家庭科の課題で、川崎沙希が比企谷沙希になった。   作:春木椿

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家庭科の課題は、川崎家の台所までついてくる。

 昼休み。

 

 机の中から、朝もらった小さな包みを取り出す。

 

 中身は卵焼き。

 

 しょっぱいやつ。

 

 わざわざ味付けまで指定した覚えがあるので、何となく食べるのに妙な緊張を覚える。

 

 いや、意味が分からない。

 

 卵だぞ。

 

 鶏卵を溶いて焼いただけの食品に、男子高校生の心拍数を上昇させる機能など搭載されていないはずだ。

 

 一つ摘まんで口に入れる。

 

「……」

 

 しょっぱい。

 

 当たり前だ。

 

 昨夜、甘いのとしょっぱいのどちらがいいか聞かれて、俺がそう答えたのだから。

 

 少し濃いめの味付けで、冷めていても普通にうまい。

 

 もう一つ。

 

 もう一つ。

 

 気づけばなくなっていた。

 

「……」

 

 空になった包みを見る。

 

 別に感想を求められたわけではない。

 

 正確には、昨夜朝飯の希望を聞かれただけである。

 

 朝にも「いらないなら返して」と言われたくらいだ。

 

 なら、何も言わなくてもいい。

 

 いいのだが。

 

 スマホを取り出す。

 

 連絡先を開く。

 

『川崎沙希』

 

 昨日までは存在しなかった四文字。

 

 入力欄を開く。

 

『うまかった』

 

 送信。

 

 ……何してんだ俺。

 

 たかが卵焼きの感想をわざわざメッセージで送る必要がどこにある。

 

 しかも同じ教室にいる。

 

 声をかければ十五秒で済む内容を、通信会社の設備を経由して届ける意味が分からない。

 

 現代社会は便利になりすぎた。

 

 人類はそろそろ文明を一段階戻すべきである。

 

 などと責任転嫁していると、少し離れた席で川崎がスマホを手に取った。

 

 画面を見る。

 

 一瞬だけ。

 

 本当に一瞬だけ、こちらを見る。

 

 目が合った。

 

「……」

 

「……」

 

 ほぼ同時に逸らす。

 

 直後、俺のスマホが震えた。

 

『そう』

 

「……」

 

 何だその感想を要求しておいて採点結果には興味ありませんみたいな返事。

 

 いや、要求されてないけど。

 

 改めて川崎を見る。

 

 もうこちらを見てはいない。

 

 ただ。

 

 スマホを伏せる横顔が、文面ほどそっけなくは見えなかった。

 

 ……気のせいだろう。

 

 卵焼き一つで読心術まで身につけてたまるか。

 

     *

 

 放課後。

 

 帰る準備をしていると、川崎が昨日の家庭科プリントのコピーを机に置いた。

 

「レポート、どうする?」

 

「適当に『夫婦で協力することが大切だと思いました』でいいだろ」

 

「小学生の感想文じゃん」

 

「真理に年齢は関係ない」

 

「実際には何もやってないのに?」

 

「シミュレーションはした」

 

「机の上でね」

 

 痛いところを突く。

 

 しかし、学校教育というものはだいたい机の上で完結している。

 

 三角関数を習ったからといって校庭にピラミッドを建設するわけではないし、鎌倉幕府を学んだからといって御家人になる必要もない。

 

 生活設計だって紙の上で十分だろう。

 

 そう思っていると、川崎がコピーに目を落としたまま少し黙った。

 

「……今日さ」

 

「ん?」

 

「あたし夕飯作るんだけど」

 

「おう」

 

「昨日、料理できるって言ってたじゃん」

 

「言ったな」

 

「じゃあ……やってみる?」

 

「何を」

 

「昨日決めたやつ」

 

 昨日決めたやつ。

 

 何だ。

 

 家賃か。

 

 共働きか。

 

 離婚協議か。

 

 最後のは結婚二十分で一度発生したな。

 

 川崎がコピーの家事分担欄を指で叩く。

 

『朝――妻』

『夜――夫』

 

「……夜は俺、ってやつ?」

 

「レポートにも書けるでしょ」

 

「いや、実践しろとは言われてねえぞ」

 

「嫌ならいいけど」

 

