授業参観で「脚が速い」と発表されるアーモンドアイ(32) 作:Lagavulin
「少し、身体を絞ろうと思うの」
「じゃあ、マイルですね!」
グランアレグリアは即答した。
アイは公園のベンチでスマホを眺める。画面に出ていたのは、ラヴズに誘われたチャリティライブの衣装だった。現役時代のものをもとに作り直すそうで、先日、採寸をしてもらったところだ。
「軽く運動するくらいでいいんだけど」
「はい! 一緒に走りましょう」
グランはもう、いつなら競技場へ行けるかを考え始めている。
広場の方では、悠と英里がボールを追っている。愛奈は少し離れた場所で、拾った葉を母に見せようと選んでいた。
次の日曜なら圭介も休みだ。子どもたちも連れていけば、それぞれ身体を動かせる。
アイはスマホの予定表を開いた。
「久しぶりね。あなたと一緒に走るの」
「楽しみです。あ、英里も、今度の持久走の練習をしたがっているので」
「学校の? 悠も言っていたわ」
「じゃあ、一緒にできますね!」
グランの声に、英里がこちらを向いた。母に手招きされ、悠と一緒に戻ってくる。
話を聞いた悠が、まず尋ねた。
「お母さんたち、また競走するの?」
「一緒に走るだけよ。軽くね」
アイが答えると、グランも笑顔で頷いた。
*
日曜日、競技場へ着いたアイは、上着を脱いで圭介へ渡した。
一般利用の時間で、トラックでは何人かのウマ娘が走っている。人間の利用者や子どもたちは、外側に設けられた別の周回路を使うことになっていた。
圭介は荷物をベンチへ置き、靴紐を確かめる妻を見た。
「軽く走るんだよな」
「ええ。そのつもりよ」
「相手がグランでも?」
アイは顔を上げた。
夫は少し真面目な顔をしていたので、こちらも頷いておく。
「大丈夫よ、軽く走るわ」
隣では、グランが英里の上着を畳んでいた。母が荷物へ顔を向けている間に、英里がアイのそばへ来る。
「アイさん、走るとき、腕ってどうすればいいの?」
「腕?」
「お母さんに、大きく振ってって言われたんだけど」
英里は両腕を前後へ動かした。拳を強く握っているせいか、肩まで一緒に上がっている。
アイは隣へ屈んだ。
「そんなに力を入れなくてもいいのよ。手を少し緩めてみて」
英里が指を開く。その様子を見て、グランが近づいてきた。
「英里、あたしにも聞いていいんですよ?」
「うん。でも、お母さんがやると速くて分からない」
グランは瞬きをした。
「ゆっくりやりましたよね?」
「走って行っちゃうから、腕、見えなくなる」
アイは笑いかけて、こらえた。
グランは一度トラックを見てから、息子の前へ戻ってくる。
「分かりました。じゃあ、ここでやります」
その場で肘を曲げ、腕だけを動かしてみせた。英里は母の横へ回り、同じ姿勢を取る。悠も並び、少し遅れて愛奈まで腕を振り始めた。
英里の肩から力が抜けると、グランが嬉しそうに頷いた。
「そうです。上手!」
「これなら分かる」
アイは立ち上がった。グランがこちらを見て、少しだけ口を尖らせる。
「あたしも教えたかったんです」
「こうすればちゃんと伝わったでしょう」
「はい。でも、マイルの走り方をアイさんに先に聞かれると、ちょっと」
英里が母の袖を引いた。
「学校のは1000mだよ」
「0.625マイルですね」
息子はアイを見た。アイは頷いてやる。
「同じ長さのことよ」
グランは胸へ手を当てた。
「マイルなら、アイさんに勝ったこともあるんですよ」
「知ってる。お母さん、前に見せてくれた」
その横で悠が顔を上げた。
「お母さん、英里くんのお母さんにも負けたの?」
「ええ。安田記念でね」
グランが一段と嬉しそうな顔になる。
アイは彼女を見た。あの日の、前へ抜け出していった背中は覚えている。追っても、最後まで届かなかった。
