翌朝。
目が覚めた瞬間に、昨夜のメッセージを思い出した。
『これ、課題終わったらやめる?』
「……」
最悪だ。
朝一番に思い出す内容ではない。
人間の脳には睡眠中に記憶を整理する機能があるらしいが、だったらもう少し気を利かせて不要データを消去していただきたい。
昨夜、俺は返事をしなかった。
正確には。
『別に』
と打って消した。
『好きにすれば』
と打って消した。
『やめる必要なくね』
まで打って。
それも消した。
つまり偶然寝落ちしたわけでも、通知を見逃したわけでもない。
考えた。
悩んだ。
その結果、未返信。
「……一番面倒なやつじゃねえか」
朝から自己評価が的確すぎる。
スマホを見る。
昨夜から増えた通知はない。
川崎から追加のメッセージもない。
当たり前だ。
質問を投げた側からさらに追撃する義理はない。
そして今日。
家庭科のレポートを出せば。
あの課題は終わる。
*
教室に入る。
いつもと同じ。
戸部がうるさい。
葉山の周りには人がいる。
由比ヶ浜もいる。
そして。
川崎もいる。
「……」
目が合った。
一瞬。
本当に一瞬。
いつもなら何か言えた。
レポート終わったか、とか。
昨日バイトだったのか、とか。
朝飯食ったか、とか。
そういう生活の話なら、最近は普通にできていた。
なのに今日は。
その間に一行ある。
『これ、課題終わったらやめる?』
川崎が先に目を逸らした。
俺も自分の席へ向かう。
話しかけられない。
何だコレ。
数日前には、川崎家の台所で並んで飯を作ることすら普通にできたのに。
恋愛とか。
そういうものに少し近づいただけで、急に何もできなくなる。
人類は文明を発達させる方向を間違えた。
スマホで数秒あれば人と連絡が取れるようになる前に、こういう場面用の自動応答機能を開発すべきだった。
いや。
たぶんそれを使ったら、それはそれで最低である。
*
昼休み。
机に突っ伏していると、横から声がした。
「昨日の」
「……おう」
顔を上げる。
川崎が立っていた。
いつもの眠たげな目。
いつもの気だるそうな顔。
なのに。
視線が、俺の顔から少し外れている。
「別に、返事いいから」
「いや」
「課題の話だし」
「……」
「今日で終わるし」
川崎は淡々と言う。
「だから、気にしなくていい」
課題。
便利な言葉だ。
ここ数日。
俺たちはずっとそれを使ってきた。
連絡先を交換したのも課題。
帰宅を報告するのも課題。
朝飯の好みを聞くのも課題。
川崎家で飯を作ったのも課題。
何でもそれで説明できた。
そして今度は。
距離を戻す理由にまで使えるらしい。
「……悪い」
結局、出たのはそれだけだった。
川崎は少しだけこっちを見る。
「別に」
そう言って、自分の席へ戻っていく。
また別にかよ。
女子の別には信用できない。
以前ならそう思って終わった。
でも。
今回は、笑えない。
*
午後、最後の授業は家庭科だった。
机の上にはレポート。
先日の生活設計をもとにして書いたものだ。
『役割を固定しすぎず、状況に応じて協力する』
『食事の好みや生活時間を事前に共有する』
我ながら妙に具体的である。
高校生の家庭科レポートというより、入居前の確認事項に近い。
原因は明白。
実際にやったからだ。
川崎家で夕飯を作った。
家族の好みを聞いた。
分担した。
食べた。
洗い物までした。
実地検証という名の余計なことをした結果、レポートだけは無駄に完成度が上がった。
「では、後ろから前へ回してください」
教師の声。
紙が前へ送られていく。
俺のレポートも。
川崎のレポートも。
回収される。
「はい。これで今回の生活設計の課題は終了です」
「……」
終わった。
教師はそのまま次の単元の説明を始める。
当然である。
家庭科教師にしてみれば、ただの授業だ。
夫婦を想定して生活設計をさせた。
レポートを書かせた。
回収した。
終了。
そこに高校生男女の情緒など含まれていない。
含まれていたら困る。
だが。
俺のスマホにはまだ残っている。
『帰った』
『今日バイト』
『この前言ってた牛乳安い店どこ』
『明日雨らしいぞ』
課題は終わった。
でも。
あれは消えない。
*
授業終了。
教科書をしまう。
川崎も同じように鞄へ荷物を入れている。
目が合う。
「終わったね」
「ああ」
「……」
「……」
「じゃあ」
「おう」
川崎が教室を出ていく。
一歩。
二歩。
呼び止めようと思えば呼び止められた。
名字を呼ぶだけだ。
川崎。
たった二文字。
それすら出ない。
扉が閉まる。
「……」
逃げた。
誰が?