「……」

 

 嫌。

 

 かどうかで言えば。

 

「……誰が嫌だと言った」

 

「じゃあ決まり」

 

 川崎がコピーを鞄にしまう。

 

 あっさりしたものだ。

 

 教師に命じられたわけでもない。

 

 提出条件でもない。

 

 ただ、レポートのネタになるから。

 

 実際にやってみた方が書きやすいから。

 

 実に合理的な理由である。

 

 ……たぶん。

 

     *

 

 川崎家の玄関をくぐる。

 

 人の家というのはどうにも微妙に落ち着かない。

 

 靴の置き方一つにも各家庭の文化があり、うっかりすると異文化交流どころか外交問題に発展する。

 

 適当に端へ揃えていると、廊下の向こうから大志が顔を出した。

 

「あ、お兄さん。どうも」

 

「お兄さんって呼ぶな。殺すぞ」

 

「久しぶりに会って一発目それっすか」

 

「久しぶりに会って一発目がお兄さんだからだろ」

 

「はーちゃん!」

 

 ぱたぱたと小さな足音が続いて、けーちゃんがこっちへ走ってくる。

 

「おう、けーちゃん」

 

「なんで京華には優しいんすか」

 

「日頃の行いを省みろ」

 

「俺そんな悪いことしてないっすよね!?」

 

 している。

 

 主に呼称方面で。

 

 けーちゃんは俺の前まで来ると、そのままこちらを見上げた。

 

「はーちゃん、あそぶ?」

 

「今日は遊びに来たわけじゃない」

 

「じゃあなにするの?」

 

 答えるより先に、後ろで靴を脱いでいた川崎が言った。

 

「はーちゃん、今日ご飯作るんだって」

 

「ほんと!?」

 

「何で俺が単独で担当する話になってるんだ」

 

「あんたの担当でしょ。夜」

 

「……」

 

「……」

 

 夜。

 

 単語だけ抜き出すと非常によろしくない。

 

 いや、何がよろしくないのか自分でもよく分からないが、少なくとも高校生男女が玄関先で交わす会話として健全な響きではない。

 

「夜?」

 

 案の定、大志が食いついた。

 

「何でもない」

 

「絶対なんかある言い方じゃないすか」

 

「ない」

 

「ねー、はーちゃん、ごはんつくるの?」

 

「らしいぞ」

 

「けーちゃんもやる!」

 

「包丁持たない範囲でな」

 

「やった!」

 

 けーちゃんが先に台所へ駆けていく。

 

 その背中を川崎が追う。

 

 大志はまだ何か言いたげだったが、俺は無視して後に続いた。

 

     *

 

 献立は生姜焼き、味噌汁、それと簡単な副菜。

 

 何の変哲もない夕飯である。

 

 だが家庭料理というものはそれでいい。

 

 毎晩フレンチのフルコースが出てきたら三日目には白米と味噌汁を求めて暴動が起きる。

 

「キャベツ使って」

 

 川崎が冷蔵庫を開けながら言う。

 

「どれ」

 

「下」

 

「ああ」

 

 野菜室からキャベツを取り出す。

 

「肉、先に焼く?」

 

「けーちゃんの分だけ先に分けるなら、その方がいいだろ」

 

「そっか」

 

 川崎が肉を並べる横で、俺はキャベツを刻む。

 

 けーちゃんは少し離れたところで、任命された重大任務――レタスをちぎる係――に従事している。

 

「はーちゃん、これくらい?」

 

「でかい。もう半分」

 

「こう?」

 

「そう」

 

「できた!」

 

「よくできました」

 

「ねえ、なんで俺との差そんなあるんすか?」

 

 いつの間にか大志が入口に立っていた。

 

「まだいたのか」

 

「俺ん家っすよ!」

 

「味噌汁お願い」

 

 川崎がこちらを見る。

 

「具は」

 

「豆腐とわかめ」

 

「ネギは?」

 

「けーちゃんは少なめ」

 

「細かくするか」

 

「うん」

 

 鍋に出汁を張る。

 

 豆腐を切る。

 

 わかめを戻す。

 

 その間に川崎は肉へ下味をつけ、副菜の準備へ移っている。

 

「そっちのボウル」

 

