授業参観で「脚が速い」と発表されるアーモンドアイ(32) 作:Lagavulin
「お母さん、これ持ってて」
愛奈が脱いだ上着を差し出した。アイは受け取り、娘の耳の後ろでねじれていた鉢巻きを直す。
市の競技場を借りた今年の体育祭は、午前中からよく晴れていた。愛奈の出番が近づき、1年生のウマ娘たちが招集場所へ集まっている。人間の児童の組は、ちょうど直線を走り終えたところだった。
「お母さん、あそこにいて。ゴールのとこ」
「ええ。ちゃんと見ているわ」
「お父さんは?」
「向こうで動画を撮ってくれるわ。お兄ちゃんは、青いテントの前」
位置を確認すると、愛奈は走って集合場所へ戻った。
体育を教えているブラストワンピースが、児童を背の順ではなく出走順に並べ直している。愛奈が何か話しかけると、ブラストは腰を屈めて耳を近づけ、それから大きく頷いた。
アイがゴール脇へ回る途中で、ララとすれ違った。
「次、愛奈ちゃんやね」
「ええ。莉良ちゃんは?」
「もうすぐ。悠くんの組の次や」
ララは応援用のタオルを握っている。その肩から下がっている鞄の中に、見覚えのあるシューズ袋が覗いていた。
「持ってきたのね」
「アイさんもやろ」
アイの足元を見て、ララが笑った。
申し込みは、保護者用の連絡アプリで済んでいる。互いの参加を知ったのは、その日の夜だった。わざわざ相手を誘う必要もなかった。
「あ、始まるわ」
スターターの声に、2人とも会話をやめた。
愛奈は隣の子より一歩遅れて走り出した。そこから懸命に脚を回し、前の子へ追いつこうとする。少し顎が上がっている。
アイは胸の前で両手を握った。
「愛奈、そのまま前を見て!」
娘の耳が一度こちらへ向きかける。声を重ねるのはやめた。愛奈は前を向いたままゴールを越え、3番の札を受け取った。
列から戻ってくるなり、母の腕へ顔を寄せる。
「最初、遅くなった」
「そうね。でも、最後までよく走ったわ。自分ではどうだった?」
「もうちょっとだった」
アイは娘の額にかかった髪を払った。愛奈はまだゴールの方を見ている。1着の子が札を持って戻っていくと、その背中を目で追った。
「あとで動画、見ましょう」
「うん。お兄ちゃん、もう走る?」
返事を待たず、愛奈は圭介を探し始めた。兄の応援場所へ連れていくと、すぐに鉢巻きを振り回す。
悠は人間の児童の組で4着だった。出遅れず、自分より大きな子を最後まで追った。圭介が画面を確かめている横で、アイは手を振って戻ってきた息子を迎えた。
「最後、1人抜いたでしょう」
「見てたわ。腕、よく振れていた」
「お父さんにも言って」
「俺も見てたよ」
圭介が答えると、悠は満足そうに水筒を受け取った。
続いて走った莉良は2着で、ゴール直後に靴の留め具が気になったらしく、札を片手にしゃがんでいた。ララが手を貸そうとすると、自分で締め直し、母の手へ札だけ渡す。
保護者席へ戻った子どもたちは、もう午前の競技で使った大玉の話をしていた。
*
保護者のウマ娘による400m走は、昼休みの直前に組まれていた。
アイは上着を圭介へ渡し、足首を回した。朝から何度も靴紐を確認しているので、結び直す必要はない。
夫は、普段の仕事でも使う小さな時計を腕へ戻した。
「肩、上がってる」
「そんなに?」
「子どもたちを応援しているときから」
指摘されて、アイは一度大きく腕を振った。息を吐くと、圭介が頷く。
「400だからな。競技場とは勝手が違うよ」
「分かってるわ」
「分かっていても、相手を見ると忘れるから」
少し離れたベンチでは、ララが靴の踵を合わせていた。直人はその隣にしゃがみ、何か短く話している。ララは一度だけ首を振り、最後には笑って頷いた。
アイは視線を夫へ戻す。
「あちらも、普通のお父さんの顔じゃないわね」
「こっちも普通のお母さんの顔じゃない」
圭介が手を差し出したので、アイは掌を軽く重ねた。
その手を離すと、愛奈が横から両腕を上げる。しゃがんで抱き締めると、娘は母の耳元で言った。
「お母さん、1番になって」
「ええ。勝ちに行くわ」
悠も手を上げていた。順番に掌を合わせて、アイはトラックへ向かった。
出走するのは6人。それぞれのレーンを走るため、スタート位置はずれている。アイは3レーンで、ララはその1つ外側だった。
ブラストが各レーンの選手を確認して回ってくる。
「自分のレーンからはみ出さないこと。ゴールのあと、急に止まらないこと。みんな、いいな?」
アイが頷くと、ブラストは目の前で立ち止まった。
「アイもだぞ」
「ちゃんと聞いていたわ」
「ララも」
「もちろんです」
ブラストは2人を交互に見てから、スタート係の教員へ合図を送った。
ララが振り向く。薄い色のシャツの胸に、安全ピンで番号が留められていた。
「アイさん」
「何?」
「ここで走るん、なんや不思議やね」
観客席から子どもの名前を呼ぶ声がする。敷物の上には弁当が並び、遠くで放送委員がマイクの高さを直していた。
アイはララの目を見た。
「でも、あなたと走ることは変わらないでしょう」
ララの笑みが少し深くなる。
「せやね」
スタート位置へ向き直ると、アイは足裏へ重心を移した。
子どもにかける声も、弁当のことを話す声も、今は遠い。目の前の曲線と、外のレーンに立つ相手が見える。