俺が。
知ってる。
*
夜、自室。
スマホを見る。
何もない。
机に置く。
しばらくしてまた見る。
何もない。
「……」
何をしているんだ俺は。
時計を見る。
この時間なら、川崎はもう帰っていてもおかしくない。
いや。
そもそも今日はバイトだったか?
最近、それなりに予定を聞いていたせいで、今日の分を知らないことが妙に引っかかる。
気持ち悪い。
別に付き合ってもいない女子の勤務シフトを気にする男子高校生とか、字面だけでもだいぶ危ない。
スマホを見る。
来ない。
『帰った』
が、来ない。
当たり前だ。
昨日、川崎は聞いた。
『これ、課題終わったらやめる?』
俺は答えなかった。
今日。
課題は終わった。
だから川崎はやめた。
何一つおかしくない。
理屈が綺麗すぎる。
綺麗すぎて腹が立つ。
……誰にだ。
一時間ほどして。
またスマホを見る。
「……何で俺が待ってんだ」
来る約束などない。
来なくて困る情報でもない。
川崎が帰ったかどうかなんて、俺の生活には何の影響もない。
飯が減るわけでもない。
電気代が上がるわけでもない。
俺が困る理由は一つもない。
なのに。
気になる。
「……」
入力欄を開く。
『今日遅いのか』
送信。
やってしまった。
もう遅い。
人類は送信取消という機能を発明したが、取り消した事実までは消せない。
数分後。
震える。
『もう帰ってる』
「……」
だったら。
何で報告しなかった。
そう打ちかける。
止める。
そんな権利はない。
彼氏でもない。
家族でもない。
家庭科のペアですら。
もうない。
少しして。
また震える。
『課題終わったよ』
「……」
分かってる。
今日出した。
俺も同じ授業にいた。
だから。
『知ってる』
送る。
すぐ既読。
『じゃあ何』
短い。
逃げ道のない四文字。
何。
何だろうな。
俺にも分からない。
いや、分からないことにしている。
少し考える。
『明日の放課後、時間あるか』
『あるけど』
『飯』
返事が止まる。
数十秒。
やがて。
『レポート?』
俺は画面を見る。
もうレポートはない。
課題もない。
家庭科も関係ない。
それでも。
川崎と飯を食いたい。
『違う』
送る。
既読がついてから、少し待った。
やがて。
『分かった』
「……」
課題の打ち合わせでも、実地検証でもない。
ただ飯を食う約束ができた。
*
翌日。
放課後。
二人で学校を出る。
待ち合わせすらしていない。
同じ学校。
同じ学年。
同じ教室。
授業が終わったら一緒に出ればいい。
極めて合理的だ。
合理的なのだが。
「……」
「……」
これまでと意味が違う。
これまでは家庭科。
レポート。
実地検証。
全部理由があった。
今日は、そんな理由はない。
俺が誘った。
川崎が来た。
それだけだ。
「どこ行くの」
「適当」
「誘っといてノープラン?」
「飯を食うという最重要目的は定まっている」
「店くらい決めなよ」
「民主主義を尊重してお前にも選択権を与えている」
「決めてないだけでしょ」
「そうとも言う」
「そうとしか言わない」
いつもの感じだ。
少し安心する。
何だ。
普通じゃないか。
*
入ったのは、学校帰りに寄れるファミレスだった。
高級でもない。
お洒落でもない。
デートスポット感もない。
だから助かる。
今この状態で恋人御用達みたいな店へ入ったら、注文前に胃もたれする。
「それ頼むの?」
川崎がメニューから顔を上げる。
俺が指差したのは、チーズと目玉焼きを載せたハンバーグだった。
「悪いか」
「いや。あんたそういうの食べるんだと思って」
「俺にも食の自由はある」
「それくらい、自分で作れそうじゃん。専業主夫志望なんでしょ」
「専業主夫にも休日は必要だ」
「まだなってないじゃん」
「先行取得だ」
「何を」
「休暇を」
「最悪」
川崎が少し笑う。
運ばれてきた料理を食べながら、取り留めのない話をする。
学校の話。
大志の話。
けーちゃんの話。
「けーちゃん、また来るって思ってるから」
「誰のせいだ」
