川崎沙希と結婚することになった。
家庭科の授業で。
「……なんであんたなの」
「それは俺の台詞だ」
川崎が心底嫌そうな顔でこちらを見る。
失礼な奴である。
まあ俺も同じ顔をしている自信があるので、お互い様と言えばお互い様だ。
机の上には一枚のプリント。
上部にはでかでかと、
『将来の家庭生活を設計してみよう』
と書いてある。
これだけならまだいい。
問題はその下だ。
『二人一組になり、夫婦を想定した生活設計を作成すること』
高校二年生に何をやらせているのだろう。
少子化対策を教育現場にまで押しつけるのはやめていただきたい。まず俺に配偶者が存在するという前提からして非現実的である。
しかもペアはくじ引き。
俺が引いた番号は十三。
十三番を引いたもう一人が川崎だった。
「ヒキタニ君、サキサキと新婚じゃん!」
少し離れた席から戸部が笑っている。
「誰が新婚だ」
「戸部、うるさい」
俺と川崎の声がほぼ同時に飛ぶ。
「うわ、もう息合ってんじゃん!」
死ねばいいのに。
川崎も同じことを考えていそうな目をしていた。
「静かにしなさい。これはあくまで生活設計の授業です」
教師の声で教室が少し静まる。
「結婚そのものを考える授業ではありません。二人で生活した場合に、収入、支出、家事、仕事などをどう分担するか。現実的に考えてください」
なるほど。
それなら少しは理解できる。
恋だの愛だのより、家賃と光熱費のほうがよほど俺向きだ。
プリントを見る。
最初の項目。
『世帯構成』
「二人でいいよね」
「課題なんだからな」
「じゃあ二人」
川崎が書き込む。
『夫 比企谷八幡』
『妻 川崎沙希』
そして。
二人とも止まった。
「……」
「……」
印刷された文字の横に並んだ自分たちの名前が、思った以上に破壊力を持っていた。
「何だこれ」
「知らないよ」
「気持ち悪いな」
「それあたしに言ってる?」
「状況に言ってる」
「ならいいけど」
いや、よくはない。
文字にしただけで妙に現実味が出る。
比企谷八幡。
川崎沙希。
二つ並んでいるだけなら出席簿と変わらないはずなのに、頭に『夫』『妻』と付くだけで犯罪臭がする。
「次」
川崎がプリントを指で送る。
『居住形態』
「賃貸」
俺は即答した。
「早いね」
「高校生の分際で住宅ローン組もうとするな」
「別に持ち家って言ってないでしょ」
「じゃあ賃貸」
「場所は?」
「千葉」
「広い」
「学校の近く」
「卒業してる設定でしょ、これ」
「そうだった」
いきなり人生設計が破綻した。
「駅から近いほうがいい」
川崎が言う。
「家賃上がるぞ」
「でも働くなら便利でしょ」
「お前、働くの?」
「働くでしょ」
「専業主婦という選択肢は」
「あたしにはないかな」
言い切る。
まあ、川崎らしい。
「じゃあ俺が専業主夫」
「は?」
「俺の将来の夢だ」
「聞いたことあるけど、本気だったの?」
「本気も本気。俺は家という名の聖域を守護する」
「言い方だけ壮大にしても無職だからね」
「専業主夫を無職呼ばわりするとは何事だ。家事労働を舐めるな」
「いや、ちゃんと家事するなら別にいいけど」
「する」
「料理は?」
「一通り」
「洗濯」
「できる」
「掃除」
「できる」
「買い物」
「特売日を把握するところからが買い物だ」
川崎が黙った。
「……何だよ」
「いや」
俺の顔をまじまじと見る。
「思ったより使えるなって」
「夫の評価として最低だぞ」
「夫って言うな」
川崎が素早く周囲を見る。
幸い誰も聞いていなかったらしい。
若干耳が赤い。
こいつでもこういうの気にするんだな。
意外だ。
「じゃあ」
川崎が少し考えながらペンを動かす。
『夫――家事中心』
