あと1年で漫画家になる。新人賞30回落選のあたしを、消えかけの稲荷神が鍛える 作:鳳 雛
専門学校の近くに漫画喫茶がある。長鳴実門《ながなきみかど》の務める会社『株式会社トライ・アクティ』が営業している店舗の一つだ。赤羽龍姫《あかはねたつひめ》から会場の帰り際に専門学校に寄ろうと誘われた。設備を確認したり在校生の作品などに目を通す。大学の漫画学科の作品は芸術性が高いものが多い。一方で、専門学校の生徒の作品は娯楽性を重視しているようにみえる。
美大出身の実門は、商業で戦いたい。専門学校の即戦力を求める姿勢に惹かれた。絵描きが集まると最初にお互いの絵を見せる時に、独特の緊張感がある。嫌でもどちらが上か下かの格付けが行われるからだ。
赤羽龍姫が何気なくスマホを触った。偶然か狙ってかホーム画面が実門に見えるように振る舞った。
可愛い絵だ。オリジナルのイラストの水彩。それも透明水彩だろう。実門は素直に反応した。
「あら、可愛いわね。自分で描いたの? オリジナル?」
「えっ、あっ、これですかー。そうなんです。オリジナルです。下手っぴで恥ずかしいです」
「そんなことないわよ。さっきの在学生の作品集に載っていてもおかしくないわ」
「先輩ずるいですよー、先輩のも見せてください」
「その先輩っていうの止めて欲しいわ。同期じゃないの」
「いや、先輩ですよっ、ほら早く絵を見せてください」
「あたし、スマホに絵を保存していないのよね」
「SNSに載せているのでも良いですよ」
「SNSもやってないの。なんか直接会ったり話したりする方が好きなのよね」
「えー、ずるいなー。私のは見た癖に」
「……そうね。店員さんにコピー紙の紙とペン借りてくるわ」
「いや、そこまでしなくても」
「良いのよ。この店、叔父さんのだし、あたしも一応店員の上司なんだから。ちょっと話してくるから、好きな漫画でも読んでて」
赤羽龍姫はきょとんとした顔でぽかんと口を開いた。実門は従業員に声を掛ける。
「今日1人番? 中番はいないの?」
「そっすね。いないっすね。暇なんで、お酒のPOP作ってました」
「コントラストを意識して、値段をもっと大きく。フォントもゴシックにして見やすく。POPを作る時は、お手本になるのを先にネットで探して、商品や文字の掲示の仕方を参考にして。……偉いわね、サボらずPOPを作るなんて」
「いや、さっさと作ってサボろうかなーって思ってました」
「有能ね。ちょっとペンとコピー紙を借りたいのだけれど良いかしら」
「もちろんですよ。ミカさんは秘書なんですから、何でも持っていって下さい」
実門はレモン味の缶チューハイを一本買うと、ペンと紙を持って部屋に戻った。龍姫はティーンズファッション雑誌を読みながらホワイトソーダを飲んでいる。
「ペン貸してくれましたかー?」
「えぇ。何を描いて欲しい?」
「何でも良いです。……じゃあ、取りあえず右向きの顔の少女の全身図をお願いします」
「いいわよ」
実門は瞼を下ろし、完成図のイメージを想像した。試されている。そう思った。
右利きの作家は左向きを描く癖が付いていて、人によっては左向きしか描けない場合もある。プロでもだ。プロはアナログでは原稿用紙の裏に描き、トレース台で表に反転させる。デジタルはボタン一つで反転できる。
全身図はバランス感覚が必要で、顔しか描けない新人には難しい。特に骨盤から太ももを描くには、構造的な理解がないといけない。
実門は高校・大学と美術専攻だ。何の問題もない。
イメージが固まるとキュキュッとペンを走らせた。大きな弧を描く時は手を紙から上げて、肩と肘を動かして線を引いた。
龍姫は目の前でマジックを見せられたかのような表情で、ストローを咥えっぱなしだ。
45分で1枚のイラストが完成した。下描きなしの一発書き。多少線は乱雑だが、実力を見せるには充分だろう。神社の参道で1人の女性が空の月を眺めている煽りの絵だ。
龍姫は目を見開いて一言、漏らした。
「……ミカ先輩って上澄みですよね。こんなハイレベルの生徒ばっかりじゃ私なんて絶対にプロになれないです」
涙を浮かべて悲しむ龍姫の頭を撫でると、実門の胸に抱きついてきた。
「先輩、これからも色々教えてくださいね。特に画力を分けて欲しいですー」
「もちろんよ。ライバルなんだから切磋琢磨しましょうね。そうだ、LINE交換しましょう」
「ええ、いいわよ」
実門はドリンクバーでコーラを注いでくると、レモンのチューハイと混ぜて飲んだ。部屋に戻ると龍姫が涙をハンカチで拭いている。鏡に映った彼女の口角が上がっているのに気づいた。