「あのときは、本当に強かったわ」
「ありがとうございます。今もマイルは得意です!」
「会話からも分かるわ」
*
準備運動を終えてトラックへ出ると、グランが内側の白線に沿って立った。
1周400m。4周で戻ってくる約束だった。
「最初は、ゆっくりね」
「はい。1マイル、気持ちよく走りましょう!」
グランが踏み出し、アイも横へ並んだ。
最初の1周は、話しながら走れた。ライブでは何を歌うのか。英里は最近、何をして遊んでいるのか。ベンチの前へ戻ると、子どもたちが手を振った。
アイも振り返し、2周目のコーナーへ入る。
「やっぱり、走りやすいですね」
グランが言った。
伸びた脚が軽く地面を捉える。隣を走るだけで、その一歩の気持ちよさが伝わってくるようだった。
「もう少し、上げてもいいですか?」
「少しなら」
グランの歩幅が変わった。
アイも合わせた。腕を少し強く振ると、身体が前へ進む。風が頬へ当たり、脚が温まっていく。
横を見ると、グランが笑っていた。
先へ出ようとしたわけではない。ただ、あまり余裕そうなので、あと少しだけ脚を伸ばした。
グランは、すぐについてきた。
3周目に入る頃には、子どもの話をしなくなっていた。
アイが前へ出れば、グランが横へ並ぶ。コーナーで並び直すと、直線ではまた肩の位置が変わる。
ベンチの前を通ったとき、圭介が何か言った。
アイは顔を向けず、片手だけ上げた。
最後の1周で、グランが前へ出た。
その背中を見た途端、アイは強く踏み込んでいた。隣まで追いつく。グランの耳が一度こちらへ向き、直線の入口で、さらに脚が伸びた。
離される。
アイも腕を振った。すぐ目の前にいた肩へ、もう一度並ぼうとする。
白い線を先に越えたのは、グランだった。
速度を落としてから、アイは長く息を吐いた。グランも少し先を歩きながら、こちらへ顔を向ける。頬は赤く、楽しそうだった。
「気持ちよかったですね!」
「……そうね」
アイは息を整え、今走ってきた直線を振り返った。
最後の仕掛けを待たず、自分から行けばどうだっただろう。もう少し長く走れば、違う形に持ち込めたはずだ。
「今度は2000mにしない?」
「1.25マイルですね! いいと思います!」
休んでから、とアイが続ける前に、圭介が水筒を差し出した。
「今日は、何をしに来たんだっけ」
アイは水筒を受け取り、蓋を開けた。
「少し、身体を動かしに」
「少しだった?」
すぐには答えず、水を飲んだ。
悠が父の横からトラックを指差す。
「最後、競走してたよね」
「……途中から、少しだけね」
グランは笑顔で汗を拭いている。
愛奈が母の手を引いた。
「次、わたしたちだよ」
外側の周回路で、英里も待っていた。グランは息子のところへ行き、さっき教えた腕の動きをもう一度確かめる。
「お母さんと、一緒に走りましょうか」
「今度は、ぼくと同じ速さにしてね」
グランは息子の顔を見て、それから大きく頷いた。
「はい。英里についていきます!」
休憩のあと、子どもたちを先に出して走り始めた。
英里と悠が並び、その横にグランがつく。愛奈は少し前へ行ったが、後ろを振り返ると、兄たちが来るのを待った。アイは娘の隣へ並び、同じ速度に落とす。
グランはずっと英里の横にいた。英里が少し速くなりすぎると、名前を呼び、腕をゆっくり動かしてみせる。
ベンチの前まで戻ったとき、英里は母を見上げた。
「これくらいでよかった?」
「はい。途中で苦しくなりませんでしたか?」
「うん。まだ走れる」
グランの顔がぱっと明るくなった。
アイは娘と歩きながら、その横へ並ぶ。
「今の方が、よく伝わったみたいね」
「はい!」
英里がもう1周走りたがると、グランはすぐに隣へついた。今度は、アイが頼まれる前だった。