『妻――就業』
「本当に書くのかよ」
「あんたが言ったんでしょ」
「そうだが」
「それに」
川崎は何でもないことみたいに続ける。
「あんたが家のことやってくれるなら、結構助かりそうだし」
ペン先が止まった。
何だ。
今の。
別に大したことは言っていない。
課題上の話だ。
仮定。
シミュレーション。
架空の家庭。
なのに一瞬だけ、妙に具体的な映像が頭をよぎった。
俺が夕飯を作って。
川崎が帰ってきて。
『ただいま』とか言って。
……ない。
ないない。
何だその新婚コマーシャル。
俺の脳は疲れている。
「比企谷?」
「何でもない」
「そう」
危ない。
家庭科恐るべし。
*
次の欄。
『月収を想定し、一か月の家計を作成しましょう』
「手取りいくらにする?」
「二十五万」
「リアルだな」
「新卒ならそんなもんじゃないの」
「知らん。俺は働きたくない」
「あたし一人で二十五万?」
「頼んだ」
「別れるよ」
「早いよ!」
結婚から二十分で離婚危機である。
「じゃあ俺も働く」
「最初からそうしなよ」
「でもフルタイム共働きだと家事分担が」
「あたしもやるよ」
「お前、仕事して帰って飯作るのか?」
「毎日は無理かもだけど」
「それなら俺が作る」
「……」
川崎が俺を見る。
「何だ」
「いや。あんたって意外と」
「何だよ」
「何でもない」
「言いかけてやめるな」
「別に」
出た。
女子の『別に』は信用できない言葉ランキングで常に上位に君臨している。
ちなみに男子の『大丈夫』も信用してはいけない。
特に徹夜明けの大学生と、上司に詰められている会社員の大丈夫はほぼ大丈夫ではない。
「食費は?」
「四万」
「二人で?」
「自炊すればいけるだろ」
「外食は?」
「月二回」
「少なっ」
「贅沢は敵だ」
「あんた絶対モテないでしょ」
「既知の事実を新情報みたいに言うな」
川崎が少し笑う。
「じゃあ月三回」
「増えた」
「給料日くらい外で食べてもいいじゃん」
「まあ、その程度なら」
「何その許可する側みたいな言い方」
「家計担当ですので」
「あ、そう」
川崎がプリントに書き込む。
『外食 三回』
その数字の横に、小さく何かを書く。
「何書いた」
「別に」
「見せろ」
「いいでしょ」
身体を少し傾けると、川崎がプリントを隠した。
一瞬だけ見えた。
『給料日』
わざわざ丸で囲ってある。
「楽しみにしてんじゃねえか」
「うるさい」
「かわいいところあるな」
「……は?」
しまった。
口から出た。
「いや、違う」
「何が違うの」
「語彙選択ミス」
「そう」
川崎が前を向いた。
耳がさっきより赤い。
俺もたぶん多少赤い。
最悪だ。
今すぐ窓を開けて冬の外気を顔面に叩き込みたい。
*
「次、家事分担」
川崎の声が少しだけ早い。
話題を変えたいらしい。
俺も全面的に賛成だ。
『料理』
『洗濯』
『掃除』
『ゴミ出し』
『買い物』
『その他』
「料理は俺」
「毎日?」
「お前がやりたい日以外」
「じゃあ基本あんた」
「洗濯も俺」
「待って」
「何だ」
「全部取らないでよ」
「やりたいのか?」
「一緒に住んでて何もしないの嫌でしょ」
その言い方。
一緒に住んでて。
まただ。
課題の話なのに、いちいち言葉だけ具体的すぎる。
「なら掃除半分」
「どう分ける?」
「部屋ごと」
「リビングは?」
「交代」
「風呂は?」
「俺」
「トイレ」
「俺」
「なんで面倒なの全部取るの」
「お前、仕事してんだろ」
「だからって」
「専業主夫志望を舐めるな」
「共働きになったじゃん」
「俺はパート」
「いつ決まったのそれ」
「今」
「勝手すぎる」
川崎が呆れながらも、ペンを動かす。