合図が鳴った。
アイは上体を低く押し出し、最初の数歩で速度を乗せた。外側にいたララの背中が、すぐに近づいてくる。
位置の差はそのまま順位ではない。それでも、相手の動きは読める。ララは無理に脚を回さず、伸びる一歩を丁寧に置いていた。
速い。
朝の準備を見て思った以上に、動きが整っている。
最初のコーナーを抜けると、向こう正面の風が胸へ当たった。アイは顎を引き、腕を後ろへ送る。自分のレーンの線を視界の端へ残しながら、さらに速度を上げた。
横へ目を向けなくても、ララの足音が分かる。昔からよく聞いたリズムが、少し外を並んでいる。
半周。
残りを考えて、力を使う。それは分かっていた。けれど、400mは待っていられる距離でもない。アイは緩めず、次の曲線へ入った。
外のララは、ついてきた。
アイが脚を回せば、足音も速くなる。角度を変えても、気配は消えない。ふと、ララが小さく息を吐くのが聞こえた。
その直後に、踏み込む音が変わった。
ここで来る。
アイは先に腕を振った。曲線の出口へ向けて上体を起こし、地面を後ろへ押し切る。脚は応えた。身体が前へ抜ける感覚があった。
ララの肩が、すぐ外へ並ぶ。
直線へ入ったとき、先に出ていたのはアイだった。ほんの少し。横目では分からないくらいの差だったが、ララの腕が自分の後ろに見える。
ここから、離す。
観客席の音が急に近くなった。誰かが名前を叫んでいる。悠の声か、愛奈の声か、聞き分ける余裕はなかった。
アイは前だけを見た。白い線まで、脚を運ぶ。
ララが迫った。
外側で揺れる髪が視界へ入り、並んだ肩が少しずつ前へ出る。アイは歯を食いしばった。腕を速く、足をもう一歩先へ。
追いつける。
間に合う。
並びかけたところで、白い線が足元を通り過ぎた。
アイはすぐに止まらず、向こうのコーナーまで走った。息を吐こうとして、吸う方が先になる。速度を落としながら、外のレーンを見る。
ララもこちらを見ていた。口が開き、肩が大きく上下している。それでも、視線は逸らさない。
「……ララ」
呼びかけたところへ、場内放送が入った。
4レーン、ラッキーライラック。
その名前が最初に呼ばれた。
ララが目を閉じた。次に目を開けると、唇を噛んだまま、小さく拳を握った。
アイは息を整え、相手のところへ歩いた。
「やられたわ」
「最後、まだ来る思うた」
「行ったわよ。全力で」
ララの顔に笑みが広がった。アイはその肩を軽く叩き、手を差し出す。
「おめでとう」
「おおきに」
握った手は熱く、力があった。
離してからも、アイは一度ゴールの線を見た。現役時代との差を思い知る。
*
「お母さん!」
莉良は、ララがトラックの外へ戻ったところで抱きついた。
ララは少しよろめきながら受け止める。直人が横から娘の背中へ手を添え、妻にタオルを渡した。
アイの前には、愛奈が立っていた。自分の鉢巻きを両手で握っている。
「お母さん、2番だった」
「ええ」
「惜しかったね」
「すっごく悔しいわ」
そう答えると、愛奈はアイの手を握った。何か言うのかと思ったが、娘はそのまま敷物の方へ引っ張っていく。
「お弁当、食べよう。お母さんのエビフライ、取ってある」
悠が荷物のそばで場所を空けた。圭介は水筒の蓋を開けて待っている。
アイは一口飲み、息を長く吐いてから夫を見た。
「向こう正面、使いすぎたかしら」
「少し。でも、あそこで落としたら、ララにもっと余裕ができたと思う」
「最後のコーナーで、もう一段……」
「あとで映像を見よう。今は食べられるものから」
話を終わらせる声ではなかった。圭介も、考えながら答えている。アイは頷き、差し出された弁当箱を受け取った。
愛奈が自分の卵焼きを1つ移してくる。
「これは、くれるの?」
「うん。お母さん、いっぱい走ったから」
「ありがとう」
隣の敷物で、ララが賞品の箱を開けていた。洗剤と柔軟剤の詰め合わせだった。莉良は金色のメダルを首に掛けさせてもらい、箱の中を覗いている。
「お母さん、1番なのに洗剤なの?」
「助かるやん。帰ったら、その体操服も洗えるよ」
アイは思わず笑った。ララがこちらを見る。
「何やの」
「いい賞品ね」
「せやろ。ちょうど減ってたんよ」
直人が箱を持ち上げ、買い物の手間が省けたと言った。ララは莉良に貸していたメダルを返してもらい、夫へリボンを差し出した。
「そっち置いて。これ、もう一回掛けて」
夫がララの首へメダルを掛けると、ララは莉良の横へ座り直した。直人が自分のスマホを圭介へ渡し、妻と娘の写真を撮ってもらう。
画面を確かめたララが、満足そうに頷く。その顔を見て、アイは卵焼きを口へ運んだ。
「ララ」
「ん?」
「今の写真、あとで送って」
ララが少し驚いた顔をする。
アイは弁当箱を膝へ戻し、隣の娘へ手を伸ばした。
「うちも撮りたいわ。2番と3番と4番、揃ってるもの」
「お父さんも入る?」
「もちろん。撮ってもらおう」
圭介は借りていたスマホを直人へ返し、自分のスマホを渡して頼んだ。悠が横へ詰め、父の座る場所を空ける。
アイは愛奈を膝へ座らせ、悠の肩へ腕を回した。圭介が息子の横へ座ると、直人がスマホを構える。
「はい、撮るよ」
愛奈が膝の上で背筋を伸ばした。アイは娘の肩を抱き直し、カメラへ顔を上げた。