「これか」

 

「うん」

 

「醤油どこ」

 

「右の上」

 

「これ?」

 

「それ」

 

 初めて入る台所なので、物の場所だけは分からない。

 

 それ以外は妙に話が早かった。

 

 一から十まで確認しなくてもいい。

 

 必要なことだけ言えば通じる。

 

 川崎も余計な遠慮をしない。

 

 俺も別に気を使わない。

 

 昨日、紙の上で家事分担を決めたときもそうだった。

 

 できること。

 

 嫌なこと。

 

 誰がやった方が早いか。

 

 その辺を言えば、それで済む。

 

 ……楽だな。

 

 ふと、そんな感想が浮かんだ。

 

 誰かと一緒に何かをするのは、もっと面倒なものだと思っていた。

 

 相手の顔色を読んだり、仕事を奪わないよう気を使ったり、やり方の違いで揉めたり。

 

 集団作業とはコミュニケーション能力という名の追加税を徴収される制度である。

 

 だが今のところ、その税率が低い。

 

「比企谷、味噌」

 

「今入れる」

 

「火止めてからね」

 

「知ってる」

 

「一応」

 

「信用がない」

 

「初めて人んちの味噌汁作る奴を全面的に信用する方が怖いでしょ」

 

「それはそう」

 

 そして、そういうところも楽だった。

 

     *

 

「そういや、お兄さん」

 

「お兄さん言うな」

 

 大志がまた台所を覗いている。

 

 さっきからちょくちょく来るなこいつ。

 

 姉の同級生男子が家で料理している光景がそんなに珍しいのか。

 

 珍しいな。

 

「今日、何しに来たんすか?」

 

「家庭科」

 

「……家庭科?」

 

 大志が真顔になる。

 

 そりゃそうだ。

 

 人んちの台所で生姜をすり下ろしている高校生男子に「家庭科」と答えられて即座に納得できる人間はたぶんいない。

 

「学校で二人一組になって、夫婦って設定で生活設計する課題があったの」

 

 川崎が肉を返しながら説明する。

 

「夫婦」

 

 大志の眉が上がる。

 

「課題だから」

 

 川崎が即座に付け足した。

 

「で、来週そのレポート」

 

「だから姉ちゃんと料理してるんすか?」

 

「まあ、実際にやった方が書くこと増えるだろ」

 

「別に実践しろとは言われてないけどね」

 

「…………へえ」

 

「何だその顔」

 

「いや別に」

 

 口元が完全に笑っている。

 

「お前の別には川崎の別により信用できねえ」

 

「なんであたしまで巻き込むんだよ」

 

「普段の実績」

 

「何の」

 

「知らん」

 

「適当すぎるでしょ」

 

 大志はまだにやにやしている。

 

 腹立つな。

 

 中学生男子が他人の色恋を嗅ぎつけた時の顔ほど品性に欠けるものはない。

 

 なお高校生男子も大差ないので、これは人類共通の欠陥である。

 

「けーちゃん、お皿出してくれる?」

 

「はーい!」

 

 川崎が話を切る。

 

 大志もそれ以上は何も言わなかった。

 

 ただし顔だけはそのままだった。

 

 絶対ろくでもないこと考えてるだろ、こいつ。

 

     *

 

 しばらくして。

 

 副菜を盛り付けていると、けーちゃんが冷蔵庫を開けた。

 

「たまごやきある?」

 

「朝の残りならあるよ」

 

 川崎が答える。

 

「たべる!」

 

「ご飯前だから一個だけね」

 

「はーい」

 

 小皿に乗せられた卵焼きを、けーちゃんが嬉しそうに頬張る。

 

 何となく見る。

 

 黄色い断面。

 

 見た目は今朝のものと変わらない。

 

 けーちゃんがもう一口食べる。

 

「……甘いのか?」

 

「うん」

 

 川崎が何でもないように答える。

 

「大志も?」

 

「甘い方」

 

「家じゃ基本こっち?」

 

「そうだけど」

 

「……」

 

 待て。

 

 今朝、俺がもらったやつ。

 

 あれは。

 

「じゃあ、今朝の」

 

 川崎の手が一瞬止まった。

 

「……何」

 

