授業参観で「脚が速い」と発表されるアーモンドアイ(32) 作:Lagavulin
「どうかしら」
控室の扉が開き、アイが顔を出した。
圭介は返事をしようとして、妻の姿を上から下まで見た。白と紺の衣装に、銀色の飾り。腰の大きなリボンから、何枚も重なったスカートの裾が広がっている。
衣装合わせの写真は見せてもらっていた。それでも、髪飾りと舞台用の化粧まで揃うと、随分と違って見える。
グランと走った日から数週間、朝の軽い運動を続けた成果も出て、最後の衣装合わせではウエストを少し詰めてもらった。
「似合ってる」
「本当に?」
「うん」
アイは自分のスカートへ目を落とした。
「写真を見たときは、懐かしいと思ったのよ。着てみると、ちょっと……」
「動きにくい?」
「そうじゃなくて。わたし、もう32なのよね」
圭介も、もう一度衣装を見た。
現役時代に何度も着ていたものをもとに、新しく用意してもらった衣装だった。よく似合っていると思ったのは本当だが、妻がどこを気にしているのかも分かった。
胸元にも、手首にも、小さなリボンがついている。
「お母さん、かわいい!」
愛奈が圭介の横から飛び出した。
アイは屈み、衣装へ手を伸ばす娘を受け止める。
「ありがとう。触るなら、そっとね」
「これで帰る?」
「これで電車には乗らないわ」
後ろから来た悠も、母の周りを半周した。
「背中にもリボンある」
「ええ。あるの」
「すごく大きい」
「お母さんも、そう思っているわ」
圭介は笑いをこらえた。アイに見られたので、慌てて首を横に振る。
そこへ、ラヴズオンリーユーが控室から出てきた。こちらも揃いの衣装で、髪に大きな花飾りをつけている。
「アイさん、もうすぐ集合だって」
「分かったわ」
市民ホールでのチャリティライブに誘ったのは、ラヴズだった。引退したウマ娘たちが出演し、現役時代の曲を披露する。アイも1曲、一緒に歌うことになっていた。
圭介は、廊下の先で待つララへ目を向けた。ラヴズの息子の蓮は、莉良と一緒にララのそばにいる。客席で預かってもらう約束だった。
ララは衣装姿の2人を見ると、楽しそうに手を振った。
「ええやん。よう似合うてる」
「さっき、年の話をしちゃった」
アイが小声で言うと、ララは吹き出した。
「うちも同じや。巻き込まんといて」
「そうね。ごめんなさい」
ラヴズが笑い、アイの手を取った。
「ほら、行こ。練習したところ、見せなきゃ」
アイは頷き、子どもたちへ手を振る。歩き出してから、一度だけ圭介を振り返った。
「ちゃんと見ていてね」
「もちろん」
その返事を待って、アイは舞台裏へ入っていった。
*
客席はほとんど埋まっていた。
家族に用意された席は前から数列目で、ララたちとも隣り合っている。圭介が愛奈の荷物を座席の下へ置く間に、悠はパンフレットを開いた。
「お母さん、次?」
「この人たちのあとだよ」
紙の上で順番を確かめてやる。悠が母の名前を見つけ、膝の上でページを押さえた。
ステージの明かりが変わると、隣の直人が顔を上げた。
「来るか」
紹介の声に続いて、ラヴズが姿を見せた。蓮が両手を上げる。
アイがその隣へ並んだとき、圭介のすぐ後ろから大きな歓声が上がった。
「アイちゃーん!」
愛奈がびっくりして振り返った。
声を上げた女性は、母の名前が入った古いタオルを掲げている。別の席からも呼ぶ声が重なり、アイがそちらへ手を振ると、さらに拍手が大きくなった。
「お母さんのお友達?」
「レースをしていた頃から、応援してくれている人たちだよ」
愛奈はまたステージを見た。母がこちらにも気づき、小さく手を振ってくれる。
娘は圭介の腕を叩いた。
「お父さんも!」
圭介も手を上げた。アイが笑い、立ち位置につく。
聞き覚えのある前奏が流れ、圭介は背筋を伸ばした。
アイが顔を上げ、腕を大きく開く。スカートの裾が広がり、軽く向きを変えたところで、歌声が重なった。
すぐに、客席から手拍子が返る。
現役の頃から繰り返し聞いてきた曲で、圭介も最初から最後まで歌える。最近も、アイが洗い物をしながら口ずさむのを何度も聞いた。
それなのに、目の前で踊られると、覚えていた以上に胸が高鳴った。
ラヴズと並んだアイが、揃ってこちらを向く。
妻が、胸の前で指を合わせ、小さなハートを作った。
さっきまで気にしていたリボンも、ひらひらした裾も、その笑顔によく似合っていた。片足を引き、こちらを誘うように手を伸ばす。その指先を、圭介は目で追った。
綺麗だった。
衣装を着たところから見ていたのに、今さら、まともに顔を見たような気がした。
アイは客席へ視線を送り、楽しそうに歌っている。
笑ったときの目元も、少し顎を引く仕草も、今の妻のものだった。その顔が照明の下で輝くたびに、昔、ライブのあとで彼女を待っていた時間が思い出された。
アイの担当するパートは終わり、拍手の中でそのまま客席へと戻ってきた。