*
「ご飯のおかわり、お願いします」
アイが茶碗を持ち上げると、向かいの圭介が顔を上げた。
競技場の近くにある食堂だった。運動を終えた6人は、2つのテーブルをつないでもらって座っている。
最初に頼んだ生姜焼き定食の皿は、もう空いていた。あとから追加したハンバーグが来たところで、ご飯が足りなくなったのだ。
「普通盛りでよろしいですか?」
「ええ」
「あたしもお願いします。大盛りで!」
隣のグランが茶碗を差し出した。
アイは店員を見上げる。
「……わたしも、大盛りでお願いします」
圭介と目が合った。
「すごく、お腹が空いたの」
「見ていれば分かる」
夫は笑い、空いた皿を店員が下げやすいところへ寄せた。
ハンバーグへ箸を入れると、切り口から肉汁が出た。アイは一口食べ、戻ってきたご飯の茶碗を受け取る。
おいしかった。
朝は、昼食で何を控えようかと考えていた。それが、今は付け合わせのポテトまで、なくなるのが惜しい。
「お母さん、いつもより多い」
愛奈が茶碗を見て言った。
「今日は、たくさん走ったから」
「お肉も2つ食べた」
「よく見ているわね」
娘は自分の皿へ戻り、最後の卵焼きを口へ入れた。
グランは英里の話を聞きながら、大盛りのご飯を食べていた。息子が持久走でも今日のように走ってみると言うと、何度も頷く。
「途中で速くなりすぎないようにね。最後に元気があったら、そこで頑張りましょう」
「お母さんも、最初から速くしなかったね」
「はい。アイさんと走ると、だんだん速くなります!」
アイは箸を止めた。
「あなたが上げてもいいかって聞いたんでしょう」
「そのあと、アイさんが前に出たので」
「並んで走っていただけよ」
圭介がグラスを置いた。
「最後は、2人とも前しか見てなかったよ」
グランが声を出して笑った。アイも、黙っていられずに笑う。
あれは間違いなく、軽い運動ではなかった。
走っている間も楽しかったし、今のご飯もおいしい。だから困るのだが、目の前のハンバーグを残す気にはなれなかった。
「次は、少し長くしましょうか」
グランが言った。
アイが顔を上げる。
「2000m?」
「1.5マイルでもいいですよ。アイさんも得意でしょう?」
2400m。
アイは箸を持ったまま、少し考えた。そこまで走れるのなら、途中の運び方から変えられる。
圭介の視線に気づき、口を閉じた。
「……その相談は、また今度にしましょう」
グランは頷き、残りのご飯を食べ始めた。
アイも茶碗を空にしてから、夫へ顔を向ける。
「明日の朝、少し一緒に走ってくれる?」
「俺でいいのか?」
「ええ。あなたと同じ速さで」
圭介が頷いた。悠がすぐに、自分も行くと言う。愛奈まで手を上げたので、家を出る時間を相談することになった。
その横で、英里がグランにソフトクリームの写真を見せていた。
「これ、食べたい」
「いいですね。あたしも食べます」
アイは思わずメニューへ目を向けた。
圭介が気づき、笑いながらそれを渡してくる。
「見るだけよ」
夫は何も言わず、子どもたちの飲み物を確かめた。
店員が注文を取りに来ると、グランが顔を上げる。
「ソフトクリーム、2つお願いします」
「わたしも!」
愛奈が手を上げた。悠も食べたがったので、アイはメニューを見せ、味を選ばせる。
「バニラ3つと、チョコ1つですね」
店員が確かめた。
アイは写真をもう一度見た。グランが、チョコもおいしそうですね、と隣で言う。
「……バニラ、もう1つお願いします」
メニューを閉じて夫へ返すと、圭介は笑ったまま受け取った。
「明日は、俺より前を走らないこと」
「ずっと?」
「ずっと」
アイは少し考えてから頷いた。運ばれてきたソフトクリームを受け取り、夫から目を逸らして、一口食べた。