授業参観で「脚が速い」と発表されるアーモンドアイ(32) 作:Lagavulin
トレセン学園の一般見学日に、アイは子どもたちを連れて練習コースを訪れた。
悠は案内図を持ち、愛奈は母の手を握っている。門を入ってすぐ、すれ違った職員がアイに声を掛けた。
「お久しぶりです。今日はお子さんと?」
「ええ。夫が担当している子の練習を、見せてもらう約束なの」
挨拶をして別れると、今度は向こうから来たウマ娘が足を止めた。友人らしい相手の袖を引き、2人でこちらを見る。
アイが軽く手を上げると、揃って頭を下げられた。
「お母さん、ここの人、みんな知ってるの?」
「みんなは知らないわ。さっきの2人も、初めて会ったと思う」
「でも、お母さんのこと知ってた」
「昔のレースを見てくれたのかもしれないわね」
悠はもう一度、振り返った。2人のウマ娘は少し離れたところで、まだこちらを見ている。
愛奈が母の手を引いた。
「お父さん、いた」
コース脇で時計を見ている圭介がいた。こちらに気づくと手を上げ、見学用の柵まで来る。
家を出たときと同じシャツなのに、愛奈は一瞬足を止めた。父が首から下げたスタッフ用の札を、物珍しそうに見ている。
「ここからなら、コーナーも見えるよ。あと1本で休憩に入る」
「邪魔にならない?」
「大丈夫。担当の子も、家族が来るって聞いて楽しみにしてた」
今年から圭介が担当するシトロンウェーブは、コースの少し先で靴紐を確かめていた。
名前を呼ばれて顔を上げ、こちらを見つける。最初は子どもたちへ笑顔を向けたが、アイの顔を見ると背筋が伸びた。
「お、おはようございます!」
「おはよう。練習中にお邪魔しているわ」
「いえ、そんな。あの、来られるって聞いてたんですけど、実際に見ると、その」
圭介が少し笑い、コースへ戻るよう指で示した。
「さっき確認したことを、そのままやろう。見せようとして変えなくていい」
「はい」
シトロンは一度、深く息を吐いた。
走り出す前に、圭介がコーナーの出口を示す。小さな目印が2つ置いてあった。
「最初の印までは、今まで通り。次の印が見えたら、そっちへ目を送る。足元を確かめなくていい」
シトロンが頷いて離れていく。
悠は柵に両手を置いた。
「お父さん、一緒に走らないの?」
「今は、走り方を見ているのよ」
「あの人の方が、速いから?」
「それもあるわね。でも、横を走っていると見えないところもあるでしょう」
シトロンが走り出した。
圭介は時計を押したあと、手元を見ずに担当を追った。コーナーへ入ると身体の向きを変え、出口の方へ数歩動く。
アイも柵の向こうを見た。
シトロンは曲がり終える直前に、一度だけ顎を引いた。すぐに目を上げたが、その間に腕の動きが小さくなる。
圭介が手を上げる。
「そのまま、もう1つ先を見よう!」
シトロンは顔を上げ、直線へ出た。腕が後ろへ伸びる。
走り終えたシトロンが戻ってくると、圭介は脇の台からタブレットを取った。水を飲み終えるのを待ち、今の走りの映像を見せる。
「ここの2歩。自分で分かった?」
「はい。目を戻しちゃいました」
「戻したあとに、もう一度前を見られた。そこはよかった。最初から見る場所を決めておけば、もっと楽になると思う」
シトロンは画面を何度か送り、自分の動きを見直した。
少し考えた末に、コーナーへ顔を向ける。
「走らないで、曲がるところだけ確かめてもいいですか」
「そうしよう。もう速い練習は終わり。歩いて確かめたら、今日は上がろう」
シトロンは頷き、コースへ戻っていった。
悠は父が台へ戻したタブレットを覗いていた。アイも一緒に、止められた画面を見る。
「お父さん、いつ撮ってたの?」
「向こうにカメラがあるのよ。走る前から準備していたのね」
「いっぱい見てるんだ」
圭介は子どもたちの声を聞いていたらしく、柵まで戻ると笑った。
「家でも、忘れ物がないか見てるだろ」
「水筒は、この前お父さんが忘れた」
「あれは見落とした」
アイは口元を押さえた。愛奈がすぐに続く。
「お母さんが持ってった」
「助かったよ」
夫はアイに向けて、そのときと同じように礼を言った。
*
練習が終わると、シトロンがタオルを首へ掛けて挨拶に来た。
愛奈は母の横から半分だけ顔を出していたが、シトロンが目の高さを合わせると、すぐに前へ出ていった。
「お姉ちゃん、速かった」
「ありがとう。お母さんの前だと、ちょっと恥ずかしいけど」
「どうして?」
愛奈は本当に分からない顔をした。
シトロンはアイを見上げ、少し困ったように笑った。
「……お母さん、すごく速いから」
「うん。知ってる」
迷いのない返事に、シトロンも声を出して笑った。
アイは娘の肩へ手を置き、シトロンに目を向ける。
「最後の直線、腕を大きく振れていたわね」
「はい。まだ、曲がるときに前が見られなくて」
「できたところもあったでしょう。今の感覚は覚えておくといいわ」
シトロンは頷き、圭介を見た。夫は、歩いて確かめた感想を聞いている。2人の会話が練習へ戻ると、アイは子どもたちを連れて少し離れた。
悠が案内図を開いた。
「お父さんの部屋も、見ていいんだよね」
「このあと案内してくれるって」
「お菓子あるかな」
「見に来たのは、仕事場でしょう」
愛奈が真剣な顔で頷いた。
「お父さん、いつも仕事でお菓子もらってくるよ」
アイは、夫が時々持ち帰る差し入れを思い出した。子どもたちにとって、仕事場とは、お菓子のある場所でもあるらしい。
トレーナー室へ入ると、愛奈はさっそく机の引き出しを見た。圭介が勝手に開けないよう伝え、おやつ用の箱だけを机へ出す。
悠は窓際の棚で足を止めた。
写真立ての中に、今より若いアイと圭介がいた。大きなレースのあと、2人で花束を持っている。
「これ、お母さん?」
「そうよ」
「お父さん、今より細い」
圭介が菓子の袋を開ける手を止めた。
「そこに気づくのか」
「今も別に太ってないわよ。でも、この頃はちゃんと食べていない日があったものね」
アイは写真立ての位置を少しだけ直した。その隣には、家族4人の写真がある。子どもたちが幼い頃、公園で撮ったものだった。
悠が2枚を見比べ、父へ尋ねた。
「お母さんが走るときも、さっきみたいに見てた?」
「見てたよ。たくさん」
「じゃあ、お父さんはずっと、お母さんの走り方知ってるんだ」
圭介は椅子を引き、子どもたちへ座るよう促した。
「この前、体育祭でも見ただろ」
「あ、あれも仕事だったの?」
「あれは休みの日」
愛奈がクッキーを1枚、母へ差し出した。
「お母さんも休み?」
「ええ。今日は、お父さんを見に来たの」
アイはクッキーを受け取り、圭介の机の横へ座った。
夫が置いた練習ノートには、見覚えのある細かな字が並んでいる。書き足す場所が足りなくなり、欄の外へ線を引いて続けるところまで、昔と同じだった。
「あなた、ノートの大きさを変えたら?」
「大きなノートだと、その分あれこれ書き足してしまうんだ。結局、また余白が足りなくなる」
アイは笑いながらクッキーを割り、半分を夫の皿へ置いた。