それから、またケースの前にしゃがみ込んだ。
両膝を抱えて、白く濁ったプラスチック越しに、私を見る。
「あのね」
小さな声だった。
「わたしね、あなたのこと、ころさなきゃいけないんだって」
知ってる。
さっき、聞こえた。
「……ごめんね」
こはるちゃんは、それだけ言って、膝に顔をうずめた。
私は、ケースの中で、とぐろを巻いたまま、それを見ていた。
謝られても、困る。
困るけど。
こうなってから、誰かに謝られたのは、初めてだった。
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種族 :ウェネヌムセルペンス
Lv :7
状態 :正常
スキル:【毒牙Lv5】【熱感知Lv2】【隠密Lv3】【毒耐性Lv1】【悪食Lv1】【邪神の種Lv2】
進化 :条件未達成
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