「余りじゃなかったんじゃねえの」

 

「余りだよ」

 

「味違うだろ」

 

「……」

 

「大志の弁当のついでって言ってたよな」

 

「作るのはついで」

 

「じゃあ味付けは」

 

「……」

 

 川崎が露骨に視線を逸らした。

 

「だって、あんたしょっぱいのがいいって言ったじゃん」

 

「……そうだな」

 

 それ以上、何も言えない。

 

 言った。

 

 確かに俺が言った。

 

 だから川崎はそうした。

 

 ただそれだけだ。

 

 卵焼きを作ること自体は、大志の弁当のついで。

 

 でも。

 

 家では甘い卵焼きなのに。

 

 俺の分だけ別に味を変えた。

 

 わざわざ。

 

 ……いや。

 

 わざわざとか考えるな。

 

 砂糖を入れるか塩を入れるか程度の差だ。

 

 国家予算を組み替えたわけではない。

 

「はーちゃん?」

 

「何でもない」

 

「たまごやきいる?」

 

「いや、いい」

 

「おいしいよ?」

 

「知ってる」

 

 言ってから気づく。

 

 川崎も気づいたらしい。

 

 こっちを見た。

 

 また目を逸らす。

 

 家庭科怖え。

 

 卵焼きまで攻撃手段にしてくるとは聞いてない。

 

     *

 

「けーちゃんは辛いの駄目」

 

 生姜焼きのタレを確認しながら川崎が言う。

 

「大志は?」

 

「濃いめが好き」

 

「……お前、全員分覚えてんのな」

 

「作ってるからね」

 

 当然みたいに言う。

 

 たぶん、本当に当然なのだろう。

 

 誰が何を食べるか。

 

 誰が何を嫌うか。

 

 何時に帰るか。

 

 家にいる人数が多ければ、そのぶんだけそういう情報が増える。

 

 川崎は普段からそれを覚えて、回している。

 

「で、お前は?」

 

「何が」

 

「何が好きなんだよ」

 

「けーちゃんは――」

 

「違う」

 

 川崎を見る。

 

「お前の」

 

「……」

 

 川崎が止まる。

 

 そんな難しい質問をしたつもりはない。

 

 好きな味を聞いただけだ。

 

 なのに、少し考える。

 

「……生姜、ちょっと強い方が好き」

 

「ふーん」

 

「何その反応」

 

「聞いただけだ」

 

「聞いといてそれ?」

 

「情報を受領しました」

 

「腹立つ」

 

 川崎が呆れたように息を吐く。

 

 俺はタレの残りを見る。

 

 けーちゃんの分はもう先に取ってある。

 

 大志の分は少し濃いめ。

 

 最後に残った一人分へ、すり下ろした生姜を少し足した。

 

 川崎は別の作業をしていて、たぶん見ていない。

 

 別に見せるほどのことでもない。

 

     *

 

「それ、けーちゃんの分先に取って」

 

「薄味な」

 

「うん」

 

「味噌汁そろそろ?」

 

「お願い」

 

「了解」

 

 肉を皿に移す。

 

 川崎が横から千切りキャベツを添える。

 

 俺が味噌汁をよそう。

 

 川崎が箸を並べる。

 

 作業は特に止まらない。

 

 気づけば残っているのは最後の盛り付けくらいだった。

 

「……やっぱ、お兄さんで合ってるんじゃないすか?」

 

 背後から大志の声。

 

「何がだよ」

 

 振り返る。

 

 またあの顔をしている。

 

「いや、前に比企谷さんの妹さん言ってたじゃないすか」

 

「何を」

 

「姉ちゃんと結婚したら、俺から見てもお兄さんになるって」

 

「大志」

 

 川崎の声が低くなる。

 

「いや、だって今、夫婦の課題やってるんでしょ?」

 

「課題上な」

 

「家まで来て」

 

「レポートのためだ」

 

「一緒に飯作って」

 

「実地検証だ」

 

「しかも普通に息合ってるし」

 

「……」

 

 言い返せない。

 

 実際、さっき俺も同じようなことを思った。

 

「大志」

 

 川崎の声がさらに一段低くなる。

 

 見ると、頬が少し赤い。

 

 怒っているのか恥ずかしいのか、たぶん両方だ。

 