「あんたでしょ。たまにならって言ったの」
「あの状況で断れる奴は人間じゃない」
「けーちゃん強いからね」
「川崎家最強だろ」
「否定はしない」
普通だ。
普通すぎる。
昨日あれだけ悩んだのが馬鹿みたいに思える。
こういう話ならできる。
生活の話なら。
家族の話なら。
問題ない。
窓の外が暗くなった頃、空になった皿が下げられた。
「……」
「……」
もう用事がない。
飯は食った。
目的達成。
帰れる。
というか普通は帰る。
なのに。
どちらもすぐには立たなかった。
*
店を出る。
どちらからともなく、川崎の家へ向かう道を歩き出した。
送ると言ったわけでもないのに、並んだまま歩いている。
「で」
「何だ」
「何で呼んだの」
「飯」
「それはもう食べた」
「……」
「レポートでもないんでしょ」
「ああ」
「家庭科も終わった」
「ああ」
「じゃあ何」
「……」
何。
適当な理由ならいくらでも作れる。
食いたかった。
暇だった。
帰る方向が同じだった。
全部使える。
でも、どれも川崎を誘った理由にはならない。
「お前と飯食うのに、理由いるのかよ」
「……」
川崎が止まった。
俺も止まる。
……今俺、何言った?
言葉というものには送信取消がない。
口から出たら終わりである。
「……それ、ずるくない?」
「何が」
「今までずっと課題だからって言ってたじゃん」
「……」
言い返せない。
その通りだ。
何かあるたび。
課題。
課題。
課題。
それで逃げてきた。
川崎がこっちを見る。
「一昨日、送ったやつ」
「……おう」
「結局、返事くれなかったけど」
「ああ」
「課題、昨日で終わったよ」
「知ってる」
「だったら」
少しだけ間。
「もう、やめる?」
「……」
一昨日の夜と同じ問い。
ただし今度は。
画面越しではない。
目の前に川崎がいる。
文字を打って消すこともできない。
逃げられない。
「……やめたくない」
川崎の目が少し開く。
「何を」
「連絡」
「うん」
「帰ったとか」
「うん」
「バイトとか、買い物とか」
「うん」
「お前んち行くのも」
「……うん」
「そういうの全部」
一度、止まる。
あの夜。
送れなかった言葉。
「課題終わったからって、なくなるの嫌だ」
言った。
やっと。
川崎は何も言わない。
ただ。
少しだけ視線を落とした。
「じゃあ」
「何だ」
「何で?」
「……」
「課題じゃないんでしょ」
逃げ道が消える。
友達だから。
そう言えば逃げられる。
たぶん。
クラスメイトだから。
家族ぐるみで知ってるから。
いくらでも言える。
でも。
それでは説明できない。
この前もらった卵焼きが、俺の分だけ別の味付けだったと知って、嬉しかったこと。
川崎の好みを聞いたこと。
川崎家で一緒に飯を作るのが楽だったこと。
『あんたがいるの』
と言われて。
『俺も』
と返したこと。
帰宅報告を待っていたこと。
全部。
「昨日」
「うん」
「お前から帰ったって来なくて」
「うん」
「気になった」
川崎は黙っている。
「帰ったのか」
「……」
「飯食ったのか」
「……」
「バイトだったのか」
「……」
「そういうの」
一度息を吐く。
「知りたいと思った」
喉が乾く。
飯を食ったあとだというのに、やたらと口の中が乾いている。
「たぶん」
言って。
止まる。
違う。
ここでたぶんに逃げたら。
昨日と同じだ。
分からないことにして終わる。
「……川崎が好きだ」
「……」
川崎の表情が止まる。
俺もたぶん止まっている。
恥ずかしい。
逃げたい。
地面に穴があれば入りたい。
なければ掘りたい。
だが。
言った以上、最後まで言う。
「だから」
一度視線を逸らしかける。
戻す。
「課題じゃなくても、俺と一緒にいてくれ」
「……」
「付き合ってほしい」
言った。
全部。
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
長い。
告白後の三秒は通常時間の数時間に相当する。
