授業参観で「脚が速い」と発表されるアーモンドアイ(32) 作:Lagavulin
「ぼくのお母さんは、脚が速いです」
悠が作文を読み始めたとき、アーモンドアイは教室の後ろで少し顎を上げた。
3年生になった長男は、紙を持つ手がまだぎこちない。家で練習を聞こうとしたら、当日まで内緒だと言われた。今朝、原稿をランドセルへしまうところを見届けてから、ずっと楽しみにしていた。
「公園で鬼ごっこをすると、いつも捕まります。お母さんは最初に10数えてくれます。ぼくは遊具の向こうまで走ります。でも、振り向くといます」
隣で、現役時代の担当トレーナーでもある夫の圭介が口元を押さえた。
アイは肘で軽くその腕をつついた。数えている間に走り出したことはない。遊具を越えず、通路を回って追いかけている。
「妹も捕まります。妹はウマ娘なので、ぼくより速いです。でも捕まります。お父さんも捕まります」
教室の前方から笑い声が起きた。圭介はもう隠そうともしていない。
「でも、お父さんは最初からあまり逃げられません。ベンチの近くですぐ捕まります」
「休む場所を確保しているんだな」
夫の小声に、アイは横目を向けた。
「いつもベンチ近くにいるのはそういう理由だったのね」
担任が保護者の方へ笑顔を向ける。アイも口を閉じて姿勢を戻した。
黒板には『家族のすてきなところ』と書かれている。なるほど、脚の速さ。自分の得意なことを、息子なりによく見ている。
「この前、妹が走っていくお母さんの絵を描きました。ぼくは、もっと脚をたくさん描いた方がいいと思いました。2本だと止まって見えるからです」
今度はアイも笑ってしまった。冷蔵庫に貼ってあるあの絵のことだ。手には、家族全員の水筒が詰まった袋を持たされている。
「ぼくも、学校のかけっこを頑張りたいです。終わります」
拍手が起きた。悠は原稿から顔を上げ、教室の後ろを見つけると、少しだけ肩を下ろした。
アイは声を出さずに頷いた。ちゃんと聞こえた、と伝わるように。
「具体的なお話がたくさんありましたね。悠くんのお母さんが走るところを、見たことがある人はいますか」
数人の手が上がる。その中に、ラッキーライラックの娘、莉良(りら)がいた。椅子から腰を浮かせ、腕をいっぱいに伸ばしている。
「莉良さん」
「公園で見ました。あと、うちのお母さんも速いです」
「そうですね。莉良さんのお母さんも、走るのが得意ですね」
「うちのお母さんと悠くんのお母さん、どっちが速いんですか」
アイは隣の列を見た。
ラッキーライラックもこちらを見ていた。いつもの柔らかな微笑みのまま、首をわずかに傾けている。その隣には、ララの元担当トレーナーで夫の直人がいた。
「それは、走る距離などによっても違ってきますね」
担任が慎重に答える。笑顔のまま、その目が教室の後ろに立つ2人を行き来した。
アイが口を開くより先に、ラッキーライラックが小さく頷いた。
「せやねえ」
穏やかな同意だった。
何も間違っていない。条件によって違う。それは分かっている。ただ、今の頷き方は、少し余裕がありすぎないだろうか。
「今度、一緒に走ってみれば——」
「お母さん、手を挙げてない」
悠に言われて、アイは口を閉じた。教室中の目がこちらへ集まる。
「……そうね。ごめんなさい」
圭介が、肩を揺らして俯いた。担任は笑いをこらえながら、次の児童を呼んだ。
*
「授業中に勝負の約束せんでも」
休み時間になって廊下へ出るなり、ラッキーライラックが言った。
アイは窓から教室の中を覗き返す。悠と莉良は、別の子が持ってきた折り紙を囲んでいる。質問をした本人たちは、もう次の話題へ移っていた。
「ララだって、走るつもりはあるでしょう」
「うちは先生のお話に頷いただけやけど」
「ずいぶん楽しそうに」
「授業参観やもの。娘が手を挙げたら、嬉しいやろ」
そう言ってから、ララはアイの顔を見て吹き出した。
直人が妻の肩越しに教室を見た。
「家でも聞かれたよ。アイさんとどっちが速いのかって」
「それで?」
「お母さんに聞いてごらんって」
「うちに回したん、あんたやったん」
ララが夫の袖を引く。その声は教室にいたときより低く、返事はずっと速かった。
アイは腕を組んだ。
「今度、子どもたちも一緒に競技場へ行く?」
「話、大きゅうせんといて。今日はこのあと1年生の方やろ」
腕時計を見ると、1年生の娘、愛奈(あいな)の教室を見に行く時間だった。今日は学校全体の参観日で、夫婦で上の学年から順に回ると決めていた。
圭介が廊下の荷物を持ち直す。
「愛奈は算数だって。そろそろ行こうか」
「ええ。ララ、またあとでね」
アイはララに手を振り、夫と廊下を進んだ。1年生の教室では、愛奈が廊下側の窓からこちらを見ていた。母と目が合うと、胸の前で小さく手を振った。
*
帰宅してから、アイは悠の作文を読ませてもらった。
原稿用紙には、発表のときに読まなかった一文の跡があった。
「ここは、なんて書いてあったの?
「『お母さんは、昔、大きなレースで9回勝ちました』って」
「それは読まなかったのね」
「先生に、家で見つけたことを書くといいって言われたから」
悠は宿題のノートを開きながら答えた。
アイは消し跡に指を触れず、その下の行へ目を移す。
「じゃあ、鬼ごっこは悠が見つけてくれたこと?」
「うん。あとは、妹の髪を結ぶのが速い。卵も片手で割れる」
「そっちでもよかったわね」
「それを入れると、紙が足りなかった」
少し考えてから、悠はアイを見た。
「9回って、全部で9回じゃないんだよね」
「ええ。とても大きなレースで勝った数。他にも勝ったレースはあるわ」
「じゃあ、鬼ごっこは入ってない?」
「入ってないわ」
「入れたら、もっとすごいのに」
台所で麦茶を注いでいた圭介が、声を出して笑った。
アイは作文を丁寧に折り直して、悠の机の端へ置く。それから息子の髪を一度だけ撫でた。
「よく書けていたわ。声も、後ろまでちゃんと聞こえた」
「ほんと?」
「ええ。ベンチのお話も」
圭介が麦茶を運んでくると、愛奈が自分の絵を冷蔵庫から外して持ってきた。
「お母さん、これ」
脚が増えていた。
元の2本の両側に、短い線がいくつも足されている。
「速そうになったでしょう。お兄ちゃんが描いてくれたの」
「こんなに脚があるように見える?」
アイが尋ねると、悠はノートから顔を上げた。
「走ってるときは、よく見えないんだもん」
「今度、ちゃんと見てみて」
「見てたら捕まる」
アイは返事をしかけて笑った。愛奈が絵を受け取り、冷蔵庫へ貼り直しに行った。