「はーちゃん、おにいちゃんになるの?」

 

 けーちゃんが会話に入ってきた。

 

「ならない」

 

 即答する。

 

「なんで?」

 

「なんでと言われても」

 

 困る。

 

 説明しようとすると、前提として結婚という概念から解説しなければならない。

 

 高校生男子に幼児向け結婚講座を担当させるな。

 

「けーちゃん、はーちゃんが姉ちゃんと結婚したら、俺たちのお兄ちゃんになるぞ」

 

 大志が余計な補足を入れる。

 

「大志!」

 

 川崎の頬がさっきより赤くなる。

 

「ほんと?」

 

「ほんとほんと」

 

「嘘教えんな」

 

「いや、そこは本当じゃないすか」

 

「仮定が嘘だっつってんだよ」

 

「そこなんすね」

 

「どこでもいいだろ」

 

 けーちゃんは俺たちのやり取りをきょとんと見ていたが、やがて首を傾げた。

 

「じゃあ、はーちゃんずっとうちいる?」

 

「……」

 

「……」

 

 急に静かになった。

 

 大志の弄りなら殴れば済む。

 

 いや殴らないけど。

 

 けーちゃんの問いには、そういう悪意も含みもない。

 

 ただ、俺がここにいることを普通に受け入れて、その先を聞いているだけだ。

 

「……毎日飯作りに来る気はねえぞ」

 

「たまに?」

 

「……」

 

 けーちゃんが期待に満ちた目で見上げてくる。

 

 やめろ。

 

 幼児の純粋な期待は断りづらい。

 

 営業マンより強い。

 

「……たまになら」

 

「やった!」

 

 けーちゃんが両手を上げる。

 

 横を見る。

 

 川崎がこっちを見ていた。

 

「何だよ」

 

「別に」

 

 またそれだ。

 

 女子の別には信用できない。

 

 ただ今回は、その顔が少しだけ笑っていた。

 

     *

 

「はーちゃん、おいしい!」

 

「そうか」

 

 夕食。

 

 けーちゃんが生姜焼きを頬張って、満足そうに笑う。

 

「普通にうまいっすね、お兄さん」

 

「褒めるか喧嘩売るかどっちかにしろ」

 

「お兄さんはもう諦めてくださいよ」

 

「諦めるか」

 

「何回やるんすか、このくだり」

 

「お前がやめるまでだ」

 

「じゃあ永遠っすね」

 

「殺すぞ」

 

「ほらまた!」

 

 大志が笑う。

 

 けーちゃんもよく分からないまま笑う。

 

 川崎は呆れた顔で、使い終わった調理器具を台所へ戻している。

 

 何だこれ。

 

 妙に普通だ。

 

 もっと人の家の食卓というのは、座る場所一つにも遠慮するものだと思っていた。

 

 しかし、けーちゃんに隣を指定され、大志にはいつも通り絡まれ、川崎には普通に皿を渡されている。

 

 俺だけが勝手に余所者意識を持つ方が不自然なくらいだった。

 

「けーちゃん、お茶いる?」

 

「いるー」

 

「大志、ご飯足りる?」

 

「もう一杯」

 

「自分でやれ」

 

「姉ちゃんが聞いたんじゃん!」

 

「聞いただけ」

 

 川崎が席を立つ。

 

 けーちゃんのコップ。

 

 大志の茶碗。

 

 足りないものを先に見る。

 

 料理をしているときもそうだった。

 

 自分のことは最後。

 

「お前の」

 

 俺は残しておいた皿を川崎の前へ寄せる。

 

「ん」

 

「冷めるぞ」

 

「分かってる」

 

 川崎がようやく座る。

 

 一口。

 

 箸が止まった。

 

 こっちを見る。

 

「何だ」

 

「……これ」

 

「嫌だったか」

 

「いや」

 

 もう一口食べる。

 

「……好き」

 

「……」

 

 俺の箸も止まった。

 

 主語と目的語を省略できる日本語は欠陥言語ではないだろうか。

 

 こういう事故が起きる。

 

 川崎も一拍遅れて気づいたらしい。

 

「味が」

 

「分かってる」

 

「ならいいけど」

 