不思議なことに、話し合いはかなり速かった。
料理。
洗濯。
掃除。
買い物。
互いに嫌なことと、できることを言えばいい。
どちらも妙な遠慮をしないから揉めない。
由比ヶ浜なら相手に合わせすぎるかもしれない。
雪ノ下なら完璧な家事計画が完成しそうだが、俺の怠惰が許される気がしない。
川崎は。
「朝弱い?」
「弱い」
「じゃあ朝ご飯あたしやる」
「お前は?」
「普通」
「なら頼む」
「弁当は?」
「俺」
「作れんの?」
「小町の作ることある」
「へえ」
「何だ」
「いいお兄ちゃんじゃん」
「知ってる」
「自分で言うなよ」
ただ、川崎とは妙に早い。
たぶん、似ているところがあるのだ。
家に誰かがいる生活を知っている。
自分だけの都合で動けないことも知っている。
家事は誰かがやらなければ勝手には終わらないし、金は使えば減る。
そんな当たり前のことを、俺たちは二人とも知っている。
「……なんか」
川崎がぽつりと言った。
「何?」
「普通に暮らせそうだね」
またペンが止まった。
川崎自身も気づいたらしい。
「あ」
「……」
「いや、課題の話」
「分かってる」
「そう」
「……」
「……」
何なんだこの授業。
教師は俺たちに何を学ばせようとしている。
家庭生活についてか。
それとも羞恥心の限界についてか。
*
次。
『夫婦で大切にしたいことを一つずつ書きましょう』
急に抽象的になった。
「何だこれ」
「知らない」
「金銭感覚」
「現実的すぎるでしょ」
「大事だぞ。離婚原因にもなる」
「高校生が何を語ってんの」
「テレビで見た」
「じゃああんたはそれでいいじゃん」
俺は書く。
『無理に合わせない』
川崎が覗き込む。
「何それ」
「そのまま」
「夫婦なのに?」
「夫婦だからじゃないの」
「……」
「何でも同じにする必要ないだろ。食いたいものも、やりたいことも、寝たい時間も違う。いちいち合わせてたら疲れる」
「それはそうだけど」
「一緒にいられるところだけ一緒にいればいい」
自分で言っていて、何か既視感がある。
人間関係というのは本来その程度でいいはずなのだ。
常に一緒。
何でも共有。
秘密はなし。
そんなもの、宗教か監視社会と大差ない。
「川崎は?」
「まだ」
少し考える。
やがて川崎が書いた。
『ちゃんと帰る』
「……何だそれ」
「そのまま」
「家出防止?」
「違う」
川崎がペンを置く。
「仕事とか、付き合いとか、いろいろあるじゃん」
「まあな」
「遅くなるなら連絡する。それだけ」
「普通じゃね?」
「普通でいいんだよ」
川崎はプリントを見たまま言う。
「帰ってくるか分かんない人を待つの、嫌じゃん」
それ以上は言わなかった。
こいつの家庭事情を、俺は多少知っている。
だから余計なことは聞かない。
「じゃあ」
「何?」
「俺が遅くなるときは連絡する」
川崎が顔を上げた。
「……課題だぞ」
「知ってるよ」
「架空の話」
「知ってるって」
「ならいいけど」
「お前もな」
「何が」
「遅くなるなら連絡」
「……うん」
声が、さっきより小さかった。
*
「最後の欄を書いたペアから提出してください」
教師の声。
ようやく終わる。
そう思って下を見る。
最後。
『十年後の二人は、どんな家庭にしたいですか』
「重い」
「重いね」
「適当に書くか」
「そうしよ」
俺はペンを持つ。
だが案外、書けない。
幸せな家庭。
笑顔の絶えない家庭。
温かい家庭。
そういう模範解答はいくらでも浮かぶ。
だが自分で書くと気持ち悪い。
「川崎、何書いた」
「まだ」
「参考にする」
「自分で考えなよ」
「カンニングとは教育の効率化だ」
「ただの不正だから」
川崎が書き始める。