特殊相対性理論にもそう書いてあった気がする。
やがて。
「……遅い」
「何が」
「返事」
「一昨日は、まだ――」
「それだけじゃなくて」
「……」
「あたしは、もっと前から待ってた」
川崎が少しだけ目を逸らす。
「昨日の昼、返事いらないって言ったけど」
「おう」
「あれ嘘」
「……お前の『別に』に続いて、『返事いらない』も信用ならねえのか」
「うるさい」
川崎が少し笑う。
「返ってこなくて、結構へこんだ」
「悪い」
「ほんとだよ」
「……」
「あたしも終わるの嫌だった」
小さく。
でも、はっきり。
「だから聞いた」
『これ、課題終わったらやめる?』
あの問いは、終わらせるためではなく、続けてもいいかを確かめるためのものだった。
「……あたしも、あんたが好き」
「……」
今度は俺が止まった。
知っていたわけではない。
そうかもしれない。
そうだったらいい。
その程度だった。
実際に言われると。
脳が処理を拒否する。
川崎が少し赤くなりながら続ける。
「付き合う。あんたと」
「……おう」
何だその返事。
自分で言っておいて思う。
もう少しあるだろ。
ありがとうとか。
よろしくとか。
だが。
何も出てこない。
「……」
「……」
成立。
したらしい。
*
「……じゃあ」
「うん」
「帰るか」
「……付き合った直後に?」
「じゃあ何すんだよ」
「知らないけど」
「俺も知らん」
「……」
「……」
おかしい。
十年後の家計。
家事分担。
共働き。
帰宅時間。
朝飯担当。
夕飯担当。
その辺は全部決められた。
なのに。
恋人になって最初の五分間に何をするかが分からない。
「十年後の生活は決められたのにね」
川崎がぽつりと言う。
同じことを考えていたらしい。
「恋人初日の欄はプリントになかった」
「そこまで家庭科に求めるの?」
「実生活に役立つ授業とはそういうものだ」
「そんな授業嫌だよ」
「俺も嫌だ」
川崎が笑う。
俺も少し笑った。
ようやく。
少しだけ普通に戻る。
*
歩き出す。
並ぶ。
近い。
これまでも似たような距離を歩いたことはある。
川崎家の台所ではもっと近かった。
肩が触れそうな距離で作業していた。
なのに。
今。
手が触れそうになるだけで意識する。
何なんだ。
一緒に台所には立てる。
同じ食卓で飯も食える。
帰ったと連絡を取り合うこともできる。
なのに手を繋ぐだけで難易度が跳ね上がる。
交際というシステム。
作業効率を著しく低下させている。
「……」
少し手を出す。
やっぱりやめようとする。
「何」
「いや」
「出したなら最後までやりなよ」
「何だよそのルール」
「知らない」
「知らないのかよ」
それでも。
もう一度手を出す。
川崎がその手を見て、一拍遅れて握ってきた。
「……」
「……」
手。
繋いだ。
ただそれだけ。
高校生男女が手を繋いでいる。
世界では毎日数百万組くらいやっていそうな行為。
なのに妙に緊張する。
少し歩く。
そのまま。
すると。
川崎の指が動いた。
俺の指の間へ入り込む。
絡む。
「……」
「……」
顔を見られない。
川崎も前を向いたままだ。
でも。
離さない。
*
しばらく歩いたあと。
「そういえば」
川崎が言う。
「何だ」
「あんた、前にも似たようなこと言ったよね」
「言ってない」
「まだ何も言ってないけど」
「嫌な予感がした」
「愛してるぜ川崎、だっけ」
停止。
「忘れろ」
「無理」
「何か月前の失言を保存してんだよ。記憶領域の無駄遣いだろ」
「覚えてるんだから仕方ないじゃん」
「今すぐ消せ。今日の告白が全部台無しになる」
川崎が少し笑う。
「今日の方がちゃんとしてたよ」
「比較対象にすんな」
少し歩く。
そこで川崎が、
「……でもさ」
「何だ」
「スカラシップの時もそうだったけど」
俺は川崎を見る。
川崎は前を向いたままだ。
「あんた、ああいうの普通にやるじゃん」
「何が」
「自分には関係ないみたいな顔して、人のこと助けんの」
「普通ではない。結果としてそうなっただけだ」
「そういうとこ」