当時の衣装のまま戻ってきた32歳のアイに感想を聞かれると、記憶が混乱してしまい短い返事しかできなかった。彼女が不思議そうに首を傾げるので、慌てて、声がよく出ていたとか、動きが揃っていたとか付け足した。
「お父さん」
悠に袖を引かれ、圭介は隣を見た。
「手、止まってる」
子どもたちは次の曲の手拍子をしていた。圭介も慌てて両手を合わせる。
隣で直人が笑った。ララはステージを見たまま、肩を揺らしている。
間奏に入り、次のパートでアイが舞台の前へ出てきた。
足を踏み出すたび、銀色の飾りが光る。ラヴズと位置を入れ替え、客席の端へ大きく手を振った。あちこちから腕が上がり、アイがその反応を見て笑う。
圭介も、つられて笑った。
当時もこういう顔をしていた。応援の声が届くと、もっと見てほしそうに前へ出てくる。
アイの視線が、こちらで止まった。
圭介は少し遅れて手を上げる。その顔を確かめたように、アイが片目を閉じた。
「今、お母さん、こっちにやった!」
愛奈が父の腕にしがみついた。
圭介は頷いた。何か答えたつもりだったが、娘はもうステージへ向き直っていた。
ラヴズの歌声にアイの声が重なり、最後のサビへ入る。
圭介は妻から目を離せないまま、子どもたちと一緒に手を叩いた。
最後の音に合わせ、2人の腕が高く伸びた。
一瞬の静けさのあと、客席が拍手に包まれる。アイは胸を上下させながら笑い、ラヴズと手をつないで頭を下げた。
圭介も大きく拍手を送った。
顔を上げたアイが、もう一度こちらを見る。今度は、迷わず手を振り返した。
*
「どうだった?」
終演後、控室から出てきたアイが尋ねた。
圭介より先に、愛奈が駆け寄る。
「お母さん、かわいかった!」
「ありがとう」
「知らない人も、いっぱい名前呼んでたよ!」
「聞こえたわ。嬉しかった」
アイが屈むと、愛奈は母の首へ腕を回した。悠も寄ってきて、母がさっき作ったハートを指で真似する。
「ここ、お母さんの後ろで、みんなやってた」
「あなたも?」
「こっちは、拍手してたかな」
アイは笑い、息子の手を軽く握った。
ラヴズが出てくると、蓮が飛びついていった。莉良もそちらへ寄り、手を振ったのが見えたかと聞いている。
アイは立ち上がり、圭介へ向き直った。
「あなたは?」
その顔を見て、圭介はまた昔を思い出した。
感想を待つとき、こちらから目を離さないところまで同じだった。
「綺麗だった」
アイが一度、瞬きをした。
「……ありがとう」
「出てきたときから似合っていたけど、踊っているところは、もっと」
言ってから、圭介は少し困った。もう少し落ち着いて伝えるつもりだった。
アイは口元を緩め、手首のリボンへ指を添えた。
「変じゃなかった?」
「全然。昔のライブを思い出したよ」
「そう」
嬉しそうに頷いてから、アイは夫の顔を覗き込んだ。
「昔と変わらず、ずっと見ていたわね」
「……そんなに分かった?」
「ええ」
横から、ララが顔を出した。
「途中、手拍子も忘れてはったよ」
「そうなの?」
「悠くんに教えてもろてた」
アイが息子を見る。悠は大きく頷いた。
「お父さん、お母さんばっかり見てた」
「見に来たんだから、それはいいだろう」
圭介が答えると、直人まで笑った。
「でも、瞬きくらいはした方がいい」
「そこまでじゃなかっただろ」
ララが口元を押さえている。アイは少し顔を伏せたが、隠しきれずに笑っていた。
愛奈が父の手を引いた。
「お母さん、ぱちってしてくれたよね」
娘が片目を閉じようとして、両目をつぶった。
アイが頷き、その髪を撫でる。
「見えた?」
「うん! お父さんにも教えた」
「お父さんも、ちゃんと見ていたわよ」
圭介が妻を見ると、アイは少しだけ首を傾げた。
あのとき、確かに目が合っていた。
聞き返す前に、衣装担当のスタッフが2人を呼びに来た。ラヴズが先に控室へ戻り、アイも返事をして、子どもたちの手を離す。
「着替えたら、帰りましょう。少し待っていてね」
愛奈が頷き、莉良のところへ行った。さっきの振りを教えてもらおうと、両手を前に出している。
アイは控室へ戻りかけ、圭介の袖を引いた。
「さっきの、あなたにしたのよ」
小さな声だった。
圭介が顔を上げると、妻は目を合わせたまま笑っていた。
「昔は、あれをすると、すぐ目を逸らしたでしょう」
「覚えてるのか」
「覚えているわ。今日は逸らさなかったから」
圭介は返事を探した。アイは待ってくれている。
「いまでも変わらずかわいいよ」
あの時の感想のような言葉を返した。
妻の指が、袖を少し強くつかんだ。
今度はアイの方が目を逸らし、頷く。
「……着替えてくるわ」
控室の扉を開けたところで、愛奈が声を上げた。
「お母さん、そのお洋服、また着て!」
アイが足を止める。
圭介も、娘の横から言った。
「俺も、また見たい」
アイは夫を見た。少し赤くなった頬のまま、今度は大きく笑う。
「分かったわ。衣装の人に、聞いてくる」
返事をして扉を閉めると、すぐに中からラヴズの声が聞こえた。
「アイさん、次はめにしゅきでも歌う?」
「まだ衣装の話をしただけよ!」