俺から見えないように手で隠している。
「何で隠すんだよ」
「先書いて」
「嫌だ」
「じゃあ終わらないじゃん」
「……」
仕方ない。
俺は書いた。
『帰りたくなる家』
短い。
我ながら抽象的。
でもまあ。
他に思いつかなかった。
「書いた」
「見せて」
「嫌だ」
「あたしに見せろって言ったでしょ」
「それとこれとは別」
「子どもかよ」
プリントを引っ張られる。
「おい」
川崎が読む。
「……」
「笑うなよ」
「笑ってない」
「なら返せ」
「意外」
「何が」
「あんた、家好きだもんね」
「俺の城だからな」
「そういう意味じゃなくて」
川崎は少しだけ笑った。
「でも、いいんじゃない」
「お前は?」
「もう書いた」
プリントを返してくる。
俺は川崎の欄を見る。
『気を使わなくていい家』
「……」
妙に似ていた。
俺の『帰りたくなる家』。
川崎の『気を使わなくていい家』。
示し合わせたわけではない。
そもそも互いに見せずに書いた。
「似てんな」
「……そうだね」
「これなら先生ウケもいいんじゃないか」
「そこ?」
「内申は大事だぞ」
「あんた本当に雰囲気壊すよね」
「雰囲気って何だ」
「知らない」
川崎がプリントを取る。
提出しようとして。
止まった。
「まだある」
「何が」
用紙の一番上。
小さな空欄。
『家庭の姓』
「何これ」
「課題上どちらかに統一しろって最初に言ってた」
「聞いてなかった」
「寝てた?」
「人生に不要な情報を脳が排除した」
「今必要になってるじゃん」
「川崎でいいだろ」
「何で」
「俺の苗字、よく読み間違えられるし」
「川崎なんて日本中にいるよ」
「珍しいよりいい」
「じゃああんたが川崎になるの?」
「課題上な」
川崎がペンを持つ。
そして。
『川崎八幡』
『川崎沙希』
と書いた。
二人で見る。
「……」
「……」
「微妙だな」
「なんか弟みたい」
「大志の兄になった気分だ」
「やめて」
「じゃあ比企谷」
「え」
「嫌なら別に」
「嫌とは言ってない」
消しゴムで消す。
川崎が書き直す。
『比企谷八幡』
その下。
ペン先が一瞬止まる。
そして、
『比企谷沙希』
と書いた。
「……」
「……」
これは。
駄目だ。
川崎八幡より百倍駄目だ。
何が駄目なのか説明できないが、とにかく駄目だ。
「……変」
川崎が言う。
「おう」
「すごい変」
「おう」
「なんか……」
言葉を探す。
「生々しい」
「それだ」
「言うなよ!」
「お前が言いかけたんだろ!」
川崎が慌ててプリントを伏せた。
遅い。
見てしまった。
比企谷沙希。
ただの文字列。
家庭科の課題。
意味なんてない。
なのに頭から消えてくれない。
「消す?」
川崎が訊く。
「どっちでも」
「……」
「川崎でもいいし」
「……」
「何だよ」
「じゃあ」
少しだけ間があった。
「これでいい」
「比企谷?」
「課題なんだし。もう書き直すの面倒」
「まあな」
そう。
面倒だから。
それだけ。
絶対それだけである。
*
授業が終わった。
プリントは回収された。
つまり今この世のどこか――正確には家庭科教師の手元に、
『夫 比企谷八幡』
『妻 比企谷沙希』
と書かれた公的ではないが教育上は正式な文書が存在している。
燃やしたい。
「ヒッキー!」
教室を出ようとしたところで由比ヶ浜に呼び止められた。
「何だ」
「サキサキと何話してたの?」
「家庭科」
「それは見れば分かるけど!」
「家賃とか食費とか」
「えっ」
「家事分担とか」
「えっ」
「あと名字」
「名字!?」
食いつく場所そこかよ。
「課題だからな」
「どっちにしたの?」
「何が」
「名字!」
「比企谷」
由比ヶ浜が固まった。