「……ならまた作る」

 

「……」

 

 今度は川崎が止まった。

 

「……うん」

 

 小さく答える。

 

 それだけ。

 

 次にいつ来るとか。

 

 何を作るとか。

 

 何も決めていない。

 

 なのに、また作ることだけは決まった。

 

 ……レポート、一回で十分なんだけどな。

 

     *

 

 食後。

 

 大志たちは居間へ移り、けーちゃんもそっちへ行った。

 

 台所には俺と川崎だけが残る。

 

 俺が皿を洗い、川崎が拭く。

 

「実地検証終了」

 

「何その実験みたいな言い方」

 

「結果、普通に成立したな」

 

「まあね」

 

「昨日決めた分担、意外と正確だった」

 

「朝あたし、夜あんた」

 

「今日はお前もやってたけどな」

 

「全部任せるわけないじゃん」

 

「設定違反だぞ」

 

「うるさい」

 

 川崎が少し笑う。

 

 俺もたぶん少し笑った。

 

 水の音。

 

 皿が重なる音。

 

 居間から聞こえるテレビと、けーちゃんの笑い声。

 

 さっきまで四人で話していたのに、二人になると妙に静かに感じる。

 

「……でも、楽だった」

 

 川崎がぽつりと言った。

 

「二人でやればな」

 

「そうじゃなくて」

 

 皿を渡す手が止まる。

 

 見る。

 

 川崎もこっちを見ていた。

 

「……あんたがいるの」

 

「……」

 

 まただ。

 

 課題の話なら平気で言えることが、少し現実に近づいただけで急に重くなる。

 

 昨日の。

 

『普通に暮らせそうだね』

 

 あれと似ている。

 

 でも、少し違う。

 

 仮定の家じゃない。

 

 川崎の家で。

 

 本当に夕飯を作って。

 

 本当に食べて。

 

 本当に洗い物をしている。

 

「……俺も」

 

 それだけ返す。

 

 川崎は一瞬黙ってから、また皿を拭き始めた。

 

 俺も洗う。

 

 それ以上は言わない。

 

 言ったらたぶん、何かが変わる。

 

 今はまだ。

 

 課題だから。

 

 それでいい。

 

     *

 

「はーちゃん、またね!」

 

「おう」

 

 玄関でけーちゃんが手を振る。

 

「また来てくださいね、お兄さん」

 

「お兄さん言うな」

 

「まだやるんすか」

 

「お前が言う限りやる」

 

「じゃあまた今度」

 

「来る前提で話すな」

 

「さっき京華にたまにならって言ってたじゃないすか」

 

「……」

 

 余計なところだけ聞いてやがる。

 

「じゃあね」

 

 川崎が言う。

 

「おう」

 

 外へ出る。

 

 扉が閉まる。

 

 歩き出してから、妙な感覚が残った。

 

 人の家から帰っているはずなのに。

 

 思ったより、疲れていない。

 

 むしろ。

 

 ……いや。

 

 考えるのはやめよう。

 

 家庭科に脳を侵食される。

 

     *

 

 帰宅。

 

 自分の部屋に鞄を置く。

 

 スマホを取り出す。

 

 少し迷う。

 

 昨日は川崎から来た。

 

『帰った』

 

 今日は。

 

『帰った』

 

 送信。

 

 すぐ既読。

 

『おかえり』

 

「……」

 

 何だそれ。

 

 昨日俺が送ったやつだ。

 

『お前はずっと家にいただろ』

 

『そうだけど』

 

『何がおかえりだ』

 

 少しして。

 

『あんたが帰ったって送ってきたから』

 

「……」

 

 返せない。

 

 正論である。

 

 帰ったと言われたら、おかえりと返す。

 

 何一つおかしくない。

 

 おかしくないのに。

 

 何でこんなに画面を見ていられないのだろう。

 

 スマホを伏せる。

 

 昨日と逆だ。

 

 今度は俺が帰ったと言って。

 

 川崎がおかえりと言った。

 

 ただそれだけ。

 

 たったそれだけなのに。

 

 家庭科怖え。

 

     *

 

 それから数日。

 

 別に何か特別なことがあったわけではない。

 

 学校では普通に会う。

 

 必要なら話す。

 