「どういうとこだよ」
「……」
川崎が少し黙る。
繋いだ手に、わずかに力が入る。
「……あたし、あの時から」
「……」
「あんたのこと、結構気にしてたんだと思う」
歩調が少しだけ緩む。
夏。
予備校。
川崎に礼を言われたこと。
大志のこと。
スカラシップ。
あの時。
俺は川崎がスカラシップを取れたのは本人の力だと言った。
実際そう思っただけだ。
別に格好をつけたつもりもない。
「文化祭であんなこと言われた時も」
「それは忘れろ」
「だから覚えてたんだよ」
「何がだからなんだ」
川崎が少しだけこっちを見る。
「気にしてなかったら、あんなのずっと覚えてないでしょ」
「……」
それは。
まあ。
確かにそうかもしれない。
「じゃあ何だ。俺は知らない間に自分で地雷埋めて、その上を今日踏んだのか」
「知らないよ」
「責任者出せ」
「自分でしょ」
川崎が笑う。
少しして。
「でも、好きだってちゃんと分かったのは最近」
「……家庭科?」
「たぶんね」
「家庭科怖え……」
「またそれ?」
「人生に対する影響力が授業の範囲を超えてる」
川崎はまた笑う。
繋いだ手は。
そのままだった。
*
川崎の家の近く。
そろそろ別れる。
手を離す。
「……」
少し。
惜しい。
などと思ったことは認めたくない。
だがまあ。
事実は事実である。
「じゃあ」
「おう」
川崎が一歩離れる。
「川崎」
「何」
「……また」
「うん」
「飯でも行くか」
「何のため?」
「……」
絶対分かってる。
顔が少し笑っている。
「お前な」
「何」
「性格悪いぞ」
「今さら?」
「開き直るな」
「で?」
「……」
答えあぐねていると、川崎がわざとらしく首を傾げた。
「課題?」
「違う」
「レポート?」
「違う」
「実地検証?」
「違う」
「じゃあ何」
「……デート」
川崎が固まった。
「……そういうの、急に言わないでよ」
「お前が聞いたんだろ」
「だからって」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「知らないけど」
「お前今日それ多いな」
「うるさい」
少し間。
「……うん」
「何が」
「行く」
「……おう」
次。
今度は。
課題ではない。
デート。
自分で言っておいて、破壊力が高い。
「じゃあまた」
「おう」
川崎が家の方へ歩いていく。
今度は呼び止めない。
もう。
次がある。
*
帰宅して、鞄を置く。
スマホを見ると、少し前に川崎からメッセージが届いていた。
『帰った』
「……」
今までと同じ。
『おかえり』
送る。
すぐ既読。
少しして。
もう一通。
『課題終わったけど』
『知ってる』
送る。
また震える。
『じゃあ、これからも?』
「……」
一昨日の夜、
『これ、課題終わったらやめる?』
と聞かれた。
俺は答えられなかった。
何で続けたいのか。
その答えを持っていないことにした。
今日は。
もう違う。
入力。
『続ける』
送信。
消さない。
すぐ既読。
『うん』
それだけ。
机を見る。
家庭科のコピー。
『夫 比企谷八幡』
『妻 比企谷沙希』
まだそこにある。
最初に見たとき。
気持ち悪いと思った。
生々しいと思った。
燃やしたいとまで思った。
これまで。
この紙を、俺たちが連絡を取る理由にしてきた。
家庭科の課題。
それさえ言えば、何も認めずに済んだ。
今日はもう違う。
課題は終わった。
レポートも出した。
家庭科教師にはもう何の関係もない。
それでも明日。
川崎と連絡を取る。
また飯を食う。
今度は。
デートらしい。
「……」
コピーを見る。
夫。
妻。
そこまで行くには、さすがにまだ遠すぎる。
というか付き合った初日にそこを考えるのは気が早いにもほどがある。
だから。
今は。
ただ。
川崎沙希と付き合うことになった。
それだけで十分だ。
寝る前、スマホがもう一度震える。
『おやすみ』
少し迷って。
『おやすみ』
返す。
画面を伏せる。
コピーが目に入る。
「……家庭科、責任取れよ」