「……サキサキが?」
「課題上」
「比企谷……沙希?」
「わざわざ言うな」
「え、えええ……」
「だから課題だっつってんだろ」
「分かってるけど! 分かってるけどなんか!」
何なんだ。
「由比ヶ浜さん、廊下で騒がないでもらえるかしら」
雪ノ下まで来た。
「ゆきのん! ヒッキーとサキサキが結婚した!」
「してない」
「……比企谷君」
「そのゴミを見る目をやめろ」
「とうとう現実と妄想の区別まで失ったのね」
「家庭科の課題!」
一から説明する。
雪ノ下は聞き終えると、納得したように頷いた。
「つまり、仮想の家庭生活を設計したのね」
「そう」
「それで川崎さんが比企谷姓を選択したと」
「何でそこだけ強調する」
「事実確認よ」
「顔が楽しそうだぞ」
「気のせいでしょう」
「ゆきのん絶対楽しんでる!」
由比ヶ浜が言う。
「でも」
雪ノ下が顎に手を添える。
「意外と合理的な組み合わせかもしれないわね」
「どこが」
「二人とも家族に対する責任感は強いでしょう。それに生活能力も比較的高い」
「やめろ」
「川崎さんなら比企谷君の腐った性根にも一定期間は耐えられるでしょうし」
「期間限定かよ」
「永続的に耐えられる人間がいると思うの?」
「そこは否定しろよ」
由比ヶ浜が黙っている。
「由比ヶ浜?」
「え?」
「何か言いたそうだが」
「べ、別に!」
また別に。
今日はこれで何回目だ。
*
放課後。
教室を出たところで、後ろから呼ばれた。
「比企谷」
「ん?」
川崎だった。
「これ」
一枚の紙を差し出してくる。
「何だ」
「さっきのプリント、先生がコピーくれた」
「なぜ」
「来週、この内容で短いレポート書くんだって」
「聞いてないぞ」
「あんた本当に授業聞いてないね」
受け取る。
コピーされた紙。
当然そこには。
『比企谷沙希』
も残っている。
「……」
「見るなよ」
「無茶言うな」
「そこじゃなくて」
「じゃあどこを見るんだよ」
「他にもあるでしょ」
確かに。
家賃。
収入。
食費。
家事分担。
帰りたくなる家。
気を使わなくていい家。
二人で適当に作ったはずの架空の生活。
なのに。
改めて見ると、かなり細かい。
朝は川崎。
夜は俺。
休日は交代。
給料日は外食。
遅くなるなら連絡。
「なあ」
「何」
「これ」
「うん」
「割と普通に成立してるな」
「……」
川崎がプリントを見る。
「そうだね」
「もっと破綻すると思ってた」
「失礼だな」
「俺自身の人生設計が破綻してるから」
「それは知らない」
「冷たい」
「でも」
川崎が紙の端を持った。
俺も反対側を持っている。
一枚の紙を二人で眺める形になる。
距離が近い。
制服の袖が触れそうで触れない。
「さっきの」
「何」
「帰りたくなる家ってやつ」
「ああ」
「……いいと思う」
「そうか」
「うん」
顔を上げる。
目が合った。
川崎が先に逸らした。
「あと」
「まだあるのか」
「もし、本当にあんたが家事やるなら」
「仮定が強いな」
「最後まで聞けよ」
「はい」
少しだけ睨まれる。
「仕事から帰って」
「おう」
「ご飯できてたら」
「おう」
「……結構、嬉しいと思う」
今度こそ。
何も返せなかった。
俺が黙ったせいで、川崎も黙る。
廊下を歩く生徒の声。
運動部の掛け声。
窓から差す夕方の光。
全部いつも通りなのに。
俺の心拍だけが、いつも通りではない。
「……課題の話?」
やっとそれだけ言う。
川崎は俺を見た。
「さあ」
「おい」
「自分で考えれば」
「そういう投げ方ずるいだろ」
「知らない」
川崎が歩き出す。
「じゃあね」
「おう」
二、三歩進んで。
川崎が止まった。
「比企谷」
「何だ」
振り返る。