 戸部はうるさい。

 

 由比ヶ浜も何か言いたそうな顔をすることがある。

 

 雪ノ下に知られたらまた余計な分析をされそうなので、特に報告する気もない。

 

 ただ。

 

 スマホに表示される四文字が、以前より少し増えた。

 

『今日バイト』

 

 川崎。

 

『遅い?』

 

『ちょっと』

 

『了解』

 

 何を了解したのか自分でもよく分からない。

 

 別の日。

 

『この前言ってた牛乳安い店どこ』

 

『駅前』

 

『いくら』

 

『明日158』

 

『ありがと』

 

 なぜ俺は近隣スーパーの牛乳価格を把握しているのだろう。

 

 専業主夫志望としては当然である。

 

 そういうことにしておく。

 

 さらに別の日。

 

『明日雨らしいぞ』

 

『知ってる』

 

『バイトだろ』

 

『傘ある』

 

『ならいい』

 

 送ってから思う。

 

 何がならいいなのか。

 

 俺は川崎の保護者ではない。

 

 夫でもない。

 

 彼氏でもない。

 

 ただ家庭科のペアになっただけだ。

 

 なのに。

 

 帰宅時間を知っている。

 

 バイトの日を知っている。

 

 牛乳の値段を教えている。

 

 天気まで気にしている。

 

 何をしているんだお前ら。

 

 いや、俺らか。

 

 だが一つ一つには理由がある。

 

 遅くなるなら連絡する、と決めた。

 

 買い物の話をした。

 

 レポートを書くには実際の生活を考えた方がいい。

 

 全部、説明できる。

 

 全部、課題の延長だ。

 

 だから。

 

 別におかしくはない。

 

     *

 

 レポート提出前夜。

 

 机の上には家庭科のコピーと、書きかけのレポート。

 

 実際に夕飯を作ったことまで書いたせいで、内容は思ったより埋まった。

 

『役割を固定しすぎず、状況に応じて協力する』

 

『食事の好みや生活時間を事前に共有する』

 

 我ながら高校生のレポートとしては無駄に具体的である。

 

 原因は明白だ。

 

 実地検証とかいう余計なことをしたからだ。

 

 スマホが震える。

 

 川崎。

 

『帰った』

 

 いつものように。

 

『おかえり』

 

 送る。

 

 すぐ既読。

 

 もう、これにいちいち動揺することも減った。

 

 減っただけで、なくなったわけではない。

 

 少しして。

 

 また震える。

 

『ねえ』

 

『何』

 

 既読。

 

 返事が来ない。

 

 一分。

 

 二分。

 

 何だ。

 

 今度は何を買えばいい。

 

 牛乳か。

 

 卵か。

 

 特売情報なら任せろ。

 

 三分後。

 

 ようやく届いた。

 

『これ、課題終わったらやめる?』

 

「……」

 

 画面を見る。

 

 これ。

 

 何を指しているのかは、聞かなくても分かった。

 

 帰った、の報告。

 

 おかえり、の返事。

 

 バイト。

 

 買い物。

 

 天気。

 

 どうでもいい連絡。

 

 もしかしたら。

 

 一緒に飯を作ることも。

 

 全部。

 

 始まりは家庭科だった。

 

 課題だから連絡先を交換した。

 

 課題だから帰宅を報告した。

 

 課題だから朝飯の好みを聞かれた。

 

 課題だから夕飯を作った。

 

 課題だから。

 

 課題だから。

 

 その言葉があれば、何でも説明できた。

 

 でも。

 

 明日レポートを出せば、それがなくなる。

 

 入力欄を開く。

 

『別に』

 

 違う。

 

 消す。

 

『好きにすれば』

 

 違う。

 

 消す。

 

『やめる必要なくね』

 

 指が止まる。

 

 それを送ったら。

 

 何で、と聞かれるかもしれない。

 

 何で続けたいのか。

 

 その答えを、俺はまだ持っていない。

 

 いや。

 

 持っていないことにしている。

 

 全部消す。

 

 白くなった入力欄。

 

 川崎からのメッセージだけが残る。

 

『これ、課題終わったらやめる?』

 

「……」

 

 結局。

 

 その夜、俺は返事を送れなかった。

 

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