「遅くなるなら」
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ笑って。
「ちゃんと連絡してよね」
「連絡先知らねえよ」
「……あ」
今度は二人とも止まった。
「……」
「……」
先ほどまでの雰囲気が全部死んだ。
「台無しだな」
「誰のせいだよ」
「お前だろ」
「あんたでしょ!」
川崎が鞄からスマホを出す。
「出して」
「何を」
「スマホ」
「なぜ」
「連絡できないでしょ」
「課題はもう終わったぞ」
「来週レポートあるって言ったじゃん」
「ああ」
なるほど。
レポート。
それなら仕方ない。
実に合理的な理由である。
俺もスマホを出す。
数十秒後。
連絡先に一件増えた。
『川崎沙希』
ただの四文字。
それだけだ。
「じゃ、必要なことあったら連絡する」
「おう」
川崎がまた歩き出す。
スマホが震えた。
目の前を歩いている川崎からメッセージ。
『テスト』
「口で言えよ」
川崎が振り返らずに片手を上げる。
俺は返信する。
『届いた』
すぐ既読。
また一件。
『じゃあ帰る』
俺は少し考える。
そして。
『ちゃんと帰れよ』
送る。
川崎の足が止まった。
ゆっくりこちらを向く。
顔が。
明らかに赤い。
「……比企谷」
「課題の設定だろ」
「……」
「帰ってくるか分かんない人を待つの嫌なんだろ?」
「……」
「だから」
そこまで言ったところで。
「ばか」
一言。
川崎は今度こそ歩いていった。
返事は来なかった。
*
その夜。
小町が風呂に入っている間、スマホが震えた。
川崎。
『帰った』
「……」
わざわざ報告する必要はない。
課題のレポートとも関係ない。
明日学校で会う。
それでも。
少しだけ。
本当に少しだけ。
嬉しかった。
『おう』
送信。
五秒。
『それだけ?』
「何を求めてるんだよ……」
考える。
『おかえり』
送る。
既読。
返事が来ない。
一分。
二分。
やらかしたかもしれない。
何だ、おかえりって。
俺は誰だ。
夫か。
家庭科の課題に脳を破壊されている。
メッセージを消したい。
しかし送信取消などしたら余計に意識しているみたいで気持ち悪い。
三分後。
震えた。
『ただいま』
それだけ。
たった四文字。
俺は画面を伏せた。
見ていられなかったからだ。
「……家庭科怖え」
誰もいないリビングで呟く。
次の瞬間。
また震える。
『明日の朝ご飯、何がいい?』
「は?」
続けて。
『課題。レポート用』
絶対嘘だろ。
そう思った。
でも。
『卵焼き』
と返す。
『甘いの?』
『しょっぱいの』
『分かった』
何が分かったんだ。
レポートに卵焼きの味付けを書く欄などない。
*
翌朝。
教室へ入る。
自分の席へ向かう途中。
「比企谷」
川崎に呼ばれる。
「ん?」
小さな包みを差し出された。
「何だこれ」
「余った」
「何が」
「卵焼き」
「……」
「大志の弁当作ったから。そのついで」
「……そうか」
「いらないなら返して」
「いる」
即答した。
川崎が少しだけ笑う。
「しょっぱいやつだから」
「……おう」
席へ向かう。
後ろから戸部の声がした。
「え、ヒキタニ君、サキサキから弁当!?」
「違う」
「違うから」
俺と川崎の声が重なる。
「またそれ!」
昨日と同じ。
何も変わっていない。
付き合っていない。
好きだと言ったわけでもない。
家庭科の課題が一枚あっただけだ。
なのに。
机の中には川崎の作った卵焼き。
スマホには『ただいま』の四文字。
そして教師の手元には、
『比企谷沙希』
と書かれたプリントがある。
俺の青春ラブコメは。
たぶん。
こういうどうでもいいところから、間違い始める。